エゴの抵抗
Success is a lousy teacher. It seduces smart people into thinking they can’t lose.
成功というのは最低の教師だ。成功は、優秀な人たちをたぶらかして自分が失敗するはずなどないと思い込ませてしまう。

Bill Gates
ビル・ゲイツ
Ninety-nine percent of the failures come from people who have the habit of making excuses.
失敗の99パーセントは、言い訳をする習慣を持つ人々が生み出している。

George Washington Carver
ジョージ・ワシントン・カーヴァー
現代は主知主義の時代です。この主知主義の基になる魂の働きは、人間の内面に深く関わることができません。だから、知的な人のことを冷たい人と呼んだりするのです。芸術を知的に理解したらどうなるでしょうか。芸術体験を妨害してしまいます。ですから芸術家は自分の作品が知性の力で受け取られたり、知的な象徴解釈を受けたりすることを嫌がります。何もかも解釈されてしまうときには、作品を制作する過程でその作品に生命を与えた創作者の魂の熱が失われてしまうからです。

ルドルフ・シュタイナー(「子どもの教育」より)
Kinoさんからの質問
Kinoさん毎度ありがとうございます。ワークブックレッスン63についてのご質問です。
「[赦し]の意義読解はそう困難ではなかったですけど、ワークブックでの落とし込みとなると、とたんに心が抵抗しているのが分かります。欠乏感が、[光]を、前の記事でいう[偶像]に思わせてしまう感じです。kenさん、アドバイス頂けないでしょうか?」
「[赦し]の意義読解はそう困難ではなかったですけど、」というのが表層的な感覚でしかないということですよね。分厚いコースが全体を通して説明しているのがこの「赦し」なわけですから、当然のことです。

知性、頭のよさってそんなに価値のあること?
テキストだけ読んでいると、頭のよい人であれば、いくらでも言わんとする趣旨は理解できるものですが、赦しは頭だけでできるものではないということでもあると思います。
この点については、赦しの罪の幻想を通り越して、見越すというような理屈の面での理解だけでなくて、イメージとして、シャボン玉のような球体の真ん中に自分がいてシャボン玉の表面に色んな映像が表れては消えていくけれど、内側は微動だにしない静寂のままであるとか、強力で神聖な音叉が神の静寂に完全に同調する無音の音を発し、どこに行こうともどんな音でも同調させて静寂に導いてしまうとか、イメージ的に体感することも大切だと思います。
人で言えば、ユーチューブでエックハルト・トールさんの動画でも見てみれば、この静寂に同調する人の感覚が掴めると思います。
シュタイナーの言うように、現代は主知主義、つまり知性偏重の時代であり、知力にアンバランスなまでに重きが置かれています。
けれど、実のところ、スティーブン・R・コヴィー先生が指摘されるように、エトス・パトス・ロゴスの順番には重要な意義があり、ロゴスは最も低い位置でしもべとしての働きをすべきものです。
本来、道具や武器として意志の達成や愛情の交歓に奉仕すべき知性・論理がひとり歩きするのは、理念も愛も見失った軍事政権の暴走状態と同じような不幸な状態です。
意志の直感的把握や感情での共感で到達できる境地に、知性を用いて到達しようとしても、いつまで経っても辿り着けないままでしょう。
エトスもパトスも磨くことのないまま、頭の良さだけにこだわりそれを誇る人は、本来道具にすぎないしもべに主人の座を明け渡してしまった哀れな存在で、戦車に乗った子どものような危なっかしい存在というべきです。
頭の良さを鼻にかけたり、尊重したりするかっこ悪さ加減を十二分過ぎるくらいに強調しておいてちょうどよいくらいかもしれません。
頭で理解するよりも、腹落ちやハートでの共感を感じ取れる直感、感性を磨くことに比重を置くことが大切に思います。

本当の自分はすばらしい存在だと思うことへの抵抗感
以上はさておき、Kinoさんの持たれた今回の違和感は、赦しにあるのではないような気がします。
61からのレッスンで出てくる「赦し」は具体的な対象についての実践ではなく、主体としての自分が赦しを役目とする世界の光だというテーマに関するものです。
ですので、赦しの難しさを実感する要素の少ないここ一連のレッスンで心が抵抗を見せるとすれば、赦しの実践に関してではなく、赦しを役目とする世界の光となるというたいそうなお役目を自分が引き受けることなどおこがましいというような、自己概念に関連するエゴの抵抗といえるのかもしれません。
「欠乏感が、[光]を、前の記事でいう[偶像]に思わせてしまう感じです。」というのですから、世界の光となるには力量不足の自分なのに、レッスンで「世の光たらん」とやるのは、無理やり自分には相応しくない役目が自分のものだと自分に思い込ませようとしているようで、実体との解離を如実に意識させられてしまう意味で、かえって欠乏感を意識してしまうということです。
自らの本質を神の子と捉えることが偶像崇拝になるはずはない
ですが、おっしゃるようにこれが「偶像」になる心配はありません。
というのも、偶像は、本当は豊饒さと力に満ち溢れているのに、そうではないと思わせて、それを与えてくれるように思える権威を外に作り出すということでしたが、自分が赦しを役目とする世界の光だというのは、ただ単に事実を宣言しているだけだからです。
もちろん、エゴからすれば、こんな大それた役目は自分のものではないし、自分の宿主である小さな自己がこの真実に気づきでもしたら、自分の居場所が無くなってしまうかもしれない一大事なので、どうしたって抵抗せざるをえないところです。
抵抗や反発心が湧いてくるのはエゴにダメージを与えることができている証拠
ですから、心に抵抗感が生じるのはしっかりレッスンに取り組まれている証拠ですし、エゴに脅威を与えることができている証でもあるといえます。
この抵抗が苦しく感じられたとしても、自己欺瞞に陥れようとしているのは、エゴのほうだとわかっていれば、疑うことなくレッスンに取り組めると思います。
この調子でがんばりましょう。
テキストだけ読んでいると、頭のよい人であれば、いくらでも言わんとする趣旨は理解できるものですが、赦しは頭だけでできるものではないということでもあると思います。
この点については、赦しの罪の幻想を通り越して、見越すというような理屈の面での理解だけでなくて、イメージとして、シャボン玉のような球体の真ん中に自分がいてシャボン玉の表面に色んな映像が表れては消えていくけれど、内側は微動だにしない静寂のままであるとか、強力で神聖な音叉が神の静寂に完全に同調する無音の音を発し、どこに行こうともどんな音でも同調させて静寂に導いてしまうとか、イメージ的に体感することも大切だと思います。
人で言えば、ユーチューブでエックハルト・トールさんの動画でも見てみれば、この静寂に同調する人の感覚が掴めると思います。
シュタイナーの言うように、現代は主知主義、つまり知性偏重の時代であり、知力にアンバランスなまでに重きが置かれています。
けれど、実のところ、スティーブン・R・コヴィー先生が指摘されるように、エトス・パトス・ロゴスの順番には重要な意義があり、ロゴスは最も低い位置でしもべとしての働きをすべきものです。
本来、道具や武器として意志の達成や愛情の交歓に奉仕すべき知性・論理がひとり歩きするのは、理念も愛も見失った軍事政権の暴走状態と同じような不幸な状態です。
意志の直感的把握や感情での共感で到達できる境地に、知性を用いて到達しようとしても、いつまで経っても辿り着けないままでしょう。
エトスもパトスも磨くことのないまま、頭の良さだけにこだわりそれを誇る人は、本来道具にすぎないしもべに主人の座を明け渡してしまった哀れな存在で、戦車に乗った子どものような危なっかしい存在というべきです。
頭の良さを鼻にかけたり、尊重したりするかっこ悪さ加減を十二分過ぎるくらいに強調しておいてちょうどよいくらいかもしれません。
頭で理解するよりも、腹落ちやハートでの共感を感じ取れる直感、感性を磨くことに比重を置くことが大切に思います。

本当の自分はすばらしい存在だと思うことへの抵抗感
以上はさておき、Kinoさんの持たれた今回の違和感は、赦しにあるのではないような気がします。
61からのレッスンで出てくる「赦し」は具体的な対象についての実践ではなく、主体としての自分が赦しを役目とする世界の光だというテーマに関するものです。
ですので、赦しの難しさを実感する要素の少ないここ一連のレッスンで心が抵抗を見せるとすれば、赦しの実践に関してではなく、赦しを役目とする世界の光となるというたいそうなお役目を自分が引き受けることなどおこがましいというような、自己概念に関連するエゴの抵抗といえるのかもしれません。
「欠乏感が、[光]を、前の記事でいう[偶像]に思わせてしまう感じです。」というのですから、世界の光となるには力量不足の自分なのに、レッスンで「世の光たらん」とやるのは、無理やり自分には相応しくない役目が自分のものだと自分に思い込ませようとしているようで、実体との解離を如実に意識させられてしまう意味で、かえって欠乏感を意識してしまうということです。
自らの本質を神の子と捉えることが偶像崇拝になるはずはない
ですが、おっしゃるようにこれが「偶像」になる心配はありません。
というのも、偶像は、本当は豊饒さと力に満ち溢れているのに、そうではないと思わせて、それを与えてくれるように思える権威を外に作り出すということでしたが、自分が赦しを役目とする世界の光だというのは、ただ単に事実を宣言しているだけだからです。
もちろん、エゴからすれば、こんな大それた役目は自分のものではないし、自分の宿主である小さな自己がこの真実に気づきでもしたら、自分の居場所が無くなってしまうかもしれない一大事なので、どうしたって抵抗せざるをえないところです。
抵抗や反発心が湧いてくるのはエゴにダメージを与えることができている証拠
ですから、心に抵抗感が生じるのはしっかりレッスンに取り組まれている証拠ですし、エゴに脅威を与えることができている証でもあるといえます。
この抵抗が苦しく感じられたとしても、自己欺瞞に陥れようとしているのは、エゴのほうだとわかっていれば、疑うことなくレッスンに取り組めると思います。
この調子でがんばりましょう。