正しい自己中になるにはどうすればよい?
信じている人は幸せで、疑う人はみじめです。
でも、両方とも思い違いをしています。
自分自身を知ることは自分自身を忘れることです。
セルビアのことわざに、「謙虚でありなさい。
なぜなら、あなたはこやしから創造されたから。
高貴でありなさい。
なぜなら、あなたは星々から創造されたから」とういものがあります。
でもそれでは、単なる肉体精神機構以外のものから創造された
この「あなた」とは誰でしょうか?

ラメッシ・S・バルセカール(「源泉からのちょっとしたメッセージ」(「人生を心から楽しむ 罪悪感からの解放」より)
自己中は悪?
自己中心的というのは、一般的には悪いイメージで捉えられます。
しかし、正しい意味で自己中心的になることは、むしろ必要なことです(レッスン345「私は今日、奇跡だけを与えることにする。というのも、私はその奇跡を自分の許へと戻してもらうつもりだからだ」)。

レコードは円盤の中心に穴が開いているからこそ安定して回転します。
私たちも、正しくセンタリングしないかぎり、ずれた穴を中心にして回転するレコード盤のようにブレてひずみ、エキセントリックな振る舞いが平気でできてしまうようになってしまいます。
夢の主人公で述べましたが、私たちが、世界(兄弟)にも自分にも罪が無く潔白だと理解した上でさらに、その上でさらに学ばなければならない唯一の秘密は、自分と世界(兄弟)は別々ではなく、一体となった神の子が潔白なのだと理解することだということでした。
この自他分離の感覚の解消こそ、コースの中でも最重要課題といえます。
これを実現することは、贖罪の完了であり、癒しの達成で救済の完結でもあります。
自分と他人が別々ではなく一体であると理解することは、分離幻想の解消であり、真の自己を知ることでもあります。
「汝自身を知れ」がまた出てくることになります。
冒頭のラメッシ先生が紹介してくださっているセルビアのことわざで、「謙虚でありなさい」と求められるのは小さな自己であり、「高貴でありなさい」と求められるのは大いなる自己です。
大いなる自己は、全ての個別の自己が夢見るレコード盤の中心を貫く軸です。
小さな自己は、個別の夢のレコード盤を再生する針です。

自分のアイデンティティーを真の自分である大いなる自己に置き直す
ともすれば、エゴに惑わされて、針が自分のことを真の自己であると勘違いして、針を中心にレコードを回転させようとします。
そんなことは不可能なことなのに、できるように思えるだけでなく、それこそが当然のように感じてしまいます。
しかし、これは、すでに書かれていることをエゴ本位に書き変えようとあがくことであり、極度に疲労し、生命力を失うことになるばかりか、様々な苦しみを生みだします。
小さな自己としての自分は、時間と空間を展開させる針にすぎず、真の自分は、レコード盤の中心で静止したように見えながら永遠に回転しつづける軸である大いなる自己であることに気づいて、中心を置く自己を見極めなければなりません。
「To be egocentric is to be dis-spirited, but to be Self-centred in the right sense is to be inspired or in spirit.
エゴ本位になると、霊から離れて鋭気を失うことになります。しかし、大いなる自己に中心を置いて、正しい意味で自己中心的になると、霊の中に入って霊感を得て元気になります。」(テキスト第四章 序論 1.)
それでは、正しいセンタリング、すなわち、自分のアイデンティティーを真の自分である大いなる自己に置き直すにはどうすればよいのでしょうか?
救いの公式
「Charity is a way of looking at another as if he had already gone far beyond his actual accomplishments in time.
思いやりは、ほかの人のことを、あたかも彼が時間の中で実際に到達しているところよりもはるか遠くまで、すでに進み終えているがごとくにみなす方法です。」(テキスト 第二章 V. The Function of the Miracle Worker 五 奇跡を行う者の役割 10.)
これは思いやりについての一文ですが、コースでは、他者のことを自分自身として神の子として見る、受け取るためには与え、学ぶためには教える必要があるという観点がよく出てきます。
これは、どうしてなのでしょうか?
私たちが、投影によって自分が映し出した世界を夢見ているなら、自分が光源であることに気づくためには、投影された像を見るしかないということです。
本当の自分を忘れ去り、本来の壮大な自分に及びもつかない矮小な自己像を抱いてしまっている私たちにとって、神の子としての真のアイデンティティーを回復することが究極の課題です。
しかし、人は、自分の姿を見ようとするとき、鏡に映さないかぎり、自分の姿を見ることはできません。
自分自身を知るためには鏡が必要です。
世界というスクリーンがこの鏡になることができます。
個別の心が被る仮面であるエゴは、プロジェクターの光源の前に置かれたスライドやフィルムのようなものです。
真っ白な光は、このエゴ・スライドを通して色づけられ、多様な形を取って、夢の世界というスクリーンに映し出されます。
投影の仕組みは、光源から放たれる真っ白な光がエゴ・スライドを通って、色合いや形を持った光となり、それが世界というスクリーンに映写されて具体的な色や形となるというものです。
多くの人生の苦難は、エゴ・スライドを通して映し出されたこのスクリーンに対して、働きかけることから生じます。
肉眼に見えているのは、このスクリーンに映る世界でしかないために、そこに向かってしまうのはやむをえないようには思えます。
しかし、実のところは、原因と結果のうちの結果に働きかけることになり、効果がないばかりか、この働きかけが、新たな原因となって、さらなる不幸の連鎖を生みだすことになります。
投影が3Dのホログラムによって映画よりもはるかにリアリティを増した形で体験しているために気づきにくいようになってはいるものの、世界に働きかけて何かを解決しようとすることは、仕組みとしては、映画の中で誰かに襲いかかる悪者をやっつけようとして、スクリーンにナイフを突き立てるようなものでしかないということです。
それゆえ、フィルムは元のままであり、世界は、すでに書かれていた通りに上映されていくことになります。
すでに書かれた筋書は、その人の希望する展開と一致することもあるかもしれませんが、そうではないことのほうが多いかもしれません。
そうなると、このようなシャドウ・ボクシングのような実際には甲斐のない働きかけは、その人に、自分には変えられたかもしれない世界を変えられなかったと無力感を抱かせ、自分の努力や働きかけは間違っていなかったけれど、あのときあいつが邪魔したせいだ、社会がこんなだめな制度で成り立っているせいだと、世界や他者に対する敵愾心を抱かせ、エゴ・スライドの色合いや形をよりいっそう、どぎついものにしてしまいます。
それゆえに、コースはchange the worldでご紹介したように、コースは、「投影が知覚を生み出します。あなたの見ている世界は、あなたが作り出した世界です。・・・・人は、自らの心の思うように知覚します。・・・・したがって、世界を変えようとするのではなく、世界に対する自分の心を変えることを選択してください」(テキスト 第二十一章 理性と知覚 序論)と言うのです。
自分自身だけを見ようとしていたのでは、このエゴ・スライドがどのようなものか正確に知ることすら難しいし、スライドを外すことはさらに困難です。
光(聖霊)と色(エゴ)の三原色
ここで、光の三原色(RGB)と色の三原色(RYB)を考えてみます。
聖霊は光であり、エゴは影、形、色であり、闇です。
光の三原色を重ねると、色合いは消えて、真っ白な光になりますが、色の三原色を重ねると黒色になります。
スクリーン上に投影されて色や形として具体化したものに働きかけることは、乾いていない絵の具の上に新しい絵の具を塗りつけて、自分の望むものを描き出そうとするようなもので、どんなにがんばっても、色の三原色を重ねていくと黒になるように、どんどん色や形がぐちゃぐちゃに混じり合って真っ暗な闇が深まるばかりです。
では、どうやったら、スクリーン上の色や形を変えることができるのでしょうか。どのようにして、このエゴ・スライドを外すことができるのでしょうか?
この点、ネガフィルムとポジフィルムのように、像の陰陽を反転させたもの同士を重ねて突き合わせて見ることで、色合いや形を相殺して消すことが可能なようにも思えます。
ノイズ・キャンセリング・ヘッドホンが、ノイズと逆位相の音を発生させて、ノイズと打ち消し合わせる原理で、ノイズを消すという発想のようなものです。
ノイズ・キャンセリング・ヘッドホンでは、具体的には、ヘッドホンに内蔵したマイクに拾わせた外の騒音をデジタル解析し、相殺するのに適切なノイズを自動的に選択して発生させるという仕組みによって働きます。
同じように、エゴ・スライドを通して、外部に投影された出来事に対して、対極をぶつける、つまり、外の世界にマイナスの出来事が起こった場合に、その出来事とちょうど対極にあるイメージを内心で抱くということは可能ですし、一見すると効果があるような気がします。
願望実現の法則として、望みの映像を具体的に音声や手触りまでありあり感じるほどの迫真性をもってイメージして、それを心の中に保持すると、それが「現実」の世界に引き寄せられてくるということがよく言われます。
この方法は、ヴィジュアライゼーションとか、アファメーションとかどこかで聞いたことがある手法と似ている気がしますが、はたしてこれは効果があるのでしょうか。
具体例で考えてみると、外の世界に、経済的苦境であるとか、家族の病気であるといったマイナスの出来事が生じている際に、心の中で、宝くじに当選したイメージであるとか、病気が回復して元気になったイメージを繰り返すことになります。
しかし、どんなに強く念じて、アファメーションを繰り返したとしても、おそらく何の効果もないでしょう(もちろん、このアファメーション自体が因となって、新たな出来事を生みだす因果の流れは生まれるでしょうが)。
外の世界に投影されている結果に対して、その正確な逆位相のイメージを抱くことは、まったくの現実逃避の気休めにしかならないでしょう。
これに比べたら、まだ、よく引き合いに出されるような、がん細胞を光が攻撃してやっつけているイメージトレーニングのようなもののほうが効果はあるはずです。
上の例のイメージングに効果がないのは、逆位相としてイメージしたのは、投影の元となったスライドの反対ではなく、投影された像についての対極だったからでもあります。
しかし、そんな観点を措いても、根本的に、この発想は、世界についての自分の心を変えることを選択するのではなく、世界を変えようとする発想です。
エゴを敵視せずに愛し受け入れること
そもそも、ネガとポジをぶつけて相殺させるという発想は、贖罪で出てきたこの世界での贖罪、すなわち、罪による害悪と同等の害悪の犠牲を払わせて、罪を打ち消すという発想と似ていると感じないでしょうか?
贖罪のところでも触れましたが、この世界における贖罪は、罪があることを前提としたうえで罪によって凹んだマイナスを罪と同等の害悪を負わせる(犠牲)ことによって埋め合わせてプラマイゼロにして罪を帳消しにするという観念でした(小文字のatonement)。
エゴ・スライドを消すために、対極のスライドを重ねるという発想は、このようなこの世界での贖罪の試みと同じようなもので、あくまでも色に色を重ねることにしかならず、色を混ぜ合わせていくと黒くなることを実証することにしかなりません。
エゴの備える属性は、客観的には単なる個性、偏差でしかなく、それ自体にいいも悪いもありません。
つまり、あるエゴの「悪い」属性だけでなく、「よい」属性もまた、ニュートラルな純白から偏りの入った色合いでしかありません。
色つきのガラススライドを何枚も重ねればどんどん色が濃くなるだけで、むしろ色合いが対極であれば、かえって、早々と黒に近づくだけです。
そもそも、エゴ自体、二面構造です。
一般的には、エゴは、どろどろした醜い個人本位の欲望に突き動かされる衝動的な低次の自我としてイメージされます。
もっとも、このような欲望渦巻く本性むき出しでは、ほかのエゴとの衝突で、かえって本意を遂げられないことを学習して、エゴはほかのエゴたちに受け入れられるための、マスク(仮面)を作ります。
このマスクは往々にして、当人が経験から、望ましくない自分として認識している属性の正反対の性質を備えるものとして形作られることが多いものです。
臆病な自分を受け入れられない場合には、勇敢なマスクができるでしょうし、ケチで狭量な自分を受け入れられない場合には、寛大なマスクができるでしょう。
そして、マスクを被る必要のない気を許した家族の前では、本来の臆病で狭量な自分が顔を出して甘えてはバランスを取るというわけです。
このように、エゴ自体、自分の中に二面の顔をもともと備えているのです。
このように、ネガとポジを重ねても、すでに両面備わっているところにさらに色を塗りたくるだけであり、真っ黒なスライドになるだけで、逆に光源からの光を遮ってしまいます。
赦しの実践とフィードバック
さて、この世界での贖罪の考えに対して、コースの言う贖罪(Atonement)は、埋め合わせをすべき罪自体、実在しないということにとことん気づくことで幻想を取消す(赦し)ことによって世界が展開する土台自体をひっくり返すということでした。
これをスライドとの関連で言えば、エゴ・スライドに別のスライドを重ねたり、何か細工したりといった小手先の働きかけをするのをやめて、単純に、スライドを外すようにするというだけのことになります。
スライドの外し方は、ワークブックを実習して偽りのアイデンティティーを真のアイデンティティーに置き換えることです。
最近ご紹介したレッスン30「神は、私の見るすべてのものの中にいる。なぜなら、神は私の心の中にいるからだ」という観点で、世界を眺めるだけでも、スライドを外すことになります。
もちろん、パソコンの譬えで、エゴのウインドウが閉じても閉じてもリンクが作動して開いてきてしまうというように、エゴ・スライドも、外しても外しても、気がついたら、プロジェクターの光源の前には、エゴ・スライドが被さってしまうということが続くでしょう。
ですが、地道に雑草を抜くように根気づよくやっていけば、どんどん進歩するはずです。
誰しも、自分の人生を振り返ってみると、自分があることを学ぶまで、同じ根源を持つと思われるようなトラブルが繰り返し続いたり(職場を転々とするけれど、どこに行っても、同じようなパワハラを受けてしまう)、ある時点で、自分が誰かにしたことを裏返しにしたような感じで、今度は自分がほかの誰かからされる(配偶者のいる人を奪い取って結婚したら、その相手が浮気した)、あるいはその反対(幼いころに親に虐待されたのに、自分も子供を虐待してしまう)というような経験を大なり小なりしていることと思います。
このような出来事に直面して、自分がエゴに従っていたことに気づいて、聖霊を選択しなおして、聖霊に従ってそこからレッスンを学ばないかぎり、同じレッスンは繰り返されることになるのでしょう。
ワークブックでの実習が効果的にエゴ・スライドを外すことを促進してくれます。
冒頭のレコード盤の喩えの中心軸に自分のアイデンティティーを移す(戻す)と、それまで自分自身だと確信していた小さな自己はレコードを再生させるための針でしかなく、鳴り響いていた音楽を聴いていたのは、針ではなく、無数のレコード盤を貫く一本の軸である大いなる自己の方だったと気づく(思い出す)ことになります。
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