M23 イエス・キリストの名前
Jesus saith unto him, I am the way, the truth, and the life: no man cometh unto the Father, but by me.
イエスは彼に告げられた。私こそが、道であり、真理であり、そして生命である。私によらずしていかなる者も父の御許に至ることはない。

Jesus Christ, John 14:6
イエス・キリスト(ヨハネによる福音書第14章6節)
私のところにたくさんの人がやってきますが、私にとってはそのつど、目の前にいるその人がイエス・キリストであり、私のすべてなのです。

マザー・テレサ

今回は、マニュアル第23節をご紹介します。
イエスは癒しにおいて特別な役割を持っているか
イェシュア、「イエス・キリスト」は癒しにおいて特別な役割を持っているのかというテーマです。
その答えは、当然のことながら、「イエス」です。
「2. We have repeatedly said that one who has perfectly accepted the Atonement for himself can heal the world.
私たちは、自分のために贖罪を完全に受け入れたひとりの者は世界を癒すことができると繰り返し述べてきました。
Indeed, he has already done so.
まさに、イエスはすでにそれを成し遂げています。
Temptation may recur to others, but never to this One.
ほかの教師たちは再び誘惑に惑わされるかもしれません。しかし、このイエスだけは決して誘惑に屈服することはありません。
He has become the risen Son of God.
イエスはすでに神の子として復活しているからです。」
直接このテーマについて述べているM14 世界の終わりを参考にしてみてください。
自分のために贖罪を受け入れるというのは利己的に感じる?
さて、コースでは、"Atonement for himself"という表現は頻繁に出てきます。

「5. The sole responsibility of the miracle worker is to accept the Atonement for himself.
奇跡を起こす者の唯一の責任は、自分のために贖罪を受け入れることだけです。
This means you recognize that mind is the only creative level, and that its errors are healed by the Atonement.
これは、あなたが、ただ心だけが唯一の創造のレベルであって、心の誤りは贖罪によって癒されると認めることを意味します。
Once you accept this, your mind can only heal.
いったんあなたが、このことを受け入れてしまえば、あなたの心はただ癒すことしかできなくなります。
By denying your mind any destructive potential and reinstating its purely constructive powers, you place yourself in a position to undo the level confusion of others.
あなたの心の破壊的な潜在能力を一切否定し、あなたの心が宿している純粋に建設的な力をあなたの心に回復させることによって、あなたは自分自身をほかの人たちのレベルの混同を取り消すことができる立場に置くことになるからです。」(T2-5 ミラクル・ワーカー)
「6. Atonement remedies the strange idea that it is possible to doubt yourself, and be unsure of what you really are.
贖罪は、自分自身を疑い、自分が本当は何者なのか確信できなくなることが可能だというこの奇妙な考えを矯正します。
This is the depth of madness.
自分は誰かと問うことが可能だと考えることは深刻な狂気です。
Yet it is the universal question of the world.
それでも、これは、この世界での普遍的な問いです。
What does this mean except the world is mad?
このことは、世界が狂っていること以外の何を意味するでしょうか。
Why share its madness in the sad belief that what is universal here is true?
どうして、この世界で普遍的なことであれば、それは真実のはずだという始末に負えない信念を抱いて、世界の狂気を共有してしまうのでしょうか。」(レッスン139「私は、自分自身のために贖罪を受け入れることにする」)

"for oneself"には、自分のために、自分で、独力で、という意味があります。
贖罪には罪を償うという一般的な意味がありますが、コースでの罪の償いとは、分離幻想による個別の意識=エゴという原罪を赦しによって取り消すこと、つまり、自分ではないものが自分だと誤信することで本当の自分が何者かわからなくなる狂気から脱することを意味します。
この狂気は、罪が実在するという誤解を真実と信じこむ妄想であり、必要なのは、実際に犯してしまった罪を相応な犠牲を差し出して埋め合わせて贖うことではなく、誤解を解くこと、気づきだけです。
真理を贖う(買う)ために支払う対価、差し出す必要のある「犠牲」は、罪の幻想、世界や個別の人の子が実在するという勘違い、錯覚、無であり、それはつまり、何も対価として犠牲にする必要はないということです。
この気づきには、他者に投影した罪を赦す必要があります(救いの公式)が、気づきの主体はあくまでも、当の本人です。
「It is concerned only with Atonement, or the correction of perception.
このコースは、ただ贖罪、つまり、知覚を修正することにのみ関心を向けているからです。
The means of the Atonement is forgiveness.
贖罪の手段は赦しです。
The structure of "individual consciousness" is essentially irrelevant because it is a concept representing the "original error" or the "original sin."
『個別化した意識』の構造は、本質的にはどうでもよいことで明らかにする意義はありません。なぜなら、個別の意識は、『原初の誤り』つまり『原罪』を表す概念だからです。
To study the error itself does not lead to correction, if you are indeed to succeed in overlooking the error.
もしあなたが本当に誤りを無視できるようになりたいなら、誤りそのものを研究しても修正にはつながらないでしょう。
And it is just this process of overlooking at which the course aims.
そして、このコースが狙いを定めているのは、まさに、このように誤りを無視するプロセスなのです。」(C intro 用語解説 用語の意味の明確化 序文)
兄弟との関係の中で赦しをなすことによって(救いの公式)、エゴ・身体というアバターが自分だと知覚することが錯覚であると気づいて本当の自分が神の子であると自覚する、個別化した意識から全体としての意識へと戻ることが贖罪です。
贖罪の仕組み上、個々のアバターは自分自身のために贖罪を受け入れるしかない
このような贖罪の仕組みから、贖罪は真の自己のためになすものであるし、個としてのアバターが主体として自ら独力でなすものであり、自分自身以外のための贖罪というものはありえないということになります。
したがって、自分のために贖罪を受け入れる、ということは贖罪の仕組みを正確に説明している表現ということです。
あるアバターが自分はこの人間だと思っている状態から脱するために、他のアバターが彼のために彼に代わって贖罪を受け入れることは原理上できません。
全身が麻痺状態に陥ったり、不随意運動を起こす状態にある場合に、右手は左手の代わりに麻痺から脱することはできません。
右手にできるのは、自ら麻痺から脱して、身体の所有者である魂の意のままに動けるようになって、左手に模範を示し、左手のリハビリの手助けをすることだけです。
個々のアバターにできるのは自分で自分のための贖罪を受け入れることだけということです。
自らの贖罪を完全に受け入れたアバターは、神の白光をエゴのスライドを介さずに発することになるので、その純粋で強力な光は、彼に接するアバターのエゴの穢れ、煤を払い純化する作用を及ぼすようになるので、神社仏閣その他のパワー・スポットと同じような存在となります。


Section 23
第23節
Does Jesus Have a Special Role in Healing?
イエスには、癒しにおいて特別な役割があるのだろうか。
1. God's gifts can rarely be received directly.
神の贈り物が直接に受け取られることはめったにありません。
Even the most advanced of God's teachers will give way to temptation in this world.
神の教師の中でも最も進んだ者でさえ、この世界では誘惑に負けてしまいます。
Would it be fair if their pupils were denied healing because of this?
教師が誘惑に屈してしまったせいで彼の生徒たちに癒しが与えられなくなるとしたら、不公平ではないでしょうか。
The Bible says, "Ask in the name of Jesus Christ. "
聖書は、「イエス・キリストの名において求めよ」と言っています。
Is this merely an appeal to magic?
これは単に魔術に訴えかけているだけなのでしょうか。
A name does not heal, nor does an invocation call forth any special power.
名前が癒すわけではないし、祈願が何か特別な力を呼び起こすわけでもありません。
What does it mean to call on Jesus Christ?
それでは、イエス・キリストに頼む意味はどこにあるのでしょうか。
What does calling on his name confer?
イエス・キリストの名に頼むことで何が与えられるのでしょうか。
Why is the appeal to him part of healing?
なぜイエス・キリストに訴えかけることが癒しの一部になるのでしょうか。
2. We have repeatedly said that one who has perfectly accepted the Atonement for himself can heal the world.
私たちは、自分のために贖罪を完全に受け入れたひとりの者は世界を癒すことができると繰り返し述べてきました。
Indeed, he has already done so.
まさに、イエスはすでにそれを成し遂げています。
Temptation may recur to others, but never to this One.
ほかの教師たちは再び誘惑に惑わされるかもしれません。しかし、このイエスだけは決して誘惑に屈服することはありません。
He has become the risen Son of God.
イエスはすでに神の子として復活しているからです。
He has overcome death because he has accepted life.
イエスは、生命を受け入れることによって死に打ち勝ったのです。
He has recognized himself as God created him, and in so doing he has recognized all living things as part of him.
イエスは神に創造された通りの自分に気づき、自分が神の子であることを受け入れることによって、生きとし生けるものが自分の一部であると認めたのです。
There is now no limit on his power, because it is the power of God.
いまや、イエスの力には何の限界もありません。なぜなら、彼の力は神の力そのものだからです。
So has his name become the Name of God, for he no longer sees himself as separate from Him.
だから、イエスの名は神の名となったのです。というのも、彼はもはや自分を神から分離した存在とみなすことがないからです。
3. What does this mean for you?
このことは、あなたにとって何を意味するでしょうか。
It means that in remembering Jesus you are remembering God.
それが意味するのは、イエスを思い出すことによって、あなたは神を思い出せるということです。
The whole relationship of the Son to the Father lies in him.
イエスの中に、子と父の完全な関係を見出すことができます。
His part in the Sonship is also yours, and his completed learning guarantees your own success.
神の子全体の中でのイエスの役割は、あなたの役割でもあります。そして、イエスが学びを完了したことが、あなた自身の学びの成功を保証しています。
Is he still available for help?
今でもなおイエスは助けてくれるでしょうか。
What did he say about this?
このことについて、イエスは何と言っていたでしょうか。
Remember his promises, and ask yourself honestly whether it is likely that he will fail to keep them.
彼の約束を思い出してください。そして、彼が約束を守り損ねることなどありうるだろうかと正直に自問してみるがよいでしょう。
Can God fail His Son?
神にわが子を見捨てることなどできるでしょうか。
And can one who is one with God be unlike Him?
そして、神と一体である者が、神と違うことをなしうるでしょうか。
Who transcends the body has transcended limitation.
身体を超越した者は、限界というものを超越しているのです。
Would the greatest teacher be unavailable to those who follow him?
最も偉大な教師が、自らに従う者たちを助けられないはずがありません。

4. The name of Jesus Christ as such is but a symbol.
イエス・キリストの名前それ自体は、象徴にすぎません。
But it stands for love that is not of this world.
しかし、その名前は、この世界のものではない愛を表しています。
It is a symbol that is safely used as a replacement for the many names of all the gods to which you pray.
イエスの名は、あなたが祈りを捧げるすべての神々の無数の名前の代わりに安全に用いることのできる象徴です。
It becomes the shining symbol for the Word of God, so close to what it stands for that the little space between the two is lost, the moment that the name is called to mind.
イエスの名は、神の大いなる言葉を表す輝ける象徴となり、それが表すものにあまりに近いために、心にイエスの名を呼び起こした瞬間に、両者の間のわずかな隙間が消え去ってしまうほどのものです。
Remembering the name of Jesus Christ is to give thanks for all the gifts that God has given you.
イエス・キリストの名前を思い出すことは、神があなたに授けてくれているすべての贈り物に対して感謝を捧げることです。
And gratitude to God becomes the way in which He is remembered, for love cannot be far behind a grateful heart and thankful mind.
そして、神への感謝は、神を思い出す道となります。というのも、愛は、ありがたいという気持ちや感謝に満ち溢れた思考から遠く離れていることなどできないからです。
God enters easily, for these are the true conditions for your homecoming.
神への感謝こそ、あなたの帰郷のための真の条件なので、神はやすやすと入ってきてくれます。
5. Jesus has led the way.
イエスは、その道を導いてくれています。
Why would you not be grateful to him?
そのイエスに対して、どうしてあなたがありがたく思わないことがあるでしょうか。
He has asked for love, but only that he might give it to you.
イエスはあなたに愛を求めてきましたが、それはひとえにイエスがあなたに愛を与えられるようにするためなのです。
You do not love yourself.
あなたは自分自身を愛していません。
But in his eyes your loveliness is so complete and flawless that he sees in it an image of his Father.
しかし、イエスの目には、あなたの愛に満ちた姿が本当に完全で申し分なく見えているので、イエスには、あなたの愛に満ちた姿の中に自らの父の姿が見えています。
You become the symbol of his Father here on earth.
あなたはこの地上において、イエスの父を象徴する者となるのです。
To you he looks for hope, because in you he sees no limit and no stain to mar your beautiful perfection.
イエスはあなたに希望を見出しています。なぜなら、イエスはあなたの中に何の限界も見てはいないし、あなたの美しい完璧さを損なう穢れを一切見てはいないからです。
In his eyes Christ's vision shines in perfect constancy.
イエスの目には、完全に変わることのないキリストのヴィジョンが輝いています。
He has remained with you.
イエスは、ずっとあなたの許に留まってくれていたのです。
Would you not learn the lesson of salvation through his learning?
あなたは、イエスの学んだことを通して救いのレッスンを学びたいとは思わないでしょうか。
Why would you choose to start again, when he has made the journey for you?
イエスがあなたの代わりに旅路を終えてくれているというのに、なぜあなたはわざわざ好きこのんで改めて最初から旅立とうとするのでしょうか。
6. No one on earth can grasp what Heaven is, or what its one Creator really means.
地上では、天国がどんなものなのか、その唯一の創造主とは実際に何を意味するのか、誰にも理解できません。
Yet we have witnesses.
しかし、私たちには証人たちがいます。
It is to them that wisdom should appeal.
賢明さがあるなら、その証人たちにこそ助けを求めるべきです。
There have been those whose learning far exceeds what we can learn.
これまで、私たちに学ぶことができる範囲をはるかに超える学びを成し遂げた者たちが存在します。
Nor would we teach the limitations we have laid on us.
そしてまた、私たちは、自分たちが自らに課している制限を教えるつもりはありません。
No one who has become a true and dedicated teacher of God forgets his brothers.
真に献身的な神の教師となった者は誰も、自分の兄弟たちのことを忘れたりしないからです。
Yet what he can offer them is limited by what he learns himself.
しかし、その教師が兄弟たちに差し延べることのできるものは、その教師が自分で学んだことによって制限されます。
Then turn to one who laid all limits by, and went beyond the farthest reach of learning.
そうであれば、あらゆる限界を捨て去り、学びによって到達できる限界をはるかに超越したその人に頼るべきです。
He will take you with him, for he did not go alone.
そのイエスが、自分と一緒にあなたを連れて行ってくれるでしょう。というのも、彼はひとりきりで去りはしなかったからです。
And you were with him then, as you are now.
あなたが今イエスと一緒にいるように、あのときも、あなたはイエスと一緒にいたのです。
7. This course has come from him because his words have reached you in a language you can love and understand.
このコースはイエスから届いたものです。というのも、彼の言葉はあなたが愛し理解することのできる言語であなたの許に届いたからです。
Are other teachers possible, to lead the way to those who speak in different tongues and appeal to different symbols?
違った言葉で話したり、違った象徴に助けを求める者たちに道を示して導くことのできる教師は、ほかにもいるのでしょうか。
Certainly there are.
もちろん存在します。
Would God leave anyone without a very present help in time of trouble; a savior who can symbolize Himself?
誰かが苦難に陥っている際に、まさにその時点で必要な助けや神自身を象徴できる救い主もないままに神が放っておくはずがないからです。
Yet do we need a many-faceted curriculum, not because of content differences, but because symbols must shift and change to suit the need.
他方で、私たちが多面的なカリキュラムを必要としているのも事実です。それは、学びの内容が異なるからではなく、象徴はその必要に応じて変幻自在であるべきだからです。
Jesus has come to answer yours.
イエスは、あなたの必要に答えるためにやってきたのです。
In him you find God's Answer.
イエスの中に、あなたは神の答えを見出すことになります。
Do you, then, teach with him, for he is with you; he is always here.
そうであるなら、あなたもイエスと一緒に教えてはどうでしょうか。なぜなら、彼はあなたとともにいるし、いつでもここにいてくれるからです。
