M11 世界平和は実現できる?
What can you do to promote world peace? Go home and love your family.
世界平和のために自分にできることは何かですって? 家に帰ってあなたの家族を愛してあげなさい。

Mother Teresa
マザー・テレサ
あなたが平和になれば、世界平和はすでに内在するものとなります。あなたに他人に対する責任があるとしたら、このことだけです。つまり、あなたが自分のハートと心に平和をもたらすことです。
そんなアドバイスは利己的で無責任だと考える人がいるかもしれません。そういう人は、幸福を見出すためには世界を救わなければならない、と信じています。その受け止め方は間違っています。自分がまず幸福感を見出さないかぎり、世界は救われません。
理解し難いかもしれませんが、これが真実です。今あなたが幸福でないなら、あなたは決して幸福を見出せません。ですから、もし今自分が幸福でないとしたら、未来に幸福を探そうとするのをやめ、自分の注意を現在の瞬間に向けてください。そこにこそ、あなたの幸福があるのですから。

イエス・キリスト(ポール・フェリーニ著「無条件のとと愛 キリスト意識を鏡として」より)
Many painters are afraid of the blank canvas, but the blank canvas is afraid of the painter who dares and who has broken the spell of 'you can't' once and for all.”
多くの画家は何も描かれていない空白のキャンバスを恐れるが、空白のキャンバスのほうは断乎として「お前には絶対にできやしない」という呪文を破って挑んでくる画家を恐れる。

Vincent Willem van Gogh
フィンセント・ファン・ゴッホ

私たちは世界を平和にするピースメイカーになれる
今回はマニュアル第11節の「どのようにしてこの世界で平安が可能となるか」をご紹介します。
この問いへの答えは、エゴの価値判断による裁きを放棄して、神の裁きである聖霊の価値判断に取って代らせることによって可能となるということです。
ひとつ前のM10 価値判断の重圧から解放されるには?やコントロールを手放す(無条件の愛―キリスト意識を鏡として)を読んでみてください。

自分が平安を得ていないのに、平安をもたらすことができるはずがない
「4. Peace is impossible to those who look on war.
争いを目にしている者たちにとって、平安はありえないことです。
Peace is inevitable to those who offer peace.
平安を差し伸べる者たちには平安は当然のことです。」
エゴは大きなことや権威に惹かれてしまう
冒頭のマザー・テレサの言葉を再び引用します。
What can you do to promote world peace? Go home and love your family.
世界平和のために自分にできることは何かですって? 家に帰ってあなたの家族を愛してあげなさい。
コースの学びはきわめて実際的ですが、コースを学ぶ私たちは、ややもすれば、頭でっかちになって、頭の中がエゴの理想でいっぱいになって風船のように膨らんで、地に足がつかずに浮遊するようになりがちです。
エゴは中身がない空疎な幻、無であるがゆえに、つねに強さや大きさ、権威という概念に囚われて、自分が小さくて平凡な存在であるという事実を受け入れることができません。
現実から目を背けず、小さなことに大きな愛を込めるマザーのスタンスはつねに見習うべきです。
英国国教会司教の墓碑銘
「7つの習慣ファミリーワークブック―家族の絆を強めて人生の成功を勝ち取る」43ページで紹介されている英国国教会司教の墓石の言葉を引用します。
世界を変えようとするのではなく心を変えよというコースの教えに通じるインサイド・アウトのアプローチからすれば、自分の内面から自分の周囲へと徐々に自分の影響の輪を広げてゆくことが大切であるということが、人生を悔いる失敗談の形で語られる墓碑銘です。
若くて、自由で、想像力も果てしなかった頃、
世の中を変えるのが私の夢だった。
歳を取って賢くなるにつれ、世の中は変わらないことに気づいた。
そこで少し視野を狭め、自分の国だけを変えることにした。
だが、国も微動だにしないようだった。
人生の黄昏にさしかかり、私の家族や身近な人だけでも変えようと、
最後の力を振り絞ってみた。
ところが、ああ、誰も私の言葉に耳を傾けてくれない。
そして、死の床についた今、私は気づいた。
(恐らく生まれて初めて)
まず自分自身を変えていれば、
その規範によって家族に影響を与えることができたのではないかと……
そして家族に励まされ、支えられて、
自分の国をよくすることができたのではないかと……
もしかしたら、私も世界をかえていたのかもしれないのだ。
アウリンの誘惑によってエゴに突き動かされる旅を乗り越えたバスチアンの到達点
はてしない物語の後半で美しい姿を得、力強さを得、名声を得、賢さを得、そのつど、現実の本当の自分の記憶を喪失して我を忘れて取り憑かれたように権力をを追い求め、果ては自ら王座に就こうとエゴの権化となって暴走したバスチアンのように、私たちは、他者から一目置かれるようなひとかどの人物、他者に称賛される偉大な存在にならなければという欠乏マインドに駆り立てられて寄生バチに脳をハイジャックされた芋虫のように承認欲求から派生する多様な欲望に突き動かされてひたすら邁進します。
大きなことをなさなければという発想をするときは、エゴの目眩ましによってハイジャックされていると自戒する必要があるでしょう。
バスチアンは物語世界の友アトレーユの助けや運命の導きによって幸運にも生命の水を飲んで自分が本当に求めていたことを理解することできました。
ほかの記事でも引用していますが、物語の終盤、生命の水を飲んで現実に帰る場面でのバスチアンの思いを語る一節を引用します。
―――
だが、バスチアンは、ためらわずに水にとびこんだ。そして、水晶のように澄んだ水の中で、転げまわりはねまわり、水を吹きとばしはねかえして、きらきらととび散る水滴を口に受けて飲んだ。飲んで飲んで、渇きがすっかりおさまったとき、体中に悦びがみちあふれていた。生きる悦び、自分自身であることの悦び。自分がだれか、自分の世界がどこなのか、バスチアンには、今ふたたびわかった。新たな誕生だった。今は、あるがままの自分でありたいと思った。そう思えるのは、何よりすばらしいことだった。あらゆるあり方から一つを選ぶことができたとしても、バスチアンは、もうほかのものになりたいとは思わなかっただろう。今こそ、バスチアンにはわかった。世の中には悦びの形は何千何万とあるけれども、それはみな、結局のところたった一つ、愛することができるという悦びなのだと。愛することと悦び、この二つは一つ、同じものなのだ。
あとになって、バスチアンがまた自分の世界にもどってからずっと時がたち、やがて年老いてからも、この悦びはもう消え去ってしまうことはなかった。生涯のうちの最も困難な時期にさえ、かれにはこの心の悦びがあり、それがかれをほほえませ、まわりの人びとを慰めた。
―――

はてしない物語 ミヒャエル・エンデ作 上田 真而子 佐藤 真理子 訳 岩波書店
ダークサイドも大切にする
放蕩息子の帰還の寓話に通じるこのテーマでは、どうしてもダークサイドに堕ちるプロセスが物語の前振りとして必要となります。
順風満帆の主人公が引き寄せの法則によって思うがままの人生を謳歌するだけでなんの蹉跌もないままでは、放蕩息子は出奔したまま父の下に帰らないままで終わってしまうでしょう。
死や誘惑や失敗を忌むべきものとしてのみ捉え、死や誘惑や挫折に屈してそれらを呪いとして終わらせるのではなく、それらを試練として活かすことで祝福に変える観点、ネガティブを愛する生き方も大切ではないでしょうか。
死や誘惑や失敗を忌避して自分にとってポジティブなことだけを求めるかぎり、どうしてもアウリンの誘惑に惑わされたバスチアンのように迷走して壁にぶち当たって本当の自分を掘り出せるかの博打のような生き方をエゴの力を借りてするほかなくなります。
死や誘惑や失敗を忌避せずに歓迎し、それらに屈することなく克服して、呪詛から祝福に変えるという観点で臨むなら、バスチアンのように無自覚に迷走し、祝福に到達できるかは運次第という生き方はできなくなります。
そうではなく、自分に起こることを、その表面的な禍福にかかわらず、すべて祝福に変えることを人生から問われていることになるので、それに真摯に応えようとするなら、その一瞬一瞬が神聖な瞬間を生きることになるはずです。

Section 11
第11節
How Is Peace Possible in This World?
どのようにして、この世界で平安が可能となるか。
1. This is a question everyone must ask.
これは誰もが必ず問いかける疑問です。
Certainly peace seems to be impossible here.
たしかに、この世界で平安を実現することなど、不可能なように思えます。
Yet the Word of God promises other things that seem impossible, as well as this.
しかし、神の大いなる言葉は、これと同じように不可能に思えるほかのことについても約束しています。
His Word has promised peace.
神の大いなる言葉は平安を約束しています。
It has also promised that there is no death, that resurrection must occur, and that rebirth is man's inheritance.
神の大いなる言葉はまた、死はない、復活は必ず起こる、そして、再生こそ人の受け継ぐことだとも約束しています。
The world you see cannot be the world God loves, and yet His Word assures us that He loves the world.
あなたの目にするこの世界が神の愛する世界であるはずがありません。それでも、神の大いなる言葉は、神が世界を愛すると私たちに保証しています。
God's Word has promised that peace is possible here, and what He promises can hardly be impossible.
神の大いなる言葉は、この世界で平安は可能であると約束しています。そして、神の約束することが不可能であるはずがありません。
But it is true that the world must be looked at differently, if His promises are to be accepted.
とはいえ、神の約束が受け入れられるためには、世界は違ったふうに見られなければならないというのは真実です。
What the world is, is but a fact.
世界が何であるかということは、単なる事実です。
You cannot choose what this should be.
あなたは、世界がどのようなものであるべきか選ぶことはできません。
But you can choose how you would see it.
しかし、あなたは、自分がどのように世界を見ようとするか選ぶことはできます。
Indeed, you < must > choose this.
それどころか、あなたはどのように世界を見るか選択「しなければならない」のです。
2. Again we come to the question of judgment.
またしても、私たちは価値判断の問題に直面します。
This time ask yourself whether your judgment or the Word of God is more likely to be true.
今回は、あなたの価値判断と神の大いなる言葉のどちらがより真実である可能性が高いだろうかと自問してみてください。
For they say different things about the world, and things so opposite that it is pointless to try to reconcile them.
というのも、あなたの判断と神の言葉は、世界について違ったことを述べているし、ことがあまりに正反対なので、両者に折り合いをつけさせようとしても無駄だからです。
God offers the world salvation; your judgment would condemn it.
神は世界に救済を差し延べていますが、あなたの価値判断は世界に有罪判決を宣告しようとしています。
God says there is no death; your judgment sees but death as the inevitable end of life.
神は死は存在しないと告げますが、あなたの価値判断には生命の避けようもない終末として死しか見えません。
God's Word assures you that He loves the world; your judgment says it is unlovable.
神の大いなる言葉は、神が世界を愛しているとあなたに保証していますが、あなたの価値判断は、世界は愛するに値しないと告げています。
Who is right?
はたして神とあなたのどちらが正しいのでしょうか。
For one of you is wrong.
というのも、両者のうちのどちらかが間違っているからです。
It must be so.
それだけは間違いありません。
3. The text explains that the Holy Spirit is the Answer to all problems you have made.
テキストは、聖霊こそが、あなたたちの作り出してきたすべての問題に対する大いなる答えであると説明します。
These problems are not real, but that is meaningless to those who believe in them.
あなたたちの作り出してきた問題は実在しません。しかし、問題が存在すると信じこんでいる者たちにとっては、そんなことは意味をなしません。
And everyone believes in what he made, for it was made by his believing it.
そして、誰もが自分の作り出したもののことを信じています。というのは、それらは、彼がそれを信じることによって作り出されたわけだからです。
Into this strange and paradoxical situation,--one without meaning and devoid of sense, yet out of which no way seems possible,--God has sent His Judgment to answer yours.
この奇妙で矛盾に満ちた状況、意味をなさず、道理に欠け、そのうえ、そこから抜け出すことがどう見ても不可能にしか思えない状況の中に、神はあなたの作り出した問題に答えるために神の大いなる裁きを遣わしました。
Gently His Judgment substitutes for yours.
優しく神の大いなる価値判断があなたの価値判断に取って代わります。
And through this substitution is the ununderstandable made understandable.
そして、この置き換わりを通して、理解不能であったものが理解可能になります。
How is peace possible in this world?
どのようにしてこの世界で平安が可能になるのでしょうか。
In your judgment it is not possible, and can never be possible.
あなたの価値判断によると、それは不可能なことであり、可能にはなることは決してありえません。
But in the Judgment of God what is reflected here is only peace.
しかし、神の大いなる価値判断によると、この世界に反映されているのはただ平安だけです。
4. Peace is impossible to those who look on war.
争いを目にしている者たちにとって、平安はありえないことです。
Peace is inevitable to those who offer peace.
平安を差し伸べる者たちには平安は当然のことです。
How easily, then, is your judgment of the world escaped!
そうだとすれば、世界についてのあなたの価値判断から抜け出すのは、なんと簡単なことなのでしょう。
It is not the world that makes peace seem impossible.
世界が平安をありえないものに見せているわけではないのです。
It is the world you see that is impossible.
あなたの目にしている世界のほうこそ、ありえないものなのです。
Yet has God's Judgment on this distorted world redeemed it and made it fit to welcome peace.
しかし、この歪んだ世界に対する神の大いなる裁きが、この世界を救済し、世界を平安を歓迎するにふさわしいものに変えてくれたのです。
And peace descends on it in joyous answer.
だから、喜んで歓迎に応えて、平安が世界に舞い降りてきます。
Peace now belongs here, because a Thought of God has entered.
神の大いなる思いが入りこんだので、いまや平安こそ、この世界にふさわしいものです。
What else but a Thought of God turns hell to Heaven merely by being what it is?
神の大いなる思い以外のいったい何が、ただありのままでいるだけで、地獄を天国に変えられるでしょうか。
The earth bows down before its gracious Presence, and it leans down in answer, to raise it up again.
恵みに満ちた神の大いなる臨在を前にして、大地は頭を垂れ、神はそれに応えて身をかがめて、大地を再び立ち上がらせます。
Now is the question different.
いまや、違ったことが問われます。
It is no longer, "Can peace be possible in this world?" but instead, "Is it not impossible that peace be absent here?"
もはや「この世界で平安は可能だろうか」とは問われません。その代わりに、「この世界から平安が去ることなど不可能ではないか」と問われることでしょう。
