分かち合い
Grief can take care if itself, but to get the full value of a joy you must have somebody to divide it with.
悲嘆に暮れるには、自分ひとりだけでなんとかなる。しかし、歓喜の価値を申し分なく味わうには、あなたには喜びを分かち合うほかの誰かが必要だ。

Mark Twain
マーク・トウェイン
奇跡のコースは、分かち合い、共有すること、持っているものを与えることを求めます。
何かを分かち合ったり、自分のものを人にあげることは、一見すると、それを独り占めしている状態に比べて損なことのように思えます。また、誰かの持っているものを得る場合に、ただで手に入れられれば、それに越したことはなく、高い代金を支払うならそれは損をしていることだという風にも思えます。

この発想は、バラバラに分離した個別の自己の抱くエゴからすれば当然のものです。
この世にあるものは形あるものであれ、形のないものであれ、限りある儚いものであり、それゆえにこそ価値があるのだ、そして、限りあるものをみんなが狙っているのだから、せっかく自分の手に入れたものを渡すなどという気前のいいことは言っていられない、逆に、限られたものをみんなで共有するとなると、分母となる共有者の数だけ限られたものの持つ利益を享受できる機会や効能は細分化されてしまう、対価を払うにしても、その対価も自分が持つ有限なものから支出するのだから、少ないほどいいし、せめて自分の価値観で差し引きゼロのイーブンになるようにしなければ損だというわけです。
これに対して、コースは、このような発想は、欠乏を信じることから必要性に序列があるとの考えに基づくものであり、本当の自分は、大いなる自己であることからすれば、、分かち合いが損ではなく得にしかならないということを、物の共有と想念の共有を例に出して説明します。
誰でも物の所有について、分かち合うことには、上の発想があてはまるように感じます。
ですが、想念、アイデアについては、いくら分け合ったところで、そのアイデアが減るわけでもないし、むしろ、誰にも知られないことこそ、そのアイデアの価値を減損してしまうことになります。
素晴らしい発明やみんなが感動する物語も、人知れず、発明した人や作家一人が自己満足して、誰にも公表することなく、埋もれたままで、その人と共にこの世から消え失せてしまっては、価値を失ってしまいます。
そして、私たち自身が神の想念であり、本当は想念ではないものなどないことからすれば、有限に見えるものであっても何かを誰かと分かち合ったり、あげたりすることは損ではなく、むしろそのアイデアを強めて、活かす得なことになるということになります。
そして、与えることと受け取ることは、別のことのように見え、一見すると与える側が優っていて、受け取る側が劣っているように思えることもありますが、そうではありません。
受け取る側も、そのアイデアについての真価を認める評価を「与え」、真価を認め相応の対価を「与え」、それを他の誰かに伝えて「与え」て、神の子全体に貢献するということです。
「誰もがみな、自分があらゆるものを持っていると気付いたとき、神の子全体に対する各自の個人的な負担や貢献の度合いなど、もはや重要なことではなくなります」(テキスト、第一章、五 完全さと霊、2)。
※テキスト 第四章 三 葛藤のない愛
「9. たとえエゴが否定するとしても、あなた自身の心の中には、あなたの解放を宣言するものがあります。
神はあなたにあらゆるものを与えてくれています。
あなたが神から全てを授かっているというこの一つの真実は、エゴは存在しないということを意味します。そして、このことは、エゴを深刻な恐怖に陥れます。
エゴの定義では「何かを持つ」ことと「何かである」ことは、異なったものです。しかし、聖霊にとっては、この二つは同じものです。
聖霊は、あなたが全てを持っていることも、あなたが全てであることも、両方知っています。
このように所有と存在を区別することが意味を持つとすれば、それはただ、欠乏を暗黙の前提とする「手に入れる」という考えが既に受け入れられている場合だけです。
だからこそ、私たちは、神の王国を持っていることと、神の王国そのものであることを区別しないのです。」
※テキスト 第五章 一 聖霊への招待
「1. 癒しとは、二つの心が、その思いによって、自分たちが一つであると気付き、嬉しくなるような思いのことです。
二つの心が自分たちは一つだと気付く喜びは、神の子全体を構成する一人ひとりに、自分たちと一緒に喜ぶようにと呼びかけます。そうすることによって、神は、神の子たちの中へと入り込み、そして通り抜けて行けるようになります。
ただ癒された心だけが、永続的な効果を伴う啓示を経験できます。なぜなら、啓示は、純粋な喜びを体験することだからです。
もしあなたが完全な喜びに満たされることを選ばないとしたら、あなたの心は自らそうあることを選んでもいない姿しか持つことができません。
霊は「何かを持つ」ことと「何かである」ことの間の違いを知らないということを思い出してください。
高位の心は、霊の従う法則に従って考えます。したがって、霊は神の法則のみを尊びます。
霊にとっては、何かを手に入れることには意味はなく、与えることこそが全てです。
霊はあらゆるものを持っているので、霊はあらゆるものを与えることによって保持し、こうして、父が創造したように創造します。
この種の考え方は、普通に物を持つことについての考え方とは全く異質なものですが、想念の所有と関連付けて考えてみれば、下位の心でも、すんなり理解できることです。
もしあなたが物質的な所有物を分かち合うとすれば、あなたは確かにその所有権を分割して持ち合うことになります。
しかしながら、もしあなたが分かち合うのが想念ならば、あなたはその想念を減少させることにはなりません。
たとえあなたが想念を全部誰かに与えたとしても、その想念は依然として、全てあなたのもののままです。
さらに、もし、あなたが想念を与えた相手が、その想念を自分のものとして受け入れてくれたなら、彼はあなたの心の中におけるその想念を補強し、増大させてくれることになります。
もしあなたが、この世界は想念の一つであるという概念を受け入れることができれば、エゴが作り出した与えることと失うことの間の間違った関連付けを全て消し去ることができます。」
※テキスト 第五章 四 教えと癒し
「3. 神の子の誰かが抱く愛に満ち溢れる思いは、一つ残らず、神の子全体に属する一人ひとりのものとなります。
このような思いは、愛に溢れているからこそ、分かち合われます。
分かち合うことは、神の創造の仕方であり、あなたの創造の仕方でもあります。
エゴは、あなたを王国から離れて流浪したまま引き留めておくことはできます。しかし、王国そのものの中においては、エゴには何の力もありません。
霊の想念は、それを思い付いた心を離れることはなく、霊の想念同士が、お互いに対立することもあり得ません。
しかしながら、エゴの想念は対立することがあり得ます。なぜなら、エゴの想念は、異なったレベルで起きるし、また、同じレベルにおいて相反する思いを含むこともあるからです。
相克する思いを共有することなど不可能です。
あなたは、ただ、神があなたのために取っておいてくれる神に属する思いを分かち合うことができるだけです。
このような思いこそ、天の王国なのです。
それ以外の残りの思いは、聖霊が神の王国の光に照らして解釈し直して、それらもまた分かち合うに相応しい思いとされるまでは、あなたと共に留まることになります。
あなたの許に残されたそれらの思いが、十分に浄化されたときに、聖霊は、あなたにそれらの思いを他の者へと与えさせます。
それらの思いを分かち合おうと決心することこそがまさに、その思いを浄化することなのです。」
※テキスト 第九章、二 祈りに対する答え
「10. もし支払うことを手に入れることを等しいとみなすなら、あなたは値段を低く抑えつつも、高い見返りを要求することでしょう。
しかしながら、あなたは、値段を付けることは価値を評価することなので、あなたが受ける見返りはあなたの価値判断に比例するということを忘れてしまっています。
もし支払うことを与えることと結び付けて考えるなら、支払うことを失うことだと知覚するはずがないし、与えることと受け取ることとの互恵的な関係を認めることができるようになります。
そうすれば、見返りの価値ゆえに、値段が高く設定されることになります。
手に入れるための値付けは、ものの真価を見失うことであり、あなたは必然的に自分の受け取るものを大切にしなくなります。
自分の受け取るものにはほとんど価値がないとみて、あなたはその真価を認めず、欲しいとも思わなくなるでしょう。
11. ゆえに、あなたは自分が受け取るものの価値を設定していること、そして、あなたが与えるものによってそれに値段を付けていることを決して忘れないようにしなさい。
僅かな支払いによって多くのものを得ることが可能であると信じるのは、あなたは神と取引できると信じることです。
神の法則は常に公正であり、完璧に首尾一貫しています。
与えることによって、あなたは受け取ることになります。
しかし、受け取ることは、受け入れて受容することであって、手に入れることではありません。
持たないでいることは不可能ですが、自分が持っていると知らないでいることは可能です。
持っていると気付くことは、持っているものを与えたいという意欲となります。そして、この与えたいとの意欲のみによってのみ、あなたは自分が何を持っているのか気付くことができます。
したがって、あなたが与えるものこそ、あなたの持っているものにあなたが付ける価値であり、あなたがそれをどのような値打ちで評価しているかを正確に示す尺度です。
逆に言えば、これはあなたがどれほどそれを欲しているか示す尺度となります。」
※テキスト 第四章 二 エゴと間違った自律
「6. 自分が豊かに満ち足りていると実感し、その感覚を持続できる者のみが真に慈悲深くなることができます。
あなたが、真の慈悲深さとは何を意味するのか考えてみれば、このことは明白なはずです。
エゴにとっては、何かを与えるということは、あなたがその分だけ自分の持ち分無しでやっていかなければならないことを意味します。
あなたが与えることを犠牲にすることと結び付けて考えるとき、あなたは、とにかく自分がより良いものを手に入れることができるのであれば、自分が与えるもの無しでもやっていけると信じるからこそ与えるにすぎません。
「手に入れるために与える」というのは、常に他のエゴとの関係において自らを評価しているエゴが逃れることのできない法則です。
常に他のエゴとの関係で自らを評価しているせいで、エゴは絶え間なく、エゴを生じさせた欠乏に対する信念に心を奪われています。
あるエゴが他のエゴのことを実在するものとして知覚するのは全て、単にそのエゴが確かに実在すると自分自身を納得させようとしてのことにすぎません。
エゴの言う「自尊心」が意味するのは、単に、エゴがまんまと、自らの実在性を受容していると自分自身を欺くことができたということにすぎません。したがって、自尊心ゆえに、エゴが他者を食いものにすることが少ないといっても、それは一時的なことにすぎません。
この「自尊心」は、常にストレスに対して脆弱です。このストレスとは、エゴの存在を脅かすように知覚されるあらゆるものを指します。」