There Is No Spoon

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赦しってなに?

今回は、ワークブック第2部から赦しについての解説をご紹介します。

赦し」は奇跡のコースの概念の中でも、なかなか本当に理解することの難しいもののひとつです。

蝶


赦しは、贖を実現するための手段です。

も、赦しと同じように、その言葉が従来から持っている意味合いによる影響からの脱却が困難な概念です。

赦しについて理解するうえで、赦しが手段として奉仕する目的である「贖」についての理解は欠かせません。参考に、「贖罪」をご一読いただければと思います。
さて、コースでいう「贖」の意味は、もともとの言葉の意味であるを「贖う」、すなわち、が現に存在することを前提として、によって生じた害悪に対して、同等の犠牲をもって埋め合わせて打ち消そうとするものではありませんでした。

そうではなく、現実であるという認識が幻想であることにとことん気づいて幻想を取り消すことによって、そもそもの土台である現実であるという前提の方を掘り崩すということでした。


赦し」についても、贖罪と同じように、この世界でのもともとの言葉の意味があります。

それを「許し」という漢字をあてて表現するならば、許すことは、他人の犯した罪について、許す者が寛大にも、情けによって、見逃してやるという意味です。

許してやる理由はさまざまです。罪を犯した本人が反省しているからとか、損害を賠償するなどして、罪によって生じた害悪を「贖った」からであるとか、罪を犯した者の家族が更生させることを確約しているからとか、いろいろあります。

恩赦や特赦のような、国の慶事や政治事情といった偶然の事情で許してもらえることもあったりします。

いずれにせよ、「許し」は許してもらう者の犯した罪の実在性を前提とするものです。

罪が現にあることを揺らぐことのない事実とするので、許してやるにしても、どのような事情を考慮に入れるか、どのような基準で判断するか、許すとして、どこまで許すのか、といったことが無限のバリエーションを持つことになります。

つまり、許してもらう人にとっては、免罪という「奇跡」が起こるかどうかには、実現可能性に程度があり、難易度に序列があるということになります。

こんな許しが奇跡のコースのいう「赦し」であるはずがありません。

贖罪と同じ仕組みで、他の誰かが自分にしたと思っていた「罪」は、本当は起こったことではないということに気づくことが赦しです。



浮世の垢にまみれ、この世界こそが現実だという信念が骨の髄まで染み込んでしまっている私たちにとって、真の赦しは、奇跡に難易度の序列がないことを理解することと同じように「難しい」ものです。

とはいえ、この難しさは、私たちがこの世界、幻想の中に没入し切っているからこそ生じるものです。

自分の家族が、あまりに深くロールプレイングゲームにのめり込み、自分の大切な仲間キャラを殺した敵キャラを「許せない!」と言って、本気で仲間の敵討ちに「命懸け」になっているのを見たら、空寒い感覚を覚えて何とか目を覚まさせたいと思わないでしょうか。

人の感情移入の力というものはとても強いものです。

俳優が、柄になりきってしまって、撮影が終わってもしばらく、人格が戻らなかったりするということがあるといいます。

私たちのこの「自分」もひとつの柄、一キャラクターだったとしたら、どうでしょうか?


俳優が舞台や映画で柄を演じる以上に、キャラクターに没入して高精細のリアリティをもった世界の中で長年演じつづけるのです。

そう簡単には、柄から抜け出せはしないということが分かります。

ですが、仕組み的には、これと同じにすぎないということは確かに言えると思います。

世の中には、柄になりきって、とことんそのキャラを演じきる俳優もいれば、与えられたが気に入らないとでもいうように、演じることに違和感を抱き続ける俳優もいます。

舞台が創作にすぎないことに気づくのは、こんな俳優の方ということが多いのかもしれません。

役柄になりきった俳優が嬉々として演じることを満喫している(ちょっと嘘くさいと思う出来事があっても、演技が楽しくて仕方がないので、役得とばかりに、そんなことには目を瞑ってしまいます)傍らで、役柄に疑問を抱く俳優は、ふとした瞬間に、景色の一部が書き割りのセットにすぎないことに気がついたりしはじめます。
トゥルーマン・ショーのトゥルーマンのようにです。

バニラ・スカイのデイビッドやマトリックスのネオもそうでした。

奇跡のコースに触れる私たちもそうです。

気づきはじめたなら、中途半端にやめるわけにはいきません。

夢の舞台は、私たちを割り当てられた役を演じ続けることへと引き戻そうとあらゆる手立てを尽くします。

幻ですので、本当に無限に幻惑するための手段があります。

ある人にとっては、ガツンと深刻な出来事を突きつけるのが「現実」に引き戻すために有益であれば、そのような人生の重大事件をぶつけてくるでしょう。

満たされた実生活で、それなりに満足しているが、何か物足りなさを感じては精神世界を渉猟していたという人を引き戻すためには、満たされた生活の基盤を崩すだけでも、「現実」を思い出させるに十分でしょう。

また、艱難辛苦を嘗め尽くすような壮絶な人生が気づき始めるきっかけになっている人には、平々凡々たる日常こそが「現実」を実感させるのであれば、平凡な毎日を提供してくるかもしれないし、あるいは、脚本を変えて、巧妙にも、苦難を味わった者だけが選ばれし者として他の羊のような者たちを「導く」尊い役目を担わされるのだというような「天命」を授けて、「現実」に引き戻すことまでするかもしれません。

それでも、一度でも疑問を持ったが最後、その役者は、舞台を降りるその日まで、突き上げてくる疑問を押し殺すことができません。

そして、一つの舞台が終われば、また次の舞台が待っているのです。




赦しは、贖罪の完了つまりこの世界と言う舞台に幕引きをするための道具です。

幕引きと言っても、舞台監督であるエゴの持っている脚本どおりの筋書きを上演し終えることではありません。

逆に、本来のエゴの予定する筋書をぶち壊していく作業です。

舞台袖には、聖霊というマネージャーが控えていて、俳優が耳に付けている無線インカムを通じて、俳優が質問すれば、どうしたらいいか教えてくれます。

書き割りのセットを見付けたら、それを認めて片付ける、監督が役者としての自分に期待している次の演技に気づいたら、あえてその演技をしない、ということをマネージャーの指示を受けて進めていきます。

そうする中で、舞台の上で繰り広げられる愛憎劇はすべて脚本に書かれた筋書どおりに、俳優たちが演じているエピソードの一つひとつにすぎないことへの気づきが深まってゆきます。

末代までも呪い殺してやりたいほどの仇敵の憎むべき悪行の数々も、脚本通りに演じられたものでしかありませんでした。

気づくのは、その仇敵も含めた舞台で共演していたと思っていた他の俳優たちも物語の登場人物にすぎなかったということです。

そして、自分が脚本に従って、仮面を被って特定のキャラクターになりきっていたことに気づいて、被っていた仮面を取った後には、役柄を離れた一俳優がそこにいます。



彼は、私は誰かと問うでしょう。

彼は、舞台に舞い戻って、他の俳優たちに「真実」を知らせて、何とか自分たちに押し付けられていた劇の目的を見いだそうとするでしょう。

多くの役者たちは、彼の言葉なんかに耳を貸そうともせず、それまで通り、劇を続けるでしょう。

中には、わずかながら、彼に耳を傾け、同じように、仮面を取る俳優もいるかもしれません。

質問の答えは、誰でもないし、誰でもあるというものです。

仮面を取った俳優が気づくことになる、もう一つの事実は、そこに確固として存在しているように見える自分の身体も他の俳優たちの身体も、夢の舞台を繰り広げるために用意された操り人形でしかなかったということです。

ふと、その俳優が目を遣ると、舞台上では依然として、他の人形たちが仮面を付けて悲喜こもごもの愛憎劇を演じています。

ですが、もはや彼は、かつてのように舞台に舞い戻って、積極的に他の俳優たちに、「真実」を説いて回ろうとはしないでしょう。

他の俳優たちにはなかなか理解できないだろうというのがその理由ではありません。

他の俳優たちや舞台そのもの、舞台裏で暗躍していた裏方たちもひっくるめてすべてが幻であり、すべてが、自分が作り出したものだったことに気づいたからです。

ここに至っては、仮面を取り去り、自分自身だと思っていた身体が人形だったと気づいた俳優にとっては、自分も含めた誰か、自分の作り出した世界が真に目を覚ますことを待つだけです。

目覚めるのがどの人形をきっかけとして起こるかなどということはもう重要なことではなくなっています。

個々の自分たちは、真の自分の周りにこびり付いて固まった卵の殻のような存在にすぎないとわかったからです。

卵の内側には、生まれ変わった不死鳥がはばたく時を待ち構えています。

鳥はつねに光を放っています。

殻のほとんどの部分は、深い闇で硬く凝り固まっています。

どこでもいい、卵の殻の一点に亀裂さえ入れば、あとは中から一羽の鳥が殻を破って飛び出してきてくれます。



その一羽の鳥こそが本当の自分だったのです。
 



一 What Is Forgiveness?
赦しとは何か。


1. Forgiveness recognizes what you thought your brother did to you has not occurred.
 赦しは、兄弟が自分にしたとあなたが思っていたことは実は起こってなどいなかったのだと気づくことです。

 It does not pardon sins and make them real.
 赦しは罪を許すことで、その罪を本物にすることではありません。

 It sees there was no sin.
 赦しは、罪など何もなかったと見ることです。

 And in that view are all your sins forgiven.
 そして、そのような見方をすることで、あなたのすべての罪は赦されることになります。

 What is sin, except a false idea about God's Son?
 罪とは、神の子についての間違った想念以外の何ものでもないのではないでしょうか。

 Forgiveness merely sees its falsity, and therefore lets it go.
 赦しは、単に、罪を間違いであると見て、それから、それを手放します。

 What then is free to take its place is now the Will of God.
 そうすれば、罪のあった場所に、心置きなく取って代わるのは、今や神の意志です。




2. An unforgiving thought is one which makes a judgment that it will not raise to doubt, although it is not true.
 赦さない思いというのは、それが真理でないにもかかわらず、疑問を呈することもなく、価値判断をして裁く思いです。

 The mind is closed, and will not be released.
 こんな心は閉ざされ、解放されることはなくなってしまいます。

 The thought protects projection, tightening its chains, so that distortions are more veiled and more obscure; less easily accessible to doubt, and further kept from reason.
 赦さない思いは、投影を守ろうとして、束縛を厳しくしようとします。そのため、歪曲はもっと覆い隠されて、より不明瞭になります。そうなると、容易に疑いを抱くこともできず、さらには理性的な判断すら困難な状態になってしまいます。

 What can come between a fixed projection and the aim that it has chosen as its wanted goal?
 固定した投影と赦さない思いが自らの望みとして選んだ目標との間に、何がいったい何が割って入ることができるというのでしょうか。




3. An unforgiving thought does many things.
 赦さない思いは、多くの所業をなします。

 In frantic action it pursues its goal, twisting and overturning what it sees as interfering with its chosen path.
 死にもの狂いで、赦さない思いはその目標を追い求めます。その際には、自分が選んだ道の障害物のように見るもののことを捻じ曲げたり、ひっくり返したりします。

 Distortion is its purpose, and the means by which it would accomplish it as well.
 歪曲こそが赦さない思いの目的です。そして、歪曲こそが赦さない思いを首尾よく遂げるための手段です。

 It sets about its furious attempts to smash reality, without concern for anything that would appear to pose a contradiction to its point of view.
 赦さない思いは、自分の観点に矛盾するように見える物事に対しては何の容赦もなく、現実を粉々に打ち砕こうと猛烈な攻撃を仕掛けます。




4. Forgiveness, on the other hand, is still, and quietly does nothing.
 他方で、赦しは、静かに落ち着いて何もしようとはしません。

 It offends no aspect of reality, nor seeks to twist it to appearances it likes.
 赦しは、現実のどの側面をも攻撃しようとはしません。また、現実を自分が好む見かけ上の姿に捻じ曲げようともしません。

 It merely looks, and waits, and judges not.
 赦しは、単に見つめて待つだけで、裁くことはありません。

 He who would not forgive must judge, for he must justify his failure to forgive.
 赦そうとしない人は、裁きを下さざるをえません。というのも、彼は自分が赦し損ねたことを正当化しなければならないからです。

 But he who would forgive himself must learn to welcome truth exactly as it is.
 しかし、自分自身を赦そうとする者は、真理をちょうどあるがままに喜んで迎え入れることを学ぶに違いありません。

 


5. Do nothing, then, and let forgiveness show you what to do, through Him Who is your Guide, your Savior and Protector, strong in hope, and certain of your ultimate success.
 そうだとすれば、何もせず、聖霊を通して、赦すために自分が何をすべきか示してもらうようにすればよいのです。その聖霊は、あなたのガイドであり、あなたの救い主であると同時に守護者であって、強い期待を抱きながら、あなたの最終的な成功を確信しています。

 He has forgiven you already, for such is His function, given Him by God.
 聖霊は、すでにあなたを赦してくれています。というのも、赦しこそが聖霊が神から授けられた役目だからです。

 Now must you share His function, and forgive whom He has saved, whose sinlessness He sees, and whom He honors as the Son of God.
 今こそ、あなたは聖霊の役目を分かち合い、そして、聖霊が救い、聖霊が罪のない者と見て、聖霊が神の子として敬っているその人のことを赦さなければなりません。





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