レッスン56(レヴュー:レッスン26~30)


したがって、ヴェーダーンタは、私たちの通常のものの見方をかくも徹底的に破壊するのである。それは世界の内を外に、外を内に変換するものだ。イエスの言葉とされているものにも、同様のものがある。

あなたが二なるものを一となすとき
そして、内なるものを外なるものと
外なるものを内なるものと
上なるものを下なるものとなすとき・・・・
そのとき、あなたがたは〔王国〕に入るであろう・・・・
私はそれらすべてを超えたあの〈光〉だ
私は〈すべて〉だ
〈すべて〉は私から出て 〈すべて〉は私に至る
木を割れば 私はそこにいる
石を持ち上げれば あなたがたはそこに私を見出すだろう

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Alan Watts
アラン・ワッツ(「『ラットレース』から抜け出す方法」39ページ)

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77. Jesus said, "I am the light that is over all things. I am all: from me all came forth, and to me all attained.
イエスは言われた。「私は万物を統べる光です。私はすべてである。私からすべてが出て、私の下にすべては至る。

Split a piece of wood; I am there.
木を割れば、私はそこにいる。

Lift up the stone, and you will find me there."
石を持ち上げれば、あなたは私をそこに見出すであろう」

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The Gospel of Thomas 77
イエス・キリスト(トマスによる福音書77節)

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願望は、実現されない確率を除外していない点で、意図と異なる。もし私たちが何かを望んで、それを得ることが難しいとなると、もっと欲しくなる。願望はいつも過剰ポテンシャルを産み出す。願望自体がすでに過剰ポテンシャルなのだと定義づけられる。どこか何かが欠けているが、その何かをそこへ引き込もうとする思考エネルギーが存在する場合、それが願望だ。これに対し意図は、信じることも望むこともせず、ただ作用するのだ。
純粋な意図は決して過剰ポテンシャルを産み出さない。意図とは、すでにすべてが決定されたということを前提としている。つまり、「私はそうなることをただ単に決めてしまった。それはほぼ成し遂げられた事実なのだ」というように、それは、そうなるだろうということの穏やかな認識である。たとえば、私が売店へ新聞を買いに行くつもりであるとしよう。ここでは願望というのは何もない。願望は、私がそうしようと決めた瞬間まで存在していただけだ。この願望が履行されない確率は極めて小さいし、履行されない場合でも、何の災厄も起こらない。つまりこのときの意図は、願望すなわち過剰ポテンシャルが完全に取り除かれたものになっている。
願望のエネルギーは目的に向けられ、意図のエネルギーは目的達成のプロセスに向けられる。人が何かを欲しいとき、その人は取り囲む世界のエネルギー分布図上に擾乱をもたらし、これが平衡力の作用を招く。しかし、その人が新聞を買いに売店へ歩いていくときには、いかなる異質性もそこにはない。



Vadim Zeland
ヴァジム・ゼランド(「リアリティ・トランサーフィン2 魂の快・不快の選択」107ページ)

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ヨハン・ホイジンガ著「ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み」(講談社学術文庫) をご紹介します。


ホモルーデンス

アマゾン解説
「「人間の文化は遊びにおいて、遊びとして、成立し、発展した」。歴史学、民族学、そして言語学を綜合した独自の研究は、人間活動の本質が遊びであり、文化の根源には遊びがあることを看破、さらに功利的行為が遊戯的行為を圧する近代社会の危うさに警鐘を鳴らす。「遊びの相の下に」人類の歴史の再構築を試みた不朽の古典をオランダ語版全集から完訳。」


実在=愛=神=生命です。

この世界での生命の本質は"play”、再生、遊び、演じること、ふりをすることにあることは誰もが薄々感づいていることです。

物心つくまでの幼少期の人間も動物も遊び心の塊です。

エゴに感染して矮小化して歪みはしても、生命の発露である以上、人の生み出す文化は遊びとは無縁ではありません。

キリストというと、厳かで深刻なイメージがついてしまっていますが、きっとイェシュアはユーモアに溢れた遊び心満タンな人物だったと思います。

なにせ、生命そのものとひとつになっていたのですから、人類の罪を背負って犠牲になると気負って苦虫を噛み潰したような悲壮な雰囲気を漂わせてなどいなかったはずです。



レッスン56です。









[序文の要約]



注釈も含めて5つの考えを読むことから1日を始める。

そのあと、それらの5つの考えと注釈について考える際に、特定の順番に従う必要はないが、少なくとも1回は、それぞれの考えを実習する。

各実習時間には、2分以上は専念することにして、その考えと関連する注釈を読んだあと、それらについて考えてみる。

1日の間に、この練習をできるだけ頻繁に行う。

もし5つの考えのうちのどのひとつの考えであれ、ある考えがほかの考えよりも自分に訴えかけてくるように感じるなら、そのひとつの考えに集中する。

しかし、その日の終わりには、忘れずにそれら5つの考えのすべてをもう一度おさらいする。



実習時間には、一つひとつの考えに続く注釈を文字どおりに、あるいは、完全にこなそうとする必要はありません。

むしろ、その中核となるポイントを押さえて、そのポイントに関連する考えもそのテーマとなっている考えの復習の一部として考える。

考えと関連する注釈を読んだあとは、可能なら、ひとりきりになれる静かな場所で、目を閉じて練習する。




学びの目的は、自分が静寂をもたらせるようになり、苦悩や混乱を癒せるようになることなのだから、苦悩や混乱を避けて自分ひとりでいられる逃げ場を探し求めていたのでは、このような目的を達成することはできない。

したがって、すでに問題が収束した状況よりも、現に狼狽させられる状況でこそ、自分の学びを生かせるはずだ。




私たちはやがて、平安が自分の一部であり、自分の置かれたいかなる状況においても、その状況をまるごと受け入れる必要があるだけだと学び、そして、最終的には、自分のいる場所には一切の制約が存在しないので、自分がいるところならどこであれ、自分は平安でいられると学ぶことになる。



考えのいくつかは、復習の効果を上げるために、その元のレッスンで示されたままの形とは変えられているが、示されている形のまま使い、元の言葉に戻す必要はないし、元のレッスンの際に提案された通りに考えを適用する必要もない。




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Workbook Lesson 56

Review of Lessons 26 – 30
レッスン26~30の復習




Our review for today covers the following:
今日の復習では次のような考えを扱います。


1. [26]
 My attack thoughts are attacking my invulnerability.
 私の攻撃的な思いが私の傷つきようのない性質を攻撃している。



 How can I know who I am when I see myself as under constant attack?
 私が自分自身のことを絶え間なく攻撃にさらされていると思っているのに、どうしてその私に自分が誰なのか知ることができるだろうか。

 Pain, illness, loss, age and death seem to threaten me.
 苦痛や病気、何かを失うことや歳を取ること、そして死が私を脅かすように思える。

 All my hopes and wishes and plans appear to be at the mercy of a world I cannot control.
 私の希望や願望や計画のすべては、自分にはコントロールできない世界のなすがままになっているように見える。

 Yet perfect security and complete fulfillment are my inheritance.
 しかし、まったく安全に自分の希望や願いや計画を完璧に成就することが私が受け継いでいる生得の権利だ。

 I have tried to give my inheritance away in exchange for the world I see.
 それなのに、私は、自分の見るこの世界と引き換えに、この自分の受け継いだものを放棄しようとしてきた。

 But God has kept my inheritance safe for me.
 しかし、神は私のために、私の受け継いだものを無事なまま取っておいてくれている。

 My own real thoughts will teach me what it is.
 私自身の真の思いが、私の受け継いだものが何なのか教えてくれるだろう。



2. [27]
 Above all else I want to see.
 何にもまして私は見たい。



 Recognizing that what I see reflects what I think I am, I realize that vision is my greatest need.
 私が目にするものは私が自分のことを何者だと思うかの反映だとわかったので、私はヴィジョンこそが自分が何よりも必要とするものだと気づいた。

 The world I see attests to the fearful nature of the self-image I have made.
 私の見る世界が、私の作り出した自己像が持つ恐ろしい性質を証明している。

 If I would remember who I am, it is essential that I let this image of myself go.
 もし私が自分が誰なのか思い出したいなら、私がこの自己像を去らせることが何としても必要だ。

 As it is replaced by truth, vision will surely be given me.
 この自己像が真理によって置き換わるなら、ヴィジョンは確実に私に与えられるだろう。

 And with this vision, I will look upon the world and on myself with charity and love.
 そして、このヴィジョンによって、私は慈悲と愛をこめて、この世界と自分自身を眺めることになるだろう。



3. [28]
 Above all else I want to see differently.
 何にもまして私はこれまでとは違ったように見たいと望む。



 The world I see holds my fearful self-image in place, and guarantees its continuance.
 私の見るこの世界は、私の恐ろしい自己像を固定し、その存続を保証している。

 While I see the world as I see it now, truth cannot enter my awareness.
 今自分が見ているように私がこの世界を見ているかぎり、私には真理を自覚することができない。

 I would let the door behind this world be opened for me, that I may look past it to the world that reflects the Love of God.
 私は、この世界の背後にある扉を自分のために開いてもらうことにする。そうすれば、私は、この世界を通り越して、神の大いなる愛を反映する世界を見ることができるだろう。



4. [29]
 God is in everything I see.
 神は私の見るすべての物事の中にある。



 Behind every image I have made, the truth remains unchanged.
 私の作り出したすべての姿の背後には、変わることのないまま真理が残っている。

 Behind every veil I have drawn across the face of love, its light remains undimmed.
 私が愛の顔の前に引き下ろした一つひとつのヴェールの背後には、愛の光が輝きを失うことなく残っている。

 Beyond all my insane wishes is my will, united with the Will of my Father.
 私のあらゆる狂気の願望の向こう側には、私の父の大いなる意志と結びついた私の意志がある。

 God is still everywhere and in everything forever.
 神は、今なおどこにでも在るし、永遠にあらゆるものの中に在る。

 And we who are part of Him will yet look past all appearances, and recognize the truth beyond them all.
 だから、神の一部である私たちは、やがてすべての外観を通り越して、それらすべての向こう側にある真理を認めるようになる。



5. [30]
 God is in everything I see because God is in my mind.
 神は私の心の中にいるので、神は私の見るすべての中にいる。



 In my own mind, behind all my insane thoughts of separation and attack, is the knowledge that all is one forever.
 私自身の心の中には、分離や攻撃という私の狂気の思いすべての背後に、すべては永遠にひとつだという知識がある。

 I have not lost the knowledge of Who I am because I have forgotten it.
 私がそれを忘れているからといって、私は自分が誰なのかという知識を失ったわけではない。

 It has been kept for me in the Mind of God, Who has not left His Thoughts.
 私が誰なのかという知識は、自らの大いなる思いである神の子たちから離れることのない神の大いなる心の中に保たれているからだ。

 And I, who am among them, am one with them and one with Him.
 だから、私は、神の大いなる思いである神の子たちの一員であり、その神の子たちとひとつであり、そして、神ともひとつなのだ。


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それでは、ブリトニーさんのレッスンです。




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