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There Is No Spoon

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S1-2 祈りの階梯




本節では、有名な「汝の敵を愛し、自らを迫害する者のために祈れ」が引用されます。

マタイによる福音書5:43-48
「敵を愛しなさい
43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(新共同訳 聖書

この聖句が奇妙な名辞矛盾となるのは、言葉自体ではなくその解釈のされ方にあるということです。

たしかに、敵を愛し自分を迫害する敵のために祈ることは、矛盾に思えます。

敵を持つ自分を主体として設定するかぎり、自分の敵対者に塩を送り支援する行為は自分自身や味方を裏切る背信行為であり、博愛精神に満ちたものには見えるけれど、偽善的な行為ということになります。

しかし、45文で述べられているように、この言葉は、私たちが神の子であることを自覚するためのものであり、本当の自分を思い出すためにアイデンティティーを敵を持つ自分から本当の自分である神の子に据え直すための言葉であることを踏まえれば、矛盾ではなくなります。

つまり、私たちが自分には敵がいるという観念を抱くほど、真理を忘れてエゴ・身体というアバターに自己同一化してしまっている究極の自己制限状態にあることを前提とすれば、私たちに祈りが必要なのは間違いありません。

自らの父なる神の子である兄弟たちを敵とみなして兄弟たちの中に本当の自分であるキリストを封じ込めて自縄自縛して自分を忘れるという狂気に陥っている状態から脱するために、自分を攻撃してくる「敵」を実体の通りに自分であるキリストとみなして愛し、本当の姿として見られるよう祈ることは、幽閉状態から自分を解放するよう祈ることにほかならないので、もはや名辞矛盾ではありません。
1.- II. The Ladder of Prayer
 祈りの階梯



1. Prayer has no beginning and no end.
 祈りには、始まりも終わりもありません。

 It is a part of life.
 祈りは人生の一部です。

 But it does change in form, and grow with learning until it reaches its formless state, and fuses into total communication with God.
 しかし、祈りが形を持たない状態に達し、神との完全なコミュニケーションの中へと融合するまで、祈りは形を変えながら、学習とともに進化します。

 In its asking form it need not, and often does not, make appeal to God, or even involve belief in Him.
 求める形の祈りにおいては、神に訴えたり、神を信じることすら必要ではないし、多くの場合、役に立ちません。

 At these levels prayer is merely wanting, out of a sense of scarcity and lack.
 これらのレベルでは、祈りは単に、不足や欠乏の感覚に駆られて何かを欲することでしかないからです。



2. These forms of prayer, or asking-out-of-need, always involve feelings of weakness and inadequacy, and could never be made by a Son of God who knows Who he is.
 これらの祈りの形、つまり、必要に駆られて要求することには、つねに弱さと無能の感覚を伴うものであり、自分が何者なのかわかっている神の子によっては決してなされようのないものです。

 No one, then, who is sure of his Identity could pray in these forms.
 したがって、自分が本当は何者か確信する者は誰も、このような形で祈ることはできません。

 Yet it is also true that no one who is uncertain of his Identity can avoid praying in this way.
 しかし、自分が誰なのか確信のない者は誰でも、このような方法で祈ることを避けられないこともまた真実です。

 And prayer is as continual as life.
 そして、祈りは生命と同様、絶え間なく続くものです。

 Everyone prays without ceasing.
 誰もが絶えず祈っています。

 Ask and you have received, for you have established what it is you want.
 求めれば、あなたは受け取ります。というのは、あなたは自分が何を望むのか決めたことになるからです。



3. It is also possible to reach a higher form of asking-out-of-need, for in this world prayer is reparative, and so it must entail levels of learning.
 必要に駆られて求めることのより高度な形式に到達することが可能なのも確かです。というのも、この世界では、祈りは修復するものであり、したがって、祈りは必ず段階を踏んで学ぶ必要があるからです。

 Here, the asking may be addressed to God in honest belief, though not yet with understanding.
 ここでは、求めることが真摯に信じることで神に向けられてはいるかもしれないけれど、まだ理解が伴ってはいません。

 A vague and usually unstable sense of identification has generally been reached, but tends to be blurred by a deep-rooted sense of sin.
 ぼんやりとしたたいてい不安定な自己認識の感覚が一般的に得られてはいるものの、根深い罪の意識によってぼやかされがちです。

 It is possible at this level to continue to ask for things of this world in various forms, and it is also possible to ask for gifts such as honesty or goodness, and particularly for forgiveness for the many sources of guilt that inevitably underlie any prayer of need.
 このレベルでは、様々な形でこの世界の物事を求め続けることができるだけでなく、公正さや善良さというような贈り物を求めることもでき、とりわけ、必要に駆られての祈りのすべての背後に必ず横たわっている罪悪感の多くの源についての許しを求めることもできます。

 Without guilt there is no scarcity.
 罪悪感がなければ、欠乏は存在しません。

 The sinless have no needs.
 罪のない者には、いかなる必要もないからです。



4. At this level also comes that curious contradiction in terms known as "praying for one's enemies."
 このレベルではまた、「汝の敵のために祈れ」として知られる奇妙な名辞矛盾が生じます。

 The contradiction lies not in the actual words, but rather in the way in which they are usually interpreted.
 矛盾は、この言葉自体にではなく、この言葉について通常なされる解釈のし方に見出せます。

 While you believe you have enemies, you have limited prayer to the laws of this world, and have also limited your ability to receive and to accept to the same narrow margins.
 あなたが自分には敵がいると信じるかぎり、あなたは祈りをこの世界の法則に縛られるよう制限したのであり、また、受け取って受け入れる自らの能力を同じく世界の法則によって縛られた狭隘な範囲にまで制限したのです。

 And yet, if you have enemies you have need of prayer, and great need, too.
 それでも、もしあなたが敵を持っているなら、あなたには祈りが必要だし、それも、大いに必要です。

 What does the phrase really mean?
 このように言うことは、何を真に意味するでしょうか。

 Pray for yourself, that you may not seek to imprison Christ and thereby lose the recognition of your own Identity.
 それは、あなたがキリストを幽閉しようとすることで本当の自分が誰なのかという認識を見失ってしまわないよう、自分自身のために祈りなさい、という意味です。

 Be traitor to no one, or you will be treacherous to yourself.
 誰も裏切ってはなりません。さもないと、あなたは自分自信を裏切ることになってしまうからです。



5. An enemy is the symbol of an imprisoned Christ.
 敵というのは、幽閉されたキリストの象徴です。

 And who could He be except yourself?
 そして、キリストがあなた自身以外のいったい誰でありうるでしょうか。

 The prayer for enemies thus becomes a prayer for your own freedom.
 したがって、敵のために祈ることは、あなた自身の解放のために祈ることとなります。

 Now it is no longer a contradiction in terms.
 こうなれば、この祈りは、もはや名辞矛盾ではありません。

 It has become a statement of the unity of Christ and a recognition of His sinlessness.
 それは、キリストの一体性とキリストの潔白さの認識を宣言するものとなります。

 And now it has become holy, for it acknowledges the Son of God as he was created.
 そして、いまや、この祈りは神聖なものとなります。というのは、この祈りは、神の子を彼が創造されたままに承認することだからです。



6. Let it never be forgotten that prayer at any level is always for yourself.
 いかなるレベルの祈りも、つねにあなた自身のためのものだということを決して忘れないでください。

 If you unite with anyone in prayer, you make him part of you.
 もしあなたが祈りの中で誰かと結ばれるなら、あなたはその人を自分の一部としたのです。

 The enemy is you, as is the Christ.
 その敵は、キリストであるがゆえに、あなたなのです。

 Before it can become holy, then, prayer becomes a choice.
 したがって、祈りが神聖なものとなるには、その前に、祈りを選択しなければなりません。

 You do not choose for another.
 あなたは、ほかの誰かのために選ぶのではありません。

 You can but choose for yourself.
 あなたはただ、自分自身のためにしか選べないからです。

 Pray truly for your enemies, for herein lies your own salvation.
 あなたの敵のために心から祈りなさい。というのは、敵のために祈ることでこそ、あなたは救われるからです。

 Forgive them for your sins, and you will be forgiven indeed.
 あなたの罪について敵を赦しなさい。そうすれば、あなたは本当に赦されるでしょう。



7. Prayer is a ladder reaching up to Heaven.
 祈りは、天国の高みにまで届くはしごです。

 At the top there is a transformation much like your own, for prayer is part of you.
 そのはしごの頂上では、祈りは、あなた自身によく似たものへと変容します。というのは、祈りはあなたの一部だからです。

 The things of earth are left behind, all unremembered.
 地上の物事は、背後に置き去られ、まったく思い出されることはなくなります。

 There is no asking, for there is no lack.
 そこでは何も求められることはありません。というのも、そこには欠乏が存在しないからです。

 Identity in Christ is fully recognized as set forever, beyond all change and incorruptible.
 自分がキリストであることを完全に自覚し、その認識は、あらゆる変化を超える不朽で永遠のものとなります。

 The light no longer flickers, and will never go out.
 もはや光が揺らめくことはなく、決して消えることはありません。

 Now, without needs of any kind, and clad forever in the pure sinlessness that is the gift of God to you, His Son, prayer can again become what it was meant to be.
 いまや、いかなる種類の必要もなく、神からわが子であるあなたへの贈り物である永遠に清浄な潔白さに包まれて、祈りは再び、本来意図された通りのものとなります。

 For now it rises as a song of thanks to your Creator, sung without words, or thoughts, or vain desires, unneedful now of anything at all.
 というのは、いまや祈りは、言葉や思考や空疎な願望を伴うことなく歌われる、あなたの創造主への感謝の歌としてあなたの創造主の下へと昇るので、もう本当に何も必要なくなるからです。

 So it extends, as it was meant to do.
 だから、祈りが本来意図された通りに、祈りは拡張してゆきます。

 And for this giving God Himself gives thanks.
 そして、このように祈りが捧げられることに、神自身が感謝を与えます。



8. God is the goal of every prayer, giving it timelessness instead of end.
 神こそがあらゆる祈りの目標であり、祈りに終焉ではなく永遠を与えます。

 Nor has it a beginning, because the goal has never changed.
 しかも、祈りは始まりを持ちません。なぜなら、祈りの目標は一度も変わったことがないからです。

 Prayer in its earlier forms is an illusion, because there is no need for a ladder to reach what one has never left.
 祈りは最初は幻想の形を取ります。なぜなら、自らが離れたことのないものに到達するためのはしごなど、誰にも必要ないからです。

 Yet prayer is part of forgiveness as long as forgiveness, itself an illusion, remains unattained.
 それでも、それ自体も幻想である赦しが達成されない間は、祈りは赦しの一部です。

 Prayer is tied up with learning until the goal of learning has been reached.
 学びの目標に到達するまでは、祈りは学習と結びついています。

 And then all things will be transformed together, and returned unblemished into the Mind of God.
 学びの目標を達成したなら、あらゆるものが一緒に変容し、穢れなきものとして神の大いなる心の中へと戻されます。

 Being beyond learning, this state cannot be described.
 学びを超えるものであるがゆえに、この状態を言葉で言い表すことはできません。

 The stages necessary to its attainment, however, need to be understood, if peace is to be restored to God's Son, who lives now with the illusion of death and the fear of God.
 しかしながら、もし神の子が今でも死の幻想と神への恐怖を抱いて生きていて、神の子が平安を取り戻さなければならないとしたら、学びの目標に到達するには、複数の段階を辿ることが必要だし、それらの段階を理解することが必要です。


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