レッスン54(レヴュー:レッスン16~20)


あなたの扉を通って自分の目的へと進むのに、余計な努力をする必要はない。自分を強制することもない。もしそうせずにはいられないのであれば、目的か扉が他人のものなのだ。しかし、理性は障害と闘ったり乗り越えたりすることに慣れっこになっている。理性は、ものごとに過剰な意義を与えたり、バリアントの流れと闘い始めると、自分で自分のためにあらゆる問題を作り出してしまう。もしあなたが重要性を与えたりしていなければ、あなた本来の人生ラインには最小限の障害しかないはずだ。
まるで郵便受けから葉書を取ってくるような気持ちで、あなたは自分の目的へ向かわなければなならない。意図から重要性や目的達成願望を取り除いたら、そこに残っているものは何だろう。所有し足を運ぶ決意だけだ。郵便受けの葉書のことを問題視するのはやめて、葉書に向かってただ足を運ぶことにしよう。問題についてあれこれ考えこむのはやめ、どうなるか行動してみよう。そうすると、問題は目的へと進む過程で解消されることだろう。



Vadim Zeland
ヴァジム・ゼランド(「リアリティ・トランサーフィン2 魂の快・不快の選択」319ページ)

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今日は、「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択(ヴァジム・ゼランド著) をご紹介します。


2006年に刊行されたリアリティ・トランサーフィン・シリーズは、当時、スピリチュアル界隈を賑わし、みんな続編の刊行を待ち望み、待ちきれずにロシア語の翻訳を独自に行った人から訳文を購入したりと、熱狂的ファンを生み出した本です。

今では絶版となっており、中古でしか手に入らなくなっています。1巻目はすでに1万円近くまでの高い値段になっており、2巻目以降も早晩高騰する可能性があるので、安いうちに全巻揃えておくことをお勧めします。

ジャンルとしては、願望実現法則の位置づけになる本ですが、この幻想世界でのアバターとしての私たちの自己操縦法を見極めるうえでとても参考になる書籍です。


例えば、トランサーフィンでいう外的意図と内的意図は、コースでいう神の意志とエゴの願望の相違の理解に有益で、コースの学びにもきっと役に立つと思います。

用語法での注意点があります。

トランサーフィンでは、理性と魂という用語が出てきます。コースでは「理性」は聖霊を指す用語ですが、トランサーフィンでは、エゴを意味する用語です。

トランサーフィンでの「魂」=コースでいう聖霊
トランサーフィンでの「理性」=コースでいうエゴ

という置き換えをして読んでいたくとよいと思います。


トランサーフィン




さて、コースがエゴから聖霊に導き役をシフトすべしという教えであり、管理人のエッセイでも、ブログ全体を通じて、アンチ引き寄せの法則的なスタンスで述べているのに、願望実現法則にジャンル分けされるはずのヴァジム・ゼランドさんの本を、コースの参考書籍としてオススメされると困惑してしまうという方もいらっしゃるかもしれません。


この点については、私としては、はてしない物語の後半でバスチアンがエゴの欲望に従う道を歩む必要があったように、だれしもまずは自我を成熟させるために自己実現を追求することが大切だと考えています。

利己的に自己実現をしてエゴという影のない成熟した自我が確立したら、さなぎのようになって自分のあり方についての内的変容を遂げて、今度は利他の生き方にシフトするという時期が到来します。

この点については、M2生徒とは誰かのエッセイで蝶の幼虫から蛹、成虫への変態のアナロジーで論じていますので、参考にしていただければと思います。

M2生徒とは誰かでも述べていますが、利己的に自我を成長させるべき時期なのに、時期尚早に、利他的な生き方に切り替えると、自分自身も他者も傷つけるだけに終わってしまいます。

その意味で、コースを学ぶ人であっても、というよりも、一見、自我を全否定するかに読めてしまうコースを学ぶ人であればこそ、追い詰められた自我が御し難いスピリチュアル・エゴになってしまわないように、自分を大切にして自我を確立するためにエゴと向き合って愛し光を当てるプロセスは欠かせません。

この意味で、通常の自己実現法則が想定しているような自我の満足のためのツールを活用して自分の願望を達成し、実現する営みを一概に否定すべきではないし、それらのツールの中でも良質なものは、目的が個人的な利益追求ではあれ、普遍の人間関係や世界に作用する法則への正確な理解に基づく知見を提供するものであるので、これらのツールを理解し活用法に習熟することはけっして無益でも有害でもないといえます。

他方で、自我が成熟した人にとってコースは内的変容を促す変態ホルモンのように作用しますが、コースはひとりの学習者の内面的な心境の変化を目指す学びではあるものの、他者との関わりを等閑視せずに、最後まで他者とのつながりを通じて赦しを実践することを求めているように思います。

この点で、蛹になったら終わりで、その人だけが悟りを開いてすべて完了!ということはなく、蛹から羽化した蝶が花から花へと羽ばたいて花粉を運んで見る者たちの目を楽しませるように、兄弟たちに愛を届ける方便、マザーテレサの言う「神の鉛筆」となること、それまでのエゴウィルスによって暴走するアバター、エゴの芋虫から、聖霊の声に従って神の御心のままに地上世界を変える道具となる化身、アヴァターラ、聖霊の蝶に変容することが大切に思います。

この意味で、個人としての自我は、消え去るべきではなく、その人の持ち味を活かして神の子の救済に役立てるべきです。

そして、自我を神の鉛筆として上手に使って影のない光で輝く個性を他者に役立てることは、聖霊の声が自分の魂に与える使命を果たすことであり、そのためには、自分や他者という自我・身体、アバターの仕組みを理解し、操作方法に熟達することが不可欠です。

この点で、ヴァジム・ゼランドさんの本は、アバターや世界というゲーム世界の成り立ちや働きかけ方についての教科書としてとても有益なので、参考書として紹介しているという次第です。

ですので、蛹から蝶へという段階にあるブログ読者のみなさんに管理人がヴァジム・ゼランドさんの本を活用して達成してほしいのは、自分だけの扉(リアリティ・トランサーフィンの用語です)を見つけて、自分だけが担うことができる役割を果たすことを通じて聖霊の声に応えるということです。


読者のみなさんの中には、もしかしたら、ご自分の人生ですでに願ったことは、すでにほとんど叶えているという人生ストーリーを歩んでこられて、もうこれ以上何の望みも出てこないという段階にいらっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。

それはそれで、世間的には羨ましい限りの状況ではありますが、はてしない物語の後半でバスチアンが帝王になり損ねて元帝王たちの都を訪れたあたりの人生の大きな分岐点に立っているともいえます。

バスチアンは、ファンタージエンに来た当初の美しい容姿や有能さや名声等を得た状態で、無私の人として尊敬されたいという願望に駆られて、醜い芋虫アッハライを独りよがりの善意で「救済」してやりますが、そのせいで、美しい銀の都アマルガントを荒廃の危機にさらし、救われたはずの元アッハライであるシュラムッフェンたちに生きがいの喪失と不幸をもたらし、最後には苦心してミンロウド鉱から掘り出した父さんの待つ現実世界へ帰る鍵である雲母の絵を彼らに破壊されるという善意が仇で報われる経験をします。

個人的な願望の成就のあとに待っている一見、公的な願望も、それがインサイド・アウトではなく、アウトサイド・インで世間ウケを狙うすけべ心由来のものであるかぎり、かえって害悪を招くだけということがいえます。

この点で、誰もが食いつく世のため人のためという大義名分や人助けのような美名は個人的願望を満たして満腹になったエゴが一息ついた後によだれを垂らして欲しがるつぎの獲物だという自覚は持っておく必要があるでしょう。

イェシュアも聖霊も、けっして私たちに世捨て人や博愛主義者になってほしいと求めてはいないと思います。

世間的な願望を望むことができなくなったバスチアンが、限られた記憶を引き換えに何を望めばよいのかわからないまま内面に向かう旅をしたように、私たちも時期がくれば、自分の内面に向かう旅を歩みます。

聖霊は、表面的によいこととされる寄付や人助けをせよと求めているわけではなく、私たちが自分の霊だけが輝かせられる光を放つことで神の子の帰還に貢献することを求めているように思います。

そして、この自分の魂が求める自分の果たすべき使命、召命だけは、世界中どこを探しても、明日の新聞にも、どこかの本にも、もちろん奇跡のコースにも載っていない情報で、自分の心の奥底にしかありません。

ヴァジム・ゼランドさんの本は、この自分だけの使命、自分独自の扉の開き方についての示唆も大いに与えてくれます。


私たちはコースを学ぶことで、普通に人生を送るかぎりは決して気づくことのできない思いを味わう機会に恵まれています。

それは、元帝王たちの都でのアーガックスとの会話で都の住人になりかけるところだったと気づいて肝を冷やしたバスチアンの思いです。



バスチアンは、しばらく身じろぎもせず立ちつくしていた。今、見聞きしたことで頭がすっかり混乱し、うろたえて、どうしてよいかわからなかった。これまでの目的も計画も、すべてが音をたてて崩れてしまった。自分の中では、何もかもがひっくりかえっていたのだ。ちょうど目の前にあるピラミッド型の塔のように、てっぺんが下に、底が上になっていたのだ。後ろが前になっていたのだ。望んだことは身の破滅であり、憎んだものが救いだったのだ。今はっきりしていることは一つ、町ぐるみ狂ったこの場所からぬけだすことだ!二度とふたたびもどってこないように!



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ミヒャエル・エンデ(「はてしない物語」より)

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現世に生きる私たちは、このときのバスチアンの境地に辿り着けずに個人的な願望追求をぐるぐる繰り返すところで足止めを喰らいがちですが、コースを学ぶことで、私たちはイェシュアから、愛する父さんのいる現実世界への帰り道を探し求めたバスチアンのように生命の水の泉を求める内面の旅を進む機会を与えてもらえています。


自己実現は達成したから、規模の大きいことや世のため人のためを考えなきゃなどと発想したりせずに、まずは家族や身近な人たちとのささやかな日常の行為に大きな愛を込めるというマザー・テレサの教えを実践して、すでに得ている幸福や日常にあふれている奇跡に気づく力を伸ばそうと考えていただけたらと思います。

影(エゴ)を作らずに光で輝く個性(自我)を発揮するために身近なささやかなことに大きな愛を注ぐことは、神の子への奉仕であり、ファンタージエン国の生き物がアウリンをつけた場合にアウリンが導きの星として物語を展開させる役目を果たすようなもので、聖霊に奉仕することです。

ぜひ、ご自分自身を大切にして、家族や友人という自分のまわりの人たちに幸せを運び、ご自分の影響の輪を広げていっていただければと思います。

他者や世界、神の子に愛を届けて奇跡を生きることが、自分の願望といえる境地ほどの幸福はないはずです。

小さなことや日常に奇跡を見出す心がけによって、自分という端末を大切に磨いて、独自の形で神の意志をなす「神の鉛筆」になれるようでありたいですね。


メール質問で、この記事にインスピレーションを与えていただいたM.A.さま、感謝申し上げます。




レッスン54です。




今回は、レッスン16から20までの復習です。





[序文の要約]


注釈も含めて5つの考えを読むことから1日を始める。

そのあと、それらの5つの考えと注釈について考える際に、特定の順番に従う必要はないが、少なくとも1回は、それぞれの考えを実習する。

各実習時間には、2分以上は専念することにして、その考えと関連する注釈を読んだあと、それらについて考えてみる。

1日の間に、この練習をできるだけ頻繁に行う。

もし5つの考えのうちのどのひとつの考えであれ、ある考えがほかの考えよりも自分に訴えかけてくるように感じるなら、そのひとつの考えに集中する。

しかし、その日の終わりには、忘れずにそれら5つの考えのすべてをもう一度おさらいする。



実習時間には、一つひとつの考えに続く注釈を文字どおりに、あるいは、完全にこなそうとする必要はありません。

むしろ、その中核となるポイントを押さえて、そのポイントに関連する考えもそのテーマとなっている考えの復習の一部として考える。

考えと関連する注釈を読んだあとは、可能なら、ひとりきりになれる静かな場所で、目を閉じて練習する。




学びの目的は、自分が静寂をもたらせるようになり、苦悩や混乱を癒せるようになることなのだから、苦悩や混乱を避けて自分ひとりでいられる逃げ場を探し求めていたのでは、このような目的を達成することはできない。

したがって、すでに問題が収束した状況よりも、現に狼狽させられる状況でこそ、自分の学びを生かせるはずだ。




私たちはやがて、平安が自分の一部であり、自分の置かれたいかなる状況においても、その状況をまるごと受け入れる必要があるだけだと学び、そして、最終的には、自分のいる場所には一切の制約が存在しないので、自分がいるところならどこであれ、自分は平安でいられると学ぶことになる。



考えのいくつかは、復習の効果を上げるために、その元のレッスンで示されたままの形とは変えられているが、示されている形のまま使い、元の言葉に戻す必要はないし、元のレッスンの際に提案された通りに考えを適用する必要もない。




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Workbook Lesson 54

Review of Lessons 16 – 20
復習 レッスン16~20



These are the review ideas for today:
次のものが今日の考えです。


1. [16]
 I have no neutral thoughts.
 私には、中立な思いなど何ひとつない。



 Neutral thoughts are impossible because all thoughts have power.
 中立な思いを抱くことが不可能なのは、すべての思考には力があるからだ。

 They will either make a false world or lead me to the real one.
 すべての思考は、偽物の世界を作り出すか、私を真の世界に導くか、そのどちらかだ。

 But thoughts cannot be without effects.
 しかし、思考は結果を伴わざるをえない。

 As the world I see arises from my thinking errors, so will the real world rise before my eyes as I let my errors be corrected.
 私の思考の誤りによって私に見える世界が生まれているのだから、私が自分の誤りが修正されるようにすれば、真の世界が私の目の前に姿を現すことになる。

 My thoughts cannot be neither true nor false.
 私の思考が本物でも偽物でもないということはありえない。

 They must be one or the other.
 私の思考は、本物か偽物のどちらか一方でしかない。

 What I see shows me which they are.
 私の見るものが、私の思考が本物なのか偽物なのかを私に示してくれる。



2. [17]
 I see no neutral things.
 私は、中立な物事を何も見ていない。



 What I see witnesses to what I think.
 私が何を見るかが、私が何を思考しているかを証明する。

 If I did not think I would not exist, because life is thought.
 もし私が思考していなかったら、私は存在しなかっただろう。なぜなら、生命とは思考のことだからだ。

 Let me look on the world I see as the representation of my own state of mind.
 私が自分の見る世界のことを自分の心の状態が顕現したものとして見ることができますように。

 I know that my state of mind can change.
 私は、自分の心境が変わりうるとわかっている。

 And so I also know the world I see can change as well.
 だから、私はまた自分の見る世界も同じように変わりうるとわかっている。



3. [18]
 I am not alone in experiencing the effects of my seeing.
 私だけが、自分の見ていることの結果を体験しているわけではない。


 
 If I have no private thoughts, I cannot see a private world.
 もし私が何も私的な思いを持っていないとすれば、私には、私的な世界を見ることはできない。

 Even the mad idea of separation had to be shared before it could form the basis of the world I see.
 分離という狂気の観念ですら、私の見る世界の基礎を形成しうるには、その前に、分かち合われなければならなかった。

 Yet that sharing was a sharing of nothing.
 しかし、分離の想念を分かち合うことは無を共有することだった。

 I can also call upon my real thoughts, which share everything with everyone.
 私は同じように、自分の真の思考を呼び起こすこともできる。私の真の思考は、すべてのことをすべての人たちと分かち合っている。

 As my thoughts of separation call to the separation thoughts of others, so my real thoughts awaken the real thoughts in them.
 私の分離の思考が他者に分離の思考を引き起こすように、私の真の思考は他者の中に真の思考を目覚めさせる。

 And the world my real thoughts show me will dawn on their sight as well as mine.
 そして、私の真の思考が私に見せる世界は、私の目の前に姿を現すように他者の目の前にも現れてくるだろう。



4. [19]
 I am not alone in experiencing the effects of my thoughts.
 私の思考の結果を体験しているのは、私だけではない。



 I am alone in nothing.
 何事においても、私がひとりきりであることはない。

 Everything I think or say or do teaches all the universe.
 私が思ったり、言ったり、行なったりすることのすべてが、全宇宙に教えることになる。

 A Son of God cannot think or speak or act in vain.
 神の子が思考したり、話したり、行動したりすれば、必ず何らかの効果があるはずだからだ。

 He cannot be alone in anything.
 神の子は、何事においても孤独であることはできない。

 It is therefore in my power to change every mind along with mine, for mine is the power of God.
 だから、私には自分の心と一緒にすべての心を変える力がある。というのも、私の力は神の力そのものだからだ。



5. [20]
 I am determined to see.
 私は見ることに決める。



 Recognizing the shared nature of my thoughts, I am determined to see.
 自分の思考が本来的に分かち合われているとわかったので、私は何としても見ることにする。

 I would look upon the witnesses that show me the thinking of the world has been changed.
 私は、この世界の考え方が変化したことを自らに示す証拠を見るつもりだ。

 I would behold the proof that what has been done through me has enabled love to replace fear, laughter to replace tears, and abundance to replace loss.
 私は、自分を通してなされたことが、恐れを愛に置き換え、涙を笑いに置き換え、喪失を豊かさに置き換えることを可能にする証拠を見るつもりだ。

 I would look upon the real world, and let it teach me that my will and the Will of God are one.
 私は、真の世界を見つめ、そして、真の世界に、私の意志と神の大いなる意志がひとつであることを教えてもらうつもりだ。


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ブリトニーさんのレッスンです。







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