T5-4 教えと癒し


Between stimulus and response there is a space.
刺激と反応の間にはスペースがある。

In that space is our power to choose our response.
そのスペースの中に、私たちが自分の反応を選択する力がある。

In our response lies our growth and our freedom.
私たちがどう反応するかということに、私たちの成長と私たちの自由があるのだ。



Viktor E. Frankl
ヴィクトール・フランクル

41-0ZYK38dL (2) (1)



You cannot control the behavior of others, but you can always choose how you respond to it.
あなたは他者の行動をコントロールすることはできない。しかし、あなたはつねに他者の行動に対して自分がどう反応するか選択することができる。

rt_0131084231 (1) (1)

Roy T. Bennett, The Light in the Heart
ロイ・T・ベネット

こいtロイ



わたしが、『もういっぽうのほおを向けるように』と言ったのは、兄弟に対して、あなたにはわたしを傷つけることはできないことを示しなさい、という意味だったのです。あなたを傷つけることができなければ、相手はあなたを攻撃した罪悪感を負わずにすみます。そして罪悪感がなければ、自分を罰する必要もありません。
ほおを向けるとき、あなたはもう一度なぐってもいい、と挑発しているのではありません。傷つけるなどという行為はないのだ、と相手に思い起こさせているのです。わたしは自分が不当な仕打ちを受けることはありえないと知っている、と相手に告げているのです。相手に対し、自分は攻撃を受けいれるつもりはない、なぜなら、わたしはいまこの瞬間にも価値のある愛すべき人間だとわかっているのだから、と告げているのです。そして自分に価値があるとわかっていれば、必ず相手の価値もわかります。

20221129181935b53_transparent (3) (1)

イエス・キリスト(Paul Ferrini ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」108ページ)

mujouken (1) (1)love (1) (1)lwe (1) (1)tegami (1) (1)yl (1) (1)yutakasa (1) (1)内なる (1)inpa-sonaru (1) (1)way1 (1) (1)way2 (1) (1)way4 (1) (1)510tGuSGehL (1) (1)



They showed Jesus a gold coin and said to him: “Caesar’s agents demand that we pay taxes.”
彼らはイエスに金貨を示して言った。「カエサルの使者が私たちに税を納めるよう求めています。」

He answered them; “Give to Caesar what is Caesar’s, give to God what is God’s, and give to me what is mine”.
イエスは彼らに答えて言われた。「カエサルのものはカエサルに与え、神のものは神に渡し、私のものは私に渡しなさい。」

je (2)_0120093817 (1) (2)_transparent

The Gnostic Gospels: The Gnostic Wisdom of Jesus including the Lost Apocryphal Gospel of Thomas, John and Mary Magdalene
イエス・キリスト(トマスによる福音書第100節)



Your living is determined not so much by what life brings to you as by the attitude you bring to life; not so much by what happens to you as by the way your mind looks at what happens.
あなたの人生は、あなたが人生に向き合う姿勢によって左右されるほどには、人生があなたに何をもたらすかによって変わるものではない。つまり、人生は、あなたに何が起こるかによってではなく、あなたの心が起こる出来事にどう目を向けるか次第で決まるのだ。

ハリール・ジブラーン_1206063030

Kahlil Gibran
ハリール・ジブラーン

kurui (1) (1)




VqDCJbPS (1) (1)

今回はテキスト第五章から「教えと癒し」という一節をご紹介します。


左の頬も向けよ

本節では、有名な「右の頬を打つ者があれば、左の頬も向けよ」(マタイによる福音書 5章39節)が出てきます。

4.「You cannot be hurt, and do not want to show your brother anything except your wholeness.
 あなたが傷つくことはありえません。だから、あなたの完全な姿以外の何ものも、自分の兄弟に示したいと望んではなりません。

 Show him that he cannot hurt you and hold nothing against him, or you hold it against yourself.
 その兄弟には、彼にはあなたを傷つけることなどできないのだと示して、彼に対して何らの咎め立てもしないことです。さもないと、あなたは同じ廉で自分自身を咎めることになってしまいます。

 This is the meaning of "turning the other cheek."
 これが『ほかの頬も向けよ』との言葉の意味するところです。」

他の記事でも、聖霊の3大レッスンとして、他者の攻撃を助けを求める哀訴として正しくとらえて助けで返す、自分を怒らせる他者は自分が振り上げた剣を振り下ろして相手と一緒に自分を破滅させるか剣を背けて助かるか選択する機会を与えてくれる自分の救い主だ、神の子が攻撃によって傷つくはずがないのだから、攻撃によって自分は傷ついたと示して相手に罪悪感を抱かせるのではなく、自分が少しも傷ついていないことを示して相手に自分は潔白だと気づかせてやるのが正しい反応だ、という聖霊の愛のレッスンをご紹介しています。

イェシュアの「ほかの頬も向けよ」は、この3つ目のレッスンを語るものだったのです。




左の頬を向けよの意味

さて、身体が傷つきうる脆弱なものであるのは間違いありません。

そして、私たちは、自分は身体だと思っているので、身体を攻撃されると、防衛反応を示します。

この素朴な観点からすると、右の頬を打たれたら、左の頬も向けよ、というのは理解不能なスタンスです。

粗暴な対応をするくらいなら、犠牲になることに殉じる自己陶酔や、第三者の目線を利用して無力さを武器に味方を得ようとするひねくれた戦略として解釈することはできても、とてもすっきりと胸落ちできる考えではありません。

アバターである人間が自分だというアイデンティティーに縛られているかぎり、このようなモヤモヤ感の残る解釈しかできません。


左の頬を向けよは、自分と兄弟の本質が神の子だということを明らかにすること

幼児の人形遊びに付き合って、お父さんが悪人役の人形を使って、正義の味方になった子どもの攻撃に「アイタタタ!」と悪役人形を痛がらせて攻撃が効いているふりをしてあげて盛り上がっているところで、お母さんから夕飯の招集がかかった場合、お父さんが子どもに、もう人形遊びは終わりにしようと伝えても、まだまだ遊び足りない子どもはなかなか解放してくれないでしょう。

子どもは正義の味方人形になりきって、自分の攻撃に効果があると思っているので、お父さんが動かしていた人形が元通り悪人役としての役目を果たすように、正義の味方人形で悪役人形に攻撃をしてくるかもしれません。

この子どもからの攻撃に対して、父親が悪役人形としての「正しい」リアクションを返してあげるかぎり、この応酬は続き、この親子はいつまで経っても夕飯にはありつけず、そのうちふたりはお母さんから大目玉を食らうでしょう。

子どもの操作する人形からの攻撃に対して、自分の操作する人形で子供が期待する反応を示すのをやめることが、子どもに自分たちは人形を使ってごっこ遊びをしていただけで、自分は本当は人形ではないと思い出させるためには必要です。

この人形遊びの例で考えると、子どもは本気で人形を本物にしたがっているので、人形が痛がることを望みますが、真実は人形は痛がることも攻撃したり攻撃されることもできないおもちゃでしかなく、右の頬を向けよとの聖句は、実は無意味な攻撃に対して、実体通りに対応することによって、身体は本当の自分ではなく、攻撃は無力であり、本当の自分は傷つかないまま完全であるということを兄弟に示して、自分と兄弟の本質が神の子だということを明らかにすることを意味しているのです。


刺激と反応の間にはスペースがある

ライダー・キャロルさんの本の中に出てくる解説図が、刺激と反応の間のスペースをわかりやすく図解してくれていますので、引用します。


54e8a80d488b43c4ffb54a0227943822532ead2f-thumb-1200xauto-19312-2_1203102129-2-2_0207043403 (2) (1)

ライダー・キャロル著「バレットジャーナル 人生を変えるノート術」185ページから引用




この図の上の「刺激に対するたんなる反応」の図のように、エゴに支配されている状態での素朴な反応は、条件反射回路のように、恐怖心と不安に駆られた心のギアの動作は、刺激の時計回りの歯車と反応の反時計回りの歯車が噛み合い、下向きの自己防衛的な攻撃作用を生み出します。他者からの非難・攻撃に対しては、自動反応として反撃で返すことになります。

これに対して、下の「振り返りで『意志力』を駆使した反応」の図のように、聖霊のレッスンに従うスタンスでは、刺激と反応の間に、意志力に基づいて聖霊に諮問するフィードバック回路を組み込むので、刺激と反応の間のスペースが広がり、刺激歯車と反応歯車の間の選択歯車が噛むことにより、刺激歯車の時計回りの動作が選択歯車を反時計回りに回転させ、この選択歯車の反時計回りが、反応歯車を時計回りに動かすことになります。

つまり、エゴ支配の場合とは反対に、聖霊に従う場合には、反応は、愛と信頼に基づいた上向きの赦しと感謝に基づく助けを生み出すことになります。他者からの非難・攻撃に対しては、自動反応ではなく聖霊を選択することによって、愛を基盤とする赦しとして自らが攻撃する相手に対して返すべき反応を返すことになります。

下の図の選択の歯車の黄色い丸は、個別の心の中の決定者(decision-maker=little spark)を指します。

上の図では、黄色い丸は、刺激の歯車の丸と反応の歯車の丸の重なる部分、いわゆるベン図の2つの集合の共通部分の形(アーモンド、小舟、木の葉のような形)で表現される恐怖心・不安というエゴに取り込まれてしまって選択という決定作用を発揮することができません。

これに対して、下の図では、刺激の円と反応の円が被らないので、ベン図はできず、影であるエゴが消失して魂である決定者が聖霊と同期して姿を現し光を放って機能することができます。


この下の図をつねに心に把持しておくことは、聖霊の3大レッスンを実践するうえで有益でしょう。


聖霊の3大レッスンは刺激と反応の間のスペースを広げてくれる

攻撃に力があるというのは誤解であり、兄弟から攻撃を受けたとしても、攻撃は、本当は、助けを求める哀訴だということでした。

そして、自分を怒らせる他者は、振り上げた剣を振り下ろして自分たちを一緒に破滅させずに、剣を背けて両者を救うチャンスを与えてくれる自分の救い主だということでした。

そして、アバターである身体が傷つきうるとしても、その攻撃している他者や自分にとっての真の自己である神の子は、一切傷つくことのない不死なる存在のままです。

もちろん、私たちは、身体というARまたはMRメガネを通して世界を眺めているので、容易にはこの本質通りに知覚できないのはもちろんです。

けれど、このような仕組みが本当であることはコースを学ぶと否定できなくなってくるはずであり、そうだとすれば、いざ自分が絶対に許せない相手からの辛辣な攻撃に強烈な反撃を食らわせて更なる猛攻で追撃しようという場面で思いとどまる余地が出てきます(刺激と反応の間にはスペースがある)。

そうなると、本来、攻撃をしてくる兄弟に対して返すべきは、反撃ではなく、自分に救いの機会を与えてくれることへの感謝に基づく愛と助けなはずなのだから、今の自分にはとてもそこまではできないけれど、少なくとも、今やり返したいと思っている攻撃への誘惑に屈することだけはやめておこうとするくらいはできるはずです。

こうして攻撃に対して攻撃で応ずる攻撃の応酬のループから脱することは、自分が神の子であることに私たちが気づくために必須なことです。

そして、攻撃という形で兄弟から愛を求める哀訴を受けるとき、その兄弟は実は自分に自分と兄弟を一緒に救う尊い機会を与えてくれているのだから、自分の救い主に返すべきは感謝に基づく愛と助けであり、その助けとは、攻撃によって自分の本質はまったく傷つくことはないことを示してその兄弟に自分は無罪だと気づかせてあげることです。

これが「左の頬を向け」ることです。


無条件の愛」でのイェシュアの言葉




冒頭の「無条件の愛」108ページのイェシュアの説明を再度引用します。


「わたしが、『もういっぽうのほおを向けるように』と言ったのは、兄弟に対して、あなたにはわたしを傷つけることはできないことを示しなさい、という意味だったのです。あなたを傷つけることができなければ、相手はあなたを攻撃した罪悪感を負わずにすみます。そして罪悪感がなければ、自分を罰する必要もありません。
 ほおを向けるとき、あなたはもう一度なぐってもいい、と挑発しているのではありません。傷つけるなどという行為はないのだ、と相手に思い起こさせているのです。わたしは自分が不当な仕打ちを受けることはありえないと知っている、と相手に告げているのです。相手に対し、自分は攻撃を受けいれるつもりはない、なぜなら、わたしはいまこの瞬間にも価値のある愛すべき人間だとわかっているのだから、と告げているのです。そして自分に価値があるとわかっていれば、必ず相手の価値もわかります。」


『カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい』

6."How could you treat your brother better than by rendering unto God the things that are God's?"は、マタイによる福音書22章15章以下、マルコによる福音書12章13節以下からの引用です。

イエスを敵視するパリサイ人がイエスを罠にかけようとして、先生、あなたは神の道を説く公平な方です、ぜひ教えを賜りたいと持ち上げてから、「カエサルに税金を納めてよいでしょうか?いけないでしょうか?」と質問します。

もし肯定すれば、ローマに屈しユダヤ人の神を捨てたと非難されるし、否定すれば、ローマ皇帝への反逆を告発される、肯定しても否定しても不利になる罠です。

これは詭弁の一種で、証明されていない事実を前提に取り込んだ質問、修辞学でいういわゆる「多重質問の誤謬」の罠で相手に不利になるひとつの答えに追い込む論法です(例:「あなたはまだ妻を虐待しているのですか?」。この質問に対しては「はい」と答えようが「いいえ」と答えようが、「あなた」には妻がいて過去に虐待したことがあるということを認めたことになります)。

これに対し、イエスは質問者の悪巧み、レトリックの罠を見抜いて、ローマの銀貨を持ってこさせ、銀貨に皇帝の肖像が刻印されているのを確認させ、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と述べてパリサイ人を退散させたエピソードです。


「And Jesus said unto them, Render unto Caesar the things that are Caesar’s, and unto God the things that are God’s. And they marvelled greatly at him.
するとイエスは言われた、『カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい』。彼らはイエスに驚嘆した。」(マルコによる福音書 第12章17節


「How could you treat your brother better than by rendering unto God the things that are God's?
 あなたにできる最善の兄弟の遇し方は、神のものは神に返すという態度で臨むことです。」





ゆにこーん_1225101759 (2) (1)

テキスト第五章

IV. Teaching and Healing
四 教えと癒し



1. What fear has hidden still is part of you.
 たとえ恐れが包み隠してしまったとしても、それは依然として、あなたの一部のままです。

 Joining the Atonement is the way out of fear.
 贖罪に加わることが、恐れから脱出するための方法です。

 The Holy Spirit will help you reinterpret everything that you perceive as fearful, and teach you that only what is loving is true.
 聖霊は、あなたが恐ろしいと知覚するすべてのものを解釈し直す手助けをして、ただ愛に満ち溢れるものだけが本物であることをあなたに教えてくれます。

 Truth is beyond your ability to destroy, but entirely within your ability to accept.
 真理は、あなたが破壊できるものではありませんが、完全にあなたが受容できるものです。

 It belongs to you because, as an extension of God, you created it with him.
 なぜなら、神の拡張である存在として、あなたが神とともに真理を創造したがゆえに、真理はあなたのものだからです。

 It is yours because it is part of you, just as you are part of God because he created you.
 真理はあなたの一部であるがゆえに、真理はあなたのものです。それはちょうど、神があなたを創造したがゆえに、あなたが神の一部であるのと同じです。

 Nothing that is good can be lost because it comes from the Holy Spirit, the voice for creation.
 善良なるものは、それが何であれ、失われてしまうことはありえません。なぜなら、善良なるものは、創造を代弁する声である聖霊に由来するからです。

 Nothing that is not good was ever created, and therefore cannot be protected.
 善良ならざるものは、いまだかつて何ひとつ創造されたことはないので、守られようがありません。

 The Atonement is the guarantee of the safety of the Kingdom, and the union of the Sonship is its protection.
 贖罪は、王国の安全を保障するものであり、神の子全体がひとつに結びつくことが王国を保護することになります。

 The ego cannot prevail against the Kingdom because the Sonship is united.
 神の子全体はひとつに結ばれているので、エゴは王国に打ち勝つことができません。

 In the presence of those who hear the Holy Spirit's Call to be as one, the ego fades away and is undone.
 ひとつになるようにとの聖霊の呼びかけを聞き入れる者たちの面前で、エゴはどんどん衰弱して、しまいには消え去ります。

20150316115937f70_transparent (1)

2. What the ego makes it keeps to itself, and so it is without strength.
 エゴは、自分の作り出したものを自分から離さずに自分だけものにしようとします。それゆえに、エゴには力がないのです。

 Its existence is unshared.
 エゴの存在が共有されることはありません。

 It does not die; it was merely never born.
 エゴは死ぬわけではありません。ただ単に、エゴは一度も生まれてすらいなかっただけです。

 Physical birth is not a beginning; it is a continuing.
 肉体としての誕生が生命の始まりではありません。生命とは継続するものだからです。

 Everything that continues has already been born.
 継続するものはすべて、すでに生まれています。

 It will increase as you are willing to return the unhealed part of your mind to the higher part, returning it undivided to creation.
 あなたが自ら進んで自分の心の癒されていない部分を高位の心の部分に戻して、あなたの心を分割のない創造へと回復させるにつれ、継続するすべてのものは増大してゆきます。

 I have come to give you the foundation, so your own thoughts can make you really free.
 私がやって来たのは、自分を真に自由にできる思考をあなたが抱くための基盤をあなたに与えるためです。

 You have carried the burden of unshared ideas that are too weak to increase, but having made them you did not realize how to undo them.
 あなたは、あまりに貧弱すぎて増大させることのできない共有されていない想念という重荷を背負ってきました。しかし、そんな想念を作り出しはしたものの、あなたは自分の作り出した想念をどうやって取り消したらよいのか理解していませんでした。

 You cannot cancel out your past errors alone.
 あなたには、自らの過去の過ちをひとりだけで取り除くことはできません。

 They will not disappear from your mind without the Atonement, a remedy not of your making.
 あなたが作り出したものではない救済手段である贖罪によってでなければ、あなたの過去の過ちは、あなたの心から消え失せることはないでしょう。

 The Atonement must be understood as a pure act of sharing.
 贖罪は、純粋に分かち合う行為として理解されなければなりません。

 That is what I meant when I said it is possible even in this world to listen to one voice.
 たとえこの世界にあっても、ひとつの声に耳を傾けることは可能だと述べたときに、私が意味していたのはこのことです。

 If you are part of God and the Sonship is One, you cannot be limited to the self the ego sees.
 もしあなたが神の一部であり、神の子全体がひとつであるなら、あなたという存在がエゴの見ている小さな自己に限定されるはずがないのです。

20150316115937f70_transparent (1)

3. Every loving thought held in any part of the Sonship belongs to every part.
 神の子全体のうちの誰が抱くものであれ、愛に満ち溢れる思いは、ひとつ残らず神の子全体に属する一人ひとりのものとなります。

 It is shared because it is loving.
 このような思いは、愛に溢れているからこそ、共有されるのです。

 Sharing is God's way of creating, and also yours.
 共有することこそが、神の創造の仕方であり、そしてまた、あなたの創造の仕方でもあります。

 The ego can keep you in exile from the Kingdom, but in the Kingdom itself it has no power.
 エゴは、あなたを王国から離れて流浪した状態に保っておくことはできます。しかし、王国自体の中では、エゴは一切力を持っていません。

 Ideas of the spirit do not leave the mind that thinks them, nor can they conflict with each other.
 霊に属する想念は、それを思考する心を離れることはないし、それらの想念同士が、お互いに対立することもありえません。

 However, ideas of the ego can conflict because they occur at different levels and also include opposite thoughts at the same level.
 しかしながら、エゴに属する想念同士は対立することがありえます。なぜなら、それらの想念は異なったレベルで生ずるし、また、同じレベルで対立する思いを含むこともあるからです。

 It is impossible to share opposing thoughts.
 相克する思いを共有することなど不可能です。

 You can share only the thoughts that are of God and that he keeps for you.
 あなたが共有できるのはただ、神に属する思いと神があなたのために保持してくれる思いだけです。

 And of such is the Kingdom of Heaven.
 そして、天の王国は、このような思いからなるものなのです。

 The rest remains with you until the Holy Spirit has reinterpreted them in the light of the Kingdom, making them, too, worthy of being shared.
 それ以外の残りの思いは、聖霊が王国の光に照らして解釈し直して、同じように共有する価値のある思いとするまで、あなたの許に留まることになります。

 When they have been sufficiently purified he lets you give them away.
 それらの思いがあなたの許で十分に穢れを取り除かれとき、聖霊は、あなたにそれらの思いをほかの者へと与えさせます。

 The decision to share them is their purification.
 その思いを共有しようとあなたが決断すること自体が、その思いを清めることになるのです。



4. I heard one voice because I understood that I could not atone for myself alone.
 私が唯一の声を聞き入れたのは、自分ひとりだけで罪を贖うことはできないと理解したためでした。

 Listening to one voice implies the decision to share It in order to hear It yourself.
 唯一の声に耳を傾けるために必要なことは、その声を自分が聞けるようになるために、その声を分かち合おうと決断することです。

 The Mind that was in me is still irresistibly drawn to every mind created by God, because God's wholeness is the wholeness of his Son.
 私の内にあった大いなる心は、今なお、神によって創造されたあらゆる心に、抗いがたいほどに惹きつけられています。なぜなら、神が完全であることは神の子が完全になることだからです。

 You cannot be hurt, and do not want to show your brother anything except your wholeness.
 あなたが傷つくことはありえません。だから、あなたの完全さ以外の何ものも、自分の兄弟に示したいと望んではなりません。

 Show him that he cannot hurt you and hold nothing against him, or you hold it against yourself.
 その兄弟には、彼にはあなたを傷つけることなどできないのだと示して、彼に対して何らの咎め立てもしないことです。さもないと、あなたは同じ廉で自分自身を咎めることになってしまいます。

 This is the meaning of "turning the other cheek."
 これが「ほかの頬も向けよ」との言葉の意味するところです。

20150316115937f70_transparent (1)

5. Teaching is done in many ways, above all by example.
 教えることは、さまざまな方法によってなされますが、とりわけ効果的なのが模範を示す教え方です。

 Teaching should be healing, because it is the sharing of ideas and the recognition that to share ideas is to strengthen them.
 教えることが癒しとなるはずです。なぜなら、教えることは想念を分かち合うことであり、そして、想念を共有することでそれらの想念が強まると認識することだからです。

 I cannot forget my need to teach what I have learned, which arose in me because I learned it.
 私には、自分が学んだことを教えなければならないという私の強い思いを無視することなどできません。この強い思いは、私がそれを学んだがゆえに私の中に生じたものだからです。

 I call upon you to teach what you have learned, because by so doing you can depend on it.
 私は、あなたに自らの学んだことを教えるようにと求めています。なぜなら、そうすることによって、あなたは自分の学んだことを信頼できるようになるからです。

 Make it dependable in my name because my name is the Name of God's Son.
 私の名前こそが神の子の大いなる名なのだから、私の名において、あなたの学んだことを信頼に値するものとしてください。

 What I learned I give you freely, and the Mind that was in me rejoices as you choose to hear it.
 私は、自分の学んだことをあなたに惜しみなく与えています。そして、あなたが私の教えることを聞き入れる選択をしてくれるとき、かつて私の内にあった大いなる心は歓喜に満ち溢れるのです。



6. The Holy Spirit atones in all of us by undoing, and thus lifts the burden you have placed in your mind.
 聖霊は、取り消すことによって私たちみんなの中で罪を償い、そうして、あなたが自分の心の中に置いた重荷を取り除いてくれます。

 By following him you are led back to God where you belong, and how can you find the way except by taking your brother with you?
 聖霊の導きに従うことによって、あなたは自分が本当にいる場所である神の下へと連れ戻してもらえます。そして、あなたの兄弟をあなたと一緒に連れて行くという方法以外に、どうやってあなたにその道を見つけ出すことができるでしょうか。

 My part in the Atonement is not complete until you join it and give it away.
 贖罪における私の役割は、あなたが贖罪に加わって贖罪をほかの者たちに与えきるまで完了しません。

 As you teach so shall you learn.
 あなたは、自分の教える通りに学ぶことになります。

 I will never leave you or forsake you, because to forsake you would be to forsake myself and God Who created me.
 私は絶対に、あなたを置き去りにして見捨てるようなことはしません。なぜなら、あなたを見捨てることは、私自身と私を創造してくれた神を見限ることになるからです。

 You forsake yourself and God if you forsake any of your brothers.
 もしあなたが自分の兄弟たちの誰かを見捨てるなら、あなたは自分自身と神を見限ることになります。

 You must learn to see them as they are, and understand they belong to God as you do.
 あなたは、兄弟たちをありのままに見ることを学び、あなたが神に属しているのと同じように、その兄弟たちも神に属していることを理解しなければなりません。

 How could you treat your brother better than by rendering unto God the things that are God's?
 あなたにできる最善の兄弟の遇し方は、神のものは神に返すという態度で臨むことです。

20150316115937f70_transparent (1)

7. The Atonement gives you the power of a healed mind, but the power to create is of God.
 贖罪は癒された心が持つ力をあなたに与えてくれますが、創造する力は神に由来するものです。

 Therefore, those who have been forgiven must devote themselves first to healing because, having received the idea of healing, they must give it to hold it.
 したがって、赦された者たちは、まずは自らを癒しに捧げなければなりません。なぜなら、癒しという想念を受け取った以上は、赦された者たちは、癒しの想念を保つために、癒しの想念をほかの者に与えなければならないからです。

 The full power of creation cannot be expressed as long as any of God's ideas is withheld from the Kingdom.
 少しでも神の想念が王国に与えずにおかれるかぎり、創造力は十分にその力を発揮することができません。

 The joint will of the Sonship is the only creator that can create like the Father, because only the complete can think completely, and the thinking of God lacks nothing.
 神の子全体のひとつに結びついた意志のみが、大いなる父と同じように創造できる唯一の創造者です。なぜなら、完全なる者だけが完全に考えることができるのであって、神の思考には何ひとつ欠けるところなどないからです。

 Everything you think that is not through the Holy Spirit is lacking.
 聖霊を通すことなくあなたが考えることは、それがどんなことであろうと、何かが欠落しています。



8. How can you who are so holy suffer?
 どうして、これほど神聖なあなたが苦しむことなどできるでしょうか。

 All your past except its beauty is gone, and nothing is left but a blessing.
 その素晴らしさを除いては、あなたの過去はすべて過ぎ去ったので、祝福以外には何も残ってはいません。

 I have saved all your kindnesses and every loving thought you ever had.
 私は、あなたがこれまでに抱いたことのある思いやりのすべてと愛に満ちた思いをひとつ残らず取って置いてあります。

 I have purified them of the errors that hid their light, and kept them for you in their own perfect radiance.
 私は、これらの心遣いについて、それらが持つ光を隠していた誤りを取り除いて浄化したうえで、あなたのために、それらが持つ完璧な輝きの中に、それらの心遣いを保ってきました。

 They are beyond destruction and beyond guilt.
 それらの心遣いは、破壊されることもなければ、罪悪感に穢されることもありえません。

 They came from the Holy Spirit within you, and we know what God creates is eternal.
 それらの心遣いは、あなたの中にいる聖霊から生じたものでした。そして、私たちは、神が創造するものは永遠のものだと知っています。

 You can indeed depart in peace because I have loved you as I loved myself.
 私が自分自身を愛したように、私はあなたをずっと愛しているのですから、あなたは本当に平安のうちに旅立つことができます。

 You go with my blessing and for my blessing.
 あなたは、私の祝福とともに、そして、私の祝福を受けるために進むのです。

 Hold it and share it, that it may always be ours.
 その祝福がつねに自分たちのものとなるように、私の祝福をしっかりと胸に抱いて分かち合いなさい。

 I place the peace of God in your heart and in your hands, to hold and share.
 私は、あなたがしっかり掴んでみんなと分かち合えるように、神の平安をあなたの胸と両手に置きましょう。

 The heart is pure to hold it, and the hands are strong to give it.
 あなたの胸のうちは、神の平安を抱くことができるほどに清らかであり、そして、あなたの両手は、神の平安を与えるに十分な力強さを持っています。

 We cannot lose.
 私たちが、神の平安を失うはずがありません。

 My judgment is as strong as the wisdom of God, in whose heart and hands we have our being.
 私の判断力は、神の英知と同じくらい力強いものです。神の胸と両手の中にこそ、私たちは自分たちの実在を持っているのです。

 His quiet children are his blessed Sons.
 静かな神の子供たちは、祝福された神の子らです。

 The Thoughts of God are with you.
 神の大いなる思いである者たちは、あなたとともに在るのです。


20150316115937f70_transparent (1)





関連記事