罪悪感から解放されることは可能なのか?


1922年に長女を3歳で亡くし、1927年、前年に事業に失敗して人生に絶望した当時32歳のバックミンスター・フラーは、妻と生まれたばかりの次女が生命保険金を得られるように自殺をしようと思い立って、ミシガン湖に行き、冷たい湖水に身を投じようとした。
このとき、フラーは彼の人生の方向性と目的を一変してしまう神秘的な体験をした。彼は自分の本質が地上から数フィートの高さに浮揚し白い光の球体に包み込まれるような感覚を味わった。ひとつの声が彼の心に直接つぎのようなことを語り、それを聞いた彼は自殺を思いとどまった。

From now on you need never await temporal attestation to your thought.
これから先、お前は自分が正しいと承認を得られたと思えるまで世間の顔色を窺っている必要はまったくない。

You think the truth.
お前が考えることが真理なのだ。

You do not have the right to eliminate yourself.
お前には自分自身を殺す権利はない。

You do not belong to you.
お前はお前のものではないのだから。

You belong to the Universe.
お前は宇宙のものなのだ。

Your significance will remain forever obscure to you, but you may assume that you are fulfilling your role if you apply yourself to converting your experiences to the highest advantage of others
いつまで経っても、自分がどれほど重要な存在なのか、お前にはよくわからないままだろう。しかし、もしお前が身を捧げて自分の体験を他者の最善の利益になるよう役立てることに邁進するなら、お前にも自分が自らのなすべき役割を果たしているとわかるようになるだろう。

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Buckminster R. Fuller
バックミンスター・フラー



私の教えは簡潔です。私は罪の赦しを教えます。罪そのものに実体がないことを教えます。それがあたかも在るように見えるのは、あなたが自分は害されうる存在だと信じているからにすぎません。あなたがたは、自分が肉体であって、その肉体に害が加われば自分に不正がなされたのだと信じます。
その信念を捨て去るのが難しいことは、よくわかります。しかし、私が求めるのはそのことです。あなたは肉体ではありません。肉体は生まれて死にますが、あなたは生まれもせず、死ぬこともありません。

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イエス・キリスト(Paul Ferrini ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」より)

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罪悪感とは純粋な形の過剰ポテンシャルである。自然界では善悪の概念が存在しない。良いふるまいも悪いふるまいも、平衡力にとっては等価値である。過剰ポテンシャルが起こると、いずれにせよ乱されたバランスの回復が図られる。あなたが悪い行いをし、それを認識し、罪悪感を抱く(我に罰を与えよ)と、ポテンシャルが作られる。あなたが良い行いをし、それを認識し、誇りを感じる(我に褒美を与えよ)と、やはりポテンシャルが作られる。平衡力は、何に対して罰するのか、または報いるのか、ということについては、まったく関知しない。平衡力は、エネルギー場において発生した異質なものを取り除こうとするだけなのだ。
罪悪感に対する報復は、常に何らかの形の罰である。もし罪悪感が生まれなかったら、その後に罰が続かないこともありうる。残念ながら、良い行いを誇る感情も、褒美ではなくて、罰をもたらす。なぜなら、平衡力にとっては、良い行いを誇るという過剰ポテンシャルを解消することが必要だからである。もし褒美をもたらしたら、かえってその感情をあおるだけになってしまう。



Vadim Zeland
ヴァジム・ゼランド(「リアリティ・トランサーフィン 幸運の波/不運の波の選択」194ページ)

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It is by going down into the abyss that we recover the treasures of life.
私たちは、奈落の底に降りてゆくことによってこそ、人生の宝物を再発見することができる。

Where you stumble, there lies your treasure.
あなたがつまずく場所、そこにあなたの宝が眠っているのだ。

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Joseph Campbell
ジョーゼフ・キャンベル

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All truths are easy to understand once they are discovered; the point is to discover them.
どんな真理もひとたびそれを見つけ出せれば、理解するのは簡単である。問題はそう簡単に真理に気づけないことなのだ。

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Galileo Galilei
ガリレオ・ガリレイ




罪悪感と無縁に生きる人はいない

みなさんの中には、過去に自分の犯してしまった過ちを悔いて、時間を巻き戻せるものなら人生をやり直したいという思いに駆られながら生ける屍のように日々を送っている方もいらっしゃるでしょう。




中には人の命を失わせたり、身体を傷つけたりするような出来事に関わった方もいらっしゃるかもしれません。そして、その相手が自分の大切な人だったという方もあるかもしれません。

ある程度の長さの時間をこの世界で過ごしてきて、人を傷つけてしまったという思いを抱くことが微塵もなく、自分は人を幸せにしかしていない、我が人生に悔いなし!楽しくてしょうがない!という幸せ一点張りの人はなかなかいないでしょう(そんな人の場合、本人は幸せでも周囲が困らされ傷つけられているということが得てして多いものです)。

また、罪の意識は、他人だけではなくて、自分に向けられた自責の念であるかもしれません。

自分の過去の選択や行動について、あのときこうしていたら、自分の人生は違っていたはずだ、自分の心の声が告げているのにうすうす気づいていながら、世間体や漠然とした不安感や恐怖心のせいで、心の声に従う勇気が持てなかったと自分に対して正直でなかったことに罪の意識を抱き、悔いている方もいらっしゃるでしょう。

そして、誰か他者から被害を受けた側も罪の意識を抱くことがあります。
あのとき自分がほかの場所にいたら、ほかの選択をしていたら、このような被害に遭わずにすんだかもしれない、もっと抵抗したり、うまく防衛できていたら、もう少し上手に立ち回ることができたら、成り行きが違ったかもしれない、もしかしたら、前世で被害者の家族は、被害に遭うのを防ぐために自分には何かできたはずではないかと考えてしまいます。結局、上の自責の念と同じです。






被害者意識も罪悪感の一種

このような自責の念にならなくても、自分をこんな目に遭わせた加害者の罪は絶対に許せないという思いも、罪のことを意識している点で、「罪の意識」、つまり罪悪感を抱くことです。

すなわち、加害者の犯した罪は確固として存在しており、加害者は、その罪に対して犠牲を払って償うべきであり、加害者に罪を償わせることを求め、社会がそれを果たさないなら、自ら果たしたいと意欲することになります。



罪悪感を抱えて生きることの辛さ

とにかく、罪を意識しながら、罪を背負って生きる苦しみというものは、ナイフで深く抉られた傷口が開いたまま生きるようなもので、血が流れるようにエネルギーが放出されて、辛くやるせないものです。

時間を戻してやり直したい、自分が身代わりになって元どおりにできるなら、いくらでも今の自分の命なんて差し出すのにというほどの苦しみです。

どれだけ悔いても、時間は巻き戻すことはできず、被害者が許してくれるとは限らないし、場合によっては、謝りたくても被害者本人はもうこの世界にはいないということもあります(赦しと和解の相違についてはS2-1 自分自身を赦すの冒頭のコリン・C.ティッピングさんの言葉を参考にしてください)。



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コリン・C.ティッピング(「自分をゆるすということ」)

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被害者の立場でも、許した方が楽になるかもしれないとは思っても、加害者の罪を許すことができずに苦しみから解放されないままになってしまうことの方が多いものです。


罪悪感から解放される術はないのか

時を経て、罪を意識することが風化してきたように思えても、それは決して消えてはおらず、ふとしたきっかけで、眠っていた罪悪感は簡単に息を吹き返してきます。

まるでウィルスに感染したパソコンのように、心の情報処理のスピードは緩慢になり、思考が鈍ってしまって思うように働きません。

五官からの情報も色眼鏡で選別、歪曲されて、罪の意識を強めるように知覚してしまうようになります。

誰かが投げかけてくれた思いやりの言葉や笑顔すら、その人が心で受け取る際には、悪意に基づく攻撃や呪詛や嘲笑になってしまったりもします。

その人の心の中の意識というスクリーンに映し出されるウィンドウは、罪悪感を想起させるものでびっしりと埋め尽くされ、閉じても閉じても、別のウィンドウとして開いてきます

心の中が自分のコントロールが効かないまま、しばらくぽかんと空っぽになったかと思えば、過去の記憶がよみがえってドロドロとどす黒い感情の渦巻きを起こし、先行きへの不安と恐怖を煽ります。

エネルギーが吸い取られ、心底から、生きた心地がしません。

世界中が敵に見えて、自分が世界から切り離された無価値な存在でしかないように思えて、虚しくなってきます。

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どんよりとした重い幕が垂れ下がったように心は晴れません。

他人の幸せそうな姿は目には映っていても、なんだか不鮮明なテレビ画面に映った画像のようにしか感じません。

子供の頃の無邪気な自分の軽い心がどんなものだったのか、思い出そうとしても、記憶ははるか彼方に埋もれてしまったようで、他人のことのように想像してみることしかできません。この世界自体が牢獄になってしまっているようです。

自分が消えてしまえば楽になれるだろうかと考えてもしまいます。


こんな状態から抜け出す術はないのでしょうか?少しくらい楽になることすら許されないのでしょうか?



ラメッシ先生の教え



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ラメッシ・S.バルセカール

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ラメッシ・S・バルセカール先生の本では、「肉体精神機構」(この世界内でのやりとりのためのエゴ・身体と一体化した個別のアバターのこと。このサイトでは、「エゴ・身体というアバター」と表現しています。)は、プログラミングされたとおりの条件付けに従ってしか生きることができないのであり、個人には自由意志はない、慈悲心に溢れて多くの人を幸せにするマザー・テレサやガンジーのような聖人も、マシンガンを乱射して大量殺人を行うテロリストやネロやヒトラーのような暴君であってもそうだ、聖なる催眠によって、自分が自分で行為しているように錯覚しているにすぎず、各人は自分がプログラムされたとおりに忠実に機能しているだけであって、プログラミングを行っている神の意志がなされている(「御心のままに」Thy will be done)だけなのだから、聖者の肉体精神機構は、自らの善行を鼻にかけて誇ることはできないし、それとまったく同じようにテロリストや暴君も自らの蛮行について罪悪感を抱くことはできないといいます(この点については、人間機械論が参考になると思います。)。

そして、あるキリスト教の神学者が、この完璧とは思えない世界の現状とThy will be doneの折り合いをつけるために、神の意志を意図的意思、状況的意志、究極的意志等に区別しようとすることを取り上げて、そんなことは欺瞞でしかないと論証していきます。

この神学者の考えによると、キリストの磔刑を合理的に解釈するには、神の意志をこのように分類することが必要になるといいます。

すなわち、神は人々がイエスを殺すのではなく、彼に従うことを意図して、彼を地上に遣わしたのであって、キリストの磔刑は、神の意志ではなかった、「御心がなされますように」(Thy will be done)との句は、人間の浅はかな自由意志によって、神の意図的意志が妨げられた場合の状況的意志として、究極的に神の意志が実現されるべく、その状況においてなすべきことを望む神の意志があるということです。

この考え方は、まず、神の意志を勝手に決めつけ、キリストが神に与えられた役目を果たし損ねたと解釈することから出発し、さらに、神には、その折々の状況において起こる出来事についてのコントロールを及ぼす力がないことをも仮定するものであって、前提が真なることを示す術がなく、個人的な意向表明の域を越えることができません。

ラメッシ先生の答えは、Thy will be doneは、いつの日か神の意志が究極的になされますようにとの淡い望みなどではなく、すべての瞬間において神の意志が行き渡っているというものです。

このことを完全に躊躇なく受け入れて、自分や他人のなすことは個人がやっていることではなく神のプログラミングによって起こっていると理解し、自分がやるようにプログラムされたことをするなら、罪や善行の感覚が起きることはないと言います。


上の聖者と暴君の例は極端なので、この世界の常識的判断によれば、暴君の悪逆非道は神の意志に属さないはずです。

しかし、ラメッシ先生によると当然、これすらも神の意志ということになります(コースでは、神の子が夢見る幻想であり、神の関知しないこととなります)。ここは本当に納得するのが難しいところです。聖者の行為が神の意思であることは容易に納得できても、暴君の非道が神の意志だなんて、神を冒涜しているとしか思えないと感じてしまいます。

しかし、そこまでいかない(ように見える)善行や悪行と関連して考えていくとなんとなく理解できるような気がします。



アバターとしての私たちには正しく価値判断することはできない

この世界での出来事には、神の意志が行き届いている場面とそうでない(神の力の及ばない)場面があるということになるのでしょうか。

何世代も前から代々続く国家間の攻撃と報復の応酬の中でなされた残虐な行為だけを切り取って一方だけが絶対的な悪だと決めつけることなどできるでしょうか。

仮面ライダーが正義の鉄拳を喰らわせる悪の組織の下っ端たちも、病気の家族を養うために上司の命令に疑問を感じつつも、仕方なく悪事に手を染めているのかもしれません。

正義の味方に父親を殺された子どもたちが、正義の味方のことを、父を殺した悪い奴だと復讐心に燃えてしまうことを非難できるでしょうか。

正邪の区別は誰がいつの時点に、どのような基準による価値判断でなすのかといったことを考えはじめると収拾がつかなくなります。

なかなか感覚的に納得し難いものですが、作家(神ないし神の子)が描写する物語の中のエピソードは、深刻なものも些細なことも、創作された幻想として等しく位置づけられるように、聖者が無私の慈悲溢れる善行をなすのも、暴君が大量虐殺を行うのも、すれ違う人に笑顔を送るのも、級友の上履きに画びょうを忍ばせるのも、すべて神の意志が行き渡っている(コースでは等しく神の子の夢見る幻にすぎない)ということです。

ここは難易度に序列がないという観点と同じです。




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バガヴァッド・ギーター第5章15節
「あなたは神が注目するような罪を犯すこともできなければ、賞賛に値する行為をすることもできない。
この基本的知識の光は、エゴの幻想の暗闇によって覆い隠され、それゆえ、個人は罪と善行という観点で考えるのである」(人生を心から楽しむ 86ページ)


「罪深い行いをする人もあり また 徳高く善き行いをする人もあるが 至上主はそのどちらの責任も負わない だが生物は無知のために惑い苦しむ」(「バガヴァッド・ギーター あるがままの詩」385ページ)



究極的な真犯人は神?

そして、褒め称えるべき善行が神の意志によるならば、同じように、唾棄すべき悪行も神の意志によるということであり、素晴らしい奇跡の授け主が究極的に神であるのと同じように、悪い出来事の犯人を見つけたいなら、究極的な真犯人は神だということになります。

それでは、真犯人である神は、何の目的で、こんなことをしているというのでしょうか?

ラメッシ先生の本では、神の戯れ(リーラ)としての幻(マーヤ)というヒントを与えてくれるだけで、一被造物にすぎない私たちが創造主の真意を推し量ることすらできないとして、究極的な神の意志は、それこそ「神のみぞ知る」事柄であり、一被造物にすぎない私たちには知ることはかなわないとして明言は避けられます。

この点については、コースは直截的です。

こんな世界のことなどそもそも神の知ったことではない、私たちに分裂した神の子が悪夢を夢見ているだけだというのがその答えです。

愛する我が子が悪夢を見ていることはわかるが、夢にすぎないとわかりきっているのに、わざわざそんな夢の中に入って行って、悪夢の内容を分析したりするなど愚の骨頂だ、目を覚ますよう優しく呼びかけて起こしてあげれば足りることだというわけです(T15-8 唯一の真実の関係)。

永遠においては、時間という概念がないのですから、早く起こさねばと焦らなくても、神の子があると思い込んでいる時間の中でゆっくりと自然に目を覚ますのをいくらでも気長に待つことができます。

そして、コースは、永遠においては、すでに、贖罪を完了して神の子は目覚めているともいいます。



だまし絵のように私たちは本当の自分を忘れている

とはいえ、私たちとしては、現に身体の中に閉じ込められているようにしか思えないのに、自分たちが本当は一体で、自分や他人の身体を含めた森羅万象が自分の生みだしている夢の世界にすぎないと言われても、はいそうですか、と簡単に納得できるはずもありません。

それでも、自分がトリックに引っかかって、真理が見えなくなっているだけなのかもしれないと思いはじめることは、トリックから抜け出す第一歩です。

目の錯覚を利用しただまし絵(かくし絵)のクイズがありますが、すぐに気づく人もいれば、気づいた人にヒントをもらってもなかなか気づくことのできない人もいます。

それでも、分かった後は、なぜ気づかなかったのだろうと思うことはあっても、早く気づいた人も、なかなか気づくことができず遅れをとった人も、気づいた後には、気づきの質や量に違いはありません。

そして、一度気づいたら、もはや気づく前の状態には戻れません。

うんうん唸ってようやく気づいただまし絵も、一旦気付いた後は、何度、同じ絵を見せられても、もはや騙されることはなくなります。

「それはすでに書かれている」という言葉をご紹介したことがあります。
この言葉は、Thy will be doneを別の形で表現したものです。

だまし絵に隠れているイメージは、客観的には、絵の中に最初から描かれていました。

けれども、気づかれるまでは、見る人にとっては存在していませんでした。

私たちの人生の筋書きもすでに書かれていて、その物語の全体から浮かび上がるテーマやイメージがあるとしても、実際に物語を読み進めている途中では、読者にはそれはわかりません。

私たちは、主人公と一体化して、自分が自由意志によって人生を切り開いているという感覚を存分に味わいながら、筋書通りに人生を展開し、喜び、楽しみ、驚き、悲しみ、恐れ、怒り、妬み、罪悪感に苛まれます。

しかし、同じ映画でも、画面上で展開するストーリーは同じなのに、見る人によっては喜びや恐怖を感じる程度は違います。

同じジャンルの映画をよく見ていて、だいたい筋書きが読めてしまったり、たまたま主人公が感情移入しやすいタイプの俳優じゃなかったりして映画の世界に没入する度合いの小さい人は、横で誰かが映画の主人公と完全に一体化しきってストーリーに巻き込まれて一喜一憂しているのを尻目に、作り物としての映画を冷静に分析する目線を保つことができます。

これは映画を楽しむ際のスタンスとしては望ましいものではないかもしれませんし、幻の時間も無限にあるのですから、個別のエゴ・身体になり切って、この世界をスリリングな恐怖映画として体験すること自体が目的の人生があってもかまわないわけですから、いい悪いの問題ではありません。

単に、夢から目覚める選択をする上では、このような引いた目線を持つことが出発点になるというだけです。

「生命の本当の意味は、生命には意味がないことにあります。それは、ただ起こるだけです。」

「出来事は起こり、行為はなされるが、それについての個人の行為者はいない」

「自由が起こるのは『私が自分自身の意志によって自分の人生を生きている』という愚かな観念と傲慢が落ちるときです。」
と、ラメッシ先生は言います。

川の岸辺に小舟を浮かべて温かい日差しを浴びながら、気持ちよく昼寝をしているところに、誰かの乗った他の小舟が不注意にもぶつかって来たら、私たちは腹を立てます。その誰かがわざとぶつけてきたようであれば、怒り心頭に発します。

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けれど、ぶつかった小舟が無人で、風に流されてぶつかってきたのだったら、私たちは怒ることなく受け入れます。


この世界での人生は、人形劇のようなもので、自分も他人も一つの手によって操られたマリオネットにすぎないとしたら、悪役を割り当てられた一つの人形を吊し上げて非難して、ばらばらに解体して「処罰」してやることは無意味で滑稽ですらあります。



アドヴァイタ・ヴェーダーンタの考え方と、奇跡のコース

アドヴァイタ・ヴェーダーンタの考え方と、奇跡のコースでは、この世界を神が創造した世界と見るか見ないかで大きな違いがあります。

アドヴァイタ・ヴェーダーンタは、それまでのサーンキヤ学派の精神原理(プルシャ)と物質原理(プラクリティ)を対置する二元論(デュアリティ)に対するアンチテーゼとして、ウパニシャッドの梵我一如の思想を徹底して、宇宙の原理である梵(=神)のみが実在し、それ以外は幻影で一切実在しない、という不二一元論(ノンデュアリティ)として誕生しました。

実在するのは神のみであり、実在しない世界と神は関わりないという一元性を説明するうえで、神が世界を創造したというヴェーダーンタに対して、神は世界に関知しない、世界は神の子が狂気に陥って見ている夢だというコースの説明は、とても座りが良いのは確かです。ワプニック先生が言うように純粋非二元論(ピュア・ノンデュアリティ)と呼ぶことができます(A Course in Miracles and Christianity: A Dialogue )。



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ケネス・ワプニック




この相違から、ヴェーダーンタの考え方では、持ち上げられる「意識」は、コースではエゴの領域に位置づけられるなど、同じ非二元論でありながら、諸々の点で位置づけが逆転する現象は起こります。

「2. Consciousness, the level of perception, was the first split introduced into the mind after the separation, making the mind a perceiver rather than a creator.
 意識という知覚のレベルは分離以後に心の中に取りこまれた最初の分裂でした。この意識が、心を創造するものではなく、知覚するものに変えてしまったのです。

 Consciousness is correctly identified as the domain of the ego.
 意識は、正確にはエゴの領域として位置づけられるものです。

 The ego is a wrong-minded attempt to perceive yourself as you wish to be, rather than as you are.
 そのエゴとは、あなた自身をありのままに知覚せずに、あなたがそうありたいと願う姿として知覚しようとする心の間違った試みのことです。

 Yet you can know yourself only as you are, because that is all you can be sure of.
 しかし、あなたは自分自身のことを、ただありのままの自分としてしか知ることができません。なぜなら、あなたが確信できるのは、ありのままの自分だけだからです。

 Everything else is open to question.
 ありのままのあなたを知ること以外のすべてのことには、疑問が入りこむ余地があるのです。」(T3-4 誤りとエゴ



必ずしも「純粋」ならすべてよしなわけじゃない

あまり「純粋」さにこだわりすぎると、非二元論は、世界という夢の中で目を覚ますことで止まってしまうけど、純粋非二元論は、世界という夢そのものから目覚める真の教えなのだ!というように、まるで「不純」な非二元論は生悟り止まりの劣ったニセモノであるというように無意識ながら下に見て、コース至上主義になってしまいます。

こうして、「純粋」さの帰結として、単なる一瞥体験にとどまるか、夢からの覚醒かでまったく異なる!というようなキャッチフレーズで、純粋非二元論であるコースはすばらしいというキャンペーンが張られることになります。

アドヴァイタの考え方は、世界は、神の遊戯(リーラ)のための幻影(マーヤ)でしかないといい、アートマンとブラフマンはひとつだという気づきによって輪廻世界からの解脱を説き、コースの考え方は、三位一体を認め、究極的に幻想世界を作り出している「神の子」(神の顕現の側面)と「神」(神の存在面)の一体性を認め、幻想世界から天国に帰還することを説くのですから、説明の仕方が異なるだけで、究極的には同じことを言っているだけです。

スーフィズムでも、、エゴ・身体が自由意志を持たない自動人形にすぎず(「人間は機械だ」グルジエフ)、エゴ・身体の行為の結果について自惚れや罪悪感を抱くべきではないという点はまったく同じです。

学習者の魂の特性によっては、コースの体系がしっくりハマるという人もいれば、別の仕組みが納得しやすいという人もいます。

コースを学ぶことで、その学習者が、「正しい」奇跡のコース以外の「間違った」道は排除すべきだし、ニセモノの教えや劣った教えに惑わされている可哀想な人たちに比べて自分は優れているのだというような狭量な排斥思考に陥るなら、イェシュアはきっと残念に思うことでしょう(T2-5 ミラクル・ワーカー)。

コースの学びを進めるにつれて、自分とは異質な人やものごとや考え方に対する寛容度が広がっているか狭まっているかは、学ぶことが楽しく世界が愛しく思えるか厭世的になるかということと同じように、学びの深まりをはかる目安のひとつであり、この目安をもとにフィードバックして修正をはかることができます。



罪悪感からの解放

さて、究極的には身体として見えている他人も自分も映画や小説の登場人物のような架空の存在にすぎず、実在するのは、そのようなみんなが一体になった神の子だけである、そして、神からの分離によって、この世界を投影しているのであって、世界は幻にすぎないということを理解し、贖罪を完了するということの中に罪悪感からの解放が待っています。

もっとも、罪悪感からの解放について、何の理解もないまま、結論だけを切り取って、ラメッシ先生や奇跡のコースは罪悪感を持つ必要などないと言っているんだから、私は悪くなんかない、そして、何をやっても許されるんだと思い込もうとしても、ほぼ不可能に近いでしょう。

たしかに、表層的にはそう思うことはできるかもしれません。

しかし、心の中では依然として自分の「罪深い」行為にけりがつけられないまま燻っているのに、表面上、自分には罪悪感なんかないと思いこもうとするのは、完全な自己欺瞞でしかなく、かえって解離されて追い払われた罪悪感が気づかない内に増殖するばかりです。

空念仏を唱えることに意味なんかありません。

むしろ、そんなことをするくらいなら、精いっぱいの罪滅ぼしを尽くして、幸いにも許してもらえる、埋め合わせをできた感覚を得られるので、常識的な意味での「許し」と「贖罪」の方が、まだこの世界での居心地をよくする効果はあるはずです。

ただし、これは罪悪感の「軽減」にはなっても、罪悪感からの完全な「解放」にはなりません。

神の子には罪はなく、罪深いと感じている自分や誰かは、本当は一つに結びついた神の子なんだということに気づくことしか真の意味の罪悪感からの解放はないのでしょう。

赦しとは何か?

が参考になると思いますので、ご一読ください。



だまし絵と同じく、気づくタイミングはそれぞれですが、その気づきのためのガイドを奇跡のコースはしてくれます。





「13. Remember, then, that whenever you look without and react unfavourably to what you see, you have judged yourself unworthy and have condemned yourself to death.
 そこで、あなたが自分の外側を見て、自分がそこに見るものに対して悪し様に反応するようなときはいつでも、あなたは、自分自身に価値がないという判断をして、自らに死刑の宣告をしたのだと覚えておきなさい。

 The death penalty is the ego's ultimate goal, for it fully believes that you are a criminal, as deserving of death as God knows you are deserving of life.
 死刑こそエゴの究極的な目標です。というのも、神があなたが生命に値すると知っているのに対して、エゴはあなたが罪人であって、死こそが当然の報いだと完全に信じているからです。

 The death penalty never leaves the ego's mind, for that is what it always reserves for you in the end.
 死刑がエゴの心を離れることは決してありません。というのは、死刑はエゴが常にあなたに最後に突き付けるために用意しておくものだからです。

 Wanting to kill you as the final expression of its feeling for you, it lets you live but to await death.
 あなたに対する最後の感情表現として、あなたを殺したいと欲しているので、エゴは、ただあなたの死だけを待ち望みながら、あなたを生かしておこうとします。

 It will torment you while you live, but its hatred is not satisfied until you die.
 エゴは、あなたが生きている間は、あなたをひどく苦しめようとします。しかし、エゴが抱く憎悪はあなたが死ぬまで満たされることはありません。

 For your destruction is the one end toward which it works, and the only end with which it will be satisfied.
 というのも、あなたの破滅こそが、それに向けてエゴが活動する唯一の最終目標であり、その目標を達したときにのみエゴは満足感を得ることになるからです。


14. The ego is not a traitor to God, to Whom treachery is impossible.
 エゴは、神に対する裏切り者ではありません。神を裏切るなど不可能だからです。

 But it is a traitor to you who believe that you have been treacherous to your Father.
 しかし、自分が父を裏切ったと信じているあなたに対しては、エゴは裏切り者です。

 That is why the undoing of guilt is an essential part of the Holy Spirit's teaching.
 だからこそ、罪悪感を取り消すことは、聖霊の教えの中でも極めて重要な部分なのです。

 For as long as you feel guilty you are listening to the voice of the ego, which tells you that you have been treacherous to God and therefore deserve death.
 というのも、あなたが罪悪感を抱くかぎり、あなたはエゴの声に耳を傾けていることになり、そのエゴの声は、あなたに、あなたは神に背き続けており、それゆえに、死に値すると告げるからです。

 You will think that death comes from God and not from the ego because, by confusing yourself with the ego, you believe that you want death.
 あなたは、死はエゴからではなく、神から来るものだと思っているかもしれません。しかし、それは、あなたが、自分をエゴと混同してしまったために、自分が死を望んでいると信じているからです。

 And from what you want God does not save you.
 そして、あなたが望むことから、神があなたを救うということはないのです。



15. When you are tempted to yield to the desire for death, remember that I did not die.
 あなたが死への強い願望に屈してしまいたいとの誘惑に駆られたときには、私は死ななかったということを思い出してください。

 You will realise that this is true when you look within and see me.
 あなたが自分の内面に目を向けて私を見るなら、私が死ななかったことが真実だとわかるでしょう。

 Would I have overcome death for myself alone?
 私が自分だけのために死を乗り越えようとなどしたでしょうか。

 And would eternal life have been given me of the Father unless he had also given it to you?
 それに、父が永遠の生命をあなたにも与えることをしないでおいて、私だけに父から永遠の生命が与えられていたということがあり得るでしょうか。

 When you learn to make me manifest, you will never see death.
 あなたが私を明白に顕現できるようになれば、あなたは決して死に出会うことはないでしょう。

 For you will have looked upon the deathless in yourself, and you will see only the eternal as you look out upon a world that cannot die.
 なぜなら、あなたは、自分自身の中に不死なるものを見たことになるし、そして、あなたが死ぬはずのない世界に目を向けるにつれて、あなたは永遠なるものだけを見るようになるからです。」(テキスト 第十二章 VII. Looking Within 七 内側を見る
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Akiko
2016/08/24 (Wed) 02:06

ありがとうございます

分かりやすい例えで説明してくださりありがとうございます!おかげで今日も理解が深まりました。

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 ken
2016/08/27 (Sat) 12:54

Re: ありがとうございます

> 分かりやすい例えで説明してくださりありがとうございます!おかげで今日も理解が深まりました。
Akikoさま
いつもありがとうございます!
新しい記事は追加しませんが、訳文の修正等は日々行っており、見えないところでバージョンアップを繰り返していますので、今後ともよろしくお願いします。

  • To 松山 健 Matsuyama Kenさん
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