
T21-6 理性 対 狂気
今回はテキスト第二十一章から「理性 対 狂気」という一節をご紹介します。理性は聖霊の用いる手段であり、主語として理性が用いられている箇所は、理性を聖霊と置き換えて読んでかまいません。他方、狂気はエゴの手段であり、エゴは狂気そのものです。解離性同一性障害を患って、無数の副人格たちが、身体を所有する主人格の座を巡って争いを繰り広げていたり、はたらく細胞の細胞たちがばらばらに自分独自の権利を主張しはじめて...

レッスン259「罪など一切存在しないことを私に思い出させてください」
レッスン259です。「罪など一切存在しないことを私に思い出させてください」が今日のテーマです。まず、罪とは何かをご覧ください。今日のレッスンでは、罪こそが恐怖の源であり、罪によって恐怖の属性が愛に付与され、神の創造物をありのままに見えなくさせてしまうということが語られます。そして、愛の対概念である恐怖は一見実在するように思えているが、それは錯覚で、愛には対極はないことから、実在するのは愛のみであり...

レッスン152「 決断する力が私にはある」
レッスン152です。今日のテーマは「決断する力が私にはある」です。レッスンでは、起こることはすべて私たちの願望の現れであり、この世界は私たちの世界であり、自らそう決断しないかぎり、誰も損失を被ることも死ぬこともありえないのであり、救われるかどうかも私たちの決断ひとつにかかっているという真理が語られます。そして、自分が世界を作り出したとか自分に世界を変える力があるなどと信じるのは狂気の沙汰で、少なく...

T5-5 エゴは罪悪感をどうやって利用するの?
テキストから、エゴが罪悪感をどのように利用するのかについて説明する一節をご紹介します。エゴの目的は、恐怖を抱かせることだということが述べられます。その理由は、怯えるものだけが利己的になりうるからという、とても納得のいくものです。エゴの道具の中でも、最大の武器が罪悪感です。そして、罪悪感は神に対する攻撃の象徴と言えます。というのは、分離そのものであるエゴは、神の一体性を攻撃して分離という罪をを達成し...

レッスン41「私がどこへ行こうとも、神が私と一緒に行ってくれる」
レッスン41です。「私がどこへ行こうとも、神が私と一緒に行ってくれる」が今日のテーマです。今日のレッスンもそうですが、レッスンの中で、「朝起きたらこうしなさい」という指示が出てくることがあります。とくに今日のレッスンのように「朝目を覚ましてすぐ●●をしてください」、という課題は、朝起床して洗顔、歯磨き、トイレ等を済ませてから、さあやるぞ!と、ワークブックを開いてという順序では、すでに朝目を覚ましてす...

レッスン17「私は、何ひとつ中立なものを見ていない」
レッスン17です。今日のテーマは、「私は、何ひとつ中立なものを見ていない」です。このレッスンは、私たちが中立なものを見ていないのは、私たちが中立な思考を抱いていないから(レッスン16「私が抱く思考はまったく中立なものではない」)だと言います。つまり、思考が先にあるせいで、物事が中立でないように見えるのであって、外にあるものが中立でないから、中立でないように見えるのではないということです。これは心が...