この世界での配役について

2013年05月16日
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Lucy: “Sometimes I wonder how you can stand being just a dog…”
ルーシー「時々、わたしはどうしてあなたが犬なんかでいることに甘んじていられるのか不思議に思うわ」

Snoopy: “You play with the cards you’re dealt… Whatever that means.”
スヌーピー「誰もが自分に配られたカードで勝負するしかないのさ…たとえその手札がどんなものだとしてもね。」

lucy and snoopy



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人の価値に優劣はあるのか

ダウン症の出生前診断が話題になることがあります。

非常にデリケートな問題なので、軽はずみに私見は述べられません。

もっとも、この命の選別に関わる問題はとても重大な疑問を提起します。
人の価値に優劣はあるのか、生まれてこないほうがよい命や生きている値打ちの無い命はあるのか。

通り一遍の善(偽善も含む)に基づく考え方からすれば、ひとつの命は地球よりも重いのだから、生まれてくる命に優劣なんてつけるべきじゃないということになるのはわかります。

そうではなくて、きれいごとは抜きにして、本当のところはどうなのでしょう。

まず、社会的な常識的発想の本音の部分を感じ取るならば、他人事として率直に言えば、世間的に優秀だと褒めそやされるような子供であってほしい(逆は敢えて言いません)というのが人情なのでしょう。

この点について、奇跡のコースの考え方はどうなのでしょうか。結論は出せませんが、考えてみたいと思います。

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きれいごととしてではなく真実としての平等性の理解

以前に、プリズムのたとえをお話ししました。そこでは、ばらばらになった多様な色合いたちは、全て混じり合って一体化しないと、本来の純白の光線にはならないということでした。

そして、私たちが、ばらばらに隔絶した身体に幽閉された個別の心として限りある命を生きていると思い込んでいるのは幻想で、真実は、みんな一体でひとつの神の子であるということでした。

ここからの帰結は、当然、万人は本当に平等であり、個別の命に優劣なんてないということです。

それには、そもそも個別の身体という入れ物があり、その中にばらばらになった個別の心が入っているというのは幻である点で、一様に幻想として同等であるという意味もあります。

また、真の姿が一体となった一なる心であるという点では、個別の心としての自分も他者も大いなる自己の一部であるという点で、他人に見えていても自分だという点で等しいということです。


はたらく細胞的な観点の重要性

身体を構成する器官や細胞それぞれが自分たちは別々だという思いを持っていたら、足の裏は、自分たち一族はろくな栄養も配給されず重荷を背負って毎日すり減らさせられているというのに、上の世界には、たっぷり栄養を味わいながら、美しい絵を眺めている目玉という貴族がいると聞いたぞ、なんて不公平なんだ! と不満を漏らしているかもしれません。

それでも、その身体を「持つ」誰かにとっては、目玉も足の裏も等しく大切な自分の一部です。
不公平感に耐え切れなくなった足裏が煽動し、これに乗った手が暴走して、「いい思いをしている」目玉を「やっつけて」しまったとしたら、その身体を持つ誰かはきっと悲嘆に暮れることでしょう。
 
この観点からすると、各自が自分の持ち味を度外視して、ある特定の価値観によって、序列をつけ、それを充足するものは優れていて、それに満たないものは劣っている、と価値判断していくことは、不幸の始まりです。


自分自身ではない何者かになりたいという願望の狂気

たまたまこの幻想世界で自分というキャラに割り当てられた役割が目玉のように華々しいものではなく、足裏のように地味なものだったからといって、その役割を放棄して目玉になろうと努力するのは、悪あがきでしかありません。せいぜい魚の目になる程度で全体にとっても、煩わしさを招くだけです。
場合によっては、闇を信じる度合いが強くなって闇を周囲に伝播するような存在へと変異することもあり得、そうなっては全体に害悪をもたらすことになります。


人間でも、自分というキャラの割り当てが気に入らないといって、外の価値観から取り入れた人物像に近づこうと、痛々しいほどに努力する場合があります。

これは幼稚園の演劇で、草役の子が主役のお姫様役がいいと言って駄々をこねるようなものです。ゆとり教育的に、みんなお姫様になってしまっては、マトリックス2以降でエージェント・スミスが増殖したような事態になってしまいます。体の表面の皮膚がみんな目玉に「昇格」してしまったら、ちょっと動くだけでも痛くて、まぶしくて耐え切れないし、ちょっと圧力がかかっただけでブチブチと破裂してしまうことでしょう。




自分を押し殺して世間受けする仮面を被る生き方の地獄

それでも、人情としては、自分の向き不向きにかかわらず、「よい」配役を得たいものです。

この人生で自分のアバターとしてあてがわれた身体の容姿が気に入らないと不満を抱いて美容整形をすることで、より良い配役にありつけるという発想についてはS1-4 他者とともに祈るのエッセイをご覧ください。

社会的に評価される人物像というのは、みんなにとって害にならず、快適さを提供できる要素を一般化したもので、ステレオタイプ化できるので、頭のいい人は、外にある規範をうまく取り込んで、仮面を被ることができます。なかには、この規範の取り込みがうますぎて、一度も失敗することなく、社会的に理想とされるに近い人物に自分を仕立てあげることができる人もいます。

しかし、これはエゴの仮面であって、真のその人の姿ではありません。
ある問題に対して、この理想の仮面を身につけた人の出す答えと、自分なりに壁にぶち当たりながら生きて、試行錯誤の末に学んで本当の自分(聖霊に従う霊としての自分)が出てきた人が内にある規範に基づいて出す答えが、表面上は一致することも多いはずです。

しかし、内からの規範(聖霊の声)に従う人は、相手のほかには誰もいない無人島でも人殺しや強姦をしないのに対して、外の規範(エゴの声)を取り込んできた人は、社会の目から解放された場所では、違う人物になるもしれないという違いがあります。


塑像的教育観

社会的に望ましい人物像に近づくために、本来の自分に足りない部分には粘土を付け足し、邪魔な部分は切り落とすというのが一般的な教育観です。

この発想の基礎には、万人受けする理想像とそれと比べて、それに満たない劣ったものがあるとの考え方があります。

はたして、神の現実ではない、この幻想の世界において、絶対的に素晴らしいものや絶対的に悪いものなどあるのでしょうか。

無人島でひとりで生きていたなら、その人の個性などないも等しいといえます。社会生活をする上では、みんなが得をするように貢献する人がよい人で、みんなの足を引っ張ったりお荷物になるような人が悪い人ということになります。

とはいえ、所属する社会次第で、ところが変われば品が変わり、戦場では英雄となる人物も平和な農村では、がさつで煙たがられる粗暴な鼻つまみ者で人殺しになりえます。

社会的には有能さとして分類される特質も、特定の場面では、無能さとして機能することもあります。たとえば、他者の痛みへの共感能力の高い人は看護師としては有能だとしても、兵士としては無能でしょう。逆もまた真なりです。

この意味で、この世界において、人にとって、個としての自分の特性に応じた自分の真の居場所を見つけるということは何よりも大切なことなのではないかと感じます。


彫像的教育観

人の成長は、ミケランジェロが大理石から中にある天使を彫り出してあげたというように、本来の姿に彫像していく作業かもしれません。彫り出された姿は、たまたま誰からも羨まれる美しいものであることもあれば、獰猛で、忌み嫌われるような存在かもしれません。

しかし、獰猛に見えたそれも、ふさわしい場におかれさえすれば、持って生まれた役割を果たし、独特の美しさを発揮することができるのだと思います。

この意味で、病気や障害としてレッテルづけされている中にも、光の当て方によっては個性として輝き出す特性というものはあるはずです。


人の価値を機能で測る不幸

分離を前提にエゴ視点で捉えるかぎり、人の価値は各人にとって役に立つかで序列化されることになり、個人の集合体である社会に貢献しないかぎり無価値である「働かざるもの食うべからず」の「機能価値」が尺度となります。

けれど、自分自身や家族や友人のこととして考えてみれば、本当に大切な人は、自分の役に立つからではなく、ただ単に存在してくれていること自体に価値があることがわかります。

年老いた親が要介護になったからといって無価値に思う人はいないでしょう。わが子が事故や病気で寝たきりになったからといって価値がなくなったとは思わないはずです。愛に包まれた状態では、存在することそれ自体が持つ価値「存在価値」が真の価値の尺度となります。

愛する家族であれば、人は存在することに価値があることがわかるけれど、他人のこととなると存在価値ではなく機能価値でしか価値を測れなくなるわけです。

しかし、その他人にとっては自分と同じように、自分自身や愛する家族は存在しているだけで価値があるわけで、結局のところ、分離幻想が錯覚を起こしているだけだということになります。


汝自身を知れ

自分の身体の細胞は、目であろうと肛門であろうと存在することが等しく価値を持つように、世界が自分の身体だとしたら、身体の一部として視点を絞って当てているだけの自分のアバター以外の自分である兄弟たちも存在していること自体に価値があり、自分のアバターや社会の尺度での機能価値に惑わされるのは大きな錯覚だということになるでしょう。


汝自身を知れ」というテーマで述べたことがあります。

コースが、聖霊に従う場合に知るべきだという自己はひとりの神の子を指す大いなる自己ということでした。

この大いなる自己に気づくには、個別の自己が抱くエゴが個別の自己につけさせている仮面を取り去っておいたほうがより真理の光に同調しやすくなるという意味で有益でしょう。

これが、コースが、自我に従う場合にも「汝自身を知れ」というのがカリキュラムの目標であるとしている理由だと思います。この場合に知る必要がある自己は、大いなる自己としての自分ではなく、個別の自己としての自分の身の程を知れという意味のことでした。

そのうえで、コースは、ほかの誰かに自分勝手な役割を振り振って、それを果たせないと言っては非難するのではなく、兄弟はあなたに助けとなるチャンスを与えてくれているのだと気づくことを求めます。

これは思考枠組みの逆転、リフレーミングであり、発想の転換です。

この世界にいる家族であれ友人であれ、見知らぬ他人であれ、その人たちは、私たちに幸せを運ぶ役割を負って存在しているのではなく、反対に、私たちが助けとなる機会を提供してくれているのだと。
つまり、私たちが腹を立てたくなるような不快な出来事を運んでくるたびに、そのつど、私たちが嫌ったり憎んですらいるかもしれないその人は、私たちに助けとなるチャンスを差し延べてくれているということです。
その助けとは、その兄弟こそ、自分の救い主であるということに気付いて、みんなが一体となった神の子は無罪であるというメッセージを伝えることに貢献することです。

草役を割り振られたならば、草役なんてうんざりだと世を拗ねて、お姫様役をうらやんだり、自分より劣るように思える芋虫役を小馬鹿にしたりしてなどいないで、潔く、とことん見事な草を演じ切り、劇全体(大いなる自己)を花開かせることに貢献したいものです。



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It’s not how much we give, but how much love we put into giving. – Mother Teresa

 松山 健 Matsuyama Ken
この記事を書いた人:  松山 健 Matsuyama Ken

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