
T21-3 信頼、信念、そしてヴィジョン
今回はテキスト第二十一章から「信頼、信念、そしてヴィジョン」という一節をご紹介します。エゴの目的は罪であり、聖霊の目的は神聖さです。エゴに従う私たちは、神の子が本来持っている確信を忘れて見失って、罪を見つけるために、知覚、信念、信頼という手段を作り出し、エゴに従って、知覚と信念と信頼を心から身体へと与えていました。身体の五感を通して他者を身体だと知覚することで、価値判断して他者を罪深い存在だと裁い...

T21-2 見ることについての責任
今回はテキスト第二十一章から「見ることに対する責任」という一節をご紹介します。本節では、私たちがヴィジョンを得て苦痛から解放されて完全に罪を免れて幸福になるための言葉が紹介されます。2.「I am responsible for what I see.私は、自分が見るものについて責任がある。I choose the feelings I experience, and I decide upon the goal I would achieve.私は自分が経験する感情を自分で選んでいる。そして、私は自分の達...

T21-1 忘れられた歌
今回はテキスト第二十一章から『忘れられた歌」という一節をご紹介します。裁きとヴィジョンが私たちの用いる道具です。エゴに従って罪を目的とするなら、価値判断による裁きを使うことになります。聖霊に従って神聖さを目的にするなら、ヴィジョンを用いることになります。裁きもヴィジョンも知覚の手段ですが、裁きは、ありのままの事実を見ずに、事実についての評価、価値判断を介在させて自分独自の見方をすることです。これに...

T21-5 理性の働き
今回は、テキスト第二十一章から「理性の働き」という一節をご紹介します。2. の”But never believe because it is your faith it makes reality.”の意味がわかりにくいです。”never believe”の直後には対象となる単語がありませんが、”it is your faith it makes reality.”の文章を強引に分割しようと思えば、”it is your faith”と”it makes reality.”に切り分けることもできるので、”never believe”の対象を ”it makes reality.”...

T21-6 理性 対 狂気
今回はテキスト第二十一章から「理性 対 狂気」という一節をご紹介します。理性は聖霊の用いる手段であり、主語として理性が用いられている箇所は、理性を聖霊と置き換えて読んでかまいません。他方、狂気はエゴの手段であり、エゴは狂気そのものです。解離性同一性障害を患って、無数の副人格たちが、身体を所有する主人格の座を巡って争いを繰り広げていたり、はたらく細胞の細胞たちがばらばらに自分独自の権利を主張しはじめて...

T21-4 怖がらないで覗きこんじゃっていいんです!
テキスト第二十一章から、「内面を見ることに対する恐れ」をご紹介します。私たちは、自分は罪深いと思っているので、自分の内面をみつめて、そこにあるはずの罪に直面することを恐れています。このことであれば、私たちは恐れることなく認めるし、エゴも諸手を挙げて賛同します。私たちが罪を信仰することでエゴの神殿は確立し、エゴは安泰でいられるからです。しかし、自分の内面に罪があるはずだというのは、私たちが恐れの源だ...

T21-8 内面の変化
テキスト第二十一章から、無力感からの脱出(「答えられていない最後の質問」)の続きである「内面的な変化」についての一節をご紹介します。前節で出てきた質問は、次の4つでした。1 私は、自分が支配される世界ではなくて、自分で支配する世界を望むだろうか。2 私は、自分が無力ではなくて、自分が力強くある世界を望むだろうか。3 私は、誰も敵がおらず、罪を犯すことなどできない世界を望むだろうか。4 そして、私は...

T21-7 無力感からの脱出
今回は、テキスト第二十一章から、「答えられていない最後の質問」をご紹介します。私たちは、この世界の中で、無力感を抱き、惨めさや不幸を味わいます。この無力感は、私たちが自分たちのことを、神の子ではなく、人の子であり、罪を犯す矮小な存在にすぎないと信じることから生じます。自分が無力でちっぽけな存在でしかないと信じると、自分の持っていない力を持つ存在を嫉妬し、恐れるようになります。つまり、自分は無力だと...

T21-Intro 世界を変える
テキスト 第二十一章 理性と知覚の序論をご紹介します。以前にchange the worldで、この序文を紹介していますが、英文つきでの再掲載です。この節では、この世界は、自分の心の内面を投影した幻想を知覚することでしかなく、私たちは、自分の思うような世界を知覚しているということが述べられます。だから、地獄のような世界が見えているとすれば、それは自分がエゴに従って、自分や他者や世界を罪深いものとして攻撃して神の子...