M4-7 神の教師の特性7(寛大さ)
That's what I consider true generosity:
私が思う真の寛大さとは次のようなことです。
You give your all, and yet you always feel as if it costs you nothing.
自分のすべてを捧げながら、それでいて、そのことで自分が少しでも損をしたかのように感じることがまったくないということです。

Simone de Beauvoir
シモーヌ・ド・ボーヴォワール
I'm a Muslim, but I think Jesus would have a drink with me.
おれはイスラム教徒だけど、イエスはきっとおれと酒を酌み交わしてくれると思う。
He would be cool.
彼は喜んで付き合ってくれるだろう。
He would talk to me.
彼のほうからおれに話しかけてくれるんじゃないかな。

Mike Tyson
マイク・タイソン

今回は、神の教師の特性の7つ目、「寛大さ」です。
レッスン24「私は、自分の最善の利益を知覚していない」が参考になると思います。

「2. The teacher of God is generous out of Self interest.
神の教師が寛大であるのは、それが自己の利益になるからです。
This does not refer, however, to the self of which the world speaks.
しかしながら、ここでいう自己とは、真の自己のことであり、この世界で用いられる個人を指す用語としての小さな自己を指すものではありません。
The teacher of God does not want anything he cannot give away, because he realizes it would be valueless to him by definition.
神の教師は、自分が他者に分け与えられないようなものは何も望みません。なぜなら、彼は他者と分かち合えないようなものは当然自分にとって無価値なものだとわかっているからです。」
神の教師が寛大であるのは、正しいアイデンティティーを取り戻しているからです。
つまり、本当の自分はアバター としてのエゴ・身体ではなく、神の子であると。
物事や利益をひとり占めして他者に渡さずにいることは、得をしているように見えて、実は全体としての自分を害しているということに気づいたのです。

Generosity
寛大さ
1. The term generosity has special meaning to the teacher of God.
神の教師にとって、寛大という言葉は特別な意味合いを持っています。
It is not the usual meaning of the word; in fact, it is a meaning that must be learned and learned very carefully.
それは、この言葉が持つ通常の意味とは違っています。それどころか、その意味は、学ぶべきものであり、それもきわめて注意深く学ぶ必要があります。
Like all the other attributes of God's teachers this one rests ultimately on trust, for without trust no one can be generous in the true sense.
神の教師たちが持つほかのすべての属性と同じように、この寛大さという属性も、究極的には信頼に基礎を置きます。というのも、信頼なくして誰も真の意味で気前よくなることなどできないからです。
To the world, generosity means "giving away" in the sense of " giving up."
この世界にとっては、寛大さは「自ら手放す」という意味で「誰かに与える」ことを意味します。
To the teachers of God, it means giving away in order to keep.
神の教師たちにとっては、寛大さとは、自らが保ち続けるために誰かに与えることを意味します。
This has been emphasized throughout the text and the workbook, but it is perhaps more alien to the thinking of the world than many other ideas in our curriculum.
このことはテキストとワークブックを通じて力説されていることです。しかし、この世界の常識からすると、おそらく、私たちがカリキュラムで用いるほかの多くの概念よりも、この寛大さはとりわけ世界の常識とは相容れないものといえるかもしれません。
Its greater strangeness lies merely in the obviousness of its reversal of the world's thinking.
その極端な奇妙さのわけは、単に、この概念が世界の常識とは逆さまになっていることが明白な点にあります。
In the clearest way possible, and at the simplest of levels, the word means the exact opposite to the teachers of God and to the world.
できるだけはっきりと、そして、最も簡潔に言って、この寛大さという言葉は、神の教師に対してと、この世界に対してとで、正反対のことを意味しています。
2. The teacher of God is generous out of Self interest.
神の教師が寛大であるのは、それが自己の利益になるからです。
This does not refer, however, to the self of which the world speaks.
しかしながら、ここでいう自己とは、真の自己のことであり、この世界で用いられる個人を指す用語としての小さな自己を指すものではありません。
The teacher of God does not want anything he cannot give away, because he realizes it would be valueless to him by definition.
神の教師は、自分が他者に分け与えられないようなものは何も望みません。なぜなら、彼は他者と分かち合えないようなものは当然自分にとって無価値なものだとわかっているからです。
What would he want it < for >?
いったい何の「ために」彼がそれを望むというのでしょう。
He could only lose because of it.
分かち合えないようなものを得ても、彼はただ失うことしかできません。
He could not gain.
彼には何の得もないのです。
Therefore he does not seek what only he could keep, because that is a guarantee of loss.
それゆえ、彼は自分だけ持っていられるようなものは求めません。なぜなら、それは喪失を保証されるようなものだからです。
He does not want to suffer.
彼は苦しむことを望んでなどいないのです。
Why should he ensure himself pain?
どうして彼が自分自身が苦しむことを確実にしなければならないのでしょうか。
But he does want to keep for himself all things that are of God, and therefore for His Son.
しかし、彼は、神に属するものすべて、したがって、神の子のためのものであるすべての物事を自分のために保ちたいとは確かに望んでいます。
These are the things that belong to him.
これらは、彼に属する物事だからです。
These he can give away in true generosity, protecting them forever for himself.
これらのものを、彼は真の寛大さによって与えることで、自分のために永遠に守ることができるのです。
