M-Intro 教師のためのマニュアル 序文

マニュアル 0

No one learns as much about a subject as one who is forced to teach it.
ある課題を人に教えなければならなくなった人ほどよりよく、その課題を学ぶ生徒はいない。


Peter Ferdinand Drucker
ピーター・ドラッカー


今回は、教師のためのマニュアルの序文をご紹介します。



この世界の常識では、教育とは、教師が一方的に生徒に教えを授けるものであって、教師のほうが優れていて、劣っている生徒を引き上げてやる関係性として考えられています。

これに対して、マニュアルは、このような世界の常識は、本当の役割とは逆になっているといいます。

この点は、すでに「神の教師とは誰のことなのか」「生徒とは誰か」において、教えることで学ぶ教師の生徒との関係について説明されているところです。

この一節では、教えることの根本的な目的は自己不信を減殺することである、つまり、自分自身を知ることが目的だといいます。

「汝自身を知れ」以来、何度も触れていますが、小さな自己としての分限を弁え、真の自己認識として、神の子としての大いなる自己を知ることが目的ということです。

とはいえ、奇跡の難易度の序列のなさに劣らず、このことを観念的に理解すること自体困難なものですし、実際に会得するのは容易でありません。

この自他一体の境地を会得しようと私たちは望み、瞑想をしたり、本を読んだり、日常生活で実践したりと、いろんな努力を尽くすわけですが、容易ではありません。

そして、究極的な皮肉は、これが体得されるためには、その人がいなくならなければならないということです。

はてしない物語幼ごころの君がどういう存在か、アトレーユとフッフールが語り合う場面を引用します。

〜〜〜〜

幼ごころの君って、いったいどういう方なんだろう?」
「どういう意味ですかな?」
「アウリンは、光の子も闇の子も区別なく、ファンタージエンの生きものすべてに力がある。おまえにもわたしにもだ。それでいて、幼ごころの君ご自身はけっして権力をふるわれない。まるで存在しておられないようだ。それなのに、すべてのものの内におられる。幼ごころの君はわれわれと同じなのだろうか?」
「そうじゃない。」フッフールがいった。
幼ごころの君はわれわれとはちがう方ですよ。ファンタージエンの生きものではない。われわれはみんな、幼ごころの君がおいでになるから生きているんですがね。だが、幼ごころの君ご自身は別なんです。」
「それじゃ」アトレーユはちょっとためらってから、たずねた。
「それじゃあ、人間と同じような方なんだろうか?」
「いや、そうじゃない。」フッフールはいった。
「人間のような存在ではないですよ。」
「それならつまり、」アトレーユはくりかえしたずねた。
「つまり、どういう方なのだ?」
長い沈黙ののち、ようやくフッフールは答えた。「それを知っているものは、ファンタージエンには一人もいない。知ることはできんのですな。それはわれわれの世界の最も深い神秘ですよ。一度、ある賢者がいうのを聞いたことがあるんですが、こういっていましたな。『その神秘がすっかりわかるものがいるとすれば、そのものは、わかったことで己が存在を消し去るわけだ』とね。どういう意味か、わたしにはわからんです。それ以上は説明できませんな。」

ミヒャエル・エンデ,上田 真而子,佐藤 真理子 訳 はてしない物語 岩波書店

〜〜〜〜

ラメッシ先生は、その肉体精神機構に目覚めが起こるかどうかは、源泉が決めることだから、そんなことを気にするのは意味がないから放棄してしまえと言います。

源泉が決めることだ、聖霊に任せればいい、すべては書かれている、等といった観点は、エゴの悪あがきを鎮めて、自己を手放す方向につなげるために有益、というより、むしろ、必要なことなのでしょう。

次の文章が指摘するように、荒行や瞑想による修行によって時間をかけて究極的な解放に到達する際に、解放は「私は何もしなくていいのだ」という気づきとともに訪れるということです。

「When peace comes at last to those who wrestle with temptation and fight against the giving in to sin; when the light comes at last into the mind given to contemplation; or when the goal is finally achieved by anyone, it always comes with just one happy realization; "I need do nothing."
 誘惑に負けないようにあがき、罪に屈しないように戦う者の許にようやく平安が訪れるとき、瞑想に耽る心についに光が射し込むとき、誰かが目標をついに達成するとき、それはつねに、ただ次のただひとつの喜ばしい気づきとともにやってきます。それは『私は何もしなくていいのだ』という気づきです。



6. Here is the ultimate release which everyone will one day find in his own way, at his own time.
 ここにこそ、誰もがいつの日にかその人なりの方法で、その人なりに時間をかけて見出すことになる究極的な解放があります。

 You do not need this time.
 とはいえ、あなたは、こうした時間をかける必要はありません。

 Time has been saved for you because you and your brother are together.
 あなたと兄弟が一緒になったので、時間はすでに、あなたたちのために短縮されたからです。

 This is the special means this course is using to save you time.
 あなたと兄弟が一緒になることこそ、このコースが、あなたたちの時間を節約するために用いる特別な手段です。

 You are not making use of the course if you insist on using means which have served others well, neglecting what was made for you.
 もしあなたが、自分のために用意されたものを放り出して、ほかの人たちの役に立った手段のほうを使うことに固執するなら、あなたはこのコースを活用できていないことになります。」(T18-7 何もしなくていい

コースが教えるのは、ひとりでの修業ではなく他者との関係を通じて赦しを実践するこ(救いの公式)です。


そして、この学びは、世界の学びのように、外から情報を取り込んでインストールする形の学びではなく、外から取り込んでしまったガラクタを消去しアンインストールする学習棄却(unlearning)です。

学習棄却によって、個別の自己があるという錯覚、教師と生徒が別々に分離しているというのが錯覚で、本当の自分たちはひとつの大いなる自己だと学ぶわけです。

教師の役目は、外から取り込むべき知識として、私たちが別々に存在しているというのは幻想で実は神の子らしいよという情報を生徒に刷り込むことではありません。

教師の役目は、教師と生徒の関係を通じて自分ひとりではなしえない赦しをなすことで神聖な瞬間に達することです。

教師のためのマニュアルを読むに際して、神の教師と生徒という表現から、教師も生徒も奇跡のコースの学習者を指すものだという捉え方になりがちかもしれません。

しかし、個人同士の関係性を通して聖霊の教えを学ぶかぎり、必ずしも、教師も生徒もコースを学ぶ者である必要はありません。

夫婦関係や親子関係、友人関係、敵対関係といういかなる関係性であれ、その関係を通じて愛を学び自他分離の錯覚に気づく機会として活用するなら、その人たちは神の教師であり生徒です。

M1 神の教師とは誰のことなのか?M2 生徒とは誰かで述べられるような他者と自分の利害を同じものとみなすことを教えることが神の教師の要件であり、コースを学び終えたことや学んでいることが要件なわけではありません。

コースが何よりも重視するのが実用性であることを忘れないようにしましょう。

コース学習者同士の関係性がおそらく最も赦しを実践する場としてはふさわしくないだろうということは、考えてみればよく分かることだと思います。

コースを学んでいる人たち同士は、おそらく知的で穏やかで、向上心が強く、ものわかりのよく慈悲深い愛に満ちた人たちが多いはずです。

そんなものわかりのよい人たち同士の平穏な関係性では、頭でっかちな理解だけで、相手の顔にキリストを見た気になるのは簡単です。

けれど、コースが学ばせようとしているのは、自分を非難し糾弾する敵の攻撃が実は愛を求める哀訴であり、自分を怒らせる他者は自分の振りかざした剣を振り下ろして自分と相手を幽閉するか剣を背けて一緒に解放するか選ぶチャンスを与えてくれている救い主であり、自分を攻撃する他者には自分が傷ついたことを示して罪悪感を抱かせるのではなく、傷ついておらず相手に自分は潔白だと気づかせるべきだという教えです。

エゴむき出しの修羅場を体験できるような関係性、コースの言う特別な関係こそ、コースの学びに不可欠な教室だといえるでしょう。

ですから、仲間と学んだり学習の進んだ先人の力を借りるのは、赦しを行うためのツールとしてのコースを理解するためには有益かもしれませんが、そこでの学びがコースの学びの中核である赦しの実践とは無関係だと自覚しておく必要はあると思います。

この観点で見ると、世界は、(反面教師も含めて)私たちの教師たちで溢れていることに気がつきます。

わざわざ尊い賢者を見つけ出して師事しなくとも、私たちのオープンマインド次第で、身近な人たちから限りない学びを得られるわけです。

「There is no one from whom a teacher of God cannot learn, so there is no one whom he cannot teach.
 その人から神の教師が学ぶことのできないような人などひとりもいません。だから、神の教師に教えることができないような人はひとりもいません。」(M3 教えることの段階とは?














Manual for Teachers
教師のためのマニュアル



Introduction
序文



1. The role of teaching and learning is actually reversed in the thinking of the world.
 この世界の常識では、教えることと学ぶことの役割が本当に逆さまになっています。

 The reversal is characteristic.
 この教師と生徒の役割の逆転は特徴的なものです。

 It seems as if the teacher and the learner are separated, the teacher giving something to the learner rather than to himself.
 この世界の常識では、まるで教師と生徒は分離していて、教師は教師自身に対してではなく生徒に対して何かを与える存在のように思われています。

 Further, the act of teaching is regarded as a special activity, in which one engages only a relatively small proportion of one's time.
 さらに、教えるという活動は、ある人が自分の人生の時間のうちの比較的わずかな割合だけ従事する特殊な活動とみなされています。

 The course, on the other hand, emphasizes that to teach < is > to learn, so that teacher and learner are the same.
 これに対して、このコースは教えることは学ぶことと「同義」であり、それゆえ、教師と生徒は同じであると力説します。

 It also emphasizes that teaching is a constant process; it goes on every moment of the day, and continues into sleeping thoughts as well.
 コースはまた、教えることは絶え間ないプロセスであり、一日のうちのすべての瞬間に続くものであって、眠っているときの思考の中においても同じように続くものだと強調します。



2. To teach is to demonstrate.
 教えることは、手本となって実証することです。

 There are only two thought systems, and you demonstrate that you believe one or the other is true all the time.
 思考システムはふたつしか存在しないので、あなたはつねに自分はそのどちらか一方の思考システムが真実だと信じていることを実証しているのです。

 From your demonstration others learn, and so do you.
 あなたが示す手本によって、ほかの人たちは学び、あなたも学びます。

 The question is not whether you will teach, for in that there is no choice.
 問題は、あなたが教えるかどうかではありません。なぜなら、あなたには教えないという選択肢がないからです。

 The purpose of the course might be said to provide you with a means of choosing what you want to teach on the basis of what you want to learn.
 このコースの目的は、自分が学びたいことを基準に自分の教えたいものを選べるようになる手段をあなたに提供することにあると言ってよいでしょう。

 You cannot give to someone else, but only to yourself, and this you learn through teaching.
 あなたは、誰かほかの人に与えることはできず、ただ自分自身にしか与えられません。そして、あなたは教えることを通して、このことを学ぶのです。

 Teaching is but a call to witnesses to attest to what you believe.
 教えることは、あなたが何を信じているのか証言してもらうために証人たちに呼びかけることにほかなりません。

 It is a method of conversion.
 教えることは、心を変化させる方法です。

 This is not done by words alone.
 これは、言葉だけでなされるものではありません。

 Any situation must be to you a chance to teach others what you are, and what they are to you.
 どんな状況もあなたにとって、ほかの人たちにあなたが何者であるのか、そして、彼らがあなたにとって何者であるのかを教えるための機会となるはずです。

 No more than that, but also never less.
 それ以上でもそれ以下でもありません。



3. The curriculum you set up is therefore determined exclusively by what you think you are, and what you believe the relationship of others is to you.
 したがって、あなたの組むカリキュラムは、もっぱら、あなたが自分のことを何者だと思っているのか、そして、あなたが他者との関係が自分にとってどのようなものだと信じているのかによって決まります。

 In the formal teaching situation, these questions may be totally unrelated to what you think you are teaching.
 表向きに教える状況にあるときには、これらの質問は、自分が教えているとあなたが思っていることとはまったく関連しないかもしれません。

 Yet it is impossible not to use the content of any situation on behalf of what you really teach, and therefore really learn.
 しかし、あなたが真に教えるため、つまり、真に学ぶためには、どんな状況であれ、その状況の内容を用いずにいるわけにはいきません。

 To this the verbal content of your teaching is quite irrelevant.
 このことに関して、あなたが言葉でどんな内容を教えるかは、まったく関係しません。

 It may coincide with it, or it may not.
 言葉と教えは一致するかもしれないし、しないかもしれません。

 It is the teaching underlying what you say that teaches you.
 あなたは自分が述べる言葉の裏に潜んでいる教えを教わるわけだからです。

 Teaching but reinforces what you believe about yourself.
 教えることは、あなたが自分自身を何者だと信じているかという信念を補強するだけです。

 Its fundamental purpose is to diminish self-doubt.
 教えることの根本的な目的は、自己不信を減殺することです。

 This does not mean that the self you are trying to protect is real.
 このことは、あなたの守ろうとしている自己が本物であることを意味するわけではありません。

 But it does mean that the self you think is real is what you teach.
 しかし、このことが、自分が本物だと思う自己を、あなたが教えることを意味するのは確かです。



4. This is inevitable.
 自分が本物だと思う自己を教えるのは当然のことです。
 
 There is no escape from it.
 そのことから逃れる術はありません。

 How could it be otherwise?
 それ以外にはどうしようもないのです。

 Everyone who follows the world's curriculum, and everyone here does follow it until he changes his mind, teaches solely to convince himself that he is what he is not.
 自分の心を変えないかぎりは、この世界にいる誰もがこの世界のカリキュラムに従うのは確かなことですが、この世界のカリキュラムに従う者は誰でも、本当の自分ではないものが自分なのだと自分自身に確信させるためだけに教えているのです。

 Herein is the purpose of the world.
 ここにこそ、この世界の目的があります。

 What else, then, would its curriculum be?
 そうだとすれば、世界のカリキュラムは、自分が本当の自分ではないと教え込むものに違いありません。

 Into this hopeless and closed learning situation, which teaches nothing but despair and death, God sends His teachers.
 失望と死以外には何も教えてくれないような、この絶望的で閉鎖的な学習環境の中に、神は神の教師たちを遣わします。

 And as they teach His lessons of joy and hope, their learning finally becomes complete.
 そして、神の教師たちが喜びと希望という神のレッスンを教えることで、その教師たちの学びはついに完了します。



5. Except for God's teachers there would be little hope of salvation, for the world of sin would seem forever real.
 神の教師たちを抜きにしては、救済の望みはほとんどなかったでしょう。というのも、彼らがいなければ、有罪の世界は永遠に本物であるように思えていたはずだからです。

 The self-deceiving must deceive, for they must teach deception.
 自己欺瞞に陥っている者は、必ず他者を欺くことになります。というのも、彼らには偽りを教えることしかできないからです。

 And what else is hell?
 そして、これを地獄と言わずして何と呼ぶべきしょうか。

 This is a manual for the teachers of God.
 これは、神の教師たちのためのマニュアルです。

 They are not perfect, or they would not be here.
 神の教師たちは完全な存在なわけではありません。完全であったなら、彼らはこの世界にはいなかったはずだからです。

 Yet it is their mission to become perfect here, and so they teach perfection over and over, in many, many ways, until they have learned it.
 それでも、神の教師たちの使命は、この世界において完全になることです。だから、神の教師たちは、自分たちが完全さを学び終えるまで、完全さを何度も何度もいろんな方法で教えるのです。

 And then they are seen no more, although their thoughts remain a source of strength and truth forever.
 完全さを習得し終えたとき、神の教師たちの姿はもう見えなくなります。けれども、彼らの思いは、永遠に力と真理の源であり続けます。

 Who are they?
 神の教師たちとはいったい誰のことでしょうか。

 How are they chosen?
 彼らはどのようにして選ばれるのでしょうか。

 What do they do?
 彼らは何をするのでしょうか。

 How can they work out their own salvation and the salvation of the world?
 彼らは、どのようにして自らの救済とこの世界の救済を成し遂げることができるのでしょうか。

 This manual attempts to answer these questions.
 このマニュアルで、これらの質問に答えてみるつもりです。


次

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 松山 健 Matsuyama Ken
この記事を書いた人:  松山 健 Matsuyama Ken

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