
T20-8 潔白さのヴィジョン
この世で最も悲劇的な人は、目が見えていてもヴィジョンがない人である。ヘレン・ケラー今回はテキスト第二十章から「潔白さのヴィジョン』という一節をご紹介します。前節では、目的と手段の不一致を、神聖な救済という目的にエゴの不浄な目的を割り込ませて揺るがせないことについて述べられました。神聖な関係の目的も手段も、私たちが作り出すものではなく、与えられるものであり、私たちは求めさえすれば、目的も手段も与えて...

T20-6 聖霊の神殿
お前のためにチームがあるんじゃねぇ。チームのためにお前がいるんだ!!安西監督(井上雄彦「スラムダンク」より)今回はテキスト第二十章から「聖霊の神殿」という一節をご紹介します。T2-3 祭壇はどこにある?では、修正の過程の第一段階として身体を神殿とみなすということが述べられます。「Perceiving the body as a temple is only the first step in correcting this distortion, because it alters only part of it. 身...

T20-4 方舟に入る
今回はテキスト第二十章から「箱舟に入る」という一節をご紹介します。これまでも、犠牲や共有の概念に関連してたびたび出てきましたが、本節では、与えることについての聖霊の解釈とエゴの解釈の違いが出てきます。与えることに関してのエゴの解釈は、私たちが何かを与えれば、その人は自分の与えたものを失うという法則が作用するというものです。これに対して、聖霊の解釈は、私たちは、何かを与えても、それを失わない、むしろ...

T20-2 百合の花の贈り物
今回はテキスト第二十章から「百合の花の贈り物」という一節をご紹介します。T2-3 祭壇はどこにある?が参考になると思います。磔刑を目的とするエゴに従うなら、自分や他者の身体が内に祭壇を備える神殿となり、祭壇に裁きという荊が供えられることになります。復活を目的とする聖霊に従うなら、兄弟との関係性が神殿となり、相手の心を祭壇として、祭壇に優しい赦しという百合の花が供えられることになります。他者は本当は自ら...

T20-7 手段と目的の整合性
Do not think that if you surrender to God you will be a loser.自分を神に明け渡して降伏することを、自分が失敗して敗北者になるように思ってはならない。Radhanath Swamiラダナート・スワミテキスト第二十章から「手段と目的の整合性」という一節をご紹介します。本節では目的と手段の不一致について語られます。私たちが関係性の目的をエゴの不浄な関係から聖霊の神聖な関係に変えることに同意したにもかかわらず、いまだに...

T20-1 聖週間
誰かと一緒に平和にいるためには、自分を相手から隔てるものではなく結びつけるものを見る必要があります。結びつけるものを見て取るなら、互いの差異をも尊重できます。差異のほうを見て取るなら、その差異を克服しようとあくせくすることになります。差異を克服しようとしても、たいてい失敗します。それは、差異があるということは健全だからです。お互いの差異を尊重するかぎり、親密な良い関係を築く可能性を妨げることはあり...

T20-5 永遠の伝令
テキストから、「永遠の前触れ」という一節をご紹介します。私たちの兄弟の価値は計り知れないほどのものであるということが語られます。計り知れない兄弟について過大評価するのはエゴだけであり、この過大評価は、私たちがエゴに毒されて自分のために兄弟を利用する必要があるためでしかありません。エゴとしてはもともと無価値とみなしているところを多少の価値を見出して過大評価しているつもりですが、本来、計り知れない無限...

T20-3 適応という罪
It is no measure of health to be well adjusted to a profoundly sick society.深刻に病んだ社会にうまく適応出来ていることは、まったく健康であることを示す尺度にはなりませんJiddu Krishnamurtiジッドゥ・クリシュナムルティ今回は、テキスト第二十章から、適応という罪という一節をご紹介します。適応とは、自らと調和、一致しない外部の状況や物事に自らを調整して適合させることをいいます。真理においては、神の子はすべ...