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原文のメッセージと翻訳




前に原文と翻訳聖霊エゴ、拡張と投影にたとえました。

この世界では、あるアイデア、イメージを伝えるためには、それを運ばせる媒体を必要とします。言葉による文章表現であったり、絵画であったり、音楽であったり、多様な伝達手段が用いられますが、それらの媒体を介して伝わるのは想念です。

ですから、厳密には、原文と翻訳でいえば、原文の著者が抱いた想念こそが聖霊に譬えられるということになります。具体的な原文の言葉遣いや表現形式が聖霊に譬えられるわけではありません。言ってみれば、原文も、第一段階の翻訳といえるかもしれません(特に、奇跡のコースではそう言えるでしょう)。

エゴによる闇は、翻訳者の誤った解釈や個性による表現上の歪みにたとえることができます。それらは、翻訳者というフィルターを通したがために純白な光がまとった色合いであり、影です。

本来、白く光輝く電球が着色されたり煤けたりして、光に色づけしたり、光の強さを弱めたりするようなものです。

コースによると、私たちのバラバラになった個別の心が生み出すエゴ幻想で、真理を知る私たちの大いなる自己はひとつとのことです。

ですから、この原文と翻訳の話も、あるひとりの人物が幼いころに生き別れた父親の顔を思い浮かべて、年齢を重ねる各過程で技術の巧拙やそのときどきの心理状態による面影の鮮明さ等によって多様な肖像画を描いてきた場合や、宝物のありかを記した地図を、秘密を守るための手立てとして、全てを重ね合わせて光で透かして初めて正しい道程が分かるように、一枚だけでは何も分からない何枚もの地図を作ったような場合に、そのひとりの人物が、自分が本来知っているはずの何かを思い出す手がかりとして、自分の描いた絵や地図を一枚一枚、手にする場合と同じように考えると、ひとつの大いなる自己が多くの個別のエゴの目線で物事を見るのとパラレルに捉えられると思います。

ひとりの人物がいろんな小説を読んだり、映画を見て、その物語に没頭している間は、完全に主人公になり切って自己同一化しても、物語が終われば、本来の自分に戻ります。

物語の中には、その人のエゴを助長するだけでしかないように見えるものもあれば、エゴを取り消し、本来の自分を思い出させる助けとなることがはっきりしているものもあるはずです。

ですが、つまらない物語の中にも光が眠っているはずなのです。

ここでいう、そのひとりの人物というのは、ただひとりの神の子であり、原文やたくさんの翻訳というのは、私たち一人ひとりの人間のことです。

さて、どんな言語のどんな翻訳でも、それぞれ、その中に誤った解釈によって歪曲されてしまった部分はあるにせよ、原文の著者の抱いた想念の痕跡を残しているはずです。

ですから、翻訳を読んで、そこから原文の著者の伝えたかった意図、メッセージを読み取ることは、個別の心の中にいる聖霊を認めることに似ているということになります。

原文の著者の想念を純白の光とすれば、読者の中にある光が、翻訳の中に見出すことのできる純白の光の痕跡に同調して、輝き出すことです。

もっとも、翻訳の誤解釈や歪曲の程度が激しい場合には、原文のメッセージの持っていた光は見えなくなってしまいます。

中には、誤解や歪曲が強く、原文とは似ても似つかぬ姿に変わり果て、色はどす黒く、ほとんど光を発しないようなものもあるでしょう。

さらには、本来、原文の著者が伝えたかった喜びを与える光り輝くメッセージが全くひっくり返って解釈されてしまって、毒気にまみれて読み手に傷を負わせてしまうような暗黒の呪詛としか呼べないようなものもあるかもしれません。

そして、そうでありながらも、悪魔的な魅力や説得力を持っていて、読者に他の翻訳はどれも誤った解釈だと誤信させ、他の翻訳を受け入れさせなくなってしまう力だけは強いかもしれません。

では、そのような翻訳は、有害なものとして排除されなければならないということになるでしょうか。

コースは、排除によっては真の解決はないといいます。

実は、他の翻訳のことを、劣った暗黒の翻訳であると見ること自体が投影です。

暗黒の翻訳であると価値判断して裁き、攻撃して駆逐しさえすれば、福音が行き渡ってめでたしめでたしという発想は、エゴ志向のものです。

冒頭の例の地図のお話で言えば、地図が一枚欠けただけでも、宝物は失われたままになってしまいます。

正義を遂行しているつもりの当の「正しい」翻訳(ある特定の心)は、自分が攻撃しているのが自分自身であることに気付いていないのです。

自分こそ本物であると慢心するある翻訳(ある特定の心)が暗黒の翻訳のことを見て、劣っていて存在意義がないどころか、存在自体が害悪でしかないとして排除しようとすることは、排除しようとする相手の中に残っている原文のメッセージを認めないことです。煤けてほとんど光を発しない電球だから、光と無縁だと切り捨てることです。本当は、そんな真っ黒で暗い電球も、煤を払ってゆけば、燦然と光を放つのは確実であるのに。

また、攻撃するのは、未熟な誰かを守るために、有害な障害を排除してやるために必要なのだというかもしれません。

しかし、未熟に見えるとしても、だれの中にも、同じ一つの聖霊が宿っているのであれば、一時は誤ることがあっても、その人は、自分の中にいる聖霊に照らして、自分で光と同調するようになれるはずです。

テキスト第4章、二、4「 他にも知覚の仕方があると信じることは、エゴの思考でも抱くことができる最も高尚な想念といえます。その理由は、他の知覚の仕方があると信じることには、エゴが真の自己ではないと気付くためのヒントが含まれているからです。」

冒頭の肖像画の例で言えば、父親の面影を描いた多くの肖像画の中には、芸術的価値の高い美しいものもあれば、拙劣で誰も見向きもしないような絵もあるかもしれません。

しかし、本人が優しい父の笑顔を思い出す最後の手がかりになるのは、そんな拙い幼いときの自分の描いた絵であるかもしれません。

他の翻訳(他の兄弟の心)の中にある誤りや歪み(エゴ)に目を向けるのではなく、原文の本来のメッセージ(聖霊)を見出して、自らの中にある誤った解釈や歪みの部分を見つけては修正していくことによって、みんなでお互いを鏡として原文が本来持っているメッセージに近づいて行くことができるはずなのです。

原文の正しい解釈(聖霊)は、暗黒の翻訳を排除するのではなく、また、攻撃としてではなく、防衛として、誤った解釈を拒絶するとともに、正しい解釈の光と同調させることによって、正しい翻訳へと修正するのです。

投影は、排除することによってではなく、祝福することによって取り消され、癒されるということです。
 
 
※テキスト、第6章、二
 「2. あなたが何かを投影するとき、あなたはその何かと自分との関係を否認しており、したがって、投影したものが自分のものだとは信じません。あなたは、あなたが投影する相手と自分は違うとする、まさにその判断によって、自分自身を除外することになります。また、あなたは自分が投影する何かに対して、それに反対する価値判断をして裁いてしまっているために、あなたは、投影したものを攻撃し続けることになります。なぜなら、あなたは、その何かを分離したままで保ちつづけるからです。これを無意識に行うことによって、あなたは、あなたが自分自身を攻撃したという事実を意識から追い出し、そうすることで、自分自身の安全を確保できたと空想しているのです。
3. しかし、投影は、必ずあなたを傷つけることになります。投影は、あなた自身の心が分裂していると信じる気持ちを強めます。そして、投影の唯一の目的は、分離状態を継続することです。投影は、あなたに自分は兄弟たちと違うと感じさせ、その兄弟たちから自分が切り離されていると感じさせるためにエゴが使う、単なるからくりにすぎません。エゴは、あなたが兄弟たちより「優れている」ように思わせるという理由で投影を正当化し、かくして、あなたと兄弟が平等であることが、よりいっそう不明瞭になるようにします。投影と攻撃とは、不可避的に関連しています。なぜなら、投影は常に攻撃を正当化するための手段になるからです。投影を伴わない怒りはありえません。エゴは、あなた自身とあなたの兄弟たちの両方についてのあなたの知覚を台無しにするためだけに投影を用います。投影のプロセスは、あなたの中に存在はするものの、あなたが望んでいない何かを排除することから始まり、そして、そのまま直接的に、あなたを兄弟たちから締め出してしまうことへと誘導します。
※テキスト、第7章、七
「1. あなたがある兄弟を祝福することを拒む度に、あなたは自分が拒絶されたように感じます。なぜなら、拒絶することは愛することと同じく、全面的なことだからです。神の子である者たちを部分的に拒むことは、部分的に愛することが不可能であるのと同じように不可能なことです。同じく、ある時だけは、全面的に愛するということも不可能です。あなたは、時々、全面的に身を投じるということはできないのです。拒否すること自体には何の力もありません。しかし、あなたは、その拒否に限界のない自分の心の力を与えることができます。もしあなたがその力を現実を否定するために使えば、あなたにとって現実はなくなります。現実について、部分的にだけ真価を認めるということはできません。だから、現実を少しでも否定すれば、あなたは、現実についての自覚を全面的に喪失したことを意味します。しかし、拒絶は防御なので、それは否定的に使われることもあれば、肯定的に使われることもありえます。拒絶は、否定的に使われると破壊的になります。なぜなら、拒絶が攻撃のために使われるようになるからです。しかし、拒絶が聖霊に奉仕するときには、拒絶は、あなたが現実の一部を識別することを助け、それによって、現実全体の真価を認める助けにもなります。心はあまりにも強力なので、排除されることはありません。あなたは自分の思いから自分自身を排除することなど決してできないでしょう。
2. ある兄弟が狂気の行動を取るとき、彼はあなたに彼を祝福する機会を差し延べてくれているのです。その兄弟に必要なものは、あなたに必要なものなのです。あなたは、自らがその兄弟に差し出すことのできる祝福を必要としています。あなたがその祝福を得るためには、その兄弟に祝福を与えること以外に手立てはありません。これこそ神の法であり、この神の法には例外はありません。あなたが何かを否定すると、あなたはそれを欠くことになります。それは、その何かが不足しているからではなくて、あなたが、その何かが誰か他の人の中にあることを否定したので、その結果、あなたには、その何かが自分自身の中にあると気づかないでいるからです。あなたがどのように応ずるかはことごとく、あなたが自分を何であると思うかによって決定されます。そして、あなたがなりたいと思うものが、あなたが自分を何であると思うかということです。ゆえに、あなたがなりたいと思うものが、あなたのすべての反応を決定することになります。」
※テキスト、第6章、二
「12. エゴの投影と聖霊の拡張との違いはきわめて明確です。エゴは、除外するために、したがって、欺くために投影します。これに対して、聖霊は、あらゆる心の中に自らを認めることによって拡張し、そうすることによって、すべての心をひとつのものとして知覚します。この聖霊の知覚には、矛盾や衝突は何もありません。なぜなら、聖霊が知覚するものは全て同じものだからです。聖霊は、どこへ目を向けても、自らを見ることになります。そして、聖霊は統一されているので、聖霊は常に、王国全体を差し延べます。この王国全体を差し伸べることこそ、神が聖霊に与えたメッセージであり、必ず聖霊はこのメッセージを代弁します。なぜなら、これこそ聖霊の本来の姿だからです。神の平安は、このメッセージの内にあるので、神の平安はあなたの中にあります。神の王国の大いなる平安は、あなたの心の中に永遠に輝いています。しかし、あなたがそれに自分で気づくためには、その平安が外へ向かって輝き出さなければならないのです。

13. 聖霊は、完璧な公平さをもって、あなた方に与えられました。だから、あなたは、ひとかけらも偏見を抱くことなく彼を認識することによって、聖霊を識別することができます。エゴは夥しい軍勢ですが、聖霊はただひとつです。王国には、闇が留まる場所など、どこにもありません。しかし、あなたの役割は、あなた自身の心の中に闇が居着くことを許さないようにすることだけです。 このようにして闇を心から駆除して光と同調していく作業には限界はありません。なぜなら、あなたの心はこの世界の光と同調していくからです。私たち一人ひとりがこの世界の光です。そして、私たちの心をこの光の中に混じり合わせることによって、私たちはともに、そして、ただひとつのものとして、神の王国を明らかに示すことになるのです。」


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