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There Is No Spoon

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S1-1 真の祈り





一般的に、祈りは、いわゆるアファメーション、つまり、願望達成を祈願して肯定的な言葉を内心で繰り返して自己暗示するような心理的な活動というイメージで捉えられがちです。

これに対して、本節では冒頭から、祈りは神に到達するための道であって嘆願や要求ではなく、祈りは何かを求めることではない、このことを理解しないかぎり祈りが効果を発揮することはないといいます。

常識的な祈りのイメージを持ったままでいると、少し驚くことになる祈りの観念かもしれません。

このような一般的にイメージされるような祈りは、神に到達することを偶像に求めることであり、請い願うために求めるという不可能な偽りの祈りを用いてしまうという落とし穴を避けなければならないということが指摘されますす。

さて、本節では、真の祈りの秘訣が明かされます。


祈りは神に到達し本当の自分を思い出すための道であり、私たちが神の子であることはすでに達成されている事実です。

私たちは、これから新たに神の子にしてもらうわけでも、かつて神の子として創造されたけれど、一度、神の子に劣る存在に堕ちてしまってから改めて神聖な存在に作り直してもらうわけでもありません。

つまり、私たちの本質は神の子であり、すべてであると同時にすべてを持っている存在だとすれば、自分の持っていない何かを得たり、自分とは違う優れた存在になったりするということは不可能です。

できるのは、①自分がすべてであることを忘れてすべての一部へと自分を縮小させる空想をして、その空想の中で、②縮小させた自分ではないものになろうとしたり、縮小した自分が持っていないものを得ようとしたりすることだけです。

そして、分離幻想によって、私たちはすでに①のプロセスを済ませていて、祈りによって②を達成しようとしているわけです。

しかし、②は①を前提とするプロセスなので、当然、①を所与のものとして、人間としての自分が確固としてある世界にいるということを疑いのない前提として補強し、さらに、その前提に乗っかった上で人間である自分に欠けているものを獲得することに邁進するということになり、①を補強する作用を持ち、空想の中で空想をすることであるため、屋上屋を架すことにしかならず、夢の中の夢を入れ子構造で作り出し、①自他分離意識の増強と②欠乏の自覚による欲求のループが無限に続くことになります。

①②は罪の実在性を認識して、罪があることを前提として恩恵として許す「滅ぼすための許し」と同じプロセスです。

赦しは、罪が実在しないことを認識して、その認識通り無視するという、通常用いられる許し、「滅ぼすための許し」をひっくり返したプロセスでした。

そこで、①②は天国での現実を反転させた影でしかないので、①②をひっくり返してみましょう。

そうすると、❶自他一体の認識と❷豊かさの自覚になります。これが真理の自覚です。これは神の子が万物であると同時に万物を所有するという真理を別の形で表現したものです。

この真理の自覚を土台に祈りを考えてみると、この世界で①の分離幻想によるアバターであるエゴ・身体に自己同一化した状態に置かれたとしても、①自他分離は錯覚で❶自他一体が真実だという自覚に基づくかぎり、アバターに必要だと思っていた具体的なニーズは、❶自他一体の自覚を得たい、つまり、愛を求める呼び声という真の求めが姿を変えたこだまにすぎず、二次的なものでしかないことがわかります。

つまり、愛に満ちた真の安らぎや満足を得たい、本当の自分を取り戻したいという求めが、より高い収入を追い求めたり、交際相手をとっかえひっかえしたり、経済的苦境や病気に見舞われるという形で②欠乏として現れているだけだと。

この場合、ガス代の支払いもままならないという具体的ニーズに囚われるのは、罪の実在性に目が行って、罪があることを前提に許すのと同じ誤りとなります。

なすべきことは、具体的ニーズとして表れている形は神への捧げものとして聖霊に全托して、自分が真に求めていたのは愛であり、❶自他一体である本当の自分は❷すでに愛に溢れてすべてを持っている豊かな存在だと認識することです。

このように見ると、祈りとは、求めることではなく捧げることだということがわかります。

これを別の表現でいうと、すべての兄弟の中にいるキリストのために自分を捧げることが真の祈りだということになります。他者の中に神の子キリストを認めることは❶自他一体と❷豊かさ両方に気づくことだからです。

そうすれば、求めていた具体的ニーズに自分で思い描いていたのとは違う形になることが多いかもしれないけれど、自分の本当の求めに気づく形で、祈りが満たされるのを体験することになります。

実際に目の前の苦境に心奪われている状態では、その苦境の奥に潜む本質に取り組むことが、まるで現実から逃避して、神頼みすれば解決すると能天気に考えているお花畑脳に堕することのように思えてしまいがちですが、単なる偶像崇拝による妄想の現実逃避と、雑草との永遠のもぐら叩き状態を脱する球根の撲滅は、似て非なるものです。

現実に向き合っているつもりで、ずっと同じ問題が形を変えてもぐら叩きを続けるよりも、そもそも自分のなすべき天分の外にあることを自分でやらねばと思い違いしていたことが根本原因であったことを見極めて、それを潔く手放す勇気を持つことがずっと大切でしょう。

有名なマタイによる福音書第6章第25節~34節の「思い煩うなかれ」を引用しておきます。

「6:25
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

6:26
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。

6:27
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。

6:28
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

6:29
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

6:30
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

6:31
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

6:32
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

6:33
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

6:34
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイによる福音書(口語訳)wikisource)

なんでそんなにたくさんの足をもつれさせずに上手に動かして歩けるのかと問われたとたん、満足に歩くことができなくなった百足(ムカデ)の寓話も、この同じ仕組みを表しています。

空の鳥も、地を這う百足も、飛び方や歩き方を意識したり、明日の食事の心配や昨日逃がした獲物を嘆いて後悔したりしません。

本来、意識せずとも自然にしていれば上手にできて、うまく回ることでも、意識することで、かえって満足にできなくなってしまうようになります。

「It is not your will to be imprisoned because your will is free.
 囚われの身となることは、あなたの意志ではありません。なぜなら、あなたの意志は自由だからです。

 That is why the ego is the denial of free will.
 だから、エゴとは自由意志の否定なのです。」(テキスト第八章 二 幽閉と自由との違い 3)


「2. Consciousness, the level of perception, was the first split introduced into the mind after the separation, making the mind a perceiver rather than a creator.
 意識という知覚のレベルは分離以後に心の中に取りこまれた最初の分裂でした。この意識が、心を創造するものではなく、知覚するものに変えてしまったのです。

 Consciousness is correctly identified as the domain of the ego.
 意識は、正確にはエゴの領域として位置づけられるものです。」(T3-4 誤りとエゴ

意識とはエゴと同義であり、すべてである状態から自覚の範囲を極限まで減縮し、ミクロの視点で限られた狭隘な視野に心を制限することです。

動物たちにとってデフォルト・モードである今このときだけに生きるということが、エゴに感染された私たちには、とても困難なことになっています。

現実に飢えて死ぬのではなく、飢えてしまうかもしれないという恐怖心で自ら死を選んで死んでしまう(「健康のためなら死んでもいい!」)のは人間だけです。

もし「すべてが書かれている」のだとしたら、個人的利害に縛られた観点ですべてをコントロールしようという意識は、心臓の拍動を自分で制御し、胃腸の消化液の量やタイミングを自分で決定しすべてを取り仕切ってやろうとするのが馬鹿げているのと同じくらい馬鹿げているというのが本質なのでしょう。

このテーマを突っこみたい方には、ティモシー・ガルウェイのインナー・ゲームをはじめとするインナー・シリーズがよい参考書になると思います。



1.- I. True Prayer
 真の祈り



1. Prayer is a way offered by the Holy Spirit to reach God.
 祈りは、神に到達するために聖霊が案内する道です。

 It is not merely a question or an entreaty.
 祈りは、単なる問いかけや嘆願ではありません。

 It cannot succeed until you realize that it asks for nothing.
 あなたが祈りは何も求めないと理解するまでは、祈りが効果を生むことはないはずです。

 How else could it serve its purpose?
 何も求めないという方法以外に、どのようにして祈りが神に到達するという目的を果たせるでしょうか。

 It is impossible to pray for idols and hope to reach God.
 偶像に祈り求めながら、神に到達しようと望んでも、それは不可能です。

 True prayer must avoid the pitfall of asking to entreat.
 真の祈りは、請い願うために求めるという落とし穴を避けなければなりません。

 Ask, rather, to receive what is already given; to accept what is already there.
 そうではなく、すでに与えられているものを受け取るために、つまり、すでに存在するものを受け入れるために求めなさい。



2. You have been told to ask the Holy Spirit for the answer to any specific problem, and that you will receive a specific answer if such is your need.
 あなたは、どんな特殊な問題でも、聖霊に答えを求めるようにと告げられてきました。そして、それがあなたに必要であれば、あなたは具体的な答えを受け取るだろうとも告げられてきました。

 You have also been told that there is only one problem and one answer.
 あなたはまた、ただひとつの問題とひとつの答えしか存在しないとも告げられてきました。

 In prayer this is not contradictory.
 祈りにおいては、これは矛盾ではありません。

 There are decisions to make here, and they must be made whether they be illusions or not.
 ここに下すべき決断があり、それらが幻想であろうとなかろうと、これらの決断は下されるべきものです。

 You cannot be asked to accept answers which are beyond the level of need that you can recognize.
 自分に認識できる必要性のレベルを超える答えを受け入れることがあなたに求められるはずがありません。

 Therefore, it is not the form of the question that matters, nor how it is asked.
 したがって、どのような形式で質問するかであるとか、どのように質問が尋ねられるかは問題ではありません。

 The form of the answer, if given by God, will suit your need as you see it.
 もし神によって与えられるなら、答えの形は、あなたにもそれが答えだと理解できるような、あなたの必要に沿ったものになるでしょう。

 This is merely an echo of the reply of His Voice.
 これは、単に神の大いなる声が答えるのを繰り返すこだまにすぎません。

 The real sound is always a song of thanksgiving and of Love.
 真の音は、つねに感謝と大いなる愛のなのです。



3. You cannot, then, ask for the echo.
 そうだとすれば、あなたは、こだまを求めるわけにはいきません。

 It is the song that is the gift.
 贈り物は、のほうだからです。

 Along with it come the overtones, the harmonics, the echoes, but these are secondary.
 そのと一緒に、上音や倍音や反響が訪れはしますが、これらは二次的なものです。

 In true prayer you hear only the song.
 真の祈りにおいては、あなたはただそのだけを聞きます。

 All the rest is merely added.
 その以外の残りのすべては単に付随的なものです。

 You have sought first the Kingdom of Heaven, and all else has indeed been given you.
 あなたがまず天の王国を探し求めたからこそ、残りのすべてが確かにあなたに与えられたのです。



4. The secret of true prayer is to forget the things you think you need.
 真の祈りの秘訣は、自分に必要だとあなたが思っている物事を忘れることです。

 To ask for the specific is much the same as to look on sin and then forgive it.
 具体的な物事を求めるのは、罪を見つけておいて、そのあとで、その罪を許すのとまったく同じことになってしまうからです。

 Also in the same way, in prayer you overlook your specific needs as you see them, and let them go into God's Hands.
 そこで、祈りにおいては、赦しと同じように、あなたは自分が必要だと思っている通りの自分の具体的な必要性を無視して、それらを神の手の中へと委ねるのです。

 There they become your gifts to Him, for they tell Him that you would have no gods before Him; no Love but His.
 そこでは、あなたの具体的な必要性は、あなたから神への贈り物となります。というのも、それらの必要性をあなたが神に差し出すことは、あなたが大いなる神の前にいかなる神々も置かず、神の大いなる愛以外のいかなる愛も抱かないと神に告げることになるからです。

 What could His answer be but your remembrance of Him?
 神の答えは、あなたが神を思い出すこと以外のどんなものになりうるでしょうか。

 Can this be traded for a bit of trifling advice about a problem of an instant's duration?
 この神の答えを、ごくわずかな期間しか続かない問題についての申し訳程度の些末な助言と交換することなどできるでしょうか。

 God answers only for eternity.
 神はただ永遠のためにだけ答えます。

 But still all little answers are contained in this.
 それでもなお、すべての些細なことについての答えがこの神の答えの中に含まれています。



5. Prayer is a stepping aside; a letting go, a quiet time of listening and loving.
 祈りは、脇に退いて問題を過ぎ去らせる、傾聴と愛に満ちた静かな時です。

 It should not be confused with supplication of any kind, because it is a way of remembering your holiness.
 祈りをいかなる種類の嘆願とも混同してはなりません。なぜなら、祈りは、あなたの神聖さを思い出す方法だからです。

 Why should holiness entreat, being fully entitled to everything Love has to offer?
 大いなる愛が差し延べてくれるすべてのものを完全に得る資格があるというのに、どうして聖なる存在が何かを得るために祈願しなければならないのでしょうか。

 And it is to Love you go in prayer.
 それに、祈りの中であなたが進む先は大いなる愛なのです。

 Prayer is an offering; a giving up of yourself to be at one with Love.
 祈りとは捧げる行為であり、大いなる愛とひとつになるために自分を明け渡すことです。

 There is nothing to ask because there is nothing left to want.
 求めるべきものは何もありません。なぜなら、望むべきものは何も残されていないからです。

 That nothingness becomes the altar of God.
 この何もない状態が、神の祭壇となります。

 It disappears in Him.
 祈りは神の中に消え去ります。



6. This is not a level of prayer that everyone can attain as yet.
 これはまだ、誰もが到達できる祈りのレベルではありません。

 Those who have not reached it still need your help in prayer because their asking is not yet based upon acceptance.
 このレベルに到達していない者たちは、依然として祈りにおいてあなたの助けを必要としています。なぜなら、彼らの求めはまだ受容に基礎を置いてはいないからです。

 Help in prayer does not mean that another mediates between you and God.
 祈りにおいて助けることは、誰かがあなたたちと神との間を仲介することを意味するわけではありません。

 But it does mean that another stands beside you and helps to raise you up to Him.
 そうではなく、祈りにおける援助が意味するのは、誰かがあなたたちの傍に立って、あなたたちを神の下へと昇らせる手助けをすることです。

 One who has realized the goodness of God prays without fear.
 神が優しいとわかっている者はみな、恐れることなく祈ります。

 And one who prays without fear cannot but reach Him.
 だから、恐れることなく祈る者は、神に到達せずにはいられません。

 He can therefore also reach His Son, wherever he may be and whatever form he may seem to take.
 したがって、恐れずに祈る者は、たとえ神の子がどこにいようとも、彼がどんな形をとっているように見えようとも、神の子にも到達できるのです。



7. Praying to Christ in anyone is true prayer because it is a gift of thanks to His Father.
 誰の内にもいる神の子キリストに祈ることこそ、真の祈りです。なぜなら、それはキリストの父に感謝という贈り物を捧げることだからです。

 To ask that Christ be but Himself is not an entreaty.
 キリストにただありのままのキリスト自身であるよう求めることは、嘆願ではありません。

 It is a song of thanksgiving for what you are.
 それは、本当のあなたへの感謝です。

 Herein lies the power of prayer.
 ここに祈りの力があります。

 It asks nothing and receives everything.
 祈りは、何も求めることなくして、あらゆるものを受け取ります。

 This prayer can be shared because it receives for everyone.
 この祈りはあらゆる者たちのために受け取るので、この祈りは分かち合うことができます。

 To pray with one who knows that this is true is to be answered.
 これが真実だと知る者とともに祈ることは、答えを得ることです。

 Perhaps the specific form of resolution for a specific problem will occur to either of you; it does not matter which.
 おそらく具体的な問題に対する具体的な形の解決があなたたちのいずれかに訪れるでしょう。どちらに訪れるかは問題ではありません。

 Perhaps it will reach both, if you are genuinely attuned to one another.
 もしあなたたちがお互いに心から調和しているなら、おそらくその解決はあなたたち双方にもたらされるでしょう。

 It will come because you have realized that Christ is in both of you.
 解決が訪れるのは、あなたたちが自分たち双方の中にキリストがいると気づいたからです。

 That is its only truth.
 この気づきこそが、物事の解決というものが持つ唯一の真理です。


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