エゴの抵抗
Success is a lousy teacher. It seduces smart people into thinking they can’t lose.
成功というのは最低の教師だ。成功は、優秀な人たちをたぶらかして自分が失敗するはずなどないと思い込ませてしまう。

Bill Gates
ビル・ゲイツ
Ninety-nine percent of the failures come from people who have the habit of making excuses.
失敗の99パーセントは、言い訳をする習慣を持つ人々が生み出している。

George Washington Carver
ジョージ・ワシントン・カーヴァー
Kinoさん毎度ありがとうございます。ワークブックレッスン63についてのご質問です。
「[赦し]の意義読解はそう困難ではなかったですけど、ワークブックでの落とし込みとなると、とたんに心が抵抗しているのが分かります。欠乏感が、[光]を、前の記事でいう[偶像]に思わせてしまう感じです。kenさん、アドバイス頂けないでしょうか?」
「[赦し]の意義読解はそう困難ではなかったですけど、」というのが表層的な感覚でしかないということですよね。分厚いコースが全体を通して説明しているのがこの「赦し」なわけですから、当然のことです。

テキストだけ読んでいると、頭のよい人であれば、いくらでも言わんとする趣旨は理解できるものですが、赦しは頭だけでできるものではないということでもあると思います。
この点については、赦しの罪の幻想を通り越して、見越すというような理屈の面での理解だけでなくて、イメージとして、シャボン玉のような球体の真ん中に自分がいてシャボン玉の表面に色んな映像が表れては消えていくけれど、内側は微動だにしない静寂のままであるとか、強力で神聖な音叉が神の静寂に完全に同調する無音の音を発し、どこに行こうともどんな音でも同調させて静寂に導いてしまうとか、イメージ的に体感することも大切だと思います。
人で言えば、ユーチューブでエックハルト・トールさんの動画でも見てみれば、この静寂に同調する人の感覚が掴めると思います。

以上はさておき、Kinoさんの持たれた今回の違和感は、赦しにあるのではないような気がします。
61からのレッスンで出てくる「赦し」は具体的な対象についての実践ではなく、主体としての自分が赦しを役目とする世界の光だというテーマに関するものです。
ですので、赦しの難しさを実感する要素の少ないここ一連のレッスンで心が抵抗を見せるとすれば、赦しの実践に関してではなく、赦しを役目とする世界の光となるというたいそうなお役目を自分が引き受けることなどおこがましいというような、自己概念に関連するエゴの抵抗といえるのかもしれません。
「欠乏感が、[光]を、前の記事でいう[偶像]に思わせてしまう感じです。」というのですから、世界の光となるには力量不足の自分なのに、レッスンで「世の光たらん」とやるのは、無理やり自分には相応しくない役目が自分のものだと自分に思い込ませようとしているようで、実体との解離を如実に意識させられてしまう意味で、かえって欠乏感を意識してしまうということです。
ですが、おっしゃるようにこれが「偶像」になる心配はありません。
というのも、偶像は、本当は豊饒さと力に満ち溢れているのに、そうではないと思わせて、それを与えてくれるように思える権威を外に作り出すということでしたが、自分が赦しを役目とする世界の光だというのは、ただ単に事実を宣言しているだけだからです。
もちろん、エゴからすれば、こんな大それた役目は自分のものではないし、自分の宿主である小さな自己がこの真実に気づきでもしたら、自分の居場所が無くなってしまうかもしれない一大事なので、どうしたって抵抗せざるをえないところです。
ですから、心に抵抗感が生じるのはしっかりレッスンに取り組まれている証拠ですし、エゴに脅威を与えることができている証でもあるといえます。
この抵抗が苦しく感じられたとしても、自己欺瞞に陥れようとしているのは、エゴのほうだとわかっていれば、疑うことなくレッスンに取り組めると思います。
この調子でがんばりましょう。