T7-10 苦しいのが気持ちいいってどういうこと?


サレンダー

大丈夫
あなたが抱きしめている痛みは喜びに変わるのです



Jalal Al-Din Rumi
ルーミー

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快楽と苦痛を生むのは個別性である。憎悪と戦争を引き起こし、人と人を分かつ壁、各人のまわり、家族、集団のまわりに壁を築くのは個別性なのである。



Jiddu Krishnamurti
ジッドゥ・クリシュナムルティ

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全ては、意識の問題であるのです ― あなたの意識的思考が大事なのです。あなたがわたしと離ればなれであると考えているから、あなたはわたしから分離しているのです。あなたの意識は、わたしの意識のある焦点、ある特定の核となったところなのです。あなたが自分だけの領域だと認識しているその意識は、わたしの意識なのです。わたしの意識がなければ、あなたは何かを「思う」という事もできないし、ましてや息をし、ここに存在するという事も不可能なのです。分かりますか?

では、あなたはわたしであると考え、信じてください。我々は離ればなれではないと、我々は決して分離して存在する事はできないと。なぜなら、わたしとあなたはひとつだから。わたしがあなたの中に在り、あなたはわたしの中に在る。そのように思ってみてください。心に決め、その状態をイメージしてください。あなたが確かにそれを意識できた時、あなたは実に、わたしと共に天の御国に居るのです。あなたという存在は、あなたが信じるところのものなのです。つまり、あなた自身が人生の中で経験しているいかなる事も、あなたがそれを信じない限り、それに何らかの価値を与えない限り、それは実際にあるとは言えないのです。

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イエス・キリスト(Joseph Benner ジョセフ・ベナー改訂版 インパーソナル・ライフ あなたは神とひとつである 」101ページ)

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今回は、テキスト第七章「X. The Confusion of Pain and Joy 十 苦痛と歓喜の混同」をご紹介します。


私たちが日々、苦痛を味わって生きているということは、私たちが聖霊ではなくエゴを選んでしまっているという証拠

この一節では、私たちは、苦しみと喜びの違いもわかっておらず、両者を区別できないどころか、混同してしまって、苦痛を喜びに感じたり、喜びのことを苦痛と勘違いしたりしてしまうということが指摘されます。

以前にマトリックス 自由意志という幻想で、眠りこけた夢見る心の中で、聖霊とエゴのどちらの思考システムに従うかを選択する決定者(decision-maker)について触れたことがあります。

この決定者(decision-maker)が、思考システムの前提として、エゴと聖霊のどちらを取るかによって、論理的な帰結として、苦痛と歓喜が生じます。

欠乏の原理による恐怖に基盤を置くエゴの思考システムを前提とすれば、論理必然に苦痛が生じます。

他方、豊かさと愛に基盤を置く聖霊の思考システムを前提とすれば、論理必然に喜びが生じます。


したがって、苦痛を避け、喜びを選びたいなら、苦痛の前提となるエゴを退け、歓喜の前提となる聖霊を選択するだけだということになります。

それなのに、私たちは、日々、苦痛を味わって生きており、それはすなわち、私たちが聖霊ではなくエゴを選んでしまっているという証拠です。


私たちが意図的に聖霊を選ばないかぎりエゴが私たちを支配してしまう

どうして決定者(decision-maker)は、聖霊ではなくエゴを選択してしまうのでしょうか?

聖霊は、私たちに苦痛を避けさせるために導いてくれるのであり、私たちは聖霊に従うことを選ぶ必要があるだけです。

でも、本当に私たちのことを思ってくれてるなら、強引に無理やりにでも導いてくれればいいのに、愛が足りないんじゃないの?と思う人もいるかもしれません。

この点は、自由意志の問題について、またの機会に触れたいと思いますが、聖霊は、私たちの意志を無視して導くということをしません。

なぜなら、私たちは神の意志を共有しているのであって、神の意志は強制されうるものではないからです。

そして、何より、根本的に、神の意志は実在するのに対して、エゴに惑わされて私たちが抱くという神の意志に反する意志というものが錯覚でしかないということが要点です。

私たちは、自分が独自の思考をなしえていると信じているので、エゴの思考が本当にあると信じて疑いませんが、実はこれは狂気です。

ただし、狂人が自分が狂っていることを自覚せず病識がないというのは自明のことであり、私たちが自分は正気だと確信して、自分が独自の思考をしているといくら主張したところで、実際には、私たちの主張はなんの根拠にもなりません。

そして、この狂気から脱するうえで、錯覚を本物として扱って、本当は無でしかないはずの幻想を実在に格上げしてやることが役に立つはずがありません。

けれど、聖霊が、私たちに神の意志に沿うよう無理強いするとすれば、それは、聖霊が神の意志に従わされることを不本意に思う私たちのエゴ思考を神の思考と同等の実在として扱うことになってしまいます。

聖霊が見ているのは、私たちの偽りの姿ではなく、真の姿であって、何の欠乏もなく、自分で自分を解放する力も完全に備えていて、単に、自分の真の力を忘れているだけなのを知っているので、強引に「助け」たりしたのでは、本当の自分の力を思い出せないままになってしまうだけだと十分わかっているのです。


聖霊の導きは、私たちに自発的にエゴを手放して聖霊を選ぶよう任意の選択を委ねること

だから、聖霊がするのは、私たちが自分でエゴに従うことが狂気で空疎な錯覚だと気づくように導くことです。




この点については、素朴な発想として、それは屁理屈だ!罪のない幼児の虐待や残忍極まる快楽殺人が現に起こっているのに、自由意志に介入しては真に助けることにならないという理屈で起こるがままに放置している神や聖霊は逃げを打っているだけで犯罪者と同罪だ、新自由主義の自己責任論みたいな冷酷なスタンスで慈悲溢れる神というコースの愛の神像と矛盾しているじゃないかという疑問を抱く方もいると思います。


いつものように幻想を現実視する発想がいつのまにか前提になっている

しかし、まず、そもそも根本的に、幻想を現実視する前提に立たなければ、この発想は出てきようがありません。

すなわち、犯罪や惨事のはびこるこの世界が確固たる現実だという基盤にコースが立つなら、たしかにその通り、自分で気づくことを妨げないよう聖霊が介入を控えるという理屈は、責任逃れの屁理屈でしかないことになるでしょう。

しかし、コースはそもそもこの世界は現実ではない幻想だという基盤に立っています。

そして、この点はコースの核心をなす基盤であり、世界の一部だけは現実だというふうに譲歩することは絶対にできません。

したがって、ホラー映画の悪霊や怪人や妖怪等の悪役が画面の中で罪のない被害者に悪魔のような責め苦を味わわせているからと言って、私たちが被害者の救済のために画面の中に入り込もうとしたり、映画をより平和なものに作り変えようとしたりしないように、聖霊からすれば、この世界のどんな悪逆無道、どんな残忍無比な鬼畜の所業も、狂った神の子の見ている妄想でしかないのだから、なすべきことは、神の子の見ている妄想をより平和で円満な内容に変更することではなくて、神の子の陥っている狂気を取り除くことでしかないということになります。

これがコースが奇跡に難易度の序列を認めず、一切の例外を認めない理由です。

罪のない被害者を理不尽極まる方法で殺害する罪には聖霊が被害救済に乗り出して介入すべきだけれど、人の生命身体に関わらない財産犯罪なら実害はまだ小さいから当人たちの反省と学びによる更生に期待して聖霊の介入は控えるべきと、幻想世界の中での誤りの中に罪深さの程度の序列を設定することは、世界の一部は現実で、一部だけが幻想とみなすことになるのです。

コースの主張に違和感を覚えるときは、たいてい、この世界が確固たる現実であることを無意識の前提にしていると思ってよいでしょう。私たちは、そもそもホームグラウンドではなくアウェイの自分に不利な判定を下す審判しかいないエゴにとっての天国のような場所でゲームプレイしているようなものなので、気がついたらオウンゴールを決めていたという状態が常だというくらいの警戒が必要です。


エゴとは自由意志の否認

つまり、エゴとは、神の子の自由意志に課された制限であり、私たちの自由意志を奪って強制しながら、私たちにそれを気づかせず自由意志の錯覚を与えるもの、光源の前に置かれたスライドのようなものだということです。

「3. The ego cannot teach you anything as long as your will is free, because you will not listen to it.
 あなたの意志が自由であるかぎり、あなたがエゴに耳を貸すはずがないので、エゴはあなたに何も教えることはできません。

 It is not your will to be imprisoned because your will is free.
 あなたの意志は自由なので、幽閉されることは、あなたの意志ではありません。

 That is why the ego is the denial of free will.
 だから、エゴとは自由意志の否認なのです。

 It is never God Who coerces you, because he shares his will with you.
 あなたを強制するような存在が神であることは絶対にありません。なぜなら、神は自らの意志をあなたと共有しているからです。

 His voice teaches only in accordance with his will, but that is not the Holy Spirit's lesson because that is what you are.
 神の声は、ただ神の意志に従って教えるだけです。しかし、神の意志そのものは、聖霊が教えるレッスンではありません。なぜなら、神の意志は、あなたの本質そのものだからです。」(テキスト第八章 二 幽閉と自由との違い

もちろん、神の意志に等しい私たちの意志を本当にエゴが強制できるはずはなく、幻惑して、真の自己像を見失わせて偽りの小さな自己像を信じこませて欺くことしかできませんが、それでも、その幻想においては、私たちはエゴの虜になってしまうことは確かです。


「意図」と「願望」

さて、本節では、神は「意図」するのに対して、エゴは「願望」するということが解説されます。

すべてでありすべてを持つ存在は、こうしたいこうありたいと思えば、自分の意志以外にご機嫌を窺う必要のある他の力はないので、思い通りにあるべき状態にする、つまり、意図することしかできません。

これに対して、すべてではなく全体のごく小さな一点を占めるだけの矮小な存在は欠乏状態にあるので、こうありたいという状態は必ず、今の自分ではなく、自分が持ってもいない状態であり、あるべき状態は、自分の力の及ばない外部的要因によって実現できるとよいと望むことくらいしかできない、つまり、願望することしかできません。

エゴは実体のない幻にすぎず、分離した心の一部に寄生して、心を誤動作させはしますが、心ではありません。

神は、真に実在する創造主であり、その大いなる心の意志によって創造します。

エゴ自体には、何をする力もないので、分離した心を幻惑して欺いて、その意志の力をエゴの目標のために利用しようとします。

この際に、エゴは、願望によって、創造ではなく、幻想を作り出すように、決定者(decision-maker)をかどわかして、神の子の意志の力を誤用させます。

こうして投影によって空想の幻想世界が生み出されていくのです。


問題は聖霊の語ることが真実かどうかではなく、私たちが聖霊に耳を貸す意欲を持てないことにある

私たちは、神の意志とは分離して独立した自分だけの独自の意志を持ち、自分だけの思考ができているつもりでいます。

しかし、いつもの、実在と実在の不在に名前をつけた対概念の仕組みの通り、私たちが確固としてあると思っているエゴとしての自分の自由意志は、神の光をスライドで覆って、スクリーンに実在の不在である色や影形による幻の像を作り出して、それらの幻想が実在と同等の存在感を持っているように錯覚しているだけです。

つまり、神の意志が不在になっている無の状態が生み出す陰影、パターンにすぎない負の状態を本物だと狂気によって誤信しているだけだということです。

とにかく、エゴに従うかぎり、自由意志の感覚、幻想を与えられはしても、私たちに自由意志はありません。

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エゴ自体が、神の子の自由意志に課された制限そのものだからです。

ですので、私たちが自発的に聖霊を選択する決断をしないかぎり、強引に手取り足取り導こうとするのは、聖霊ではなく、エゴのほうなので、自動的にエゴの自動操縦に導かれてしまうことになります。

したがって、問題は、聖霊の言うことが真実であるかどうかということではなく、私たちが聖霊の言うことに耳を貸す意欲を持てるかかどうかということになります。

私たちが、自分が本当は何者かということに疑念を抱くかぎり、私たちは、自分を分離した小さな自己と見て、エゴの欲しがる罪悪感につながるものにこそ快楽を感じてしまい、喜びと苦しみを混同し続け、二元性の世界で、良きことを得るには代償として犠牲を払う必要があるということを信じるようになってしまいます。




必要なのは、私たちには何ひとつ決める必要はないと決心すること

この節では、自分の心の中の決定者(decision-maker)に聖霊に従うことを選択させれば、私たちはエゴを放棄することになり、その代償として、何ひとつ犠牲にすることにはならず、それどころか反対に、あらゆるものを手に入れることになるといいます。

他の箇所でも触れていますが、決定者(decision-maker)とは、真の自己である大いなる霊"Great Ray"「偉大な光」を本源とする分霊である小さな自己の本質部分、"little spark"「小さな閃光」を指します。

そして、真の自己像について疑惑を持って分離幻想に迷いこむ誤りから抜け出す唯一の方法は、私たちには何ひとつ決める必要はないと決心することだ、なぜなら、私たちが神の意志であることは動かしがたい真実だからといいます。

なんだか気が楽にならないでしょうか?

聖霊を選択することで、全宇宙の運営者としての全責任が自分にのしかかってきて、重大な価値判断に迫られまくることになるというわけではないのです(価値判断の重圧から解放されるには?をご一読ください)。

私たちがすべきことは、放っておくかぎり、エゴの感染によるオートマが作用してエゴの自動操縦モードで強制的なエゴの導きを受けてしまうので、自発的に、聖霊を選択して、自分には何ひとつ決める決める必要はないと決心することで自動制御を解除することだけということです。

そうすれば、神と同一の思考が本来通り操縦桿を握ることになり、私たちは神の使徒としての自分の役目を果たすことに専念することになります。

そして、自分の役割を果たすことは、幸せとイコールなので、エゴに導かれていたときのような苦楽の混同はありえないものになります。







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テキスト第七章 

X. The Confusion of Pain and Joy
十 苦痛と歓喜の混同



1. The Kingdom is the result of premises, just as this world is.
 王国は、まさにこの世界がそうであるのと同じく、いくつかの前提に基づく結果です。

 You may have carried the ego's reasoning to its logical conclusion, which is total confusion about everything.
 あなたはエゴの論拠を推して、その論理的な帰結にまで進めたかもしれませんが、その結論はといえば、万事の完全なる混乱です。

 If you really saw this result you could not want it.
 もしあなたがこの結果を真に見ていたなら、あなたはそんなものを望むことなどできなかったはずです。

 The only reason you could possibly want any part of it is because you do not see the whole of it.
 あなたが一部でも、そんなものを望むことがありえたとすれば、それは、あなたがエゴの前提から導かれる結果の全貌をしっかり見ていないことだけが唯一の理由です。

 You are willing to look at the ego's premises, but not at their logical outcome.
 あなたは、エゴの前提については進んで見てみる気はあっても、その前提から導かれる論理的な帰結まではよく見てみる気がないのです。

 Is it not possible that you have done the same thing with the premises of God?
 あなたが神の前提についても、同じことをしてしまっている可能性はないでしょうか。

 Your creations are the logical outcome of his premises.
 あなたの創造したものたちは、神の前提に基づく論理的な帰結です。

 His thinking has established them for you.
 神の思考が、あなたの創造したものたちを神の前提の成果として確立してくれました。

 They are exactly where they belong.
 あなたの創造したものたちは、まさに彼らにふさわしい場所にいます。

 They belong in your mind as part of your identification with his, but your state of mind and your recognition of what is in it depend on what you believe about your mind.
 あなたの創造したものたちは、神の心と同一化したあなたの一部としてのあなたの心の中にいます。しかし、あなたの心の状態がどのようなものであるか、そして、あなたが自分の心の中に何を認識するかは、あなたが自分の心をどのようなものと信じるかによって左右されます。

 Whatever these beliefs may be, they are the premises that will determine what you accept into your mind.
 あなたが自分の心をどんなものと信じるにせよ、その信念が、あなたが自分の心に何を受け入れるかを決定する前提となります。



2. It is surely clear that you can both accept into your mind what is not there, and deny what is.
 あなたが、自分の心の中に存在しないものを受け入れることも、心の中に存在するものを否認することも、どちらもできるのが明らかなのは間違いありません。

 Yet the function God himself gave your mind through his you may deny, but you cannot prevent.
 しかし、神自身が自らの心を通してあなたの心に与えた役割は、あなたはその役割を認めずにいることはできても、その役割を完全に封じることはできません。

 It is the logical outcome of what you are.
 神があなたに授けた役割は、あなたが何者であるかということからの論理的な帰結だからです。

 The ability to see a logical outcome depends on the willingness to see it, but its truth has nothing to do with your willingness.
 論理的な成り行きを見通せるかどうかは、それを見ようとする意欲があるかどうかに左右されます。しかし、その結論が真実であるかどうかはあなたの意欲とはまったく無関係です。

 Truth is God's Will.
 真理こそ神の大いなる意志です。

 Share his will and you share what he knows.
 神の意志を共有してください。そうすれば、あなたは神が知っていることを共有することになります。

 Deny his will as yours, and you are denying his kingdom and yours.
 自分の意志ではないとして神の意志を否認すれば、あなたは神の王国もあなたの王国も拒むことになります。

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3. The Holy Spirit will direct you only so as to avoid pain.
 聖霊は、ただ苦痛を避けられるようにのみ、あなたを導きます。

 Surely no one would object to this goal if he recognized it.
 もしその人がそれに気づいたなら、きっと誰も聖霊のこの目標に異議を唱えたりしないでしょう。

 The problem is not whether what the Holy Spirit says is true, but whether you want to listen to what he says.
 問題は、聖霊の言うことが真実であるかどうかではなく、あなたが聖霊の言うことに耳を貸そうと望むかどうかです。

 You no more recognize what is painful than you know what is joyful, and are, in fact, very apt to confuse the two.
 あなたは、何が喜びに満ちたことなのか知らないのと同じように、何が苦しみに満ちたことなのかわかっていません。それどころか、あなたには実に頻繁に両者を混同してしまいがちですらあります。

 The Holy Spirit's main function is to teach you to tell them apart.
 聖霊の主な役割は、喜びと苦しみの違いの区別の仕方をあなたに教えることです。

 What is joyful to you is painful to the ego, and as long as you are in doubt about what you are, you will be confused about joy and pain.
 あなたにとって喜びとなることは、エゴにとっては苦しみとなります。そして、あなたが自分が何者なのか疑念を抱いているかぎり、あなたは喜びと苦しみを混同してしまうでしょう。

 This confusion is the cause of the whole idea of sacrifice.
 この苦楽の混同こそが、犠牲という観念そのものを生み出す要因です。

 Obey the Holy Spirit, and you will be giving up the ego.
 聖霊に従いなさい。そうすれば、あなたはエゴを放棄するでしょう。

 But you will be sacrificing nothing.
 しかし、あなたは何の犠牲も払うことにならないでしょう。

 On the contrary, you will be gaining everything.
 それどころか反対に、あなたは、あらゆるものを手に入れるでしょう。

 If you believed this, there would be no conflict.
 もしあなたがこのことを信じるなら、もはや矛盾や衝突などなくなるでしょう。



4. That is why you need to demonstrate the obvious to yourself.
 これこそ、あなたが、このような当然のことを自分自身に実証する必要がある理由です。

 It is not obvious to you.
 それは、あなたにとっては自明のことではないからです。

 You believe that doing the opposite of God's Will can be better for you.
 あなたは、神の大いなる意志に反することをなすほうが、より自分のためになりうるものと信じています。

 You also believe that it is possible to do the opposite of God's Will.
 あなたはまた、神の大いなる意志に反することをなすことが可能であるとも信じています。

 Therefore, you believe that an impossible choice is open to you, and one which is both fearful and desirable.
 したがって、あなたは、そんな恐ろしくもあるとともに望ましくもあるようなありえない選択でも、自分がしようと思えばできるのだと信じているのです。

 Yet God wills.
 しかし、神がするのは意図することです。

 He does not wish.
 神が願望することはありません。

 Your will is as powerful as his because it is his.
 あなたの意志は神の大いなる意志と同じように強力です。なぜなら、あなたの意志は、まさに神の大いなる意志そのものだからです。

 The ego's wishes do not mean anything, because the ego wishes for the impossible.
 エゴの願望は何も意味しません。なぜなら、エゴは不可能なことを願望するからです。

 You can wish for the impossible, but you can will only with God.
 あなたは、不可能なことを願望することはできます。しかし、あなたが意図できるのは、ただ神とともにだけです。

 This is the ego's weakness and your strength.
 これこそエゴの弱みであり、あなたの強みです。

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5. The Holy Spirit always sides with you and with your strength.
 聖霊はつねに、あなたとあなたの強みに味方します。

 As long as you avoid his guidance in any way, you want to be weak.
 あなたが何らかの方法で聖霊の導きに従うのを避けるかぎり、あなたは弱くありたいと望んでいるのです。

 Yet weakness is frightening.
 しかし、弱くあることは恐怖に満たされることです。

 What else, then, can this decision mean except that you want to be fearful?
 そうだとすれば、聖霊の導きを避ける決断が意味しうるのは、あなたが恐怖におののいていたいと望んでいることだけではないでしょうか。

 The Holy Spirit never asks for sacrifice, but the ego always does.
 聖霊は絶対に犠牲を要求しませんが、エゴは必ず犠牲を要求します。

 When you are confused about this distinction in motivation, it can only be due to projection.
 あなたにこのような聖霊とエゴの原動力の相違の見分けがつかないとすれば、その要因になりうるのは投影だけです。

 Projection is a confusion in motivation, and given this confusion, trust becomes impossible.
 投影は、自分が何を欲しているのかわからなくなることです。そして、こんな混同をしていれば、何かを信頼することは不可能になります。

 No one gladly obeys a guide he does not trust, but this does not mean that the guide is untrustworthy.
 自分の信頼していない案内役に喜んで従う者は誰もいません。しかし、このことは、その案内役が信頼に値しないことを意味するわけではありません。

 In this case, it always means that the follower is.
 この場合、それは必ず、従う者のほうこそ信頼に値しないことを意味します。

 However, this, too, is merely a matter of his own belief.
 しかしながら、このこともまた、単に従う者当人の信念の問題でしかありません。

 Believing that he can betray, he believes that everything can betray him.
 自分が裏切ることができると信じているために、彼はあらゆる物事が自分を裏切りかねないと信じます。

 Yet this is only because he has elected to follow false guidance.
 しかし、こう信じてしまうのは、ただ彼が間違った案内役に従うことを選んだためでしかありません。

 Unable to follow this guidance without fear, he associates fear with guidance, and refuses to follow any guidance at all.
 こんな案内役に従いながら恐れずにいることはできないので、彼は恐れと指導とを結びつけて考えるようになってしまいます。そうなると、彼は、もはやどんな導きに従うこともまったく拒絶してしまうようになります。



6. The Holy Spirit is perfectly trustworthy, as you are.
 聖霊は、あなたが信頼に値するのと同じように、完全に信頼できます。

 God himself trusts you, and therefore your trustworthiness is beyond question.
 神自らあなたを信頼しているのだから、あなたが信頼に値することに疑問の余地はありません。

 It will always remain beyond question, however much you may question it.
 あなたが信頼に値することついては、たとえどんなにあなたがそのことに疑問を抱こうとも、つねに疑問の余地がないままです。

 I said before that you are the will of God.
 私が以前に述べたように、あなたこそが神の意志だからです。

 His will is not an idle wish, and your identification with his will is not optional, since it is what you are.
 神の意志は空疎な願望ではありません。そして、あなたが神の意志と同一の存在であるかどうかについて、あなたには選択の余地はありません。なぜなら、神の意志はあなたの本質だからです。

 Sharing his will with me is not really open to choice, though it may seem to be.
 神の意志を私と共有するかどうかについても、選択の余地があるように思えるかもしれませんが、実際には選択の余地などありません。

 The whole separation lies in this error.
 分離状態はまるごと、こんな思い違いから起こっているのです。

 The only way out of the error is to decide that you do not have to decide anything.
 そんな誤りから抜け出す唯一の途は、自分には何ひとつ決める必要はないと決心することだけです。

 Everything has been given you by God's decision.
 あらゆるものは、すでに神の決断によってあなたに与えられていからです。

 That is his will, and you cannot undo it.
 これこそ神の意志であり、あなたには神の決断を取り消すことなどできません。

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7. Even the relinquishment of your false decision-making prerogative, which the ego guards so jealously, is not accomplished by your wish.
 エゴは油断なくそれを守ろうとしていますが、間違った決断を下すというあなただけに許された待遇を放棄することでさえ、あなたの願望によって成就するわけではありません。

 It was accomplished for you by the Will of God, Who has not left you comfortless.
 間違った決断を下すことができるというあなたの特権を放棄することは、すでに神の大いなる意志によって、あなたのために成し遂げられています。神はあなたを慰めのないままにしておくようなことはしなかったからです。

 His voice will teach you how to distinguish between pain and joy, and will lead you out of the confusion you have made.
 神の声はあなたに、苦痛と歓喜をどのように識別すればよいか教えてくれるでしょう。そして、神の声は、あなたが自ら作り出した混乱状態からあなたを導き出してくれるでしょう。

 There is no confusion in the mind of a son of god, whose will must be the will of the Father, because the Father's will is his son.
 神の子の心の中には何の混乱もないし、神の子の意志は父の意志であるに違いありません。なぜなら、父の意志とは、神の子そのものだからです。



8. Miracles are in accord with the Will of God, Whose Will you do not know because you are confused about what you will.
 奇跡は、神の大いなる意志と調和しています。その神の大いなる意志をあなたは知りません。なぜなら、あなたは自分が何を意図するのかさっぱりわかっていないからです。

 This means that you are confused about what you are.
 これは、あなたが自分が本当は何者なのかわからなくなっていることを意味します。

 If you are God's Will and do not accept his will, you are denying joy.
 もしあなたが神の大いなる意志でありながら、神が意図することを受け入れないとしたら、あなたは喜びを拒絶しているのです。

 The miracle is therefore a lesson in what joy is.
 したがって、奇跡とは、喜びとは何なのかを学ぶレッスンなのです。

 Being a lesson in sharing it is a lesson in love, which is joy.
 分かち合うことを教えているので、奇跡は愛を学ぶレッスンであり、その愛こそが喜びです。

 Every miracle is thus a lesson in truth, and by offering truth you are learning the difference between pain and joy.
 かくして、すべての奇跡は真理を学ぶレッスンであり、真理を差し延べることによって、あなたは苦痛と歓喜との違いを学んでいるのです。


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