T31-5 ふたつの顔


To gain a crown by fighting is great, to reject it divine.
他者を打ち負かして王位を獲得するのは偉大なことだが、自己に打ち勝って王冠を拒むのは神聖なことだ。

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Friedrich von Schiller
フリードリヒ・フォン・シラー



A human being has so many skins inside, covering the depths of the heart.
心の深淵を覆い隠すために、人間は内側に実に多くの層の皮膜を持っている。

We know so many things, but we don't know ourselves!
私たちはとても多くの物事を知っているが、私たちは自分自身については本当に何も知らない。

Why, thirty or forty skins or hides, as thick and hard as an ox's or bear's, cover the soul.
その理由は、30枚、40枚もの薄い皮膜や分厚い皮革が、まるで雄牛や熊の皮のように厚く固く、魂を覆っているからだ。

Go into your own ground and learn to know yourself there.
あなたの内面を進み、心の奥底にまで降り立って、そこで自分自身を知ることを学びなさい。



Meister Eckhart
マイスター・エックハルト

神のエクハ



All societies end up wearing masks.
どんな社会や共同体も、最後には仮面を被ることに行き着く。

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Jean Baudrillard
ジャン・ボードリヤール



He who fights with monsters should be careful lest he thereby become a monster.
怪物と戦う者は、それによって自分が怪物になってしまわないよう注意すべきだ。

And if thou gaze long into an abyss, the abyss will also gaze into thee.
つまり、もし君が深淵を長く覗き込むなら、その深淵のほうもまた君を凝視することになるわけだ。



Friedrich Nietzsche ; BEYOND GOOD AND EVIL CHAPTER IV. APOPHTHEGMS AND INTERLUDES 146.
ニーチェ(「善悪の彼岸」146文)

7でにええwdさ




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質問

Kinoさん、ご質問ありがとうございました。

正しい自己中になるにはどうすればよい?についてのご質問です。

質問:「①今回のテーマはとても身近に思えますが、本記事では『正しい意味で自己中心的になること』=『正しいセンタリング、すなわち、自分のアイデンティティーを真の自分である大いなる自己に置き直すこと』とあり、所謂この世界における『自己中』の定義(ワガママ)とは関連が一切ないようにも読め、掴みあぐねています。

②実際において正しい自己中になると、本人にはどのような変化が生じ、世界はどう変わるのでしょうか?

③言葉としてはこの世界における定義とは関連しない状態なのでしょうか?ご助言賜れば幸いです。」




回答

まず、①と③からです。

私たちの抱くアイデンティティー

「自己中」という表現を使ったのは、タイトルをキャッチーにしようとの意図が中心で、記事の投稿時には、もちろん、この世界での「自己中」(ワガママ)になることがよいという趣旨はありませんでした。


しかし、いきなり本当の自分がすべての被造物が一体になった神の子としての大いなる自己だと言われて、簡単に納得できるわけがありません。

そもそも私たちは、身体とも一体化しているし、さらにそのうえで、車や家族や会社やイデオロギーや宗教等々、ほかの何かにも自己同一性を抱いて生きています。

そして、私たちは、自分が何にアイデンティティーを抱いているのかすら、明確に意識してはいません。

だから、大いなる自己にアイデンティティーを据え直す大前提として、小さな自己を見極めることは欠かせません。

それゆえ、エゴ・身体と一体化している小さな自己をしっかり意識するために小さな自己としての自己中心性を確立する、つまり、自我を確立するという意味でこの世界における自己中を見直すことは悪いどころか必要なことなのかもしれません。


私たちは何にでもアイデンティティーを抱くことができてしまう

人のアイデンティティーというものは、ふわふわと移ろいやすく、縮こまったり広がったりとまるで幽霊みたいなもので、膨張したり身体から遊離したりして、自分以外の他人や物、会社、国家、イデオロギーや宗教等々何にでも自己同一化することが可能です。


これは、本来の自己が幻想の世界を生み出していることからすれば、当然のことで、森羅万象は自分が想像したものである以上は、大本である自分をその中の一部に縮小させて自己同一化することは容易なことです。

心理学の実験で、学生たちに床の上に置いた膨らんだ紙袋を見つめさせ、紙袋に愛情を感じるように想像させている途中に、不意に紙袋を踏み潰すと、紙袋に愛情を持って一体化していた学生の中には、ワッと声を上げたり、身体的な痛みを感じたり、中には失神する人も出るということです。

紙袋に愛着できるのだから、車、家という財産、さらに、ペットや愛児ともなれば、自分の身体以外でも自己の一部として強固なアイデンティティーを持てるのは言うまでもありません。

このように人は、物体であれ、イデオロギーであれ、本当に何にでも自分のアイデンティティーを持つことができるので、いくらでも中心を外れてエキセントリックになっていくことができます。

分離した身体への一体化が第一段階の誤った自己同一化とすれば、その身体から遊離してさらに別の何かに自己同一化するのは、第二段階の誤った自己同一化といえるかもしれません。

このように、誤った自己同一化を二重にしている状態では、真の自分が誰か思い出すことは非常に困難でしょう。

特定の幻想に自分を縮小させて一体化するという仕組みとしては、第一段階の自己同一化も、第二段階の自己同一化も、変わりはないはずですが、身体への一体化は本当に根深いものです。

だから、身体に一体化し、そのうえでさらに、身体を越えてエゴがアイデンティティーの触手をほかの物や観念に伸ばしているような状態で、アイデンティティーをサンシップ、神の子であることに据えようとしても、エゴがすでに会社や国家に膨張している芸当の究極バージョンとして、自己概念が観念としての神の子にまで膨張するだけのことに終わるでしょう。


まずは、第二段階の自己同一化を解消することが先決です。

自分の子供に一体化している親は、良い学校に入るように幼いころから洗脳したりとか、楽器を習わせたりと子供をコントロールしようとます。親のエゴが子供に望むことが子供の資質の開花に役立つことも意外に多かったりはするものですが、それはさておき、その親は子供の素質や気持ちなんかおかまいなしに、子供という人形の属性を世間的に評価される高性能なものにすることに生きがいを見いだしています。
子供との心のつながりなんかよりも、たとえば、子供が東大に入り、●●省に入るかどうかといったことの方が大事になってしまっています。

平和主義者ほど好戦的な者はいないというジョークがありますが、平和を実現することを自分の使命と任ずる人の中には、自分の信じる平和を実現するためなら、平気で(聖戦の感覚で)戦って他者を傷つけることができてしまう人もいます。

宗教に入れあげて、妻子が食べるにも困る状況になっているのに、嬉々として、お布施を納める当人は、自分は神や仏に仕える尊い行いをしているのであって、妻子を犠牲にすることすら、自分の気高さの証明だと感じているかもしれません。


偽善的な自己概念の罠

こんな振る舞いをしてしまうくらいなら、まだ世間的な常識人としての自我をしっかり持って、人に施しをするにしても、まずは自分から、というバランス感覚のほうが、浮遊したエゴが血迷って何らかの偶像と自己同一化する悲劇に比べたら、まだ望ましいのかもしれません。

自分以外の誰かや観念にエゴが拡張してアイデンティティーを抱いている場合、当人は、自分は、その誰かや困った人々を助けるために犠牲を払って身を捧げているのだと本気で思っています。

もちろん、奇跡のコースも、学ぶためには教え、得るためには与えるようにといいますし、それは空念仏の単に美しいだけの言葉遊びではなく、事実に気づくための実践的なものであるのは確かです。

ただし、他方で、コースは、分かち合いの大切さを強調すると同時に、犠牲という概念を否認し、真の共感は、他者の苦悩を分かち合うことではない、そんなことは特別な関係を結ばせるためのエゴの策略だと言います(テキスト 第十六章 一 真の共感)。

苦悩する他者に同情し、その苦しみを分かち合おうという犠牲的精神は、この世界では尊いものとされます。

苦しんでいる人の身になって、助けを差し延べることは大切なことであると感じるし、自分が苦しんでいるときに、親身になって共感してもらえるだけで、苦しみが和らぐのを実感します。

ふたりで分かち合えば、喜びは倍になり、苦しみは半分になるといいます。




もちろん、真の自他一体感から、そして、その真の自己には何も欠けるところがなく豊かさに満ちているとの思いから、誰かを手助けすることは、コースの否定するところではなくむしろ勧めるところです。

しかし、共感、同情には、エゴの罠が潜んでいることを忘れてはなりません。

神の子には本来、すべての神の力、豊かさが備わっており、欠乏や必要があるというのが幻想だとすれば、分かち合うことができるのは、力強さ、豊かさでしかなく、ありもしない欠乏や必要性は分かち合おうにも、共有しようがないということになります。

つまり、ある人が本当はそこにあるものを無いと信じこんでいるときに、その無いという状態を分かち合うということは、欠乏の幻想を一緒になって信じこむということです。

これは、自らも幻想に入りこみ、幻を信じてしまって弱まっているその人の誤信を強めることであり、その人をさらに弱体化させる攻撃になってしまうということができます。

赤ん坊が一生懸命はいはいして立ち上がろうとしているのを見て、可哀想だと言って、抱っこして代わりに運んであげてばかりいたら、赤ちゃんは本来持っている歩く力を発揮できなくなってしまいます

その人を弱者と決めつけて、施しを授けてやるという共感は、相手を弱体化させる攻撃になってしまう危険があるということです。


赤ちゃんはそうだとしても、病気や怪我で医師から二度と歩けるようにならないと宣告された場合、さらには、片足を切断した場合などには、同じようには考えられないと感じます。ここはいつもの奇跡に難易度はないというテーマです(簡単な奇跡と難しい奇跡ってあるの?をご覧いただければと思います。この世界での出来事が全て本当に幻想であるなら、小説や映画の中の出来事のように、切断した足が再生する奇跡だって、みんなが信じることさえできればいくらでも起こるということになります。)

「6. You respond to what you perceive, and as you perceive so shall you behave.
 あなたは、自分の知覚するものに対して反応します。そして、あなたは、自分の知覚したように振る舞うことになります。

 The Golden Rule asks you to do unto others as you would have them do unto you.
 黄金律はあなたに、自分に対してして欲しいと思うことを、あなたがまずほかの人に対して行うようにと求めます。

 This means that the perception of both must be accurate.
 これは、あなたと他者の両者の知覚がともに正確でなければならない、ということを意味します。

 The Golden Rule is the rule for appropriate behaviour.
 黄金律は、適切に振る舞うための法則です。
 
 You cannot behave appropriately unless you perceive correctly.
 あなたが正しく知覚しないかぎり、あなたは適切に振る舞うことなどできません。

 Since you and your neighbour are equal members of one family, as you perceive both so you will do to both.
 あなたと隣人とは、ひとつの家族の対等な一員同士です。だから、あなたが自分と隣人とを対等な家族だと知覚するなら、あなたは、自分にも隣人にもふさわしい立ち居振る舞いをすることでしょう。

 You should look out from the perception of your own holiness to the holiness of others.
 あなたは、まず、あなた自身の神聖さを知覚し、それから他の人たちの神聖さへと注意を払うべきです。」(テキスト 第一章 III.Atonement and Miracles 三 贖罪と奇跡

小さな自己が身体から遊離して他者や物や考えに憑依したり、エゴを膨張させて大きな何かと一体化しようとするのは、根本的に、エゴ自体が実体のない空疎なものなので、真の自信を持てないために、外の世界で権威が得られそうなものの権威を利用としようとするからです。

この点については、自信喪失と自惚れの行ったり来たりから抜け出すには?をご覧いただければと思います。

自分から離れて、ほかの誰かや物や観念にアイデンティティーを抱く状態は、欠乏の原理によって、エゴが憑依したり膨張したりしようとしているのであって、真に自分と他者が一体であって、そのひとつであるものに欠けるところはなく満ち足りているとの思いにないからこそ生じるし、それだからこそ、そのような思いを取り戻す妨げにもなってしまうということです。



2フェイス


表の顔と裏の顔

さて、このように、自己の概念は、身体を離れて幽体離脱のように、ふらふらと世界の中の何かに自己同一化しがちなものですが、このようなアイデンティティーの対象の移動や膨張を脇に置くとしても、私たちは、自分の中にジキルとハイド、天使と悪魔が共存しているように感じます。


正しい自己中になるにはどうすればよい?でも、エゴの二面性に触れましたが、自己の概念は、清純な表の顔と他者を非難するためのおぞましい裏の顔の二面からなります。

裏の顔は、エゴが自分の自己本位の欲望をふつふつと煮えたぎらせる醜い顔です。

それは、自分でも目を背けたくなるような矮小でおぞましい姿をしているので、自分がちっぽけで醜いということを受け入れられずに、こんな自分にしたのは他者だと非難したくなるような自己像です。

このように、裏の醜い顔は、他者に対して矛先を向けるようになるように働き、幻想であるこの世界が存続するために必要な罪悪感の応酬が続くように作用します。


清純仮面の役目

このエゴ丸出しの裏の顔とは別に、普通、小さな自己は、この世界に教えこまれて、裏の顔を隠すように、清純な表の顔をマスクとして被ります。

この清純な表の顔の役目は、罪を分厚い靄の中の保管庫に封じこめるためのものです。

すなわち、裏の顔むき出しでは、光が当たってしまって、その罪深い顔が抱えこんでいるものが取り消しようのない罪などではなく、修正可能な間違いにすぎないということがあからさまになってしまいます。

そうなっては、この世界が存続するための罪悪感の応酬が続かなくなってしまいます。

そこで、エゴは何としても、清純な表向きの顔で光を遮らなければならないのです。したがって、清純な顔は、スピリチュアルな事柄や綺麗事が大好きですが、当然、聖霊の象徴などではありません。

この清純な表の顔は、同情深く、他者の苦悩に共感し、他人の苦しみを自分のもののように感じては、自分のことを、邪悪なこの世界の中にいる善良で稀有な存在であると信じこんでいます。

世の中の弱い者たちを憐み、不正を許さず、悪に戦いを挑みます(もっとも、自ら先制攻撃はせずに必ず正当防衛の形をとって攻撃します)。

この清純な顔のマスクと一体化すると、表向きは、穢れを知らない聖者のような振る舞いをすることになりますが、汚いものごとは、清らかな自分とは関わりのないことだとして、自分から排除して外の世界にどんどん投影していくので、ゴミ捨て場にされてしまった外の世界は、自分の思いどおりではない、汚れた薄汚い邪悪な地獄に見えてきます。

そうなると、悪循環で、ますますその人は、こんなにも清らかな自分を翻弄する薄汚い世界や他者が悪いんだと非難するようになります。



表面的には、清らかで高潔な顔を見せますが、マスクの裏側では、潔癖さに追いやられた醜い感情やおぞましい欲望がどろどろと渦巻いています。


世俗を排しての聖性の追求は立派な二重人格を生みかねない

高潔な顔は、外の世界に醜いものをすべて投影して自分は清らかになったつもりでいますが、投げ出した汚いものは、ゴミ捨て場としての世界を汚れた邪悪なものにするばかりでなく、単に解離されて、痰壺、肥溜めとしての身体に集積されるばかりで、裏の顔の醜さのどぎつさを増すだけです。

極度のプレッシャーや気の緩みでマスクが外れると、本性が現れて、押しこめられていた醜い情念が噴出するようになります。

自分よりも目下に見ている誰かの気に障る態度であったり、お酒の飲みすぎであったり、ふとしたきっかけでマスクが外れるし、家族や部下の前では、無意識にマスクが取れてしまうということが起こります。

当人は、自分は清らかで神聖な存在だとすら思っているかもしれませんが、その度量は、清濁併せ飲んで広がっていくどころか、汚く醜いもの、罪深いものを自分から排除して、どんどん狭量になり、縮こまって、自分勝手に決めつけた清純なもの以外は何ものも受け入れることのできない実体のない形ばかりの清らかさの象徴のようになってしまいます。

これこそ見事な二重人格であり、この世界が教えこもうとしている自己概念にまんまと引っかかってしまって、最も効率的に幻想にエネルギー源である罪悪感を捧げる理想的なエゴの奴隷です。

その人は、努力して、清らかな自分を築き上げたと思いこんでいるかもしれませんが、ある意味、世界の敷いてくれているレールの上を優等生的に進む最も楽な道を辿ってしまっただけといえるのかもしれません。

厚顔無恥でエゴむき出しの粗忽な自然児のような人に比べて、一見清純そうな人当たりのよい「いい人」のほうが腹の底はどす黒くよどんで悪臭を放っていることが多いのでしょう。

これは、スピリチュアルな方面に関心が向くすべての人にとっての落とし穴でもあります。

本来、ヨーガでいう純質(サットヴァ)が優位で、善良な素質を持って生まれた人であるかもしれないけれど、根の善良さゆえに、この世界の教育に素直に従って、世界の求める自己像に沿った仮面を被らされてしまう不幸のリスクにもさらされるわけです。

さて、ここでも、まずは、世間的な意味での自己中を見直すことが出発点になるかもしれません。

清純な表の顔のマスクは、エゴむき出しの自己中な振る舞いを毛嫌いしています。

ですが、その人は、実のところは、自分が、そんなエゴの汚さを光から守る盾の役目を担わされて、エゴの守護者になっているとは夢にも思っていません。


目指すなら小聖よりも大聖を!

小聖は山に登り、大聖は街(市)に隠るといいます。
市井の中にあっても、真善美のみを追求し、神聖さ至上主義になって、自分の心は綺麗にしても、ゴミはすべて外に投げ捨てる形で清らかさを追い求めると、心は山に登っているようなものになりがちです。

このような人の中にも、自分だけを高めようとしても限界があることに気づいて、いつか山を降りて、かつては救済してやろうと見下していた人々に紛れて暮らす幸運な人もいるかもしれません。

狷介で孤高であったその人は、 街に降り、山に籠っていたころには、醜く感じていたような物事を一つひとつ受け入れて、寛容で丸い人になり、神聖どころか俗っぽくすら見えるようになるかもしれません。

でも、こんな人のほうが、この世界が教えこもうとする自己の概念に毒されずにいられるのではないでしょうか。



上に見てきたような、表の顔も裏の顔も、いずれも、この世界が自らの存続のために教えこもうとする作り物にすぎません。


真の自己概念

では、どうやって、この自己概念を手放して、本当の自己概念を取り戻すことができるのでしょうか?

清純なマスクをぶち壊そうと、それまでとは正反対の努力をすればよいというわけではないでしょう。

表の顔も裏の顔も、真実の自己ではなく、取り消されるべき自己概念ですが、それらを敵視して戦わなくても、優しく受け入れてやることはできます。

二元性の幻想世界においては、すべての物事が二極の間を行き来するグラデーションを見せますが、すべての物事を価値判断せずに等しく受け入れようとすることが、すべてが等しく幻であることに気づくうえでの一歩にはなります。

自己の概念は、この世界による教育によって学習してしまったものです。


だから、単に自己の概念を手放すように求められても、依然として自分であると信じこんでいる自己を完全に喪失するリスクを冒してまで交換することを求められているようで、よりひどい恐怖心を抱いてしまいます。

そこで、この学習成果を取り消すには、私たちが、このような自己の概念以外の存在であることを教えることに狙いを定めたレッスンによる必要が出てきます。

これが、サンシップ、神の子であることについて、コースが繰り返し語り、大いなる自己こそが真のアイデンティティーであると理解させようとするところです。


アンラーンの重要性

この世界の教育の力は強いものです。学校教育なんかではなくて、親や世間から刷りこまれる常識のほうです。

奇跡のコースを読むと、この世界で常識とされていることと完全に真逆の観点ばかり出てくることに気づきます。

一般の常識では、神は実在しない、時間と空間は確固としてある、心は身体の中に脳の作用としてある、他人と自分は別々に隔絶している等々、数え上げればきりがありません。

というよりも、世の中で常識とされていることはことごとく、すべて完全に裏返しにして捉えることができるといえます。すべてです。

この世界による洗脳によって、コースで言うサンシップの概念は非常に異質な考えに感じられるようになってしまっています。

数十億もいるみんなが唯一の神の子が分裂した姿ってどういうこと!?信じられるわけないでしょ!となります。

ですが、その数十億の内の99%の人が、そもそも、このような考え方があるということすら知ることなく人生を終えていくことになるのです。

信じられないとしても、SF小説でこんな発想があったのかと驚嘆するのと同じような感じで、発想として、この観点を情報として得られるだけでも、とてつもない福音であり、幸運なことです。


このサンシップをひとつの観点として受け入れ、まだ実感はできないけれど、自分たちみんなが一体となった神の子が真の自分なのだということを想像してみるだけでも、表と裏の顔という二重のマスクを外すに際しての、アイデンティティーの喪失への恐怖は薄らぐはずです。


自己中についての再評価

さて、世の中の常識はことごとく完全に裏返して捉えることができると言いましたが、自己中についての常識的評価はどうでしょうか?

常識では、自己中は諸悪の根源で、世界から根絶すべき忌まわしいスタンスだということになっています。ここでいう自己中は大いなる自己に中心を戻すという究極的な目標ではなくて、ただ単にエゴ・身体と一体化している小さな自己を中心に素直にワガママになるという意味です。

いわゆる自己中が嫌がられるのは、分離世界においては、ひとりの利益は他者の損失・犠牲のうえに成立するということになるので、個々のエゴの利害調整を図らないかぎり、共存が困難であるところ、素直にエゴむき出しで自分の好きなように振舞う存在は、他のエゴからすれば、自分に損失を与える危険な存在になるし、何より、その自己中は、他の者たちから見れば、自分も本当はそのように好き放題やりたいという本音の欲求に従うことが臆面もなくできてしまえる羨ましい存在である点でも許せません。

しかし、このように自己中を嫌悪する本当の理由は、こんなことではありません。

世界の常識では、いわゆる自己中は、はた迷惑な非常識な存在であり、よろしくないということになっており、これを裏返して逆に言えば、世間の常識は、非自己中、つまり、上に述べてきた清純な顔のマスクを被れと要求しているわけです。

実は、裏の顔自体も、無数に分裂した小さな自己を夢の主人公である身体という人形の中に封じこめてしまうために、人形に被せられるマスクでしかありません。

つまり、自己中はダメだ!というのは、マスクの上にさらにマスクを被れというのと同じことです。


自分自身になりきることは大切

ここで、そもそもなぜ世界が、清純な表の顔をマスクとして被らせようとするかを思い出してみましょう。

それは、光が遮られていた際には、闇の中でエゴが暗躍して、罪悪感による恐怖で包みこんで、取り返しのつかない罪にしか見えないようにできていたのに、清純な顔という盾が無くなって、エゴの欲望や情念の渦巻く裏の顔がむき出しになってしまうと、それに光が当たって、修正可能な誤りにすぎないことが露呈してしまい、そうなっては、エゴがこの幻想世界で生き延びるための罪悪感の応酬を続けさせることができなくなってしまうからということでした。

つまり、表の顔も裏の顔もいずれも仮面にすぎないとしても、表の清純な顔のマスクを取り去ってしまえば、清純な顔という光を遮る盾を失った裏の顔は、影に隠れて巧妙に画策していた際には発揮できていた力を失い、光にさらされて消え去るしかないということになります。

ですから、清純な表の顔のマスクを外して、自分のエゴをむき出しにしてみるということは、悪いことではなく、それはエゴを弱体化させるために必要なことなのかもしれません。

結論としては、自己中はよろしくないと世界が私たちを煽り立てるのは、私たちがエゴむき出しの自己中になってしまっては、世界の存続が危うくなってしまうからということになります。


「17. The world can teach no images of you unless you want to learn them.
 あなたが学びたいと思わないかぎり、この世界はあなたの肖像を教えることはできません。

 There will come a time when images have all gone by, and you will see you know not what you are.
 やがて、すべての肖像が過ぎ去り、自分が何者なのか知らないということに気づくときがやってくるでしょう。

 It is to this unsealed and open mind that truth returns, unhindered and unbound.
 この封印を解かれた開かれた心の許にこそ、真理が何の障害や束縛もなくよみがえってくるのです。

 Where concepts of the self have been laid by is truth revealed exactly as it is.
 自己の概念が脇に置かれたところにおいてこそ、真理はまったくあるがままの姿を明らかにします。」(テキスト第三十一章 五)

清純な顔の仮面を剥がれたエゴは、自らの醜い姿をさらしたくないと悲鳴を上げるでしょう。

そして、この世界は何とか別の仮面を被らせようとしてくるでしょう。それは、他者からの非難や自責の念という形で現れては仮面をつけろと迫ります。

でも、もう、清純な顔の正体を知ってしまった以上は、一見清らかで美しく見えるとしても、そんな仮面には本当の魅力はありません。

世界の脅迫的な要求に屈することなく、仮面を被らずにがんばっていると、清純な仮面をつけていたときに比べると、仮面の清純さを維持するために、これは汚いこれは清いと価値判断して汚いものを排除しようということが少なくなり、仮面を被らなくても、むき出しでいても大丈夫だとわかってきます。

そうなると、むき出し状態のエゴは光にさらされ続け、弱体化していくことになります。

そして、世界から自分が何者かを学ぼうとはしないかぎり、いつかあらゆる自己像が去り、自分が誰なのか知らないと気づくときがやってくるということです。

そのときこそ、大いなる自己を回復し、自らの真の姿である神の子へと戻ることになるのでしょう。


質問②について

②「実際において正しい自己中になると、本人にはどのような変化が生じ、世界はどう変わるのでしょうか?」

正しく小さな自己に中心が置かれ、清純な仮面を被らずにいると、(通常は、清純な仮面が盾になってブロックされるところ)他者からの非難等を通して、自分がエゴに従う矮小な存在であるということに気づかされ、それでも仮面を被らずにいるとエゴが弱体化していくことになると思います。

さて、大いなる自己に正しく中心が置かれた場合にどうなるかついては、一学習者にすぎない私には答えることはできません。

コースでは、幸せな夢の段階の話が出てきますし、世界が投影された幻であるなら、正しい知覚によって、最終的にはヴィジョンを得て真の世界が姿を現すということになるのでしょう。


ただ、率直に考えてみると、恐らく正しい自己中になれて、大いなる自己に中心を据えることができたら、もはや夢の主人公としてのひとつの人形にすぎない「本人に」どんな変化が起ころうが、その人形の見る夢の世界がどのように変わろうが、そんなことは知ったことではない、どうでもいい、という感覚になるのではないでしょうか。

アシュターヴァクラ・ギーター「師」からの詩とラメッシ先生の言葉を引用します。

「40
世界に注意を払っていたら

どうして自分自身を見ることができよう?


師はあれやこれによって心乱されない


彼は自分自身を見る

普遍の真我を」

「74
彼は真我が苦しむことも

死ぬこともないと知っている


だから知識や世界のことを気にかけない


「私は身体だ」や「身体は私のものだ」

という感覚ももたない」



「生命の本当の意味は、生命には意味がないことにあります。それは、ただ起こるだけです。」

「出来事は起こり、行為はなされるが、それについての個人の行為者はいない」

「自由が起こるのは『私が自分自身の意志によって自分の人生を生きている』という愚かな観念と傲慢が落ちるときです。」



Ramesh S Balsekar
ラメッシ・S.バルセカール

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自分がどうなるかということを気にしているその自分がいなくなっていないということは、依然として、その人形に仮面が張りついていて、大いなる自己に戻れていないことを示していることになるんだろうと思います。








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テキスト第三十一章 

V. Self-Concept versus Self
五 自己概念 対 大いなる自己




1. The learning of the world is built upon a concept of the self adjusted to the world's reality.
 この世界の学びは、この世界を現実とみなすように調整された自己の概念の上に築かれています。

 It fits it well.
 この自己概念は、この世界を現実と見ることにうまく適合しています。

 For this an image is that suits a world of shadows and illusions.
 というのは、この自己概念は幻影の世界に適合するように仕立てあげられた肖像だからです。

 Here it walks at home, where what it sees is one with it.
 この世界では、自己が目にするものは自己と一体をなすものなので、自己はわが家にいるように暮らします。

 The building of a concept of the self is what the learning of the world is for.
 このような自己概念を構築することこそ、この世界の学習が目的とするところです。

 This is its purpose; that you come without a self, and make one as you go along.
 このような自己概念を構築することが世界の目的なのであって、あなたは自己を持たずにこの世界にやってきて、成長するにつれてそんな自己を作りあげてゆきます。

 And by the time you reach "maturity" you have perfected it, to meet the world on equal terms, at one with its demands.
 そして、あなたが「成熟」する年齢に達するころには、あなたはこの世界と対等に向き合って、この世界の要求に応えられるように自己を完成させているのです。



2. A concept of the self is made by you.
 自己概念は、あなたが作るものです。

 It bears no likeness to yourself at all.
 小さな自己は、本当のあなた自身とは似ても似つきません。

 It is an idol, made to take the place of your reality as Son of God.
 小さな自己は、神の子としての本当のあなたに取って代わらせるために作られた偶像だからです。

 The concept of the self the world would teach is not the thing that it appears to be.
 この世界が教えようとする自己概念は、見かけ通りのものではありません。

 For it is made to serve two purposes, but one of which the mind can recognize.
 というのは、自己概念はふたつの目的に役立つように作られているのですが、心にはそのうちのひとつしか見分けがつかないからです。

 The first presents the face of innocence, the aspect acted on.
 最初の自己は、外向きに被る仮面であり、罪のない純真な顔を表しています。

 It is this face that smiles and charms and even seems to love.
 この清純な顔は、微笑み、人を惹きつけ、そして愛しているようにさえ見えます。

 It searches for companions and it looks, at times with pity, on the suffering, and sometimes offers solace.
 この仮面は仲間を探し求め、しばしば苦しんでいる者を哀れんだり、ときには慰めを差し延べたりもします。

 It believes that it is good within an evil world.
 この清純な顔は、自らを邪悪な世界の中にいる善であると信じています。

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3. This aspect can grow angry, for the world is wicked and unable to provide the love and shelter innocence deserves.
 この仮面は、世界は悪意に満ちており、無垢な者が受け取って当然のはずの愛や保護を世界が与えることができていないといって、腹を立てることができます。

 And so this face is often wet with tears at the injustices the world accords to those who would be generous and good.
 だから、この清純な顔は、この世界が優しく善良な者たちに押しつけている不当な仕打ちについて、しばしば涙を流して濡れています。

 This aspect never makes the first attack.
 この仮面が自分から先制攻撃を仕掛けることは決してありません。

 But every day a hundred little things make small assaults upon its innocence, provoking it to irritation, and at last to open insult and abuse.
 しかし、毎日のように、その潔白さに対して、たくさんの些細な事柄が小さく襲いかかっては、とうとう最後には、臆面もなく侮辱したり罵倒したりするまでこの側面を苛立たせます。



4. The face of innocence the concept of the self so proudly wears can tolerate attack in self-defense, for is it not a well-known fact the world deals harshly with defenseless innocence?
 この自己が実に誇らしげに被っている清純な顔は、正当防衛としての攻撃であれば、寛大に許容することができます。というのは、この世界が無垢で無防備な者を無慈悲に遇しているのは周知の事実だからです。

  No one who makes a picture of himself omits this face, for he has need of it.
 自らの肖像として、この清純な顔を描き忘れる者は誰ひとりいません。というのも、誰もがこの清純な顔を必要としているからです。

 The other side he does not want to see.
 彼はこの仮面の裏側を見たくもないのです。

 Yet it is here the learning of the world has set its sights, for it is here the world's "reality" is set, to see to it the idol lasts.
 しかし、この世界が学ばせようと目をつけているのはここです。というのも、ここにこそ、 抜かりなく偶像を存続させるために、この世界が突き付ける「現実」が用意されているからです。

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5. Beneath the face of innocence there is a lesson that the concept of the self was made to teach.
 清純な顔の下には、学ぶべき課題があり、自己概念が作り出されたのはこのレッスンを教えるためだったのです。

 It is a lesson in a terrible displacement, and a fear so devastating that the face that smiles above it must forever look away, lest it perceive the treachery it hides.
 それは、恐ろしい置き換えをするようにと教えるものです。その恐ろしさはあまりに破壊的なものなので、その上で、顔は笑っていても、表の顔で隠そうとしている裏切りを知覚されないように永遠にその顔を背けていなければならないほどです。

 The lesson teaches this: "I am the thing you made of me, and as you look on me, you stand condemned because of what I am."
 そのレッスンは次のように教えます。「お前が私をこんな代物に作り変えたのだ。だから、お前が私を見るなら、お前は私の姿ゆえに死刑の宣告を受けるのだ」と。

 On this conception of the self the world smiles with approval, for it guarantees the pathways of the world are safely kept, and those who walk on them will not escape.
 このような自己概念を、この世界は満足気に承認します。というのも、このような自己概念によって、この世界の道が安全に保たれ、その道を歩む者が逃げ出そうとはしなくなることが保証されるからです。



6. Here is the central lesson that ensures your brother is condemned eternally.
 ここにこそ、あなたの兄弟が永久に咎められることを確実なものにする中核的なレッスンがあります。

 For what you are has now become his sin.
 というのも、いまや、あなたの存在そのものが、その兄弟が咎められるべき罪となるからです。

 For this is no forgiveness possible.
 こうなっては、いかなる赦しも不可能となります。

 No longer does it matter what he does, for your accusing finger points to him, unwavering and deadly in its aim.
 もはや、その兄弟が何をしようがそれは問題ではありません。なぜなら、糾弾するあなたの指先は彼に向けられ、揺らぐことなく致命的な的に狙いを定めているからです。

 It points to you as well, but this is kept still deeper in the mists below the face of innocence.
 その指先はあなたにも向けられているのですが、このことはまだ清純な顔の下にかかる靄の奥深くに隠されています。

 And in these shrouded vaults are all his sins and yours preserved and kept in darkness, where they cannot be perceived as errors, which the light would surely show.
 そして、この靄に覆い隠された保管庫の中に、彼の罪やあなたの罪がすべて保存されて闇の中に保たれています。闇の中でなら、光に当てさえすれば、誤りにすぎないと確かにわかるはずの罪も、誤りだとは知覚できなくなるからです。

 You can be neither blamed for what you are, nor can you change the things it makes you do.
 あなたは、自分が誰なのかについて咎められることはなくなりますが、同時に罪があなたに行わせることを変えることもできなくなります。

 Your brother then is symbol of your sins to you who are but silently, and yet with ceaseless urgency, condemning still your brother for the hated thing you are.
 こうして、あなたの兄弟は、あなたにとって自分の罪を象徴する存在となり、あなたはただ静かに、それでありながら、絶え間なく執拗に、自分が憎むべき代物に成り下がったことについて、兄弟のせいだとなおも非難し続けることになります。

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7. Concepts are learned.
 概念は学ぶものです。

 They are not natural.
 概念は生得のものではありません。

 Apart from learning they do not exist.
 学ぶことなしには、概念は存在しません。

 They are not given, so they must be made.
 概念は、所与のものではないので、作られたものに違いありません。

 Not one of them is true, and many come from feverish imaginations, hot with hatred and distortions born of fear.
 概念はどれひとつとして真実ではありません。概念の多くは、恐怖心から生まれた憎悪と歪曲によって昂った熱狂的な想像の産物です。

 What is a concept but a thought to which its maker gives a meaning of his own?
 概念とは、それを思いついた人が、それに自分なりの意味を与える単なる想念にすぎません。

 Concepts maintain the world.
 このような数々の概念が、この世界を維持しています。

 But they can not be used to demonstrate the world is real.
 しかし、これらの概念を使ってこの世界が本物だと実証することはできません。

 For all of them are made within the world, born in its shadow, growing in its ways and finally "maturing" in its thought.
 というのも、すべての概念はこの世界の内側で作り出されたものであり、この世界の影の中で生まれ、この世界の慣行に沿って成長し、ついには、この世界の思考の中に「成熟」してゆくものだからです。

 They are ideas of idols, painted with the brushes of the world, which cannot make a single picture representing truth.
 概念は偶像についての想念であって、この世界の絵筆で描かれるものですが、世界の絵筆には、真理を表現する絵を一枚も描写することはできません。



8. A concept of the self is meaningless, for no one here can see what it is for, and therefore cannot picture what it is.
 自己の概念は何も意味しません。というのは、この世界にいる者は誰ひとりとして、自己概念が何のためにあるのかわからないし、それゆえに、自己概念が何であるのか描写できないからです。

 Yet is all learning that the world directs begun and ended with the single aim of teaching you this concept of yourself, that you will choose to follow this world's laws, and never seek to go beyond its roads nor realize the way you see yourself.
 しかし、この世界が指導する学習は終始一貫して、この自分とは何者なのかという自己概念をあなたに教えこむことだけを目標にしています。それは、あなたがこの世界の法則に従うことを選択し、決してこの世界の道を踏み越えて行こうとはせず、あなたが本当の自分を見出す道に気づいてしまわないようにするためです。

 Now must the Holy Spirit find a way to help you see this concept of the self must be undone, if any peace of mind is to be given you.
 このようにあなたが偽りの自己概念を習得してしまっているという事情があるので、聖霊はなんとか方法を見つけて、少しでも心の平安を得ようと思うなら、この自己概念を取り消す必要があるとあなたが理解する手助けをしなけなければなりません。

 Nor can it be unlearned except by lessons aimed to teach that you are something else.
 しかも、あなたがこれまでに学んでしまった偽りの自己概念を取り消すには、あなたが自分だと信じ込んでいる自己概念とは違う別の存在であると教えることに狙いを定めたレッスンによらないかぎりは不可能です。

 For otherwise, you would be asked to make exchange of what you now believe for total loss of self, and greater terror would arise in you.
 というのは、そうでなければ、あなたは今自分が信じているものと引き換えに、自己を完全に喪失することを求められているようで、よりひどい恐怖心を抱くことになってしまうからです。

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9. Thus are the Holy Spirit's lesson plans arranged in easy steps, that though there be some lack of ease at times and some distress, there is no shattering of what was learned, but just a re-translation of what seems to be the evidence on its behalf.
 かくして、聖霊のレッスンの計画は、ときには、いくらか容易でないときや苦しくなったりすることがあるとしても、それまで学んできたことを打ち砕くようなことは少しもなく、ただ学んだことを裏付ける証拠のように見えているものを改めて解釈し直せば済むような簡単なステップで組み立てられています。

 Let us consider, then, what proof there is that you are what your brother made of you.
 それでは、あなたが兄弟によって憎むべき存在に作りあげられたことを示すどんな証拠があるのか考えてみましょう。

 For even though you do not yet perceive that this is what you think, you surely learned by now that you behave as if it were.
 というのは、たとえあなたがまだそのように自分が考えていると気づいていないとしても、まるでそうであるかのように自分が振舞っていることぐらい、あなたはもうわかっているはずだからです。

 Does he react for you?
 兄弟はあなたに代わって反応を示すでしょうか。

 And does he know exactly what would happen?
 それに、兄弟は何が起こるのか正確に知っているでしょうか。

 Can he see your future and ordain, before it comes, what you should do in every circumstance?
 兄弟はあなたの未来がわかっていて、いかなる状況でも、それが起こる前にあらかじめ、あなたがどうすべきか決めることができるでしょうか。

 He must have made the world as well as you to have such prescience in the things to come
 これから起こることについてそれほど予知できるとすれば、兄弟は、あなただけではなく、この世界をも作りあげたに違いということになるでしょう。



10. That you are what your brother made of you seems most unlikely.
 あなたが兄弟によって憎むべき存在にされたというのは、とてもありえないことのように思えます。

 Even if he did, who gave the face of innocence to you?
 もし仮に兄弟がそうしたのだとしても、それでは、あなたに清純な顔を与えたのはいったい誰なのでしょうか。

 Is this your contribution?
 あなたの清純な顔は、あなたが自分の力で作り出したのでしょうか。

 Who is, then, the "you" who made it?
 そうだとすれば、清純な顔を作り出した「あなた」とは、いったい誰なのでしょう。

 And who is deceived by all your goodness, and attacks it so?
 そして、あなたのまったくの善良さに騙されたり、優しさに付け込んでそれを攻撃したりするのは誰なのでしょうか。

 Let us forget the concept's foolishness, and merely think of this; there are two parts to what you think yourself to be.
 このような概念の馬鹿らしさなど忘れて、ただ、次のことに絞って考えてみましょう。それは、あなたが自分だと考えているものにはふたつの部分があるということです。

 If one were generated by your brother, who was there to make the other?
 もし一方があなたの兄弟によって生み出されたのだとすれば、誰がもう一方を作り出せたのでしょうか。

 And from whom must something be kept hidden?
 そして、何かを隠しておかなければならないとして、それは誰からなのでしょうか。

 If the world be evil, there is still no need to hide what you are made of.
 もしこの世界が邪悪なところであるとしても、依然として、あなたがどのような存在にされたのか隠しておく必要などないはずです。

 Who is there to see?
 それを見る誰がいるというのでしょうか。

 And what but is attacked could need defense?
 それに、防衛を必要とするのは、攻撃されている者だけではないでしょうか。

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11. Perhaps the reason why this concept must be kept in darkness is that, in the light, the one who would not think it true is you.
 おそらく、この概念を闇の中に保っておかなければならない理由は、光の中では、この概念が真実だと思わなくなってしまうのがほかならぬあなただからです。

 And what would happen to the world you see, if all its underpinnings were removed?
 では、もしあなたの目にする世界を支えている土台がすべて取り除かれてしまったとすれば、あなたの見ているこの世界はどうなってしまうでしょうか。

 Your concept of the world depends upon this concept of the self.
 あなたがこの世界について抱く概念は、この自己概念に基づいています。

 And both would go, if either one were ever raised to doubt.
 だから、もしあなたがこの世界について抱く概念と自己概念のどちらであれ、少しでも疑問にさらされたなら、両方とも消えてしまうでしょう。

 The Holy Spirit does not seek to throw you into panic.
 聖霊はあなたをパニック状態に陥れようとしているわけではありません。

 So He merely asks if just a little question might be raised.
 聖霊は、本当にただほんの少し疑問を呈してみてはどうかと尋ねているだけです。



12. There are alternatives about the thing that you must be.
 あなたであるはずの存在についても、いくらか選択の余地はあります。

 You might, for instance, be the thing you chose to have your brother be.
 たとえば、あなたは、自分が兄弟にならせることを選択した存在になっていたかもしれません。

 This shifts the concept of the self from what is wholly passive, and at least makes way for active choice, and some acknowledgment that interaction must have entered in.
 こう考えることは、自己概念をまったく受動的なものから変化させて、少なくとも能動的に選択することに道を開き、あなたと兄弟との間に相互作用があったに違いないと多少なりとも認められるようにします。

 There is some understanding that you chose for both of you, and what he represents has meaning that was given it by you.
 こう考えることには、あなたが自分たちふたりのために選択したことへのいくらかの理解があり、そして、兄弟が表している姿にはあなたに与えられた意味が備わっていることについてのいくらかの理解があります。

 It also shows some glimmering of sight into perception's law that what you see reflects the state of the perceiver's mind.
 それはまた、あなたたちが目にするものは、それを知覚する者の心の状態を反映するという知覚作用の法則を垣間見せてもいます。

 Yet who was it that did the choosing first?
 さて、最初に選んだのは誰だったのでしょうか。

 If you are what you chose your brother be, alternatives were there to choose among, and someone must have first decided on the one to choose, and let the other go.
 もしあなたが、自分が兄弟にならせることを選んだ存在になっているとすれば、その中から選ぶことのできるいくつもの選択肢が存在していたはずです。そうだとすれば、誰かが最初にある選択肢を選ぶことに決めて、ほかの選択肢を放棄することに決めたに違いありません。

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13. Although this step has gains, it does not yet approach a basic question.
 この段階では、得るものはあるにしても、まだ根本的な問題には接近していません。

 Something must have gone before these concepts of the self.
 何かがこのような自己概念に先行して存在したに違いありません。

 And something must have done the learning which gave rise to them.
 そして、何かが学習を成し遂げ、その学習によって自己概念が生み出されたに違いないのです。

 Nor can this be explained by either view.
 このことは、どちらの観点によっても説明することはできません。

 The main advantage of the shifting to the second from the first is that you somehow entered in the choice by your decision.
 最初の観点から二番目の観点に移る主な利点は、あなたがとにかく自分の決断によってその選択をしたということです。

 But this gain is paid in almost equal loss, for now you stand accused of guilt for what your brother is.
 しかし、こうした利点には、その利点とほとんど同等の損失を伴います。というのも、いまやあなたは自分の兄弟が何者であるかについて責任があると非難される立場に立つことになるからです。

 And you must share his guilt, because you chose it for him in the image of your own.
 そして、あなたは自分が抱く罪深い自己像を雛形にして、彼にも同じような肖像を選んだがゆえに、彼の罪悪感も分かち合わなければならなくなります。

 While only he was treacherous before, now must you be condemned along with him.
 前に出てきた最初の観点では、兄弟だけを悪者にしておけばよかったのに、今度はあなたも彼と一緒に非難を受けなければならなくなってしまいます。



14. The concept of the self has always been the great preoccupation of the world.
 自己概念は、この世界がつねに大いに没頭してきた問題です。

 And everyone believes that he must find the answer to the riddle of himself.
 そして、誰もが、自分自身という謎に対する答えを見つけなければならないと信じています。

 Salvation can be seen as nothing more than the escape from concepts.
 救いとは、このような自己概念から逃れることにほかならないとみなすことができます。

 It does not concern itself with content of the mind, but with the simple statement that it thinks.
 救いが扱うのは、心が考える内容ではなく、心が考えるという単純な事実です。

 And what can think has choice, and can be shown that different thoughts have different consequence.
 そして、考えることのできる心は、選択することができます。そして、考えることのできる心は、異なる思考は異なる結果をもたらすと理解できます。

 So it can learn that everything it thinks reflects the deep confusion that it feels about how it was made and what it is.
 したがって、考えることのできる心は、自らが思いつくことはすべて、心がどのようにして作られたのかということと、心とは何なのかについての深い混乱の反映なのだと学ぶことができます。

 And vaguely does the concept of the self appear to answer what it does not know.
 そこで、ぼんやりとではありますが、心が知らないことについて、自己概念が答えているように思えてきます。

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15. Seek not your Self in symbols.
 あなたの真の自己を、象徴の中に探そうとしてはなりません。

 There can be no concept that can stand for what you are.
 象徴の中に、本当のあなたを表現できるような概念はひとつもありえないからです。

 What matters it which concept you accept while you perceive a self that interacts with evil, and reacts to wicked things?
 あなたが邪悪なものと相互作用を持つ小さな自己を自分だとみなして邪悪な物事に関わる間は、あなたがどんな自己概念を受け入れようがそんなことは重要なことではありません。

 Your concept of yourself will still remain quite meaningless.
 あなたが小さな自己と自己同一化しているかぎり、あなたの抱く自分自身についての概念は、依然として完全に無意味なものであり続けることに変わりはないからです。

 And you will not perceive that you can interact but with yourself.
 それに、あなたが小さな自己と自己同一化しているかぎり、あなたには自分が相互に影響を与え合えるのは自分自身とだけなのだということがわからないままでしょう。

 To see a guilty world is but the sign your learning has been guided by the world, and you behold it as you see yourself.
 罪のある世界が見えていることは、あなたがこの世界の導きによって学ばされてきたことを示す印にほかなりません。だから、あなたはこの世界のことを、自分自身を見るように見ているのです。

 The concept of the self embraces all you look upon, and nothing is outside of this perception.
 自己概念はあなたの見るすべてのものを包含しています。そして、この知覚の外側にあるものは何ひとつありません。

 If you can be hurt by anything, you see a picture of your secret wishes.
 もしあなたが何かに傷つけられうるとすれば、あなたは自分の秘めた願望が描き出されたものを見ているのです。

 Nothing more than this.
 ただそれだけです。

 And in your suffering of any kind you see your own concealed desire to kill.
 そして、どのような種類であれ、あなたが苦しみの中にあるときは、あなたはその中に自分自身の殺したいという秘めた願望を見ているのです。



16. You will make many concepts of the self as learning goes along.
 学習が進むにつれて、あなたは多様な自己概念を作りあげるでしょう。

 Each one will show the changes in your own relationships, as your perception of yourself is changed.
 あなたの自分自身に対する見方が変わるにつれて、あなたの作る自己概念の一つひとつが、あなた自身の関係に生じる変化を見せてくれるでしょう。

 There will be some confusion every time there is a shift, but be you thankful that the learning of the world is loosening its grasp upon your mind.
 変化が起きるたびに多少の混乱はあるでしょうが、この世界に教え込まれた学習があなたの心に対する掌握力を失いつつあることに感謝するがよいでしょう。

 And be you sure and happy in the confidence that it will go at last, and leave your mind at peace.
 だから、いつかあなたがこの世界で学んだことがついに去って、あなたの心は平安になると確信して幸福に思うがよいのです。

 The role of the accuser will appear in many places and in many forms.
 糾弾者の役目を持った者が、さまざまな場所に、さまざまな形で姿を現わすでしょう。

 And each will seem to be accusing you.
 そして、その一人ひとりがあなたを非難しているように思えるでしょう。

 Yet have no fear it will not be undone.
 しかし、そんな非難に終わりがないのではないかと恐れることはありません。

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17. The world can teach no images of you unless you want to learn them.
 あなたがそれを学ぼうと望まないかぎり、この世界はあなたについてのどんな肖像も教えることはできないからです。

 There will come a time when images have all gone by, and you will see you know not what you are.
 やがて肖像がすべて去り、本当の自分が何者なのか自分は知らないと気づくときがやってくるでしょう。

 It is to this unsealed and open mind that truth returns, unhindered and unbound.
 この封印を解かれた開かれた心の許にこそ、真理が何の障害や束縛もなく舞い戻ってきます。

 Where concepts of the self have been laid by is truth revealed exactly as it is.
 自己概念がいったん脇に置かれたところにおいてこそ、真理はまったくあるがままの姿を明らかにします。

 When every concept has been raised to doubt and question, and been recognized as made on no assumptions that would stand the light, then is the truth left free to enter in its sanctuary, clean and free of guilt.
 すべての概念が疑念や質問にさらされて、光に耐えられるような前提に基づいてはいないと認められたなら、真理は清浄で罪悪感の入りこむ余地のない自らの聖域に自由に入ることができます。

 There is no statement that the world is more afraid to hear than this:
 次の宣言ほど、この世界が耳にするのを恐れているものはありません。


"I do not know the thing I am, and therefore do not know what I am doing, where I am, or how to look upon the world or on myself."
「自分が何者なのか、私にはわかりません。それゆえに、私は自分が何をしているのか、どこにいるのか、どのようにこの世界や自分自身を見たらよいのかわかりません。」


 Yet in this learning is salvation born.
 しかし、この境地を学ぶことで、救いが生まれるのです。

And What you are will tell you of Itself.
 そうすれば、真のあなたである大いなる存在が、あなたに自らについて教えてくれるでしょう。

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Kino
2013/07/31 (Wed) 12:33

2つの仮面(顔)のお話と、この世界からの要請のお話は、心当たりがある分とても解かりやすかったです。理解を体験に変えるべく日々を生き、ワークブックに取り組んでいきたいと思います。ご回答、有難うございました!

  • To 松山 健 Matsuyama Kenさん
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