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M3 教えることの段階とは?

マニュアルから第3節をご紹介します。

教えのレベルとして、3つの段階が説明されています。






1番目のレベルは、もっとも素朴なもので、電車で誰かの足を踏んでしまったというような出会いです。

2番目のレベルは、教えることによって学ぶという関係がある程度の期間継続する場合です。

3番目のレベルは、一生続く関係です。

そして、このレベルについても、奇跡に序列がないのと同じく、程度差はなく、教えにレベルがあるという概念は、時間と同様、幻想であるが、学びのために役立てることはできるということです。

すべての教えて学ぶ関係の究極の目標は、その関係を通じて、神の子の罪のなさを見つめることができるようになることだといいます。

そして、この関係をどのようにだれと結ぶかは、神の教師の計画の中にすべて織り込まれているということです。

偶然を装っているものの、すべての出会いは計画の不可欠の一部をなすものであり、序列はないということになります。

ある人にとって、人生の暗闇でもがいている苦しみから救い出してくれる一言を、一生続く関係にある家族ではなく、偶然、相席になって数分話をしただけの誰かから聞くということもあるでしょう。
Manual for Teachers
Section 3 What Are the Levels of Teaching?

第3節 教えることの段階とは何のことだろうか



1. The teachers of God have no set teaching level.
 神の教師たちには、教えるために決まった一定の段階があるわけではありません。

 Each teaching-learning situation involves a different relationship at the beginning, although the ultimate goal is always the same; to make of the relationship a holy relationship, in which both can look upon the Son of God as sinless.
 教えることによって学ぶ関係はそれぞれ、初めのころは、違った関係を含んでいます。けれども、究極的な目標はいつでも同じです。それは、その関係を神聖な関係にして、その関係の中で、二人が神の子を罪のないものとして見つめることができるようになるという目標です。

 There is no one from whom a teacher of God cannot learn, so there is no one whom he cannot teach.
 その人から神の教師が学ぶことのできないような人などひとりもいません。だから、神の教師教えることのできない人などひとりもいないということになります。

 However, from a practical point of view he cannot meet everyone, nor can everyone find him.
 しかしながら、現実的な観点から見て、その教師がみんなとひとり残らず会うことはできないし、誰もがその教師を見つけることができるわけでもありません。

 Therefore, the plan includes very specific contacts to be made for each teacher of God.
 それゆえ、その計画には、神の教師の一人ひとりがどんな出会いをすることになるかということが、非常に特定した内容で含まれています。

 There are no accidents in salvation.
 救済において、偶然の出来事などひとつもありません。

 Those who are to meet will meet, because together they have the potential for a holy relationship.
 出会うことになっている人たちには出会うことになるのです。なぜなら、彼らは、一緒になれば、神聖な関係を築く可能性を持っているからです。

 They are ready for each other.
 彼らは、お互いに出会う準備ができているのです。




2. The simplest level of teaching appears to be quite superficial.
 最も素朴な教えることの段階というのは、とても表面的なものに見えます。

 It consists of what seem to be very casual encounters; a "chance" meeting of two apparent strangers in an elevator, a child who is not looking where he is going running into an adult "by chance," two students "happening" to walk home together.
 最も素朴な教え段階は、とても思いがけない出会いのように思えることからできています。二人の赤の他人が「偶然」エレベーターで隣り合わせて出会ったり、前をしっかり見ずに走っていたある子供が「偶然」ある大人にぶつかってしまったり、二人の生徒が「偶然」帰宅が一緒になったりというような出会いです。

 These are not chance encounters.
 このような出会いは、偶然のものではないのです。

 Each of them has the potential for becoming a teaching-learning situation.
 それぞれの出会いは、教えることで学ぶ関係になる可能性を秘めています。

 Perhaps the seeming strangers in the elevator will smile to one another, perhaps the adult will not scold the child for bumping into him; perhaps the students will become friends.
 もしかしたら、エレベーターで隣り合わせた見知らぬ同士であるはずの二人は、お互いに微笑みかけるもしれません。もしかしたら、大人は、飛び込んできた子供を叱ろうとはしないかもしれません。もしかしたら、帰りが一緒になった生徒たちは友達になるかもしれません。

 Even at the level of the most casual encounter, it is possible for two people to lose sight of separate interests, if only for a moment.
 最も思いがけない出会いのレベルにおいてすら、ほんの一瞬だけであっても、二人の人物が別々の関心を抱くことを忘れるということがありえます。

 That moment will be enough.
 そんな一瞬で十分です。

 Salvation has come.
 救いがやってきたのです。




3. It is difficult to understand that levels of teaching the universal course is a concept as meaningless in reality as is time.
 普遍的な道を教えることには段階があるということは、時間と同じように、現実においては意味を持たない概念だと理解することは難しいものです。

 The illusion of one permits the illusion of the other.
 時間という幻想が教えることに段階があるという幻想を抱くことを可能にします。

 In time, the teacher of God seems to begin to change his mind about the world with a single decision, and then learns more and more about the new direction as he teaches it.
 時間の中では、神の教師は、一つの決心とともに、この世界に関する自分の心を変えはじめ、それから、彼が、そのことを教えるにつれて、新しい方向性についてどんどん学んでいくように思えます。

 We have covered the illusion of time already, but the illusion of levels of teaching seems to be something different.
 私たちは時間が幻想だということはすでに学習しましたが、教えることに段階があるという幻想については、何だかそれとは違うようにも思えます。 

 Perhaps the best way to demonstrate that these levels cannot exist is simply to say that any level of the teaching-learning situation is part of God's plan for Atonement, and His plan can have no levels, being a reflection of His Will.
 このような段階があるはずがないということを実証するために一番よい方法は、おそらく、簡単に言えば、次のようなものかもしれません。それは、教えることで学ぶ関係のどんな段階であっても、それは贖罪のための神の計画の一部であって、神の大いなる意志の反映であるがゆえに、神の計画には段階の差などあるはずがないということです。

 Salvation is always ready and always there.
 救いはいつでも準備ができていて、つねにそこにあります。

 God's teachers work at different levels, but the result is always the same.
 神の教師たちはそれぞれ違った段階で働きかけますが、その結果はいつも同じものです。




4. Each teaching-learning situation is maximal in the sense that each person involved will learn the most that he can from the other person at that time.
 それぞれの教えることで学ぶ関係は、その関係にある各自が、その時点で相手から学びうるかぎり学ぶことになるという意味で最大限のものです。

 In this sense, and in this sense only, we can speak of levels of teaching.
 この意味で、そして、この意味においてのみ、私たちは教えの段階について語ることができます。

 Using the term in this way, the second level of teaching is a more sustained relationship, in which, for a time, two people enter into a fairly intense teaching-learning situation and then appear to separate.
 教えの段階という用語をこのように用いるなら、教えることの2番目の段階は、より持続的な関係になり、しばらくの間、二人は教えては学ぶかなり濃密な関係を持ち、そして、そのあとで、二人は離れていくように見えます。

 As with the first level, these meetings are not accidental, nor is what appears to be the end of
the relationship a real end.
 最初の段階と同じように、このような出会いは偶然ではないし、その関係が終わったように見えたとしても真に終わったわけではありません。

 Again, each has learned the most he can at the time.
 またしても、各自がその時点で自分の学べるだけのことを学び終えたということです。

 Yet all who meet will someday meet again, for it is the destiny of all relationships to become holy.
 しかし、出会った者たちはみんな、いつの日かまた再会することになります。というのも、神聖になることがあらゆる関係の持つ運命だからです。

 God is not mistaken in His Son.
 神は、自分の子を見間違えることなどないのです。




5. The third level of teaching occurs in relationships which, once they are formed, are lifelong.
 教えることの3番目の段階は、いったん形成すると一生継続するような関係の中で起こります。

 These are teaching-learning situations in which each person is given a chosen learning partner who presents him with unlimited opportunities for learning.
 この3番目の段階は教えることで学ぶ関係の中で、各自が互いに、相手に限りない学びの機会を提供できる格好の学びのパートナー同士が結び合わされることになります。

 These relationships are generally few, because their existence implies that those involved have reached a stage simultaneously in which the teaching-learning balance is actually perfect.
 このような関係は通常は、ほとんどありません。なぜなら、このような関係が存在しうるということ自体が、その関係にある各自が、同時に、教えることによって学ぶというバランスが本当に申し分のない域にまで到達していることを意味するからです。

 This does not mean that they necessarily recognize this; in fact, they generally do not.
 これは、その関係にある各自が必ずしもそのことに気づいているということを意味しません。実際のところ、彼らは、普通、そのことに気づいてはいません。

 They may even be quite hostile to each other for some time, and perhaps for life.
 彼らは、しばらくの間、お互いに、かなりの敵対関係にあることすらあるし、もしかしたら一生敵対したままであるかもしれません。

 Yet should they decide to learn it, the perfect lesson is before them and can be learned.
 しかし、彼らが学ぶ気になれば、申し分のないレッスンが彼らの目の前にあり、彼らはそれを学ぶことができるのです。

 And if they decide to learn that lesson, they become the saviors of the teachers who falter and may even seem to fail.
 そして、もし彼らがそのレッスンを学ぶことに決めたら、彼らは躓いたり、失敗したようにすら見える教師たちの救い主となるのです。

 No teacher of God can fail to find the Help he needs.
 神の教師は、誰ひとりとして、自分の必要とする助けを見い出し損ねるということはありえないのです。

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