T18-6 身体という牢獄
だれ
いま私の目で見ているのはだれ?
いま私の口で話しているのはだれ?
魂っていったい何?
どうしても問うことをやめられない
その答えを一口でも味わえたら
酔っぱらいの監獄からすぐに出所できるのに
私がここまで来たのは自分の力ではありません
自分の力では、私はここから離れることさえできません
ここまで連れてきてくれた誰かが家に連れて帰るしかありません

ルーミー

今回は、テキスト 第十八章 六 「身体を越えて」という一節をご紹介します。
身体という牢獄
この一節では、身体は牢獄にたとえられます。

たしかに、エゴの見る世界では、他人は自分とは隔絶した身体であって、自分は身体という可動式の独房の中に閉じこめられていて、五感という小さな窓を介してしか外を見ることができない寂しい囚人であるということになります。
独房に収容されていることに気づくようになる前の記憶は消去され、ここに来る前の自分は何者だったのか、何の咎めを受けて、ここにいるのかすら見当もつきません。
ムショ暮らしの実情
囚人たちは、入所した当初は世界という刑務所内での振る舞い方について教育されますが、身体という可動式の独房を使って世界の中を体験する新鮮味に心奪われるとともに、世界に順応していくので手いっぱいな状態です。
そもそも囚人が身体という独房に幽閉されていて、独房から出ること自体ができない仕組みになっているせいか、囚人たちを見張る看守は、独房の窓からその存在を知ることはできません。
囚人の中には、神と呼ばれる刑務所の所長が、天使と呼ばれる看守によって囚人たちを見張っていると言う者もいます。
囚人たちは、世界のルールに従うかぎりは、身体を使ってささやかな娯楽を窓から取り入れることが許されているので、入所した初めのころは、身体を使って快楽を享受することに没頭します。
また、お金というポイントによって、身体を維持するための物やサービスを手に入れることができるし、このポイントをたくさん集めた囚人は模範囚として、いろいろな便宜を受けることができるので、ポイントを稼ぐために、囚人たちはグループを作ってさまざまな活動をします。
囚人の中には、所内の他の独房をたくさん従えることによって、刑務所内での待遇を良くすることに血道を上げる者もいます。
身体と呼ばれる牢獄は、時間が経つとともに朽ちてゆき、徐々に、開いていた窓が閉じて、しまいには、完全に外界と遮断された状態へと近づいてゆきます。
窓を通じて囚人たちが交換する情報では、この刑務所には死刑囚しか収容されておらず、死刑が執行されるまでの服役期間は、あらかじめ独房である身体の存続期間としてセットされており、身体が徐々に老朽化したり、破壊されたりする形で完全に機能しなくなったときは、身体ごと閉じこめられている囚人たちも、一緒に消去されることで死刑が執行されることになるらしい、独房の老化や事故や事件がセットされた通りに起こるように、囚人たちの窓からは見えない看守が働いているらしいということを教わります。
脱獄を遂げた英雄
囚人の中には、看守や所長に取り入ってなんとか脱獄させてもらおうと、賄賂を渡そうとする者もいるようですが、それで脱獄できたという話はあまり聞かれません。
長い刑務所の歴史の中には、脱獄を成し遂げた囚人もわずかながらいたようで、英雄として崇められ、囚人の間には彼の脱獄法が代々伝わっています。
ですが、どういうわけか、その手順は世代を経るごとに歪曲されてしまっているようで、それに従って、脱獄できたという話はほとんど聞くことはありません。
囚人たちからすれば、独房の窓からしか所内を覗き見ることができないので、本当に他の牢獄の中に自分と同じような囚人がいるのかすら疑わしいので、他の独房を差し置いてでも、自分の独房を老朽化させることなく保つことが大切なことになります。
囚人の入った独房同士の関係性
囚人にとって、他の囚人が入っている独房は、刑務所内の限られた資源を奪い合う敵でしかありません。
囚人たちが幽閉される独房にはオスとメスと呼ばれるふたつのタイプがあり、独房同士を接触させることで、日常の際の窓を通じてのコミュニケーションとは違った窓が開くようで、光に包まれるような感覚を味わうことができ、そのときだけは、牢獄から解放されたように感じます。
このように、囚人に自分が閉じこめられた存在であることを束の間だけ忘れさせてくれるので、多くの囚人がこの結合を遂げるほかの独房を探し求めます。
この結合の産物として、メスの独房の一部に小さな新しい独房が作り出されます。
新たに作られた小さな独房は、新たにこの刑務所にやってくる囚人を収容します。
通常、この新しい独房は、生み出すきっかけを作ったオスとメスによって、管理され、新入りが独房を通じて、所内での受刑生活を送るために必要な習わしが伝授されることになります。
死刑執行と輪廻
囚人は、死刑執行を少しでも先送りしようと、牢獄を手入れして長持ちさせるために、あらゆる努力をします。
それでも、寄る年波には勝てず、牢獄は、徐々にくたびれ始め、囚人は、いつかそのときがやってくることを予感します。
自分が消えてしまう。そこはかとない恐怖です。
死刑が執行されたあと自分がどうなるのか、誰も知りません。
時間は無慈悲にやってきて、囚人は独房とともに刑務所での暮らしを終えます。
しかし、実際のところ、独房と一緒に死刑となって消滅できたと思っていたのに、再び気がつくと、「あの世」という分類センターで、今回の刑期の囚人の行状を踏まえて、次に送られる時代や場所が選定され、同じような繰り返しをこれまでも無限に続けてきたことを思い出して、愕然とするのです(究極的に輪廻は存在しませんが、たぶん私たち愚か者の意識状態では、輪廻を存在しないようにはできないのが実情です。輪廻転生はあるか?をご一読ください)。
私たちの魂はこの世とあの世の行き来のループから抜け出せない
さて、私たち囚人としての個別の心は、刑務所と娑婆の間を行ったり来たりするのを繰り返すようなループに嵌まって抜け出せない状態になっています。
個別の心は、実際には、つながってひとつに結びついて大いなる心のままなのですが、個々に分裂して分離しているように思えています。
心が離れてなどいないという真実を忘れさせる仕組みに奉仕しているのが身体です。
結びついていないばらばらの身体の属性を割り当てることによって、心もばらばらに分離して孤立していて、それぞれにプライベートな秘密を保つように思えてきます。
人形遣いが複数の操り人形を操っている内に、それぞれの人形に感情移入して、一体化して、各々になりきって、意識を分裂させてしまっているようなものです。
本当は魂は実在しない
上の刑務所のたとえでも、身体という独房の中には「囚人」という個別の存在(魂)がいることを前提にしています。
実のところは、この囚人自体がいないということです。
身体は心を分裂させて閉じこめておく道具であり、本当はひとりの神の子が無数に存在する操り人形の肉眼等の知覚という覗き穴、潜望鏡を通して、他者や物事が確固として存在する「世界」を体感することによって、自らが間違いなく、人形の内側に幽閉されていると勘違いしているにすぎないということです。
観念的に、頭の中で、身体がマリオネットにすぎないと思ってみるだけでも出発点になります。
エゴに従うかぎり身体は自分を分裂させて個別の魂が自分だと勘違いした神の子を幽閉する牢獄であり続ける
この世界では、身体という人形は、心が罪悪感を押しつけて楽になるための痰壺のような道具になってしまっています。
エゴの身体の使い方は、自分で身体にこうせよと指図しておきながら、身体のやった行いについて非難して、身体を苦しめ病気にさせて殺すという使い捨ての人形そのものです。
人形とはいえ、あまりに哀れではないでしょうか。
私たちは自分の罪悪感を自分で作った牢獄である身体に投影して、身体のことを憎み、牢獄である身体を壊したいとさえ思っています。
しかし、身体に自分の罪悪感を押しつけて責任転嫁をするのをやめないかぎりは、身体を傷つけ、病ませ、死なせるということの繰り返しによって身体に幽閉される状態から、つまり、身体という牢獄から脱出することはできないのです。
脱獄は、実は自分は牢獄の中に幽閉されたことなど一度もなかったと気づくことで成し遂げられる
上の刑務所のたとえで、脱獄に成功した英雄がいたという話が出ました。
囚人たちは、脱獄のことを身体という牢獄をまとったまま、あるいは、牢獄の中の囚人である個としての魂が刑務所の外に脱出することだと思いこんでいました。
しかし、本当の脱獄は、身体という牢獄自体に閉じこめられているという錯覚に気づくことによって、確固として実在していると思いこんでいた牢獄である身体としての自分や他の独房やそれぞれの中の囚人という個別の魂が錯覚で、個別の存在になっている状態を体験している観照者が本当の自分だったと思い出すことだったということです。


テキスト 第十八章
VI. Beyond the Body
六 身体を越えて
1. There is nothing outside you.
あなたの外側には何も存在しません。
That is what you must ultimately learn, for it is the realization that the Kingdom of Heaven is restored to you.
これこそが、あなたが最終的に学ばなければならないことです。なぜなら、自分の外側に何もないと知ることこそ、天の王国があなたに回復されたと悟ることだからです。
For God created only this, and he did not depart from it nor leave it separate from himself.
というのは、神は天の王国だけを創造し、そこから離れたことはないし、天の王国を自身から離れるままにさせたこともないからです。
The Kingdom of Heaven is the dwelling place of the Son of God, who left not his Father and dwells not apart from him.
天の王国は神の子の住み処です。神の子は大いなる父の下を離れてはいないし、父から離れて存在するわけでもありません。
Heaven is not a place nor a condition.
天国は場所でもなければ、状態でもありません。
It is merely an awareness of perfect Oneness, and the knowledge that there is nothing else; nothing outside this Oneness, and nothing else within.
天国とは単に、完璧な一なる状態を自覚することにほかなりません。それは、ほかには何も存在しないという知識であり、この一なる状態の外側には何もないし、内側にもほかに何もないという知識です。
2. What could God give but knowledge of himself?
神自身についての知識以外に、いったい何を神が与えることができたでしょうか。
What else is there to give?
ほかに何を与えられるというのでしょう。
The belief that you could give and get something else, something outside yourself, has cost you the awareness of Heaven and of your Identity.
自分には神の知識以外の何か、それも自分自身の外側にある何かを与えたり、手に入れたりできると信じることで、あなたはその代償として天国の自覚と自分が本当は何者なのかという自覚を失ってしまいました。
And you have done a stranger thing than you yet realize.
そして、あなたは今自分で認識しているよりもずっと異様なあることをなしたのです。
You have displaced your guilt to your body from your mind.
あなたは、自分の罪の意識を自分の心から身体に移してしまったのです。
Yet a body cannot be guilty, for it can do nothing of itself.
しかし、身体が有罪になることは不可能です。というのも、身体はそれ自体では何もできないからです。
You who think you hate your body deceive yourself.
自分の身体を憎んでいると思っているあなたは、自分自身を欺いているのです。
You hate your mind, for guilt has entered into it, and it would remain separate from your brother's, which it cannot do.
あなたは自分の心を憎んでいます。なぜなら、あなたの心に罪悪感が入りこんでしまったために、あなたの心は自分の兄弟の心から離れたままでいたいと思うのに、あなたの心には兄弟の心から離れたままでいることなどできないからです。

3. Minds are joined; bodies are not.
心と心はひとつに結ばれていますが、身体同士は結びついてはいません。
Only by assigning to the mind the properties of the body does separation seem to be possible.
ただ身体に固有の性質を心に割り当てることによってのみ、たしかに分離が可能なように思えてきます。
And it is mind that seems to be fragmented and private and alone.
そうすると、ばらばらに断片化し、それぞれに私的な秘密を保ち、孤立しているのは心のほうに思えてきます。
Its guilt, which keeps it separate, is projected to the body, which suffers and dies because it is attacked to hold the separation in the mind, and let it not know its Identity.
心を分離したままに保つのは心が抱く罪悪感であり、この罪悪感が身体に投影されます。罪悪感を投影された身体は、心の中の分離状態を保ち、かつ、心にその偉大な真の姿を知らせないために攻撃されるので、苦しんで死ぬことになります。
Mind cannot attack, but it can make fantasies and direct the body to act them out.
心には攻撃することはできませんが、心は空想を作り出して、身体にその空想を実演するように命ずることができます。
Yet it is never what the body does that seems to satisfy.
それでも、身体に何をさせようとも、決して真に満足することはできません。
Unless the mind believes the body is actually acting out its fantasies, it will attack the body by increasing the projection of its guilt upon it.
実は身体は心の描く空想を形に表して実演しているだけだと心が信じるようにならないかぎり、心は自らの罪悪感をよりいっそう身体へと投影することによって身体を攻撃し続けるからです。
4. In this, the mind is clearly delusional.
この点で、心は明らかに妄想に陥っています。
It cannot attack, but it maintains it can, and uses what it does to hurt the body to prove it can.
心は攻撃することなどできないのですが、自分にはできると言い張ります。そして、心は、心が攻撃できることを証明しようとして、身体を傷つけるために心の作用を利用します。
The mind cannot attack, but it can deceive itself.
心は攻撃することができません。しかし、心には自分自身を騙すことならできます。
And this is all it does when it believes it has attacked the body.
そして、心が自分は身体を攻撃したと思いこんでいるときに心がしているのは、こんな自己欺瞞にすぎません。
It can project its guilt, but it will not lose it through projection.
心は自分の罪悪感を投影することはできても、投影することによって心が罪悪感を失うことにはなりません。
And though it clearly can misperceive the function of the body, it cannot change its function from what the Holy Spirit establishes it to be.
心が身体の役割を誤解できるのは言うまでありません。けれど、心には、心はこう働くべしと聖霊が定めた作用をそれとは違うものに変更することはできません。
The body was not made by love.
身体は、愛によって作られたものではありません。
Yet love does not condemn it and can use it lovingly, respecting what the Son of God has made and using it to save him from illusions.
しかし、愛は、神の子の作ったものに関しては、それを神の子を幻想から救うために利用できるので、身体を非難することなく愛をこめて使うことができます。

5. Would you not have the instruments of separation reinterpreted as means for salvation, and used for purposes of love?
あなたは分離のための道具を救済のための手段として解釈し直して、愛という目的のために使えるようにしたくないでしょうか。
Would you not welcome and support the shift from fantasies of vengeance to release from them?
復讐の空想を空想からの解放に変化させられるなら、あなたはそれを喜んで手伝おうとするのではないでしょうか。
Your perception of the body can clearly be sick, but project not this upon the body.
あなたの身体についての知覚が病んだものになりうるのは明らかです。しかし、こんな病んだ知覚を身体に投影してはなりません。
For your wish to make destructive what cannot destroy can have no real effect at all.
というのは、不壊なるものを破滅させることのできるものに変えたいとあなたがどんなに願望したところで、あなたの願望が少しでも現実に影響を及ぼすことはありえないからです。
What God created is only what he would have it be, being his will.
神が創造したものは、神の意志であるがゆえに、神が創造物をそうあらしめたいと望むものにしかなりえません。
You cannot make his will destructive.
あなたには神の意志を破滅しうるものに変えることはできません。
You can make fantasies in which your will conflicts with his, but that is all.
あなたには空想を作り出すことはでき、空想の中でなら、あなたの意志と神の意志とを対立させられます。しかし、できるのはそれだけです。
6. It is insane to use the body as the scapegoat for guilt, directing its attack and blaming it for what you wished it to do.
罪悪感をなすりつけるためのスケープゴートとして身体を用いて、身体に攻撃するよう指図しておきながら、自分が望んで身体にさせたことを身体のせいにして身体を咎め立てるのは狂気の沙汰です。
It is impossible to act out fantasies.
空想を現実にするのは不可能です。
For it is still the fantasies you want, and they have nothing to do with what the body does.
というのは、あなたが望むことは依然として空想のままなのであって、そんな空想は身体が行うことにはまったく関係を持たないからです。
It does not dream of them, and they but make it a liability where it could be an asset.
身体が空想を思い描くわけではないし、空想は身体のことを、役立てられる価値があるというのに、単なるお荷物にしてしまうだけです。
For fantasies have made your body your "enemy"; weak, vulnerable and treacherous, worthy of the hate that you invest in it.
というのは、空想はあなたの身体を、弱くて傷つきやすくて当てにならない、あなたがそれを憎むのも当然な、あなたの「敵」に変えてしまったからです。
How has this served you?
こんなものが、どうしてあなたの役に立てるというのでしょうか。
You have identified with this thing you hate, the instrument of vengeance and the perceived source of your guilt.
あなたは自らを、自分が憎むこんな物体、すなわち、復讐の道具であり、自分に罪悪感を抱かせる根源だとみなしているものと同一視してきたのです。
You have done this to a thing that has no meaning, proclaiming it to be the dwelling place of God's Son, and turning it against him.
あなたは、何の意味も持たない物体にこんなことをしてきたのです。あなたは、そんな物体を神の子の住み処だと宣言して、それを使って神の子に反抗させているのです。

7. This is the host of God that you have made.
こんな物体が、あなたの作り出した神の宿主です。
And neither God nor his most holy Son can enter an abode that harbors hate, and where you have sown the seeds of vengeance, violence and death.
しかし、神も、神の最も聖なる子も、あなたが復讐と暴力と死の種を蒔いた憎しみを匿う住み処に入ることはできません。
This thing you made to serve your guilt stands between you and other minds.
あなたが自分の罪悪感に奉仕させるために作ったこんな物体が、あなたとほかの心とを分け隔てています。
The minds are joined, but you do not identify with them.
心と心はたしかにひとつに結ばれているのですが、あなたは、個々の心がひとつに結ばれたものと自分は別の存在だと思いこんでいます。
You see yourself locked in a separate prison, removed and unreachable, incapable of reaching out as being reached.
あなたは自分のことを、分離した牢獄に幽閉されて、外部に到達できないように隔離された存在であり、外部に連絡を取ることも、外部から連絡を受け取ることもできない状態にあるものと思っています。
You hate this prison you have made, and would destroy it.
あなたは自分で作り出したこの牢獄を憎んでいて、この牢獄を壊したいと思っています。
But you would not escape from it, leaving it unharmed, without your guilt upon it.
もっとも、あなたは、牢獄に自分の罪悪感をなすりつけずに、牢獄を無傷のままにして牢獄から脱出するつもりはありません。
8. Yet only thus can you escape.
しかし、牢獄に自分の罪を着せないことによってのみ、あなたは脱出できるのです。
The home of vengeance is not yours; the place you set aside to house your hate is not a prison, but an illusion of yourself.
復讐の家はあなたのものではありません。あなたが憎しみを溜めこむために用意していた場所は牢獄ではなく、あなた自身であるという幻覚でしかありません。
The body is a limit imposed on the universal communication that is an eternal property of mind.
身体は、心の永遠の属性である普遍的なコミュニケーションに無理やり押しつけられた制限です。
But the communication is internal.
しかし、コミュニケーションは内面的なものです。
Mind reaches to itself.
心は、心それ自体に通じます。
It does not go out.
心が外に出て行くということはありません。
Within itself it has no limits, and there is nothing outside it.
心自体の内側には何の制限もないし、心の外側には何も存在しないからです。
It encompasses you entirely; you within it and it within you.
心はあなたを完全に包みこんでいます。すなわち、あなたは心の内側にいると同時に、心はあなたの内側にあるのです。
There is nothing else, anywhere or ever.
どこであろうといつであろうと、心以外には何も存在しません。

9. The body is outside you, and but seems to surround you, shutting you off from others and keeping you apart from them.
身体は、あなたの外側にあって、あなたを取り囲み、あなたを他者から遮断し、他者からあなたを隔離するように見えているだけです。
It is not there.
身体は存在しません。
There is no barrier between God and his Son, nor can his Son be separated from himself except in illusions.
神と神の子の間にはいかなる障壁もないし、幻想の中を除いては、神の子が神自身から離れることなどできません。
This is not his reality, though he believes it is.
神から分離した状態が神の子の本当の状態なはずがありません。けれども、神の子はそれが現実だと信じこんでいます。
Yet this could only be if God were wrong.
しかし、そんなことがありうるとしたら、それは神が誤っていた場合だけです。
God would have had to create differently, and to have separated himself from his Son to make this possible.
神と子の分離がありえたとすれば、神は違った形で創造し、神自身を子から分離させなければならなかったはずです。
He would have had to create different things, and to establish different orders of reality, only some of which were love.
神は異なった物事を創造し、現実に相違のある序列を設けて、現実のただ一部分だけが愛であることにしなければならなかったはずです。
Yet love must be forever like itself, changeless forever, and forever without alternative.
しかし、愛は永遠に変わることなく、永遠にかけがえのないものであって、永遠に愛そのものと同じであるに違いありません。
And so it is.
だから、現に愛はその通りになっています。
You cannot put a barrier around yourself, because God placed none between himself and you.
あなたは、自分の周りに障害を置くことなどできません。なぜなら、神は、自身とあなたとの間に何の障害も置かなかったからです。
10. You can stretch out your hand and reach to Heaven.
あなたは手を伸ばして天国に到達することができます。
You whose hands are joined have begun to reach beyond the body, but not outside yourself, to reach your shared Identity together.
手をつなぎ合わせたあなたたちは、すでに身体を超越しはじめています。しかし、それはあなた自身の外側のものに到達するのではなく、あなたたちがともに分かち合っている大いなるアイデンティティーに到達することです。
Could this be outside you?
あなたたちが共有している真の自己があなたの外側にあるなど、ありうるでしょうか。
Where God is not?
神がいないようなところに。
Is he a body, and did he create you as he is not, and where he cannot be?
神は身体でしょうか。そして、神があなたを神とは違うものとして創造したり、神が在ることのできないようところに創造したりしたでしょうか。
You are surrounded only by him.
あなたは、ただ神によってのみ抱擁されています。
What limits can there be on you whom he encompasses?
神に包みこまれているあなたに、どんな限界がありうるというのでしょうか。

11. Everyone has experienced what he would call a sense of being transported beyond himself.
誰しも、自分自身を超越するところに運ばれる忘我の境地とも呼ぶべき体験をしたことがあるはずです。
This feeling of liberation far exceeds the dream of freedom sometimes hoped for in special relationships.
この解放感は、特別な関係の中で往々にして希求される解放の夢などとても及びもつかないものです。
It is a sense of actual escape from limitations.
それは、制限された状態から実際に脱出した感覚です。
If you will consider what this "transportation" really entails, you will realize that it is a sudden unawareness of the body, and a joining of yourself and something else in which your mind enlarges to encompass it.
もしあなたが、この「運ばれること」が真に何を意味するかよく考えてみれば、それは、突然身体を意識しなくなり、あなた自身と何かほかのものとがひとつに結びついて、その結合の中であなたの心がその何かを包みこむまで拡張することだと気づくはずです。
It becomes part of you, as you unite with it.
あなたがその何かと結合することで、その何かはあなたの一部になります。
And both become whole, as neither is perceived as separate.
そして、両方とも分離しているとは知覚されなくなるので、両者は統合されて完全になります。
What really happens is that you have given up the illusion of a limited awareness, and lost your fear of union.
何が実際に起こったのかというと、あなたは制限された意識という幻想を放棄し、ひとつに結ばれることに対する恐れをなくしたのです。
The love that instantly replaces it extends to what has freed you, and unites with it.
一瞬のうちに恐れに取って代わった愛は、あなたを解放したものへと拡張し、それとひとつに結びつきます。
And while this lasts you are not uncertain of your Identity, and would not limit It.
そして、これが続いている間、あなたは自分の大いなるアイデンティティーに確信が持てないということはないし、自分の大いなるアイデンティティーを制限しようともしません。
You have escaped from fear to peace, asking no questions of reality, but merely accepting it.
あなたは、現実について何の疑問も呈することなく、ただ単に現実を受け入れることで、恐れから脱出して心の平安へと至ったのです。
You have accepted this instead of the body, and have let yourself be one with something beyond it, simply by not letting your mind be limited by it.
単に自分の心が身体によって制限されることを許さないことによって、あなたは身体の代わりに現実を受け入れて、自分自身を身体を超える何かとひとつにさせたのです。
12. This can occur regardless of the physical distance that seems to be between you and what you join; of your respective positions in space; and of your differences in size and seeming quality.
これは、あなたとあなたがひとつに結合するものとの間に、物理的な離たりがどれだけあるかとか、あなたたちの空間における各自の位置であるとか、大きさや見かけ上の特質にどれほど相違があるかといったこととは無関係に起こりえます。
Time is not relevant; it can occur with something past, present or anticipated.
時間も関係しません。この結合は、過去や現在あるいは未来のどんなものとの間でも起こりえます。
The "something" can be anything and anywhere; a sound, a sight, a thought, a memory, and even a general idea without specific reference.
あなたが結びつくこの「何か」は何であっても、どこにあるものでもかまいません。音声や光景でも、思考や記憶でも、特定の物事と関連しない一般的な想念ですらかまいません。
Yet in every case, you join it without reservation because you love it, and would be with it.
しかし、どんな場合でも、あなたはその何かと無条件に結びつくことになります。なぜなら、あなたはそれを愛し、一緒にいたいと望むからです。
And so you rush to meet it, letting your limits melt away, suspending all the "laws" your body obeys and gently setting them aside.
だから、あなたは、自らの制限を消し去り、あなたの身体が従うすべての「法則」を中断させて、そっと脇に追いやり、それと出会うために駆けつけるでしょう。

13. There is no violence at all in this escape.
この脱出には、手荒なことはまったく伴いません。
The body is not attacked, but simply properly perceived.
身体は攻撃されるのではなく、単に正しく知覚されるだけです。
It does not limit you, merely because you would not have it so.
身体があなたを制限することはありません。その理由は単純に、あなたが身体にそんなことをさせないはずだからです。
You are not really "lifted out" of it; it cannot contain you.
あなたは実際に、身体から「引きずり出される」わけでもありません。そもそも身体にはあなたを封じこめることなどできないからです。
You go where you would be, gaining, not losing, a sense of Self.
あなたは、大いなる自己の自覚を喪失するのではなく、獲得することによって、自分のいたい場所へ行くことになります。
In these instants of release from physical restrictions, you experience much of what happens in the holy instant; the lifting of the barriers of time and space, the sudden experience of peace and joy, and, above all, the lack of awareness of the body, and of the questioning whether or not all this is possible.
肉体的な束縛から解放されるこのような瞬間において、あなたは神聖な瞬間に起こることのうちのほとんどを経験します。すなわち、時間と空間という障害が取り除かれ、不意に平安と喜びを実感し、とりわけ、身体の自覚を喪失して、こんなことすべてが可能かどうかと疑問に思ったりしなくなる体験をするのです。
14. It is possible because you want it.
このようなことが可能になるのは、あなたがそれを望むがゆえです。
The sudden expansion of awareness that takes place with your desire for it is the irresistible appeal the holy instant holds.
あなたのそれに対する切望とともに起こる突然の意識の拡大こそ、神聖な瞬間の持つ抗いがたい魅力です。
It calls to you to be yourself, within its safe embrace.
神聖な瞬間は、あなたを安全に抱擁しながら、あなたに本来の自分に戻るようにと呼びかけます。
There are the laws of limit lifted for you, to welcome you to openness of mind and freedom.
そこでは、開かれた心と自由へとあなたを迎え入れるために、制限の法則があなたのために解除されます。
Come to this place of refuge, where you can be yourself in peace.
平安のうちにあなたが本来の自分になることができるこの避難場所に来てください。
Not through destruction, not through a breaking out, but merely by a quiet melting in.
破壊を通してではなく、逃亡を通してでもなく、ただ、単に静かに溶けこむことによってここに来てください。
For peace will join you there, simply because you have been willing to let go the limits you have placed upon love, and joined it where it is and where it led you, in answer to its gentle call to be at peace.
というのは、その避難場所で平安があなたとひとつに結ばれるからです。それは単に、あなたが安らかなれという愛からの優しい呼びかけに応えて、自分が愛に課した制限を手放そうという気になり、愛が存在し、そして愛があなたを導いてくれた場所で、愛とひとつに結びついたからです。


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