T11-5 エゴです。。。。がんばってもっと悪さをしますから、私を赦すのだけは勘弁してください!
Don't try to get rid of the ego-sensation.
エゴという感覚を取り除こうとしてはならない。
Take it, so long as it lasts, as a feature of the total process-like a cloud or weave, or like feeling warm or cold, or anything else that happens of itself.
エゴの感覚が持続するかぎり、その感覚を、雲や波、温かさや冷たさの感覚、その他ひとりでに起こるあらゆることと同じようなプロセス全体のひとつの側面として受け取っておくのだ。
Getting rid of one's ego is the last resort of invincible egoism!
自分のエゴを取り除こうとすることは、利己性を克服できないものにしてしまうエゴの奥の手なのだ!
It simply confirms and strengthens the reality of the feeling.
エゴを取り除こうとすることは、単にエゴという感覚のリアリティを確認して補強することにしかならないからだ。
But when this feeling of separateness is approached and accepted like any other sensation, it evaporates like the mirage that it is.
しかし、この分離の感覚をほかの感覚と区別せずに扱って同じように受け入れるなら、エゴの感覚は、本来の姿通り蜃気楼のように消失してしまう。

Alan Watts
アラン・ワッツ
エゴはスピリットの障害物ではなく、スピリットの光を放つ現れなのである……エゴは粗野な領域での、機能的な自己として留まる。そして、エゴはもっと強度を増して、もっとパワフルになることすら適切かもしれないのである。なぜならば、今や宇宙全体とエゴは接続されているからだ。悟りを開いた偉大なる師の多くは、際立ったエゴを持っていた……手厳しくて、説得力があり、パワフルなパーソナリティーという意味で。

Kenneth Earl "Ken" Wilber Junior
ケン・ウィルバー(ワン・テイスト)
自然は、健全で自分本位な仕組みとしての自衛本能を通じて、生き延びる仕組みを持っています。あらゆる生物は、まず自身が生き延びるために必要なものを手に入れ、結果的に環境と調和しながら繁栄していくことができるのです。これをよく示す例がりんごの樹です。私たちが酸素を吸い、りんごの実を食べ、その木陰で雨宿りをすることができるのも、りんごの樹が利己的に大地から栄養と水を、太陽から光とエネルギーを吸収し、たくましく元気に成長したおかげです。自然界に欠かせない一員として、私たちも同様に自分の利益を健全に追求することで、一番いいパフォーマンスを発揮することができるのです。人間として私たちが健康で、幸せで、たくましくいられるために必要なものを得られたとき、体だけでなく、心とマインドも最高の働きをします。そして、その副産物として、自分のことをしっかりと労われば労わるほど、他人に対してより多くのものを与えられることができるのです。

ブレイク・D・バウアー(「あなたは苦しむために生まれたんじゃない」83ページ)

今回は、引き続き、エゴの原動力について解説する一節(テキスト 第十一章 五 エゴの「力学」)をご紹介します。
魔が差す瞬間
誰でも、いわゆる「魔が差す瞬間」、エゴの衝動に突き動かされて、自己本位な振る舞いをして、あとになって自分でもなんであんなことをしてしまったのかと後悔するという体験をしたことがあるはずです。
誰かにかけられた言葉に、自分を侮辱されたように感じて激昂し、口汚く罵ってしまったり、暴力を振るったりして大変なことになる人もいます。
あとになって振り返ると、まるで自分のしたことではないように、まるで自動操縦機能に自分が乗っ取られていたように感じることがあるものです。
激情に駆られるような場面ほどわかりやすくはないものの、日常的な場面でも、私たちがエゴの支配を免れているときなどありません。
知人間の儀礼的な贈り物のやりとりから、親子の間の情愛に基づくやりとりまで、全面的にエゴが取り仕切っています(ここは異論があるかもしれませんが、またの機会に)。
つまり、エゴに従うかぎり、私たちは自由意志を行使しているという錯覚を持つことはできても、自由意志はないということです。
「It is not your will to be imprisoned because your will is free.
囚われの身となることは、あなたの意志ではありません。なぜなら、あなたの意志は自由だからです。
That is why the ego is the denial of free will.
だから、エゴとは自由意志の否定なのです。」(テキスト第八章 二 幽閉と自由との違い 3)
エゴには何もする力はない
このように、エゴに突き動かされ、自分で意識していないときも、自動反応でエゴ本位になっていることを考えると、私たちは、エゴは私たちを操ってコントロールする強力な力を持っているように感じます。

ですが、この節では、エゴには何もする力などないといいます。
そして、そもそも、エゴに何かをするということ自体が不可能なことだと言います。
その理由は単純で、エゴは幻想であり無だからということです。
つまり、もともとエゴは無であり、何もないものなのだから、その無が力を持つことなどありえないということです。
たしかに、エゴがさまざまな悪さをするものとして「存在」するのを私たちは知覚し実感します。
しかし、私たちが知覚しているからといって、それが実在している証拠にはなりません。
晴天の日に外に出ると日の光によって、物体には影ができます。
影がそこに姿かたちをもって存在しているとしても、はたして影は何かをする力を持つ有でしょうか。
そんなことはありません。
影はあくまで無であり、影が形を持つためにまるで幻想が本当にあるかのように見えはしても、影である幻は無であり、無には何もする力などないままです。
そして、何かをされているように思える「私たち」自体も幻想とすれば、幻想が幻想に何か悪さをするなんてことはありえないということになります。
幻に与えていた力を取り戻すには、幻を見据えてそれが無だと見極めること
幻想というものは、それを錯覚する者が勝手に想像をたくましくすることで維持されるのであり、このエゴの錯覚を取り消すために必要なのは、ほかのすべての幻想と同じように、幻想から目を背けるのではなく、真正面から幻想を見据えることだと言います。
エゴは、私たちが他者や世界と隔絶し、自分を神から切り離された小さな自己であると信じこませるためのたくさんの思いの寄せ集めからなる妄想システムであり、実在しない無が幻として存在すると錯覚させる働きです。
小さな自分を定義する属性はすべて、エゴを構成する妄想システムの一部になることができます。
自分の名前や性別や履歴、身体的特徴、個人としての自分のアイデンティティーを特徴づける長ったらしいリストがエゴの素材です。
分離を信じる、つまり、一なるものの全体性を黙殺することによって、客体として知覚される世界と主体として知覚する意識というものが必要になります。
これがエゴを生み出すことになります。
外にある世界と自分と他者を隔てる身体は、エゴの分離の信念が本物であることを偽証します。
エゴの目的は分離幻想を維持するために、恐怖を使ってエゴの自律性を確保することにあります。
エゴの思いの中核は、自分は宇宙の中で隔絶した孤独な存在だという信念です。
このように自分が孤立した存在であると信じると、自分以外のすべてが敵になり、脅威の対象となり、宇宙全体が恐怖の場所となります。
エゴの手練手管
ただし、エゴは、恐怖を道具として用いはしますが、エゴ自体が恐怖の元凶であると私たちに気づかせるわけにはいきません。
なぜなら、私たちはエゴから他から分離独立して自律するよう教えこまれますが、本当は神と結びついて、神と依存関係にあるので、もし私たちが自分が怯えるのはエゴのせいで、本当はエゴのことを恐れているのだということに気づいたら、私たちは、独立心を減少させて、神への依存が真実だと気づいて神への依存を回復してしまいかねないからです。
そこで、エゴは私たちに、自分が力を与えてやるとそそのかして独立心を煽ります。
エゴにとっては分離こそが救済なので、個としての独立を確立することが幸せということになります。
他者を蹴落とし、搾取し、自分だけの利益を確保してこそ幸せになれるのだ、何しろ自分以外はすべて敵なのだからと。
エゴ自体、誤りを知覚してそれを現実と解釈する妄想システムなので、当然のように、真理を見落としてしまいます。
そして、エゴは、分離が存在し、エゴには自己を創造する力があるということを根本的な前提として考えるので、そこから導かれる論理的帰結はすべて誤りのない正確な論理となります。
ですから、エゴが設定する土俵の上でエゴと向き合っているかぎりは、エゴは「存在」し、力を持ったままになってしまいます。
エゴの土俵で戦わない
土俵の外に出て、エゴがひっきりなしに砂の上に線を引いたり、ガラクタを寄せ集めては周りに壁を作ったりして自分の陣地だと主張しているだけで、本当は、一つひとつの土俵を仕切る境目などない、つまり、分離もなければ、エゴに個々の自己を創造する力もないということに気づいて、エゴの基盤を掘り崩すしかありません。
これは、「贖罪」の観点と同じものです。
結局、真の自律とは、神の自律の中に包含されていることによる自律である、つまり、個別の自己としての自律ではなく、みんなが一体となった神の子としてのアイデンティティーの回復であるということです。
12.「あなたが本当に苦心して追い求めてきたエゴの目標は、単に自分に恐れをもたらしただけであったということに気づいてください。そうすれば、そんな恐れを抱くことが幸せだなどと言い張るのは困難になります。」
テキスト 第三章 六 価値判断と権威問題が本節の参考になりますので、ご一読いただければと思います。

テキスト 第十一章
V. The "Dynamics" of the Ego
五 エゴの「力学」
1. No one can escape from illusions unless he looks at them, for not looking is the way they are protected.
幻想をしっかりと見つめないかぎり、誰も幻想から逃れることはできません。というのは、見ないでいるという方法によって、幻想は保護されているからです。
There is no need to shrink from illusions, for they cannot be dangerous.
幻想にひるむ必要はまったくありません。なぜなら、幻が危険なものになりうるはずがないからです。
We are ready to look more closely at the ego's thought system because together we have the lamp that will dispel it, and since you realize you do not want it, you must be ready.
私たちにはエゴの思考システムをより緻密に見る用意ができています。なぜなら、エゴの思考システムを払い除けるランプを私たちは一緒に掲げており、あなたは自分がエゴの思考システムを望んでいないと気づいているのですから、あなたには準備ができているはずだからです。
The "dynamics" of the ego will be our lesson for a while, for we must look first at this to see beyond it, since you have made it real.
エゴの「力学」がこれからしばらくの間、私たちが学ぶことになるレッスンです。というのも、あなたがエゴの思考システムを現実のものにしてしまっているために、エゴの思考システムを越えてその向こう側を見るためには、まず、エゴが力を働かせる仕組みをよく見てみなければならないからです。
We will undo this error quietly together, and then look beyond it to truth.
私たちで力を合わせてこの誤りを粛々と取り消し、それから、その誤りの向こう側にある真理を見つめましょう。
2. What is healing but the removal of all that stands in the way of knowledge?
癒しは、知識に至る道を塞いでいるものをすべて取り除くことにほかなりません。
And how else can one dispel illusions except by looking at them directly, without protecting them?
そして、幻想を追い払うには、幻想を守ろうとはせずに、真正面から幻想を見据える以外に方法はありません。
Be not afraid, therefore, for what you will be looking at is the source of fear, and you are beginning to learn that fear is not real.
それゆえに、恐れることはありません。なぜなら、あなたが見ようとしているのは恐れの源であり、そして、あなたは恐れが実在しないことを学びはじめているからです。
You are also learning that its effects can be dispelled merely by denying their reality.
あなたはまた、恐れが実在することをただ否認しさえすれば、恐れの結果も払拭できることも学んでいるのです。
The next step is obviously to recognize that what has no effects does not exist.
その次のステップとして、結果を持たないものは存在しないと気づくようになるのは当然のことです。
Laws do not operate in a vacuum, and what leads to nothing has not happened.
法則が作用しながら何の効果も生じないはずがないのだから、無に導くようなものは、そもそも起こってなどいなかったのです。
If reality is recognized by its extension, what leads to nothing could not be real.
もし何かが実在するかどうかが、その何かを拡張したものによって見分けられるとすれば、無へと導くようなものが実在するはずがありません。
Do not be afraid, then, to look upon fear, for it cannot be seen.
ですから、恐れを見つめるのを恐れないでください。なぜなら、恐れを見ることなどできないからです。
Clarity undoes confusion by definition, and to look upon darkness through light must dispel it.
明瞭さは事態を明確にさせることによって混乱を取り消します。そして、光を当てて闇を眺めれば、必ず光が闇を一掃します。

3. Let us begin this lesson in "ego dynamics" by understanding that the term itself does not mean anything.
私たちで「エゴの力学」を学ぶにあたって、この言葉自体が何も意味しないと理解することからレッスンを始めましょう。
It contains the very contradiction in terms that makes it meaningless.
この言葉は、それ自体を無意味にするような、まさに名辞矛盾の表現を含んでいます。
"Dynamics" implies the power to do something, and the whole separation fallacy lies in the belief that the ego has the power to do anything.
「力学」とは、何かをする力を当然の前提にしており、分離に関する誤った考え全体は、エゴが何かをする力を持っているという信念に基盤を置いています。
The ego is fearful to you because you believe this.
あなたにとってエゴが恐ろしいものである理由は、エゴには何かをする力があるとあなたが信じているからです。
Yet the truth is very simple:
しかし、その真相は、とても単純で、次のようなものです。
All power is of God.
すべての力は神に由来します。
What is not of him has no power to do anything.
神に由来しないものは、まったく何の力も持ちません。
4. When we look at the ego, then, we are not considering dynamics but delusions.
したがって、私たちがエゴを見るとき、私たちは何らかの力の働きについて考えているのではなく、妄想について考えているのです。
You can surely regard a delusional system without fear, for it cannot have any effects if its source is not real.
あなたは妄想を生み出す入り組んだ信念体系であれば、間違いなく、それを恐れずにじっくりと見ることができるはずです。なぜなら、妄想システムの源が実在しないとすれば、妄想システムにはいかなる結果をもたらすこともできないはずだからです。
Fear becomes more obviously inappropriate if you recognize the ego's goal, which is so clearly senseless that any effort on its behalf is necessarily expended on nothing.
もしあなたがエゴの目標に気づけば、恐れるのが不適切だということがより明瞭になります。というのも、エゴの目標は本当に疑いなく無意味なので、エゴの目標を達成するためにどんなに努力を費やしても、必然的に徒労に終わるからです。
The ego's goal is quite explicitly ego autonomy.
エゴの目標は至極明快であり、それはエゴの自律を達成することです。
From the beginning, then, its purpose is to be separate, sufficient unto itself and independent of any power except its own.
そうだとすれば、最初からエゴの目標は分離することであり、エゴ自体だけで自足し、エゴ自体以外のどんな力からも独立していることだということになります。
This is why it is the symbol of separation.
これこそ、エゴが分離の象徴である理由です。

5. Every idea has a purpose, and its purpose is always the natural outcome of what it is.
あらゆる想念は目的を持ちます。そして、想念が持つ目的はつねに、その想念の本質からの当然の帰結です。
Everything that stems from the ego is the natural outcome of its central belief, and the way to undo its results is merely to recognize that their source is not natural, being out of accord with your true nature.
エゴに由来することは、ことごとく、エゴの中心的な信念からの当然の帰結です。だから、エゴの生み出す結果を取り消す方法は単に、その結果の源は、あなた本来の自然な状態と相容れないがゆえに、自然なものではないと気づくことだけです。
I said before that to will contrary to God is wishful thinking and not real willing.
私が前に述べたように、神に背いて意図するのは願望による希望的観測であって、真に意図することではありません。
His wiill is one because the extension of his will cannot be unlike itself.
神の意志は拡張されても、それ自体と違うものになるはずがないので、神の意志はひとつだからです。
The real conflict you experience, then, is between the ego's idle wishes and the Will of God, which you share.
ゆえに、あなたが体験する真の葛藤とは、エゴの空疎な願望と、あなたが共有している神の大いなる意志との間に生じる葛藤だということになります。
Can this be a real conflict?
しかし、こんなものが本当に葛藤といえるでしょうか。
6. Yours is the independence of creation, not of autonomy.
あなたが持っている自主性は、個として自律するための自主性ではなくて、創造するための自主性です。
Your whole creative function lies in your complete dependence on God, Whose function he shares with you.
あなたの創造的な働きはすべて、あなたが全面的に神に依存することに基礎を置いています。なぜなら、神は自らの働きをあなたと共有しているからです。
By his willingness to share it, he became as dependent on you as you are on him.
創造的な働きを共有しようとする神の意欲によって、あなたが神に依存するのと同じように、神もあなたに依存することになりました。
Do not ascribe the ego's arrogance to him who wills not to be independent of you.
エゴが横柄にのさばっていることを神のせいにしてはなりません。神はあなたから離れていることを意図してなどいないのですから。
He has included you in his autonomy.
神は自らの自律性の中にあなたを包含しています。
Can you believe that autonomy is meaningful apart from him?
あなたは神から離れて自律性を持つことに意義があると信じられるでしょうか。
The belief in ego autonomy is costing you the knowledge of your dependence on God, in which your freedom lies.
あなたはエゴの自律を信じることの代償として、自らの神への依存性についての知識を犠牲にする羽目に陥っています。しかし、自らが神に依存していることを知ることで、あなたは自由になれるのです。
The ego sees all dependency as threatening, and has twisted even your longing for God into a means of establishing itself.
エゴは何かに依存することをすべて脅威とみなします。だから、エゴはあなたが抱く神への憧れの気持ちすらをも捻じ曲げて、自らの地歩を固めるための手段にしてしまっています。
But do not be deceived by its interpretation of your conflict.
しかし、あなたの葛藤についてエゴが説明する解釈に騙されてはなりません。

7. The ego always attacks on behalf of separation.
エゴはいつでも分離のために攻撃します。
Believing it has the power to do this it does nothing else, because its goal of autonomy is nothing else.
エゴは自分には攻撃する力があると信じているので、攻撃以外のことは何もしません。なぜなら、自律というエゴの目標は攻撃以外の何ものでもないからです。
The ego is totally confused about reality, but it does not lose sight of its goal.
エゴは現実についてはまったく何もわかっていませんが、それでも、エゴが自分の目標を見失うことはありません。
It is much more vigilant than you are, because it is perfectly certain of its purpose.
エゴは、あなたよりよほど強い警戒心を持っています。なぜなら、エゴは自らの目的を完璧に確信しているからです。
You are confused because you do not recognize yours.
あなたのほうはと言えば、自分の目的がわかっていないので混乱しているのです。
8. You must recognize that the last thing the ego wishes you to realize is that you are afraid of it.
あなたは次のことを認識しなければなりません。それは、エゴが一番あなたに気づいて欲しくないことは、あなたがエゴに恐れを抱いているということです。
For if the ego could give rise to fear, it would diminish your independence and weaken your power.
というのは、もしエゴがあなたに恐れを抱かせうるとしたら、エゴはあなたの自律性を減少させて、あなたの力を弱めることになるからです。
Yet its one claim to your allegiance is that it can give power to you.
しかし、エゴは一言、自分にはあなたに力を与えることができると言って、あなたの忠誠心に訴えかけます。
Without this belief you would not listen to it at all.
エゴが自分に力を与えてくれると信じなければ、あなたがエゴに耳を貸すようなことはまったくなかったはずです。
How, then, can its existence continue if you realize that, by accepting it, you are belittling yourself and depriving yourself of power?
したがって、もしあなたが、エゴを受け入れることによって、自分が自分自身を矮小化して自分自身から力を奪い取らせていることに気づいたら、エゴは存亡の危機に立たされます。

9. The ego can and does allow you to regard yourself as supercilious, unbelieving, "lighthearted," distant, emotionally shallow, callous, uninvolved and even desperate, but not really afraid.
そのため、エゴはあなたがあなた自身のことを、高慢で、懐疑的で、「能天気で」、よそよそしく、薄情で、冷淡で、無関心で、絶望的ですらあるとみなしてもかまわないと思っているし、現に、あなたが自分をそのようにみなすのを容認してもいます。しかし、あなたが実は自分は恐れているのだと考えることだけは許しません。
Minimizing fear, but not its undoing, is the ego's constant effort, and is indeed a skill at which it is very ingenious.
エゴは絶えず努力を払って、恐れを実際よりも小さなものに見せつつも、恐れを取り消さないようにします。そして、それをこなす技量にかけては、エゴはきわめて見事な手腕を持っています。
How can it preach separation without upholding it through fear, and would you listen to it if you recognized this is what it is doing?
恐れを通じて分離を維持することなくして、エゴはどうやって分離を教え広めることができるでしょう。そしてもし、エゴがしているのがこんなことでしかないとあなたが気づいたなら、あなたはエゴの言うことを聞こうとなどするでしょうか。
10. Your recognition that whatever seems to separate you from God is only fear, regardless of the form it takes and quite apart from how the ego wants you to experience it, is therefore the basic ego threat.
したがって、それがどんな形をとるかに関わらず、また、エゴがそれをあなたにどんな形で体験させたいと望むかにまったく関わりなく、あなたを神から分離させるように思えるものはどれもすべて、恐れにほかならないとあなたが気づくことは、エゴにとっては根本的な脅威となります。
Its dream of autonomy is shaken to its foundation by this awareness.
あなたのこの自覚によって、エゴの自律の夢はその土台を揺るがされます。
For though you may countenance a false idea of independence, you will not accept the cost of fear if you recognize it.
なぜなら、たとえあなたが自立についての誤った考えについては大目に見るかもしれないとしても、もしあなたが恐れることで自分を神から分離させることになると気づいたなら、恐れという代償をあなたが甘受するはずがないからです。
Yet this is the cost, and the ego cannot minimize it.
しかし、このように神との一体性の自覚を失うことが恐れの代償であり、エゴにはこの自覚の喪失を少しもくい止めることができません。
If you overlook love you are overlooking yourself, and you must fear unreality because you have denied yourself.
もしあなたが愛を見逃すなら、あなたは自分自身を見落としていることになります。そして、あなたは自分自身を否認してしまったので、あなたは虚構を恐れざるをえなくなります。
By believing that you have successfully attacked truth, you are believing that attack has power.
自分が首尾よく真理を攻撃することに成功したと信じているので、あなたは攻撃には力があるものと信じています。
Very simply, then, you have become afraid of yourself.
つまり、きわめて単純に言えば、あなたは自分自身に恐れを抱くようになってしまったのです。
And no one wants to find what he believes would destroy him.
そして誰も、自らを破滅させるはずだと自分が信じているものを見つけたいなどとは思わないものです。

11. If the ego's goal of autonomy could be accomplished God's purpose could be defeated, and this is impossible.
もし自律というエゴの目標が成就されうるとすれば、それは神の目的が挫かれうるということですが、そんなことは不可能です。
Only by learning what fear is can you finally learn to distinguish the possible from the impossible and the false from the true.
ただ恐れとは何なのかを学ぶことによってのみ、あなたは最終的に不可能と可能を区別したり、真実と虚偽を区別できるようになります。
According to the ego's teaching, its goal can be accomplished and God's purpose can not.
エゴの教えによれば、エゴの目標は達成できることで、神の目的は達成できないことになります。
According to the Holy Spirit's teaching, only God's purpose can be accomplished, and it is accomplished already.
聖霊の教えによれば、ただ神の目的だけが達成できるものであり、しかも、それはすでに達成されているのです。
12. God is as dependent on you as you are on him, because his autonomy encompasses yours, and is therefore incomplete without it.
あなたが神に依存しているのと同じように、神もあなたに依存しています。なぜなら、神の自律はあなたの自律を包含しており、したがって、あなたの自律なくしては神の自律は完全にはならないからです。
You can only establish your autonomy by identifying with Him, and fulfilling your function as it exists in truth.
あなたは自分の自律を次のことによってのみ確立できます。それは、自らが神と同一であることを認め、そして、真理の中に存在するがままに自分の役目を果たすことです。
The ego believes that to accomplish its goal is happiness.
エゴは自らの目標を達成することが幸福だと信じています。
But it is given you to know that God's function is yours, and happiness cannot be found apart from Your joint Will.
しかし、あなたは、神の働きはあなたの働きであり、あなたたちと神が大いなる意志においてひとつに結びつくこと以外に幸福は見出せないと知ることができます。
Recognize only that the ego's goal, which you have pursued so diligently, has merely brought you fear, and it becomes difficult to maintain that fear is happiness.
あなたが本当に苦心して追い求めてきたエゴの目標は、ただあなたに恐れをもたらしただけだったことを認めてください。そうすれば、恐れを抱くことが幸せだなどと言い張ることはできなくなるはずです。
Upheld by fear, this is what the ego would have you believe.
恐れを後ろ盾に、エゴはあなたにこんなことを信じさせようとしていたのです。
Yet God's Son is not insane, and cannot believe it.
しかし、神の子は狂気に陥ってはいないので、恐れることが幸せだなどと信じることはできません。
Let him but recognize it and he will not accept it.
ただ神の子に、エゴの目標を追求することは恐れをもたらすことにしかならないと気づかせてあげなさい。そうすれば、神の子は恐れを抱くことが幸せだなどということを受け入れなくなるでしょう。
For only the insane would choose fear in place of love, and only the insane could believe that love can be gained by attack.
というのも、狂気に陥った者だけが愛の代わりに恐れを選択し、そして、狂気に陥った者だけが攻撃によって愛が得られると信じることができるからです。
But the sane realize that only attack could produce fear, from which the Love of God completely protects them.
しかし、正気の者は、ただ攻撃だけが恐れを生み出すことができるのであり、神の大いなる愛がそんな恐れから自分たちを完全に守ってくれると理解しています。

13. The ego analyzes; the Holy Spirit accepts.
エゴは分析するのに対して、聖霊は受容します。
The appreciation of wholeness comes only through acceptance, for to analyze means to break down or to separate out.
受容を通してしか、全体性の真価を認めることはできません。なぜなら、分析することは、ばらばらに分解して、それらを区別して識別することだからです。
The attempt to understand totality by breaking it down is clearly the characteristically contradictory approach of the ego to everything.
全体として成り立っているものを分解することによって理解しようと試みるのは、エゴがあらゆることに処するに際しての特徴的な、明らかに矛盾したアプローチの仕方です。
The ego believes that power, understanding and truth lie in separation, and to establish this belief it must attack.
エゴは力と理解と真理は分離することで見出すことができると信じています。だから、この信念を確証するために、エゴは攻撃せざるをえないのです。
Unaware that the belief cannot be established, and obsessed with the conviction that separation is salvation, the ego attacks everything it perceives by breaking it into small, disconnected parts, without meaningful relationships and therefore without meaning.
こんな信念を確証することなどできないとは気づきもせずに、分離こそが救済だという思いこみに取り憑かれているエゴは、自分の知覚するどんなものも攻撃します。その攻撃は、エゴが知覚するすべてのものを、意味のあるつながりを持たないがゆえに無意味な小さなばらばらの部分へと分解することによってなされます。
The ego will always substitute chaos for meaning, for if separation is salvation, harmony is threat.
エゴはつねに意味を混沌へと置き換えますが、それは、もし分離が救済だとすれば、ひとつに調和することは脅威となるからです。
14. The ego's interpretations of the laws of perception are, and would have to be, the exact opposite of the Holy Spirit's.
知覚の法則についてのエゴの解釈は、聖霊の解釈とは正反対であるし、また、正反対のものにならざるをえません。
The ego focuses on error and overlooks truth.
エゴは、誤りに焦点を合わせるので、真理を見落としてしまいます。
It makes real every mistake it perceives, and with characteristically circular reasoning concludes that because of the mistake consistent truth must be meaningless.
エゴは、自分が誤りを知覚するたびに、その誤りを現実のものとし、間違いがあるのだから首尾一貫した真理など無意味に違いないと独自の循環論法で結論づけます。
The next step, then, is obvious.
そうなると、次に導かれる段階は明らかです。
If consistent truth is meaningless, inconsistency must be true.
もし首尾一貫した真理が無意味だとすれば、一貫せずに矛盾するものこそが真実に違いないということになるのです。
Holding error clearly in mind, and protecting what it has made real, the ego proceeds to the next step in its thought system:
心の中にはっきりと誤りを抱き、自分で現実にしたものを守りながら、エゴは自らの思考システムの次の段階へと歩みを進めます。
Error is real and truth is error.
それは、誤りこそが現実であり、真理とは誤りのことだというものです。

15. The ego makes no attempt to understand this, and it is clearly not understandable, but the ego does make every attempt to demonstrate it, and this it does constantly.
エゴには、こんな自分の循環論法の矛盾を理解する気はさらさらないし、この矛盾が理解不能なのは言うまでもありません。しかし、エゴはあらゆる努力を払ってこの論法の正しさを実証しようとするし、エゴがつねにしているのはこんなことです。
Analyzing to attack meaning, the ego succeeds in overlooking it and is left with a series of fragmented perceptions which it unifies on behalf of itself.
意味を攻撃するために分析することで、エゴはまんまと意味を見落とすことに成功します。そして、エゴの許に残された一連の断片化された知覚を、エゴは自分に都合よくつなぎ合わせます。
This, then, becomes the universe it perceives.
そうして、このように知覚の断片をつなぎ合わせたものが、エゴの知覚する宇宙となります。
And it is this universe which, in turn, becomes its demonstration of its own reality.
そして、今度は反対に、この宇宙がエゴ自体の実在性を実証するものとなるのです。
16. Do not underestimate the appeal of the ego's demonstrations to those who would listen.
このようなエゴの実証が、それに耳を貸そうとする者に対して持つ説得力を見くびってはなりません。
Selective perception chooses its witnesses carefully, and its witnesses are consistent.
都合よく選り分ける知覚は、エゴの実在性を証言する証人たちを入念に選び抜きます。それだけに、その証人たちの証言には一貫性があります。
The case for insanity is strong to the insane.
狂気に陥っている者にとって、狂気を擁護する弁論は強い説得力を持ちます。
For reasoning ends at its beginning, and no thought system transcends its source.
なぜなら、その論理展開は論理の起点において完結するので、どんな思考システムも、その基盤を乗り越えることができないからです。
Yet reasoning without meaning cannot demonstrate anything, and those who are convinced by it must be deluded.
しかし、意味を伴わない論法には何も実証できません。だから、こんな論法で説得されるような者たちは、はったりによって欺かれているに違いないのです。
Can the ego teach truly when it overlooks truth?
エゴが真理を見落としているとすれば、そんなエゴに偽りなく教えることなどできはずがないからです。
Can it perceive what it has denied?
そんなエゴに、自らの否認したものを知覚することができるでしょうか。
The ego looks straight at the Father and does not see him, for it has denied his Son.
エゴはたとえ大いなる父を真正面から見たとしても、それが父なる神だとはわかりません。というのも、エゴはすでに神の子を否認してしまっているからです。

17. Would you remember the Father?
あなたは大いなる父を思い出したいでしょうか。
Accept his Son and you will remember him.
そうであるなら、神の子を受け入れなさい。そうすれば、あなたは父なる神を思い出すでしょう。
Nothing can demonstrate that his Son is unworthy, for nothing can prove that a lie is true.
神の子に価値が無いと実証することなど、何ものにもできません。というのも、虚偽を真実だと証明できるものなど何ひとつないからです。
What you see of his Son through the eyes of the ego is a demonstration that his Son does not exist, yet where the Son is the Father must be.
エゴの目を通して神の子を見るときにあなたに見えているものは、神の子が存在しないことを示す証拠です。けれども、神の子がいるところにはその大いなる父もいるに違いないのです。
Accept what God does not deny, and it will demonstrate its truth.
神が否定しないものを受け入れてください。そうすれば、それがそれ自体の真理を実証してくれるでしょう。
The witnesses for God stand in his light and behold what he created.
神のために証言する者たちは、神の光の中に立って、神が創造したものを眺めています。
Their silence is the sign that they have beheld God's Son, and in the Presence of Christ they need demonstrate nothing, for Christ speaks to them of himself and of his Father.
神の証人たちが沈黙していることこそが、彼らが神の子を目撃した印です。そして、キリストの臨在を前に、神の証人たちに実証すべきことは何ひとつありません。というのも、キリストが神の証人たちに、自らについて、そして、自らの大いなる父について語ってくれるからです。
They are silent because Christ speaks to them, and it is his words they speak.
神の証人たちが沈黙しているのは、キリストが彼らに語りかけているからです。ゆえに、神の証人たちが語るのはキリストの言葉なのです。
18. Every brother you meet becomes a witness for Christ or for the ego, depending on what you perceive in him.
あなたが出会う兄弟はひとり残らず、あなたがその兄弟の内に何を知覚するかによって、キリストの証人になりもすれば、エゴの証人にもなります。
Everyone convinces you of what you want to perceive, and of the reality of the kingdom you have chosen for your vigilance.
誰もがみな、あなたが知覚したいと望むものを確信させてくれます。そして、誰もがみな、あなたが絶えず注意を払うことを選んだ王国が実在することをあなたに確信させてくれます。
Everything you perceive is a witness to the thought system you want to be true.
あなたが知覚するあらゆるものが、あなたが真実であってほしいと望む思考システムの証人となります。
Every brother has the power to release you, if you choose to be free.
もしあなたが自由になることを選ぶなら、すべての兄弟があなたを解放する力を持ちます。
You cannot accept false witness of him unless you have evoked false witnesses against him.
あなたがその兄弟に対して偽証するよう唆したのでないかぎり、あなたがその兄弟から偽りの証言を受け取ることはありえません。
If he speaks not of Christ to you, you spoke not of Christ to him.
その兄弟がキリストについて語ってくれないとすれば、それは、あなたが彼にキリストについて語らなかったからです。
You hear but your own voice, and if Christ speaks through you, you will hear him.
あなたは自分自身の声だけを聞くのであり、もしキリストがあなたを通して語るなら、あなたはキリストが語るのを聞くことになるのです。


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