
S1-4 他者とともに祈る
他者を敵視した状態での祈りの段階にとどまる間は、祈りが共有されることはありえません。というのも、敵同士になるには、両者が目的を異にしている必要があるからです。各自が望むことが異なることが両者が衝突し、敵対することを可能にします。この段階から次の段階に進むために必要な心構えの変化は、私たちはひとりきりではなく一緒に進むのだと考えるようになることです。そうなると、それまでは自分の利益のために祈っていた...

レッスン279「創造物の自由が私自身の自由を約束している」
レッスン279です。「創造物の自由が私自身の自由を約束している」が今日のテーマです。まず、キリストってなに?をご覧ください。レッスン268「すべての物事が本当にあるがままになりますように」のエッセイでは、救済がすでに完了しているという表現について考えました。「2. In order to understand the teaching-learning plan of salvation, it is necessary to grasp the concept of time that the course sets forth. ...

レッスン278「もし私が束縛されているなら、私の父は自由ではないことになる」
レッスン278です。「もし私が束縛されているなら、私の父は自由ではないことになる」が今日のテーマです。まず、キリストってなに?をご覧ください。昨日のレッスン277のエッセイで述べたように、天国に行き渡る「自分の拡張するものが自分の現実となる」という神の法は、この世界では「自分が拡張または投影するものは自分にとっての現実となる」という形で作用し、「自分の兄弟に与えるものは自分のものとなる」という愛の...

レッスン198「ただ私が非難することだけが私を傷つける」
レッスン198です。「ただ私が非難することだけが私を傷つける」が今日のテーマです。神の子は不死なる存在なので、傷つくことなどできません。そして、神の子は自由なので、囚われの身になることなどできません。しかし、妄想が作り上げる幻想世界では、思う存分、勘違い、錯覚し放題なので、本来ありえない状態になることができます。だから、この世界では、自他が分離していると錯覚できるし、自分や他者は死にゆく脆弱な生き...

レッスン191「私は、神自身の聖なる子だ」
レッスン191です。「私は、神自身の聖なる子だ」が今日のレッスンです。「4. Yet what is it except a game you play in which Identity can be denied? しかし、こんなことは、あなたが本当の自分ではなくなることができるふりをして遊んでいるだけではないでしょうか。 You are as God created you. あなたは、神が創造したあなたのままだからです。 All else but this one thing is folly to believe. 自分が神に創...

レッスン186「世界の救済は、私にかかっている」
レッスン186です。「世界の救済は、私にかかっている」が今日のテーマです。今日のテーマは、インパクトがあるのではないでしょうか?世界の救いが私にかかっているだって?それは、私が救世主だってことを意味するではないか?本気でこんなことを信じるなんて傲慢にもほどがある、狂気の沙汰の誇大妄想でしかない!と感じていませんか?ですが、このように叫んでいるのはエゴの声です。自己卑下するエゴが、神が与えた役目を、...

T8-2 ありそでなさそな自由意志。あるの?ないの?
今回は、自由意志に関する箇所をテキスト第八章2節ご紹介します。第三十章2節も自由意志に関する一節ですので、ご覧下さい。自由意志の幻想性については、マトリックス 自由意志という幻想で触れていますので、ご一読ください。さて、私たちに自由意志はあるのでしょうか。...

T18-6 身体という牢獄
今回は、テキスト 第十八章 六 「身体を越えて」という一節をご紹介します。この一節では、身体は牢獄にたとえられます。たしかに、エゴの見る世界では、他人は自分とは隔絶した身体であって、自分は身体という可動式の独房の中に閉じこめられていて、五感という小さな窓を介してしか外を見ることができない寂しい囚人であるということになります。独房に収容されていることに気づくようになる前の記憶は消去され、ここに来る前...