M4-9 神の教師の特性9(誠実さ)


私は死なない。卑怯者にもならない!
善意でなければ信じられないか
相手が優しくしてくれなければ
優しくしてはいけないのか!

そうではないだろう・・・
私が相手を信じることと相手が裏切ることとは
何の関係もなかったんだ

そうだ私は一人だ、だから
私のことは私が決める
私は誰も優しくしてくれなくても
どんなに裏切りられたって
誰も信じない卑怯者にはならない!!



十二国記 景王 中島陽子

だああ大jy’だあだだ





愛の法則と人生の法則

私たちは、無条件の愛という預け入れをするとき、人生のもっとも基本的な法則に従って生きることを相手に促している。別の言い方をすれば、何の見返りも求めず本心から無条件で愛することによって、相手は安心感を得、心が安定する。自分自身の本質的な価値、アイデンティティ、誠実さが肯定され、認められたと感じるのだ。

無条件の愛を受けることによって自然な成長が促され、人生の法則(協力・貢献・自制・誠実)に従って生き、自分の中に潜在する大きな可能性を発見し、それを発揮できるようになる。人を無条件で愛するというのは、相手がこちらの状況や制限に反応するのではなく、自分の内面から沸き起こる意欲に従って行動する自由を相手に与えることだ。

しかしここで勘違いしてはいけない。無条件の愛は、すべきでない行動を大目に見たり、甘やかしたりすることではない。そのような態度はかえって引き出しとなる。私たちがすべきことは、相談役になり、弁護し、相手を守り、期待値を明確にする。そして、何より相手を無条件に愛することである。

あなたが愛の法則にそむき、愛することに条件をつけたら、人生の基本的な法則にそむいて生きることを相手に勧めていることになる。すると相手は反応的、防衛的な立場に追い込まれ、「自分が自立した価値ある人間であること」を証明しなければならないと感じるのだ。

このようにして証明しようとする「自立」は、自立ではない。「反依存」の状態である。依存の違った形であり、成長の連続体で言えば一番低いところにある状態であり、他者に反抗する態度そのものが他者に依存している状態に他ならないのである。まるで敵中心の生き方になる。人の話を主体的に聴き、自分の内面の価値観に従うことよりも、自己主張と自分の「権利」を守ることだけを考えて生きるようになる。



Stephen R. Covey
スティーブン・R.コヴィー(「7つの習慣」第3部 相互依存のパラダイム より)

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神の教師の特性の続きです。

今回は「誠実さ」です。


つねに神と神の子に誠実である

「It is to Them that faithfulness in the true sense is always directed.
 真の意味で誠実さがつねに向けられているのは、神と神の子に対してです。

 Toward Them it looks, seeking until it finds.
 誠実さは、神と神の子のほうに目を向けて、自分が見つけるまで探し続けます。」


正直さと誠実さの相違

神の教師の特性の2つ目は正直さでした(M4-2 神の教師の特性2(正直さ)

正直さと誠実さの相違については、スティーブン・R .コヴィー先生の説明が参考になります。



Stephen R. Covey
スティーブン・R.コヴィー


―――
「正直」とは、真実を語ることである。つまり言葉を現実に合わせることである。それに対して「誠実」とは、現実を言葉に合わせることである。つまり約束を守り、期待に応えることなのだ。

―――「7つの習慣」(スティーブン・R .コヴィー著)


誠実さとは真の自分という現実に自らの言行を一致させること

「Faithfulness is the teacher of God's trust in the Word of God to set all things right; not some, but all.
 誠実さとは、神の大いなる言葉はすべての物事を正すのであり、いくらかの物事だけでなくすべてを正すのだと神の教師が信頼することです。」

誠実さとは、本当の自分が神の子であるという現実に即して生きることです。

それは身体やエゴが自分だと信じて生きることではなく、エゴ・身体は本当の自分ではなく、本当の自分を宿すアバターであるという現実に即して、アバターをエゴではなく聖霊のための道具として捧げることです。

レッスン139「私は、自分自身のために贖罪を受け入れることにする」が参考になると思います。





準備が整うことと会得は区別できる

1.「Readiness, as the text notes, is not mastery.
 テキストで述べるように、準備が整うことと習熟することは同義ではないからです。」
という文章のテキストの該当箇所を引用しておきます。

「7. I have already briefly spoken about readiness, but some additional points might be helpful here.
 私はすでに、準備ができているとはどういうことか手短かに述べましたが、それにいくつかの要点を補足すれば、ここでの理解に役立つことと思います。

 Readiness is only the prerequisite for accomplishment.
 準備ができていることは、何かを成し遂げるための前提条件にすぎません。

 The two should not be confused.
 この準備と成就のふたつを混同してはなりません。

 As soon as a state of readiness occurs, there is usually some degree of desire to accomplish, but it is by no means necessarily undivided.
 準備ができ次第、たいていの場合、ある程度は成し遂げたいと望む気持ちを抱くものです。しかし、このことは必ずしも、準備と成就が区別できないことを意味するわけではありません。

 The state does not imply more than a potential for a change of mind.
 準備のできた状態は、心が変化する可能性があることを意味するにとどまります。

 Confidence cannot develop fully until mastery has been accomplished.
 何事も、習得しようとすることに習熟してそれを会得するまでは、十分な確信を持てるものではありません。

 We have already attempted to correct the fundamental error that fear can be mastered, and have emphasized that the only real mastery is through love.
 私たちはすでに、恐れを力で支配しうるという根本的な誤りを正す試みをしました。そして、愛を通じてしか真の統御は会得できないことも強調しておきました。

 Readiness is only the beginning of confidence.
 準備ができたことは、確信を得るためのほんの皮切りにすぎません。

 You may think this implies that an enormous amount of time is necessary between readiness and mastery, but let me remind you that time and space are under my control.
 このように言うと、あなたは、準備ができたときから真の統御を会得するまでには、途轍もなく長い時間が必要だと仄めかしているように思うかもしれません。しかし、あなたに思い出してほしいことがあります。それは、時間と空間はこの私のコントロールの下にあるということです。」(T2-7 原因と結果


誠実さが学習の進歩を測る目安となる

「1. The extent of the teacher of God's faithfulness is the measure of his advancement in the curriculum.
 神の教師がどの程度誠実かということが、カリキュラムにおける彼の進歩の度合いを測る目安となります。

 Does he still select some aspects of his life to bring to his learning, while keeping others apart?
 彼はいまだに、自分の生活のいくらかの局面だけを選別して自分の学習に充てはしても、ほかの局面は学習とは無縁のままにしようとしているでしょうか。

 If so, his advancement is limited, and his trust not yet firmly established.
 もしそうであるなら、彼の進歩は限られたものとなり、彼の信頼はまだしっかり確立されているとはいえません。」



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Faithfulness
誠実さ



1. The extent of the teacher of God's faithfulness is the measure of his advancement in the curriculum.
 神の教師がどの程度誠実かということが、カリキュラムにおける彼の進歩の度合いを測る目安となります。

 Does he still select some aspects of his life to bring to his learning, while keeping others apart?
 彼はいまだに、自分の生活のいくらかの局面だけを選別して自分の学習に充てはしても、ほかの局面は学習とは無縁のままにしようとしているでしょうか。

 If so, his advancement is limited, and his trust not yet firmly established.
 もしそうであるなら、彼の進歩は限られたものとなり、彼の信頼はまだしっかり確立されているとはいえません。

 Faithfulness is the teacher of God's trust in the Word of God to set all things right; not some, but all.
 誠実さとは、神の大いなる言葉はすべての物事を正すのであり、いくらかの物事だけでなくすべてを正すのだと神の教師が信頼することです。

 Generally, his faithfulness begins by resting on just some problems, remaining carefully limited for a time.
 通常、神の教師の誠実さは、特定の問題についてだけ向けられることから始まり、当分の間は慎重に限定されたままになります。

 To give up all problems to one Answer is to reverse the thinking of the world entirely.
 すべての問題をひとつの大いなる答えに明け渡すことは、この世界の常識を完全に逆転させることだからです。

 And that alone is faithfulness.
 しかし、そうすることだけが誠実であることなのです。

 Nothing but that really deserves the name.
 あらゆる問題をひとつの大いなる答えに委ねること以外は、本当に、誠実さの名で呼ぶに値しません。

 Yet each degree, however small, is worth achieving.
 もっとも、問題をひとつの大いなる答えに託す程度がいかに小さくても、その明け渡しの一つひとつには、成し遂げるだけの価値があります。

 Readiness, as the text notes, is not mastery.
 テキストで述べるように、準備が整うことと習熟することは同義ではないからです。



2. True faithfulness, however, does not deviate.
 しかしながら、真の誠実さは常軌を逸することがありません。

 Being consistent, it is wholly honest.
 首尾一貫しているので、真に誠実な者は完全に正直です。

 Being unswerving, it is full of trust.
 揺らぐことがないので、真に誠実な者は信頼に満ちています。

 Being based on fearlessness, it is gentle.
 恐れがないことに基盤を置いているので、真に誠実な者は優しいのです。

 Being certain, it is joyous.
 確信を持っているので、真に誠実な者は喜びに満ちています。

 And being confident, it is tolerant.
 自信に満ちているので、真に誠実な者は寛容です。

 Faithfulness, then, combines in itself the other attributes of God's teachers.
 つまり、誠実さは、それ自体のうちに、神の教師たちの持つほかの諸々の属性を兼ね備えているのです。

 It implies acceptance of the Word of God and His definition of His Son.
 誠実さは、神の大いなる言葉と神の子についての神の定義を受け入れることを意味します。

 It is to Them that faithfulness in the true sense is always directed.
 真の意味で誠実さがつねに向けられているのは、神と神の子に対してです。

 Toward Them it looks, seeking until it finds.
 誠実さは、神と神の子のほうに目を向けて、自分が見つけるまで探し続けます。

 Defenselessness attends it naturally, and joy is its condition.
 神と神の子に誠実であることには当然、無防備であることを伴うし、神と神の子に誠実であることは喜びです。

 And having found, it rests in quiet certainty on that alone to which all faithfulness is due.
 そして、神と神の子を見つけたなら、誠実な者は、すべての誠実さを捧げるにふさわしい神と神の子の下にのみ、静かな確信をもって安らぐのです。






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