奇跡のコース


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This is your last chance.
これが最後のチャンスだ。

After this, there is no turning back.
この先に進んだら、もう後戻りはできない。

You take the blue pill—the story ends, you wake up in your bed and believe whatever you want to believe.
君が青いピルを飲めば、ここで物語は終わる。君は自分のベッドで目を覚まし、自分の信じたいように信じればいい。

You take the red pill—you stay in Wonderland and I show you how deep the rabbit-hole goes.
君が赤いピルを飲むなら、君は不思議の国にとどまったままになる。そしたら、私は君にウサギの穴がどんなに深いか教えてあげよう。

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Morpheus
モーフィアス


 
ようこそ、There Is No Spoonへ!


このサイトでは、奇跡のコース(ACIM A Course in Miracles 奇跡講座)版権フリー版:FIP1975年初版の翻訳を公開しています。個人試訳であり、非公認版です。


奇跡のコースとは

奇跡のコースについての説明をウィキペディアから引用します。

「書籍『A Course in Miracles』(1976年出版。邦訳:奇跡のコース、奇跡講座)の略称で、この書籍による独習過程も指す。単にコースとも呼ばれる[1]。アメリカ人心理学者ヘレン・シャックマンが、イエス・キリストと思われる内なる声を聞いて書いたとされる、英語のスピリチュアリティ文書である[1]。世界は幻影であり自らの外には何も存在せず、己が神と一体であるという、古代インドのアドヴァイタ・ヴェーダーンタ的な非二元論(英語版)思想が説かれている[2][1]。この作品の最大の前提は、人生で達成できる最大の「奇跡」は「愛の存在を知ること」である、という教えである[3]。神と一体となることで、愛を知るとされる。ニューエイジで広く読まれ、バイブル的存在だった」


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簡単に言えば、イエス・キリストが現代の私たちに向けて、2000年前に彼が世界に伝えようとしたことを、あらためて自ら語った本だということです。

この本に巡り合えただけで生まれてきた甲斐があったと思えるようなそんな素晴らしい本です。


難解で読破は困難?
 
しかし、奇跡のコースは分量だけでもきわめて大部な本であり、普通の感覚で学習するための教科書として捉えるかぎり、一回読むことすら難儀でうんざりするに十分なインパクトを持っています。

翻訳のなかったころは、きっとこの本には自分の人生を変えるような何か大切なことが書かれているに違いないと強い希望と意欲を持って、英語の勉強も兼ねて読んでみようと意気込んで、原書を買ったはいいものの、数週間後には、小さな文字がぎっしり詰まった1300ページを超える分厚く重い本は本棚の飾りになってしまっていたという人も多かったはずです。

翻訳が出揃った現在も、難解で大量な文章に圧倒されて、がんばって読み進めてみたけれど、気がついたら眠気に襲われていたという人も少なくないでしょう。



コースには、何度もささやかな意欲を求める記載が出てきます。そして、全身全霊を注いで聖霊のレッスンを学ばなければならないと学習者に真摯なコミットメントを求める箇所もあります。

1日1レッスンだけのワークブックも、ともすれば、毎日のレッスンが苦痛になってくることもありえます。


たしかにとてもラディカルな内容です

そして、何より、コースの語る内容ときたら、この世界は幻想だという、これ以上ないほどラディカルな思想であり、漠然とキリスト教からイメージしていた教えの内容からかけ離れていて、普通に生きてきた人からすると、自分の人生の基盤を大きく揺さぶられるような恐怖に駆られて逃げ出したくなるのがむしろ普通といえる「異端思想」です。



また、キリスト教の用語が用いられていることは、キリスト教に馴染んできた人たちの固定観念を打壊するためには有益であっても、キリスト教徒が少数派で、かつ、宗教臭さに嫌悪感を抱くことの多い私たち現代日本人にとっては、拒絶反応を招いたり、誤解の元になったりもします。

奇跡のコースは、映画館でせっかく手に汗握る映画に我を忘れて見入っている人からすれば、映画が作り物にすぎないという事実を突きつけてくる実に興醒めさせる不届きな存在であり、準備がない状態では手を出さないほうが賢明で、生半可に齧ってみるだけだと危険ですらある毒リンゴといえます。


アンラーンの学習

奇跡のコースの学びがこの世界の学びと異なる最大の特徴は、学習棄却、アンラーン(unlearning)を達成するための学びである点にあります。

それは、分離幻想を維持するための真理とは反対の虚構を信じ込ませる妄想システムを心から解体・除去する忘れるための学習です。

この削ぎ落としが究極的に目指すところは、私たちの持っている自己概念と世界認識が誤りである、つまり、私たちは自分が人間で広大な宇宙、世界の中の砂粒のような一点だと本気で信じていますが、それが大きな間違いだという気づきに到達し、さらに、世界とは何であり、本当の自分は何ものなのかを思い出すということです。

絶えず価値観が転変し続ける迷宮のような幻想の世界の中にある幻のひとつでありながらも、その迷宮からの脱出法を記した変わることのない手引き書とでもいうべき書籍であり、世界がこの本の存在を容認していること自体がまさに奇跡であり、この本自体が真理に通じる祭壇として世界にも手出しのできない偉大な存在によって著されたことを物語っています。




私たちは、自分は時間と空間のある確固とした世界に生きる人間だと信じていますが、それが嘘だということを明らかにする本だというわけです、なんという壮大な「トンデモ」本なのでしょうか!





ネオと同じように赤いピルを飲む選択をするなら、コースはモーフィアスのように私たちを導いてくれます

冒頭でマトリックスのモーフィアスの言葉を引用していますが、奇跡のコースに触れた私たちは、モーフィアスから真実を知るために赤いピルを飲むか青いピルを飲んでこれまで通りの日常に戻るかの選択を迫られる際のネオと同じくらい決定的な選択に直面しているといってよいでしょう。

ひとたび学びはじめたが最後、途中で挫折して中途半端に撤退してしまうと、場合によっては自己概念や世界認識がずたずたになって、コースに触れる前よりも不幸になってしまうリスクすらあるので、引き寄せの法則その他のスピリチュアル本感覚で軽い気持ちで手を出すのは厳に控えられたほうがよいかもしれません。


とはいえ、準備のない状態で齧って二度と読みたくないと、今生でコースとの縁をなくしてしまうには、あまりにもったいない本です。その意味で、コースに惹かれない方は、心の中にいる聖霊がその人を守るために今は読むタイミングではないと告げているのかもしれません。そのまま素直に退散したほうが身のためです。

コースは、引き寄せの法則等に期待するエゴとしての自分の栄達のためのツールとして捉えるならお門違いの本ということになりますが、純粋に真理を求める求道者にとっては変わることなく真理を示してくれる金字塔であり続けるでしょう。




原文の理解のために

さて、コースの文章は難解だと言われ、副読本なしには理解できないと思われがちですが、必ずしも、そう決めつける必要はありません。

むしろ副読本ばかり読んで本文に触れる機会が減ってしまうくらいなら、コースだけを徹底して繰り返したほうが理解が進むはずです。

とはいえ、有益な副読本はたくさんあり、まったく利用しないのも、もったいないところです。

ケネス・ワプニック先生の著書や、マリアン・ウィリアムソンさんやゲイリー・R.レナードさんらの定番といってよい副読本の翻訳書も出版されて、コースのよい補助教材が手に入るようになりましたが、コースの補助教材は未邦訳のものがたくさんあり、その中にはコースの学習に有益なものが多くあります。

また、講演や本の朗読にも役に立つものがあり、アマゾンやオーディブルで購入が可能ですので、いろいろとご紹介しています。

また、対訳形式をとることで、和訳だけを読む場合には、文意がつかみきれない場合に英文を見て理解できる効果があるとはいえ、本文の原文と和訳だけではどうしても簡潔すぎて難解で、それだけでは含意が理解しきれないことも少なくないはずです。

そこで、テキストの各節やワークブックの各レッスン等の各記事ごとに、冒頭に本文の理解の参考になる偉人の名言と、本文に関連する管理人の独断と偏見に満ちたエッセイをつけて、読者が面白みをもって本文を読んで理解することに役立つような事柄を述べ、必要がありそうな箇所では、本文を抜粋して補足説明を加えています。

また、より精緻に文意を解読したい場合に役立つよう、カメさんマークのアイコンで大畑学さんの精読サイトに飛べるようにしてあります。この精読サイトでは、コンメンタール形式(逐条解説方式)で詳細な解説がされているので、きっと本文の理解を深める役に立つと思います。


翻訳のスタンス

さて、肝心な翻訳のほうですが、形式としては、英文1文ごとに和訳の日本語文を置く「英日対訳」の形式をとっており、読者が原文にあたって文意を確認できるので、意味を通すために必要であれば、多少(かなり?)意訳している箇所も少なくありません。

原文を機械のように正確に翻訳しただけでは、原文が伝えようとする文意を正確に伝えることができない場合には、原文にはない言葉を補ったり、あえて省いたり、表現を変えたりすることが有益な場合もあるのは事実でしょう。


「4. Laws must be communicated if they are to be helpful.
 法が役に立つためには、そもそも法が周知されていなければなりません。

 In effect, they must be translated for those who speak different languages.
 法が有効であるためには、異なった言語を話す者たちにもわかるように法が翻訳される必要があります。

 Nevertheless, a good translator, although he must alter the form of what he translates, never changes the meaning.
 とはいえ、優れた翻訳者は、自分の訳そうとするものの形を変えなければなりませんが、決してその意味を変えることはありません。

 In fact, his whole purpose is to change the form so that the original meaning is retained.
 それどころか、優れた翻訳者が目的とすることは、その元来の意味を保持できるように形を変えることに尽きるといえます。」(T7-2 神の法)。


このサイトの翻訳は、完全にこの精神に則(のっと)っており、意味を伝えることを最優先にしています。

そして、現在も毎日必ず、記事の一部ずつ、訳文の修正を繰り返しているので、訳文はじわじわと姿を変えてつねに進化し続けています。




英語が母語でない私たちのメリット

原文と翻訳の関係は、知識と知覚、聖霊とエゴ、創造と誤創造の関係に似ています。

原文は増刷によってどれだけ拡張しても、意味はたったひとつで、それが変わることはありません。


それに対して、翻訳は、言語や翻訳者というフィルターを通した投影であり、言語の数だけ、さらに翻訳者の解釈の数だけ意味も表現形態も分裂し、さらに、孫訳まで生まれ、どんどん多様な形へと増殖していき、果ては本来の意味とは似ても似つかぬまったく別物になってしまうことが可能です。

その結果、各翻訳の間には、原文への意味から離れている度合いが生まれ、それによって、その翻訳を介して原文の意味(知識)の理解に至るための困難さに序列が生まれます。

奇跡には難しさの序列はないのですが、学習者がエゴ志向の学習教材(特定の翻訳)にしがみついているかぎりは難易度に序列があるような形が生じてしまうということです。

このように言うと、原文の言語に通じていない人は損しているのではないかということになりそうですが、そんなことはありません。

知覚を修正していくことと同じく、翻訳を通じても意味を読み取っていくことは可能です。

また、対訳形式の翻訳を傍らに置くなら、辞書を片手に読解力をつけていくこともさして困難なことではありませんし、つねに原文から離れずにいることができます。

むしろ、原文を母国語としている人たちが、つねに軽く読み飛ばしてしまう危険にさらされているのに対して、外国語として接する私たちのほうが、一文一文を噛みしめて消化していけるし、また、原文の意味を自分で解釈してみたり、複数の翻訳にあたって探る中で、語彙力や読解力、表現力の相違による場合もあれば、訳者個人の気質や思想の影響の場合もあるでしょうが、あるひとつの意志についての解釈が分裂していくさまを垣間見て、知覚が生まれる過程を学ぶ教材とすることもできます。

さらに、自分の解釈するところが最も原文の意味するところに近づけたと実感する際に、知覚の修正もこのようなものなのか、といったことを考えることができる点では、原文を母国語とする人たちよりも恵まれているとすらいえます。





意味こそすべて

書物や言葉は、メッセージの送り手が心に抱く想念、心象、思考を、受け取り手の心に同じ状態で伝わるようにすることを実現するための道具でしかありません。

スマホ等のデジタル端末機器でデータの共有をすれば、まったく同じ写真を見ることができるけれど、共有機能が使えなければ、ほかの媒体経由でデータ送信を行う必要が出てきます。このプロセスがたとえばFAX通信など、データの解像度の劣化や色彩の喪失等が伴う精度の低い媒体経由で繰り返されると、元の写真とは似ても似つかぬ画像となって伝わることもありえます。

FAXのように画像として伝達できる手段すらなければ、文字や言葉で表現して解説することで、受け取り手に理解してもらう必要が出てきます。

言葉で伝える際には、同じ言葉でも発信側、受信側が内心で別のイメージを想起することが当然に起こるので、そもそも誤解は不可避です。

この点で、発信者の用いた言葉を変えずに正確に用いることは、中間に入って伝達するメッセンジャーの理解度の相違による歪曲を防ぐためには必要なことではありますが、それはあくまでも誤解を最小限にとどめるためでしかありません。

それなのに、発信者の言葉を奉って墨守することを第一義にすると、時代の進展や地域の相違によって言葉に込められた意味が異なることに対応できず、元のメッセージの意味が失われる事態を招くことになります。




そして何より、コースを通してイエスが学ばせようとしているのは、彼の知識と意識状態を私たちに習得させて転移させて同じ境地に到達させようというのではなく、私たちが心に溜め込んでいるガラクタを除去して本来の状態に戻れば彼と同じ境地に至るという忘れるための学び、アンラーン(学習棄却)です。


3.「There is nothing about me that you cannot attain.
 私の持ち合わせるもので、あなたたちが手に入れられないものは何ひとつありません。

 I have nothing that does not come from God.
 私の持つもので神に由来しないものは何ひとつありません。

 The difference between us now is that I have nothing else.
 今のところ、あなたたちと私との違いは、私が神から授かったもの以外には何も持っていないということです。

 This leaves me in a state which is only potential in you.
 このことが、あなたたちにとってはまだ可能性にとどまっている境地に私を置いているのです。」(T1-2 啓示と奇跡はどう違うの?時間とはどんな関係にある?

なので、コースのメッセージの位置づけは、外から取り込んで自分の中に取り込むべき情報・知識ではなく、本当の自分を幽閉している大理石を彫る鑿(ノミ)のように、自分の中にこびりついて障害になっている虚構を除去するための道具ということになります。

そして、光である真理を覆い隠す虚構は闇であり、意味そのものである真理を不明瞭にする障りを解き、闇を晴らして、光を明らかにするには、言葉ではなく、言葉という道具が運ぶ真理のメッセージの意味が鑿の刃先となって虚構の岩の塊を彫り崩すことになります。


この意味で、コースを学ぶに際しては、言葉はとても大切ではありますが、言葉はメッセージを運ぶ道具でしかなく、意味がすべてなのだという意識を失わずにいることが大切です。通常の学習、探究のように、外の世界のどこかに隠されている神秘を見出して、棄損せずに取り込まねばならないという仕組みであったならそうはいきませんが、何しろ、コースの学びは世界から教え込まれた常識を忘れるアンラーンの学びなのであり、障害を除去できれば内なる真理が自ずと姿を現すというのですから。


ただ、翻訳は、あくまでも道具にすぎないということを忘れず、(たとえ公認版であっても)翻訳と心中してしまわないように気をつけさえすれば大丈夫だと思います。

ある翻訳では胸にストンと落ちることのなかった文意が、辞書と首っ引きで自分なりに解釈して、納得できる解釈ができたとき、心の中で聖霊が喜んでいるのがわかるはずです。その意味で、権威のある誰かのお墨付があるから安心だという発想はどちらかといえば、エゴ本位といえます。

この姿勢では、ありがたい御教えを自分で解釈するなどおこがましい、とにかく何度も暗記するくらいに読み込みさえすれば、今はわからなくてもいつか悟りが得られるはずだと苦行に勤しむ行者のようになってしまい、聖霊の声がどんどん聞き取れなくなってしまいます。

自らの中にいる聖霊を権威として、その声に耳を澄ますならば、自由自在に教材となるものは何でも活かせるはずですし、何よりも、学ぶことが楽しくなるはずです。

翻訳は、時間や身体と同じように知識を得るための道具であり、原文を理解できるようになった暁には役割を終え、必要ではなくなります。

この翻訳も、原文に直接当たれるようになるまでの過渡的な教材として活用していただければと思います。

 







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