T3-1 贖罪には犠牲は無用

2013年08月28日
テキスト第3章(潔白な知覚) 0

Blessed are you when people insult you, persecute you and falsely say all kinds of evil against you because of me.
私のために人々があなたがたを侮辱し、迫害し、あなたがたに対し偽わってさまざまの悪口を言いうとき、あなたがたは、幸いである。

Rejoice and be glad, because great is your reward in heaven, for in the same way, they persecuted the prophets who were before you.
欣喜雀躍せよ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

Jesus Christ

Jesus Christ, Matthew 5:11-12
イエス・キリスト(マタイによる福音書第5章11−12節



なぜ私があなたがたの罪のために死ぬのですか。私の罪でもないのに。

きっとあなたがたは私のことを、よほど度量の広い人間だと考えているのでしょう。私がたいへんな「善人」なので、あなたがたの罪を全部引っ被っても影響されず、平気なのだと思っているのでしょうね。私のおかげであなたがたは万事OKだ、というわけでしょうか。

はたして、そうなのでしょうか。あなたがたは、自分の救いは私にかかっていると信じているのですか。もし私が、それを裏切ったら?また私を十字架につけるのでしょうか。それとも自殺してしまいますか。万事OKに至り着くためのあなたがたのやり方は、そんなふうなのです。

私が言っているのは、少々違うことです。そう、万事はOKですが、それは遥かな未来においてでもなければ、あなたがたの信仰を示す行為によってそうなるのでもありません。すべてはたった今OKであって、あなたがたが世界のどこかしらを正す必要もなく、私がどこかを正す必要もないのです。

これを理解するには、赦しのプロセスを実践する必要があります。誰か、または何かが誤っていると思ったら、そういう考えを抱いた自分を赦してください。自分が誤っていると思ったら、そう思った自分を赦してください。

自分自身に言うのです。「これは誤っているように見えるが、私にはいったい何がわかるだろう。私が見たくない、でも見るべきものが、ここにあるのかもしれない。だからこそ、誤っていると思ったのだろう。自分が見たくないからだ。」
非難したいものごとを進んでよく見てください。それこそ罪悪感を脱ぎ捨てる手っ取り早い道です。

Jesus Christ

イエス・キリスト(ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」より)





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最善の防衛策は?

今回は、テキストから、キリストの磔刑に関する誤解を解き、贖罪を果たすために犠牲を払う必要がないということを説明する一節をご紹介します。

「2. The best defense, as always, is not to attack another's position, but rather to protect the truth.
 つねに変わることなく、最善の防衛策は、他者の立場を攻撃することではなく、真理を保護することです。

 It is unwise to accept any concept if you have to invert a whole frame of reference in order to justify it.
 どんな概念であれ、もしあなたがある概念を正当化するために判断基準をまるごと翻さなければならないようなら、そんな概念を受け入れるのは賢明とはいえません。」


攻撃は最大の防御?

攻撃は最大の防御だといいます。

これは、1対1の戦いや限られたパイを奪い合う、いわゆるゼロサムゲームではある程度あてはまる真実です。

囚人のジレンマで有名なゲーム理論では、実際の実験結果に照らして、次のような対応をする「しっぺ返し戦略」が最も成果があがると言われています。

①最初は協力する
②2回目以降はつねに相手が協力してくれたら協力し、裏切られたら裏切り返す
③相手が協調的な態度をとった場合は寛容な態度で協調する

年賀状を出す出さないをこの方式で行っている人も多いと思います。

最初は好意的に臨み、相手が好意を返してくれれば、こちらも好意で返し、相手が悪意で返してきたたら、こちらも同じように返し、相手が改心したら赦してまた好意を与えるというように、相手の対応に応じて鏡のように返すというやり方です。





「聖人の調和」

ネット検索で、面白い論文が出てきました。「聖人の調和と囚人のジレンマ ー利他性を考慮したゲーム理論分析ー(東日本国際大学経済経営学部准教授 河合伸 著)」です。

「徳因子」という利他性を示す思いやりを表す指標を加味してプレイヤーの利得を考えると、徳因子がある程度高ければ、「聖人の調和」が達成され囚人のジレンマが解消されるということです。

年賀状でも、(送り主が送り続ける理由が善意なわけでなく、単に宛名印刷用の名簿に手を入れるのが面倒なだけ等の理由であったとしても)自分が返しもしないのに継続してずっと送り続けてくれる人に対して、もらった側は感謝と申し訳ない気持ちを持つことからも、「聖人対応」が強者となることは容易に想像できます(とくに日本社会ではそのように言えるでしょう)。

これは、限られたパイを奪い合うゲームをするこの幻想世界の中での戦略の話ですが、幻想と幻想との葛藤においてすら、利己性の強調と攻撃は、必ずしも戦略的に得とはいえないということです。


攻撃は利敵行為

そして、これが幻想と真理の間の葛藤となれば、利己性と攻撃は最も愚かな悪手(あくしゅ 碁・将棋などで、自分自身を不利にするような悪い手)になります。

攻撃は、攻撃対象が本当にあることを前提とする行為なので、幻想を攻撃するかぎり、幻想を真理と同等の実在性を持つものに格上げしたままになるからです。

つまり、攻撃は、幻想を支援する利敵行為となるわけです。

さらに正確に言うなら、利敵行為というのは正確ではなく、自滅行為というべきでしょう。

というのも、実在しない幻想を「敵」としてみなすこと自体が誤りだからです。

影が形をなしているためにそれが虚無であることに気づかなかっただけで、真理にはそもそも敵はない、無敵であるということを認識することが重要です。


幻に対して真理はありのまま真理でありさえすれば、幻は消え去るのみ

真理はありのままの状態を守る必要があるだけで、真理と異なる錯覚を取り締まって攻撃して排除することを必要としません。


犠牲という概念

さて、奇跡のコースでは、エゴや身体、攻撃、特別な関係と同じように、「犠牲」についても、無用な概念であるとの捉え方が示されます。

P3-I 人生で出会う人たちの真の姿とは?M13 犠牲の真の意味とは?もご覧ください。

エゴ、身体、攻撃や特別な関係といった分離や対立を助長する仕組みについて、愛に基づく一体性を説くコースが否定的な評価をするのは理解できるけれど、犠牲については誰もが違和感を覚えるはずです。

一般的には、自己犠牲は尊いものとされていて、攻撃とはベクトルが逆に思えるからです。

キリスト教でも、イエスが人類の罪を贖うために身代わりとして十字架に架かったことを究極の愛を象徴する自己犠牲であるとして、犠牲を重要概念とします。


「犠牲」や「共感」という名前に惑わされない

コースは、他者の苦痛を一緒に味わうことは真の共感ではない(T16-1 真の共感とは?)といいますが、これにも犠牲と同じように違和感を覚える人が多いと思います。

このように概念に込められた意味が影の属性を大いに帯びていて、コースがその意味するところを光の当たる側面と影の側面とに明確に区別しようとしているものには、癒し、赦し、贖罪等もあります。

癒しや赦しや贖罪については、間違ったものと正しいものとを対比して考察しているので、光の当たる側面まで否定すべきだという誤解は生じにくいといえます。

これに比べると、コースには、従来、その言葉に込められてきた誤った含意を取り除くために必要であれば、その用語自体を否認するようなドラスティックな手法を用いる場合があり、「犠牲」は全否定の論調で述べられるので、本来あることを否認される必要のない愛の発露というべき犠牲的行為まで、頭でっかちに独り決めの「犠牲」の定義によって、否定されてしまうことがないとは言い切れません。

大切なことは、概念を先行させて、論理に振り回されて本質を見失ってしまうことのないように気をつけることです。


実在と実在の不在の関係性

再三述べるように、天国での実在はこの世界への反映に際して、実在の不在という影を生み、この実在の不在に名前を付けて、実在と対立し同等の実在性を持つかのような様相を呈することになります。

そして、コースが否認するのは、すべてこの実在の不在の影であって、光の当たる部分まで否認するわけではありません。

というのも、影は、光が当たらない側面にできるものでしかなく、光が当たる部分は実在が不在になっていない側面なわけだからです。

エゴの否認も度を超すと、個人としての自我そのものを抹殺すべきというように解釈しがちですが、コースは逆に、神の子全体のためには自我の持つ個性を生かして奉仕させることを求めているし、特別な関係も、その目的を不浄さから神聖さに変更することで、神聖な関係に変容させることが求められるだけです。

「3. The seemingly new abilities that may be gathered on the way can be very helpful.
 道の途中で身につくかもしれない新しい能力のように見える力は、とても有益に活用することができます。

 Given to the Holy Spirit, and used under His direction, they are valuable teaching aids.
 その力を聖霊に渡し、聖霊の導きの下に用いるなら、それらの能力は役に立つ教えの道具となります。


・・・
4.
・・・
 There is, however, a particular appeal in unusual abilities that can be curiously tempting.
 しかしながら、非凡な能力には独特の魅力があり、不思議なほど惹きつける力を持ちうるものです。

 Here are strengths which the Holy Spirit wants and needs.
 ここに、聖霊が望み、必要とする強さがあります。」(M25 超能力は望ましいもの?)


端的に言えば、名前によって実在が幻想になったり実在に戻ったりするはずがないのだから、地に足が着かないで、概念の定義から演繹的に発想するのは危険だということです。


この観点で犠牲を考えてみましょう

さて、この観点で「犠牲」を見てみるとどうなるでしょうか。

世界全体が幻想だとしたら、救済のために差し出す必要のある犠牲は、幻想だけということになります。

そうすると、幻想を手放すことは、もともと持ち合わせていない無に偽りの形を与えていた錯覚から解放されることであり、何も手放さないことです。

したがって、この世界では、原理的に、何かを得る代償として損失を負担することを意味する「犠牲」を払うこと自体不可能ということです。

これが、コースが、犠牲という概念を一切認めない理由です(レッスン155「私は一歩引き下がって、聖霊に先導してもらうことにする」)。

とはいえ、犠牲の否認という想念に引っ張られて、表面上犠牲のように解釈可能だというだけで、救済のために愛に基づいてひとつに結ばれるための行為まで否認するのでは本末転倒です。


与えることについてのエゴと聖霊の解釈

犠牲の観念には、与えることについてのエゴの解釈と聖霊の解釈の相違の把握が必要です。

エゴは、欠乏マインドを前提に、ある者が何かを得るには、誰かがそれを失わなければならないと考えます。

これに対して、聖霊は、ある者が誰かに何かを与えることは、与えるものを失うことではなく、逆にそれを保ち続けるための手段だと教えます。

はたらく細胞の観点で見ればわかりやすいです。

赤血球が役目を果たして運んだ酸素を届けることで、赤血球の本当の自己であるその人体の持ち主は、利益を得、赤血球自身も届け先の臓器も利益を得ます。

個として切り取って見れば、その赤血球は、自分の持ち物を手放して「犠牲」を払って失ったようにしか見えません。

しかし、赤血球たちが犠牲を払うまいと頑張って職務放棄してしまっては、その赤血球の生きる世界・宇宙であるその人体全体が死滅の危機にさらされます。

したがって、個人が自らの使命を果たすプロセスの一局面だけを切り取ってみると、個として持っているものを失ったり、損失を被ったりするように見えるからといって、それを犠牲と評価する必要はありません。

愛に基づいてのものであるかぎり、外から見て犠牲を払うように見えようが見えまいが、そのようなことは気にかける必要はないということになるでしょう。

これに対して、関係性の当事者同士で罪悪感をなすり付け合うための道具として「自己犠牲」を利用して、「私がこれだけあなたのために自分を犠牲にして尽くしてあげてるんだから、あなたも見返りに私に奉仕すべきだし、少なくとも罪の意識を持つべきだ」とか、「自分の利益を度外視して他者のためにこんなに無私の奉仕をする気高い私を見て見て、見てよ!」という腹の内が透けて見える犠牲は、自他分離を助長するだけの代物なので、否認すべきだといえるでしょう。



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Chapter 3 The Innocent Perception
第三章 純粋な知覚 



I. Atonement without Sacrifice
一 犠牲を伴わない贖罪





1. A further point must be perfectly clear before any residual fear still associated with miracles can disappear.
 いまだに奇跡が連想させる恐れを跡形もなく消し去るためには、その前に、さらに踏みこんだポイントについて完全に明確にしておかねばなりません。

 The crucifixion did not establish the Atonement; the resurrection did.
 キリストの磔刑が贖罪を確立したわけではありません。キリストの復活が贖罪を確立したのです。

 Many sincere Christians have misunderstood this.
 敬虔にキリストを信ずる多くの者たちが、このことを誤解してきました。

 No one who is free of the belief in scarcity could possibly make this mistake.
 何かが欠乏しているという信念に囚われていなければ、誰にも、こんな思い違いを犯すことなどできなかったはずです。

 If the crucifixion is seen from an upside-down point of view, it does appear as if God permitted and even encouraged one of His Sons to suffer because he was good.
 キリストの磔刑を逆の見方で見るなら、まるで神は、子らのひとりが善良であったがゆえに、彼が苦難に遭うことを容認したばかりか、奨励すらしたかのように見えます。

 This particularly unfortunate interpretation, which arose out of projection, has led many people to be bitterly afraid of God.
 投影によって生じた、このようなとりわけ不幸な間違った解釈が、神をひどく恐れるように多くの者たちを導いてしまいました。

 Such anti-religious concepts enter into many religions.
 このような不敬ともいうべき概念が多くの宗旨の中に入りこんでしまっています。

 Yet the real Christian should pause and ask, "How could this be?"
 けれども、真にキリストを信ずる者であるなら、立ち止まって問うてみるべきです。「どうしてこんなことがありえたであろうか」と。

 Is it likely that God Himself would be capable of the kind of thinking which His Own words have clearly stated is unworthy of His Son?
 神が自らの言葉ではっきりと神の子にふさわしくないと宣言したような種類の考え方を、当の神自身があえてするなどということがありうるでしょうか。

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2. The best defense, as always, is not to attack another's position, but rather to protect the truth.
 つねに変わることなく、最善の防衛策は、他者の立場を攻撃することではなく、真理を保護することです。

 It is unwise to accept any concept if you have to invert a whole frame of reference in order to justify it.
 どんな概念であれ、もしあなたがある概念を正当化するために判断基準をまるごと翻さなければならないようなら、そんな概念を受け入れるのは賢明とはいえません。

 This procedure is painful in its minor applications and genuinely tragic on a wider scale.
 こんな概念の正当化の仕方は、些細なことに適用するにしても耐えがたいことだし、より大きな規模で応用しようとするなら、間違いなく悲劇的な事態を招きます。

 Persecution frequently results in an attempt to "justify" the terrible misperception that God Himself persecuted His Own Son on behalf of salvation.
 神自らが救済のためにそのひとり子をひどい目にあわせたというひどく間違った認識を「正当化」する試みが、しばしば迫害をもたらします。

 The very words are meaningless.
 「救済するために迫害する」という言葉それ自体が意味をなしません。

 It has been particularly difficult to overcome this because, although the error itself is no harder to correct than any other, many have been unwilling to give it up in view of its prominent value as a defense.
 これまでこの誤りを乗り越えるのがとりわけ困難であったのには理由があります。それは、この誤り自体がほかの誤りに比べて修正するのがより難しいわけではないのですが、多くの者たちは、他者を攻撃することには防衛としての卓越した価値があると考えて、この誤りを手放す気にならなかったためです。

 In milder forms a parent says, "This hurts me more than it hurts you," and feels exonerated in beating a child.
 より卑近な例で言えば、親が子に「叩かれて痛い思いをするお前よりも、こうして痛い思いをさせなければならない私のほうがずっと辛いんだよ」と言い訳することで、子供を折檻することの後ろめたさを免れるように感じるのと同じようなものです。

 Can you believe our Father really thinks this way?
 あなたは、私たちの大いなる父が本当にこんなふうに考えるなどと信じられるでしょうか。

 It is so essential that all such thinking be dispelled that we must be sure that nothing of this kind remains in your mind.
 こうした考え方をすべて払拭することが不可欠なので、私たちは自分の心にこの種の考え方が何ひとつ残らないことを確かなものにしなければなりません。

 I was not "punished" because you were bad.
 あなたたちが悪かったために私が「罰を受けた」わけではないのです。

 The wholly benign lesson the Atonement teaches is lost if it is tainted with this kind of distortion in any form.
 もしいかなる形であれ、贖罪がこの種の歪曲によって穢されてしまったら、贖罪の教えようとする完全に優しく恵み深い教訓は失われてしまいます。

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3. The statement "Vengeance is mine, sayeth the Lord" is a misperception by which one assigns his own "evil" past to God.
 「主は言われた。復讐するは我にあり」との言葉は、誰かが己の「忌まわしい」過去を神のせいにしようとしたために生じた誤った認識です。

 The "evil" past has nothing to do with God.
 「忌まわしい」過去など、まったく神と関わりを持ちません。

 He did not create it and He does not maintain it.
 神は過去など創造しなかったのだから、過去のことを根に持つはずがありません。

 God does not believe in retribution.
 罰することが当然の報いだなどと神が思うはずがないのです。

 His Mind does not create that way.
 神の大いなる心はそのような方法では創造しないからです。

 He does not hold your "evil" deeds against you.
 神が、あなたの「不埒な」行状を理由に、あなたを咎めるようなことはありません。

 Is it likely that He would hold them against me?
 そうだとすれば、その神が、あなたがたの不行跡を持ち出して私を咎めたなどということがありうるでしょうか。

 Be very sure that you recognize how utterly impossible this assumption is, and how entirely it arises from projection.
 このような復讐する神という想定が、いかに徹底的にありえないことか、また、この想定がいかに全面的に投影によって生ずるものであるか、本当にしっかりと認識してください。

 This kind of error is responsible for a host of related errors, including the belief that God rejected Adam and forced him out of the Garden of Eden.
 この種の誤りが、数多くの関連した誤りを生む元凶となったのです。神がアダムを拒絶してエデンの園から彼を追放したと信じられているのも、そのような誤りのひとつです。

 It is also why you may believe from time to time that I am misdirecting you.
 これはまた、私があなたに誤った指導をしていると、時折あなたが信じてしまう理由でもあります。

 I have made every effort to use words that are almost impossible to distort, but it is always possible to twist symbols around if you wish.
 私はあらゆる力を尽くして、意味を歪めることがほとんど不可能な言葉を用いるように心がけています。しかし、もしあなたがそう望むなら、私の言葉が意味するところを捻じ曲げることがいくらでも可能なのは言うまでもありません。



4. Sacrifice is a notion totally unknown to God.
 犠牲という観念は、断じて神の与り知らない概念です。

 It arises solely from fear, and frightened people can be vicious.
 犠牲という観念は恐れからしか生じないし、恐怖に怯える者たちは非情にもなりえます。

 Sacrificing in any way is a violation of my injunction that you should be merciful even as your Father in Heaven is merciful.
 いかなる形の犠牲的行為であっても、それは、「天の父が慈悲深くあるように、汝らも慈悲深くあるように」との私が与えた戒めに背くことです。

 It has been hard for many Christians to realize that this applies to themselves.
 ここで言われていることが自分自身にあてはまると理解するのは、多くのキリスト信者にとってずっと困難なことでした。

 Good teachers never terrorize their students.
 優れた教師は、決して自らの生徒を怯えさせるようなことはしません。

 To terrorize is to attack, and this results in rejection of what the teacher offers.
 怖がらせることは攻撃することであり、それは教師が教えようとすることを生徒に拒絶させることにつながります。

 The result is learning failure.
 その結果、学習は失敗に終わるのです。

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5. I have been correctly referred to as "the lamb of God who taketh away the sins of the world," but those who represent the lamb as blood-stained do not understand the meaning of the symbol.
 私は「世の罪を取り除く神の子羊」と正しく呼ばれてきました。しかし、その子羊を血に染まったものとして描写する者たちは、この象徴の意味を理解しているとはいえません。

 Correctly understood, it is a very simple symbol that speaks of my innocence.
 正しく理解されるなら、それは私が潔白であることを示すきわめてシンプルな象徴です。

 The lion and the lamb lying down together symbolize that strength and innocence are not in conflict, but naturally live in peace.
 ライオンと子羊とが一緒に横たわる姿は、力強さと潔白さは対立するものではなく、平和のうちにありのまま共存するものであることを象徴しています。

 "Blessed are the pure in heart for they shall see God" is another way of saying the same thing.
 「心の清き者は幸いである。彼らが神を見ることになるがゆえに。」というのは、これと同じことを異なる表現で述べたものです。

 A pure mind knows the truth and this is its strength.
 清らかな心は真理を知っており、真理を知ることがその心の力強さとなります。

 It does not confuse destruction with innocence because it associates innocence with strength, not with weakness.
 清らかな心が破壊と潔白さとを混同することはありません。なぜなら、清らかな心は、潔白であることを弱さとではなく、力強さと結びつけて考えるからです。



6. Innocence is incapable of sacrificing anything, because the innocent mind has everything and strives only to protect its wholeness.
 潔白な者は、何ものをも犠牲にすることができません。なぜなら、潔白な心はすべてを備えているので、自らの完全円満さを保護することだけに力を尽くすからです。

 It cannot project.
 潔白な者には、投影することなどできません。

 It can only honor other minds, because honor is the natural greeting of the truly loved to others who are like them.
 潔白な者には、ただほかの心を敬うことしかできません。なぜなら、敬意を表すことは、真に愛されている者が自分と同じように真に愛されている他者と交わす自然な挨拶だからです。

 The lamb "taketh away the sins of the world" in the sense that the state of innocence, or grace, is one in which the meaning of the Atonement is perfectly apparent.
 子羊が「世の罪を取り除く」というのは、穢れのない神の恵みに満ちた状態においてこそ、贖罪の意味するところが完全に明らかになるという意味です。

 The Atonement is entirely unambiguous.
 贖罪には、曖昧なところなど一切ありません。

 It is perfectly clear because it exists in light.
 贖罪は、光の中に存在するので、完全に明瞭なものです。

 Only the attempts to shroud it in darkness have made it inaccessible to those who do not choose to see.
 ただ贖罪を闇の中に覆い隠そうとする試みだけが、見ることを選ぼうとしない者たちにとって、贖罪を理解しがたいものにしてしまったのです。

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7. The Atonement itself radiates nothing but truth.
 贖罪それ自体は、ただ真理の輝きのみを放ちます。

 It therefore epitomizes harmlessness and sheds only blessing.
 したがって、贖罪は無害であることの象徴であり、ただ祝福のみを注ぐものです。

 It could not do this if it arose from anything but perfect innocence.
 もし贖罪が、完全な潔白さ以外の何か別のものから生じたのであったなら、贖罪にこのような働きをすることはできなかったでしょう。

 Innocence is wisdom because it is unaware of evil, and evil does not exist.
 潔白であることは英知です。なぜなら、潔白である者は邪悪さを自覚することがないし、邪悪さは存在しないからです。

 It is, however, perfectly aware of everything that is true.
 しかし、潔白である者は、真実であるものすべてを完全に自覚しています。

 The resurrection demonstrated that nothing can destroy truth.
 キリストの復活は、何ものも真理を破壊することができないことを実証しました。

 Good can withstand any form of evil, as light abolishes forms of darkness.
 光が闇の醸し出す形など完全に消し去るように、善は、たとえ悪がどのような形をとって現れようとも、それに持ちこたえることができます。

 The Atonement is therefore the perfect lesson.
 したがって、贖罪は完全な教えをもたらすレッスンとなります。

 It is the final demonstration that all the other lessons I taught are true.
 贖罪は、私の教えたほかのレッスンがすべて真実であることを最終的に実証します。

 If you can accept this one generalization now, there will be no need to learn from many smaller lessons.
 もしあなたが今ここで総括したひとつの結論を受け入れることができれば、たくさんの小さなレッスンから学ぶ必要などなくなるでしょう。

 You are released from all errors if you believe this.
 もしこのことを信じるなら、あなたはすべての誤りから解放されます。



8. The innocence of God is the true state of the mind of His Son.
 神の潔白さこそ、神の子の心の真の状態です。

 In this state your mind knows God, for God is not symbolic; He is Fact.
 この心境においてこそ、あなたの心は神を知ります。というのは、神は象徴的な存在などではなく、神こそが大いなる現実だからです。

 Knowing His Son as he is, you realize that the Atonement, not sacrifice, is the only appropriate gift for God's altar, where nothing except perfection belongs.
 神の子をあるがままに知ることによって、あなたは、犠牲ではなく贖罪こそが、完全なるもの以外は何も属することのない神の祭壇に唯一ふさわしい捧げ物であると悟ります。

 The understanding of the innocent is truth.
 潔白である者が理解していることは、真理そのものです。

 That is why their altars are truly radiant.
 だからこそ、潔白である者の祭壇は真に輝きを放つのです。


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It’s not how much we give, but how much love we put into giving. – Mother Teresa

 松山 健 Matsuyama Ken
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用語解説 (8)
祈りの歌 (15)
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