T8-2 ありそでなさそな自由意志。あるの?ないの?

2013年09月20日
テキスト第8章(戻りの旅路) 0

質問者 自由意志というものは存在するのでしょうか?
マハルシ 誰の意志だろうか?行為者であるという感覚があるかぎり、それを楽しむ感覚と自由意志の感覚は存在するだろう。だが、もしこの感覚がヴィチャーラ(真我探求)の修練によって失われたなら、聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう。ジニャーナによって運命は克服される。真我の知識は自由意志も運命も超えているからである。



ラマナ・マハルシ



現象は幻想であるという考え方全体は、ある種の罠となることもありえませんか?

はい。それゆえ人生においては、自分は行為者ではないと知りながら、まるで自分が行為者であるかのように生きなければならないということです。人間は虚構によって生きています。たとえば人間は、太陽が静止していて、運動しているのが地球だということを知っていますが、それにもかかわらず、日常生活では太陽が昇っては沈むという虚構を受け入れています。
ですから、その理解は、これは幻想で、人は自由意志をもっていないというものですが、しかし人生では、あなたはまるで自由意志があるかのように行動しなければならないのです。



ラメッシ・S・バルセカール(「意識は語るーラメッシ・バルセカールとの対話」579ページ)





You are in prison.
あなたは牢獄に幽閉されている。

If you wish to get out of prison, the first thing you must do is realize that you are in prison.
あなたが牢獄から出たいなら、まずあなたがなすべきことは自分が牢獄にいると気づくことだ。

If you think you are free, you can't escape.
あなたが自分は自由だと思っていたのでは、あなたは脱出することはできない。








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今回は、自由意志に関する箇所をテキスト第八章2節ご紹介します。第三十章2節も自由意志に関する一節ですので、ご覧下さい。


私たちに自由意志はあるのか?

自由意志の幻想性については、マトリックス 自由意志という幻想で触れていますので、ご一読ください。

さて、私たちに自由意志はあるのでしょうか。



自由意志は、「一般に,外的な強制・支配・拘束を受けず,自発的に行為を選択することのできる意志のあり方をいい,〈意志の自由freedom of will〉」(世界大百科事典第二版)と定義されます。
wikipedia


決定論


本当に、思うがままに意志を実現できるということまで意味するのではなく、単に、自分という人間にとっての外的世界と内心とを区別して、心の中で自発的に思いを抱いて行為を選択するというだけであれば、現に、私たちは、自分が内心の自由を持っており、自由な意志に基づいて、心の中で思い浮かべる想念を自由に変化させたり、自分という人間を動かしたりできていると実感しています。


寄生虫にコントロールされている芋虫に自由はあるか?

ただし、それを持っているという感覚があるからといって、それが本当にその通りであるとはいえない、錯覚しているだけということはよくある話です。

とくに、個人が何らかの意図を抱いて具体性を持った欲求として行動に至るまでには、内面で想念が浮かんでから段階的なプロセスを辿りますが、このプロセスの前半の欲望を抱かせる根っこの部分だけを掌握してコントロールして、後半の部分さえ当人に自覚させさえすれば、当人には、自分が自分の意志で自発的に決定しているという錯覚を抱かせられます。

よく寄生虫と宿主の関係性を喩えに引用しますが、寄生虫に乗っ取られたカタツムリや芋虫たちは、あくまでも自分の内面から湧いてくる欲望に忠実に行動しているのであり、意に反する行動を命じられて嫌々従ったり、強引にねじ伏せられているわけではありません。

寄生虫は、宿主の脳をハイジャックして、身を危険にさらす行動や異常な食欲亢進を生じさせて、当の宿主が自分から異常行動をとるよう仕向けているだけです。

私たちも、自分で自由に思考して自分の意志を決定している感覚を持っているからといって、そんな感覚はまったく当てにならないというくらいに思っておいたほうが、このテーマを考えるうえでは有益でしょう。

レトリック(弁論修辞術)の罠で、対話の流れの中で、隠れた前提を埋め込んだ詭弁によって意図する方向に相手を誘導したり、反発心理を応用して、選ばせたい結論とは反対のほうを説得的に勧奨したりという手法で相手に気づかせないまま自分で望んで結論に辿り着いたかのように錯覚させることは可能であり、疲労や覚醒度の低さ等の注意力や認知能力の低下次第では、容易に騙されてしまうこともありえます。





決定論と意思自由論

さて、決定論と非決定論(意思自由論)は、人類の歴史でもずっと議論され続けているテーマです。



現代社会は人が自由意志を持っていることを前提に成り立っています。

個人は自由な意志決定ができるからこそ、彼には価値判断が求められ、社会的に正しいとされる行為をすれば褒められるし、悪いとされる行為をすれば非難されます。

人に自由意志がなく、すべてが決まったとおりに運命の操り人形として動いているだけだとしたら、その人の行為を褒めることも非難することもできません。

もし人に自由意志がなく、個人に選択の自由がないのなら、生まれついての矯正不能な犯罪者がいるということになり、その人の存在自体が罪だということになり、教育して改善させようと努力することは無意味で、罰して悪い部分を取り除くしかないということになります。


このような社会的な善悪にかかわる問題だけでなく、自由意志の有無は、個人の人生観にも影響します。

自分が自由な意志を持っていると思えばこそ、迷ったり失敗したりもするけれど、自分の力で人生を切り開いていくことに喜びが見出せるのであって、自由意志がなく、すべてが決められているとすれば、運命論を受け入れ、希望のない人生を歩むしかないというのが常識的な感覚です。

このような要請に加えて、未来に目を向けたときに無限に広がっているように見える可能性と選択肢、過去を振り返ったときに見える選べたはずの多くの可能性、そして、何より、今現在、無限の選択肢の中から自分の気持ちひとつで自らの行為を選択できるという素朴な実感から、私たちは、自分が自由意志を持つ存在であることを疑いません。

この意思自由論は、素直に考えるかぎり、誰もが信奉するし、信奉したがる信念です。

私も、大学の刑法の講義ではじめて意思自由論(法律用語では「意志」ではなく「意思」と書きます)と決定論の話を聞いたときには、自由意思を否定するなんてありえない、決定論者は頭がどうかしているのではないかと素朴に思ったものです。

スティーブン・R.コヴィー先生だって人間の自由意志を前提に発想を展開されていますし、自由意志を否認したのでは、人類に希望がないようにも思えます。



Stephen R. Covey
スティーブン・R.コヴィー


他方で、ラメッシ・バルセカール先生が痛快なまでに論証してくれるように、個人的行為者という感覚は幻想で、聖なる催眠の下で、あらゆる状況において神の意志がなされているとすれば、内心における意志すら錯覚でしかなく、個としての自由は失うようには感じるものの、そこには、個人的な行為者としての責任感、罪悪感からの解放(逆に優越感やプライドも同時に失うことにはなりますが)があることも理解できなくはありません。



ラメッシ先生は、未来に目を向けた際に開ける無限の可能性の感覚は確かにあるとしても、過去を振り返り、1日の終わりに、その日の出来事を回顧するだけでも、本当にじっくりと、はたして自分にその状況において選択の自由などあったのだろうかと考えてみるなら、自分にはそうすることしかできなかったということが理解できるはずだと語ってくださいます。


誰のどこでの自由なのか

このテーマ、人間は自由な意志を持つのか、運命の奴隷なのかということは、非常に深遠かつ広大な哲学的な問題であるかのように響きます。

ですが、「どこ」での「誰」の自由なのかということをはっきりさせないと、永遠に答えは出ません。

通常、自由意志を論じる場合、「どこ」でというのは、私たちが生きていると思っている二元性のこの幻想世界においてのことで、「誰」がというのは、エゴ・身体としての私たち分離した個別の自己が、自らの意志で選択・決定できる力を持つのかということになります。



自由意志の問題=価値判断の問題

さて、この自由意志の問題は、価値判断の問題と似ていることに気づかないでしょうか?

実は、両者は連動しています。というよりも、同じことを別の側面から見ているだけです。

私たちは、個人には価値判断を下す能力はあり、価値判断することは可能であり、判断をなすことは個人の責任ですらあるという常識を受け入れていますが、奇跡のコースは、個人が真に価値判断を行うことは不可能であるとして、価値判断を放棄して聖霊に委ねることを求めます(価値判断の重圧から解放されるには?)。


個人に価値判断の力がないと主張するコースが、個別の自己に、価値判断の力はないけれど、自由な意志だけはあるということがありうるでしょうか。

価値判断が可能となるには、自由な意志による制約のない思考力が必要であり、価値判断する力がないということは、裏返せば、自由意志がないということになるはずです。


一元論と二元論

もう結論は出てますが、別の観点からも考えてみましょう。

この問題は、究極的には一元論と二元論の問題に収斂します。

二元論を前提とすれば、各自が独立した存在基盤を持つことを前提とするので、それぞれの衝突はあるにせよ、それぞれに拮抗し合う範囲で「自由」に限界はあるものの自由意志はあるということになります。

これに対して、一元論を基盤とするなら、意志が帰属するのは一者だけということになるし、そもそも、二元対立はなくなるので、「選択」、「決定」という観念がなくなります

もし一元論に立つなら、「私たち」分裂した個別の心に自由意志があるのかないのかを考えること自体が頓珍漢な冗談でしかなくなります。

なぜなら、一元論からすれば、個別に分離した「私たち」自体が幻想にすぎないので、個々人が自由な意志を持つのかどうかということは、幻想の中で空想されているキャラクターがはたして自由な意志を持つのかどうかということをまじめに考えこむようなことでしかないからです。

小説の中の登場人物に自由意志はあるのかということを考えるのは、滑稽なことです。


私たちは、自分が実在することだけは確固とした事実であることをスタートラインにしてしか発想できないので、自分たちが小説の登場人物と変わらない架空の存在であることに思い至りません。

つまり、私たちは、自分たちが持っている意志が自由なのかどうかと、自分に自由意志があるのかどうかを疑うことはできても、その意志の主体である「私たち」という個別の自己意識については、それがはたして本当にあるものなのかと、その幻想性に疑問を抱くことすらできません。

これは、自他を分け隔てる身体による分離の感覚が根深いためですが、もし個別の自己自体が偽りの幻想だということになれば、個別の自己とは、真の自己を分裂させて幽閉する自由意志の否定、真の自己の不在に名前をつけたものにほかならないことになります。

すなわち、個別の自己が持っているつもりになっている「自由意志」というものが仮にあるとしても、それを真に持っているのは神の子であり、個別の自己自体が神の子の持つ自由意志に課された制限、錯覚であり、個別の自己は自由意志の主体ではありえないということです。


神の子が見る夢の登場人物であるエゴとしての私たちに自由意志があるはずがない

「It is not your will to be imprisoned because your will is free.
 囚われの身となることは、あなたの意志ではありません。なぜなら、あなたの意志は自由だからです。

 That is why the ego is the denial of free will.
 だから、エゴとは自由意志の否定なのです。」(テキスト第八章 二 幽閉と自由との違い 3)

端的に言えば、この世界において、エゴ・身体と一体化しているかぎり、私たちは、感覚として偽りの自由意志を味わうことはあっても、真の自由意志を持ってはいないということです。


夢との類比で考えるかぎり(打ち砕かれた欠片の中に潜むものはをご覧ください)、この結論は当然のものです。

すなわち、夢の中の登場人物たちは、主人公も含めてみんな、夢見る者が作り出して操っている存在であり、夢見る者から独立した意志自体を持っていません。

舞台とその上で動き回る操り人形、そして、それを上から操っている人形遣い、舞台上の劇を眺める観客、これらすべてを夢見る者がこなしています。

きっちりと筋書きの定まった脚本のある劇が上演されているとすれば、当然、操り人形に自由意志はありません。

仮に劇が即興劇であったとしても、操り人形に「意識」はあっても、自由意志はありません。

個別の自己へと自分自身を縮小して狭める「意識」によって知覚が生まれ、自由意志の感覚が生じはします。

そして、この意識により、操り人形は、自分の自由な意志で歩き、ほかの人形と関わって生きていると思いはします。

しかし、本当のところ、操り人形の振る舞いは、当の人形の意識とは関わりなく、夢見る者によって起こっているだけです。


操り人形の感じる自由意志は、真の自分である夢見る者が本当の自分の自由な意志を忘れて、夢の中の一主人公という制約の中に自分を幽閉したことで生じる幻想、自由の錯覚にすぎません。

そして、この夢見る者と夢の中の登場人物の関係は、一元論に立つかぎり、夢見る者を一者(神の子=神)に、登場人物を個別に分離した私たちエゴ・身体に、完全にスライドさせて考えることができます。

つまり、夢の中の登場人物たちみんなに自由意志がないように、この幻想世界の登場人物である私たちに自由意志があるはずがないわけです。


聖霊とエゴの選択

さて、これが「私たち」つまり、分離した個別の心としてエゴに従う私たちだとしても、まったく選択の自由が残されていないというわけではありません。


「It is impossible that the prayer of the heart remain unanswered in the perception of the one who asks.
心の中での祈りが、求めた者の知覚において、答えられないままになるということはありえません。

If he asks for the impossible, if he wants what does not exist or seeks for illusions in his heart, all this becomes his own.
もしその人が不可能なことを求めたり、存在しない物を欲したり、自分の心の中で幻想を探すなら、それらのすべては彼のものになります。

The power of his decision offers it to him as he requests.
彼の決定する力が、彼が求めた通りに、彼にそのものを差し出してくれます。

Herein lie hell and Heaven.
ここにこそ、地獄と天国を見出すことができます。

The sleeping Son of God has but this power left to him.
眠り続ける神の子は、この力だけは自分に残しているのです。」(マニュアル第21節



「6. The Holy Spirit calls you both to remember and to forget.
 聖霊はあなたに、(神を)思い出すようにと呼びかけ、また、(エゴを)忘れるようにとも呼びかけます。

 You have chosen to be in a state of opposition in which opposites are possible.
 あなたは、そこにおいては正反対の物事が存在しうる対立する状態にいることを選択してきました。

 As a result, there are choices you must make.
 その結果として、そこでは、あなたは選択をしなければなりません。

 In the holy state the will is free, so that its creative power is unlimited and choice is meaningless.
 神聖な状態においては、意志は自由です。だから、意志の創造する力には限界がないので、選択には意味はありません。

 Freedom to choose is the same power as freedom to create, but its application is different.
 選択する自由は、創造する自由と同じ力です。もっとも、それらの使い方には違いがあります。

 Choosing depends on a split mind.
 選択することは、分裂した心に依拠します。

 The Holy Spirit is one way of choosing.
 聖霊は、選択するためのひとつの方法です。

 God did not leave His children comfortless, even though they chose to leave Him.
 神は、自分の子供たちが神から離れることを選んだにもかかわらず、自らの子供たちを慰みのないままにはしませんでした。

 The voice they put in their minds was not the Voice for His Will, for which the Holy Spirit speaks.  
 子供たちが自分の心に置いた声は神の意志を代弁する声ではありませんでしたが、聖霊は神の意志を代弁するものです。」(T5-2 神に代わって語る声



「Would you be hostage to the ego or host to God? you will accept only whom you invite.
 あなたはエゴの人質になりたいのですか、それとも神をもてなす主人になりたいのですか。

 You are free to determine who shall be your guest, and how long he shall remain with you.
 あなたは、自ら招くものだけを受け入れます。あなたには、誰を客として招待するか、そして、その客がどれくらいの間あなたとともに留まるか、決定する自由があります。

 Yet this is not real freedom, for it still depends on how you see it.
 しかし、このようなことは本当の自由意志ではありません。というのは、その決定は、依然として、あなたが客として招く存在をどう見るのかということに、左右されているからです。」(T11-2 癒しへの招待、7.)



「In this world the only remaining freedom is the freedom of choice; always between two choices or two voices.
 この世界では、唯一残存している自由意志は選択の自由に関するものだけです。その選択肢は、つねにふたつの選択肢、つまりふたつの声の間でどちらを選ぶのかというものです。」(用語解説 Mind - Spirit 心-霊


このように、私たち個別の心の中にいる決定者(decision-maker)には、聖霊を選ぶかエゴを選ぶかについての選択肢が残されています。

聖霊とエゴを選ぶ選択肢はあるのに、ほかのことには選択肢はないということを同じ次元で捉えるかぎり、なんだか矛盾していて都合のよい誤魔化しのように感じてしまうかもしれません。

聖霊とエゴを選べるなら、それと同じように、ほかの物事も選べるはずなんじゃないの?と。



しかし、聖霊とエゴの選択肢と幻想世界の中での物事の選択肢とは次元が異なるものです。

それは、本を開いて物語を読んで主人公になって物世界を生きている読者には、物語を書き換える選択肢は持っていないけれど、いったん本を閉じて自分が主人公ではなく読者だと自覚する選択ができることを意味します。

面白い小説や映画の主人公になりきって、物語に取り憑かれたように没頭している子どもは、物語世界内で主人公として自分の意志で運命を切り開く感覚を満喫していますが、現実世界では本やテレビ画面から離れて友達と公園で遊んだりすることができず、真の自分としての自由を奪われています。

その子に選択の自由があるのは、本を読み続けて主人公になりきって偽りの自由意志を満喫するのか、本を閉じて本当の自分としての自由を取り戻すのかという選択肢だけです。


しかし、私たちの本質は自由そのもの

さて、これからご紹介する節では、自由意志が「ある」ということが説明されています。






ここまで、さんざん自由意志はないって言っといてそれはないんじゃないの!?と思われるかもしれませんが、ここで奇跡のコースが言う「自由意志」は、冒頭に出てきた一般的な定義とは違うものです。

一般的な自由意志は冒頭にあげたように、内心での選択・決定の自由なので、厳密に言えば、そもそも一元論において対立する複数の選択肢から何かを選んで決定するということ自体がありえない神の子には、この通常の意味での自由意志はありません。

しかし、何の制約もなく思うがままという意志は、真に自由な意志ということができます。

真の私たちである神の子は神とひとつの意志を共有するものであり、当然、制限のないという意味で「自由な」意志を持っています。


今日ご紹介する節で「自由意志」という言葉で表現されている趣旨は、このような意味です。

私たちは、神の思いであり、私たちの意志は、神の意志と同一のものです。


まとめ

最後にまとめると、
神の現実においては、そもそも選択ということ自体が観念できないので、一般的な意味での自由意志自体ないが、真に無制限な意志という意味での自由意志はある、
この世界においては、個別の自己には自由意志はない、ただし、聖霊とエゴの選択肢についてのみ自由意志がある、
ということになります。


この結論のもたらす功徳、福音には次のように二面あります。

エゴに従う者として、自由意志はないということは、未来に選択肢が無限に広がっているように見えていながらも、自分が選択することはすべて「すでに書かれている」必然の出来事だということです。逆に言えば、「もしあのときこうしていれば」はありえないということです。

だから、どんなに先のことを計画したり、楽しみにしたり、悩んだり、心配したりしようが、刹那的に、その場その場で成り行き任せに生きようと、なるようにしかならないということです。

これはラメッシ先生のいう罪悪感からの解放です。そして、選択肢はあるように見えはするけれど、選択肢など存在しないわけですから、最善の選択はどれかという価値判断からの解放でもあります。


すでに書かれている

「すでに書かれている」をとことん受け入れるなら、悪あがきに注いでいたエネルギーをもう失わない、重圧から解放されるということになります。

個人として、人生を楽しむ余裕が与えられることにもなるでしょう。

聖霊は、個々の自己のための神の救済計画を保ってくれているということはワークブックでも出てきます。

この計画をどのように導入するかは、各人の中にいる聖霊が、それぞれの個別の心の特性に応じて完璧なタイミングで選択してくれます。

私たちにできるのは、ただ価値判断することなく、聖霊を選択し、任せきるということだけです。

そして、聖霊を選択することで、聖霊と一体化の程度の深まり次第では、本当の大いなる自己を思い出し、それまで見ていた分離の世界、敵にしか見えなかった誰かもみんな自分であるということを思い出すときが、今にも訪れるというのですから、聖霊を選ばないという手はありません。


このテーマを深掘りしたい方はぜひこの本を読んでみてください。

「未来は決まっており、自分の意志など存在しない-心理学的決定論」(妹尾武治著 光文社新書)




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テキスト第八章 

II. The Difference between Imprisonment and Freedom
二 幽閉と自由との違い



1. There is a rationale for choice.
 教師を選択するための理論的根拠はあります。

 Only one Teacher knows what your reality is.
 あなたが本当は何者なのか知っているのは、たったひとりの大いなる教師だけです。

 If learning to remove the obstacles to that knowledge is the purpose of the curriculum, you must learn it of him.
 もしその知識に至る障害を取り除くことを学ぶのがカリキュラムの目的だとすれば、あなたは唯一の大いなる教師である聖霊からそれを学ばなければなりません。

 The ego does not know what it is trying to teach.
 エゴは自分が何を教えようとしているのかわかっていません。

 It is trying to teach you what you are without knowing what you are.
 エゴは、あなたが本当は誰なのか知らないまま、あなたが何者なのか、あなたに教えようとしているのです。

 It is expert only in confusion.
 エゴは混乱させることに関してだけは熟達しています。

 It does not understand anything else.
 しかし、エゴはそれ以外のことは何も理解していません。

 As a teacher, then, the ego is totally confused and totally confusing.
 それゆえ、教師としてのエゴは支離滅裂で、生徒をまったく混乱させるだけの存在です。

 Even if you could disregard the Holy Spirit entirely, which is impossible, you could still learn nothing from the ego, because the ego knows nothing.
 もちろんそれは不可能ですが、仮にもし、あなたが聖霊を完全に無視できたとしても、あなたは依然としてエゴからは何も学ぶことはできません。なぜなら、エゴは何も知らないからです。

名称未設定

2. Is there any possible reason for choosing a teacher such as this?
 こんな教師を選ぶべきどんな理由がありうるというのでしょうか。

 Does the total disregard of anything it teaches make anything but sense?
 エゴが何を教えようと、それを完全に無視することだけが意味をなすのではないでしょうか。

 Is this the teacher to whom a Son of God should turn to find himself?
 こんなエゴが、偉大なる神の子が自分自身を見出すために頼るべき教師といえるでしょうか。

 The ego has never given you a sensible answer to anything.
 エゴはこれまで、どんなことに対してであれ、あなたに意味をなす答えを与えてくれたためしがありません。

 Simply on the grounds of your own experience with its teaching, should not this alone disqualify it as your future teacher?
 単純に、自分がエゴの教えに従って経験してきたことを振り返って考えてみるだけでも、あなたの今後の教師としてエゴをお役御免にすべきではないでしょうか。

 Yet the ego has done more harm to your learning than this alone.
 しかし、エゴがあなたの学びに及ぼしている害悪は、これだけにとどまりません。

 Learning is joyful if it leads you along your natural path, and facilitates the development of what you have.
 もし学びがあなたが自然に歩むべき道に沿ってあなたを導き、あなたの具備する素質を発達させ開花するよう促進してくれるなら、学習は喜びに満ちたものになるはずです。

 When you are taught against your nature, however, you will lose by your learning because your learning will imprison you.
 しかしながら、あなたが自分の天性に逆らって教えられるとき、あなたの学ぶことがあなたを囚われの身にしてしまうので、あなたは自分の学びによって自分の天分を見失うことになってしまいます。

 Your will is in your nature, and therefore cannot go against it.
 あなたの意志はあなたの天性の中にあります。したがって、あなたの意志は、あなたの天性に逆らうことはできません。



3. The ego cannot teach you anything as long as your will is free, because you will not listen to it.
 あなたの意志が自由であるかぎり、あなたがエゴに耳を貸すはずがないので、エゴはあなたに何も教えることはできません。

 It is not your will to be imprisoned because your will is free.
 あなたの意志は自由なので、幽閉されることは、あなたの意志ではありません。

 That is why the ego is the denial of free will.
 だから、エゴとは自由意志の否認なのです。

 It is never God Who coerces you, because he shares his will with you.
 あなたに何かを無理強いするような存在が神であることは絶対にありません。なぜなら、神は自らの意志をあなたと共有しているからです。

 His voice teaches only in accordance with his will, but that is not the Holy Spirit's lesson because that is what you are.
 神の声は、ただ神の意志に従って教えるだけです。しかし、神の意志そのものは、聖霊が教えるレッスンではありません。なぜなら、神の意志は、あなたの本質そのものだからです。

 The lesson is that your will and God's cannot be out of accord because they are one.
 聖霊が教えるのは、あなたの意志と神の意志とはひとつなのだから、両者が一致しないはずがないというレッスンです。

 This is the undoing of everything the ego tries to teach.
 あなたの意志と神の意志が一致していると学ぶことは、エゴが教えようと試みることをことごとく取り消すことです。

 It is not, then, only the direction of the curriculum that must be unconflicted, but also the content.
 したがって、カリキュラムの方向だけでなく、カリキュラムの内容も矛盾のないものでなければなりません。

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4. The ego tries to teach that you want to oppose God's Will.
 エゴは、あなたは神の大いなる意志に対抗することを望んでいるのだと教えこもうとしています。

 This unnatural lesson cannot be learned, and the attempt to learn it is a violation of your own freedom, making you afraid of your will because it is free.
 こんな異常なレッスンなどとても学べるものではありません。だから、こんなレッスンを学ぼうと試みることは、あなた自身の自由を侵害することになり、あなたの意志は自由であるがゆえに、あなたは自分の意志を恐れるようになってしまいます。

 The Holy Spirit opposes any imprisoning of the will of a Son of God, knowing that the Will of the Son is the Father's.
 聖霊は、神の子の意志こそ父の大いなる意志だと知っているので、神の子の意志を少しでも幽閉することには反対します。

 The Holy Spirit leads you steadily along the path of freedom, teaching you how to disregard or look beyond everything that would hold you back.
 聖霊は、着実にあなたを自由の道に沿って導き、あなたを引き戻そうとするものすべてを、どのように無視して、その向こう側を見通したらよいのか、教えてくれます。



5. We have said that the Holy Spirit teaches you the difference between pain and joy.
 私たちは以前に、聖霊はあなたに苦痛と歓喜の違いを教えてくれると述べました。

 That is the same as saying he teaches you the difference between imprisonment and freedom.
 それは、聖霊が幽閉と自由の違いを教えてくれると言うのと同じです。

 You cannot make this distinction without him because you have taught yourself that imprisonment is freedom.
 聖霊の助けなくしては、あなたにこの区別はできません。なぜなら、あなたは幽閉状態こそが自由だと自分自身に教えこんでしまっているからです。

 Believing them to be the same, how can you tell them apart?
 幽閉と自由が同じだと信じているというのに、そのあなたに両者の見分けがつけらるはずがありません。

 Can you ask the part of your mind that taught you to believe they are the same, to teach you how they are different?
 あなたは、幽閉と自由が同じものだと信じるように自分に教えこんだ自分の心の部分に対して、自分に幽閉と自由がどう違うのか尋ねることなどできないはずです。



6. The Holy Spirit's teaching takes only one direction and has only one goal.
 聖霊の教えは、ひとつの方角にのみ進み、たったひとつの目的地だけを掲げています。

 His direction is freedom and his goal is God.
 聖霊の進む方角は自由であり、聖霊の目指す目的地は神です。

 Yet he cannot conceive of God without you, because it is not God's will to be without you.
 しかし、聖霊には、あなたを抜きにして神を思うことすらできません。なぜなら、あなたなしでいることなど神の意志ではないからです。

 When you have learned that your will is God's, you could no more will to be without him than he could will to be without you.
 あなたの意志こそが神の意志だとあなたが学び終えたなら、神があなたなしに在ることを意図できないのと同じように、あなたはもはや神なしにいることなど意図できなくなるはずです。

 This is freedom and this is joy.
 これこそが自由であり、これこそが喜びです。

 Deny yourself this and you are denying God his Kingdom, because he created you for this.
 あなたが神とともに在ることを自分自身に拒むとき、あなたは神に対して、神の王国を拒んでいるのです。なぜなら、神は王国に在るために王国であるあなたを創造したからです。

名称未設定

7. When I said, "All power and glory are yours because the Kingdom is his," this is what I meant:
 私が「すべての力と栄光はあなたのものである。なぜなら、王国は神のものだから。」と述べたとき、私が意味したのは次のことです。

 The Will of God is without limit, and all power and glory lie within it.
 それは、神の大いなる意志には限界はないので、すべての力と栄光は神の大いなる意志の中にあるということです。

 It is boundless in strength and in love and in peace.
 神の大いなる意志は、力強さにおいても、愛においても、平安においても果てしのないものです。

 It has no boundaries because it created all things.
 神の大いなる意志は、あらゆるものを創造したがゆえに、神の意志には限界などありません。

 By creating all things, it made them part of itself.
 万物を創造することによって、神の大いなる意志は、万物をその大いなる意志そのものの一部としました。

 You are the Will of God because that is how you were created.
 このようにしてあなたは創造されたので、あなたこそが神の大いなる意志なのです。

 Because your Creator creates only like himself, you are like him.
 あなたの大いなる創造主はただ自分自身と同じものだけを創造するのだから、あなたは神と同じものなのです。

 You are part of him who is all power and glory, and are therefore as unlimited as he is.
 あなたはすべての力と栄光である神の一部です。したがって、あなたは、神が無限であるのと同じように、無限なる存在なのです。



8. To what else except all power and glory can the Holy Spirit appeal to restore God's Kingdom?
 すべての力と栄光であるあなた以外のいったい何に対して、聖霊は神の王国を復興するように求めることができるでしょうか。

 His appeal, then, is merely to what the Kingdom is, and for its own acknowledgment of what it is.
 したがって、聖霊は、神の王国そのものであるあなたに、自分が神の王国であることをありのままに承認することだけを求めているのです。

 When you acknowledge this you bring the acknowledgment automatically to everyone, because you have acknowledged everyone.
 あなたがこれを承認するなら、あなたは自動的にその承認をすべての者にもたらすことになります。なぜなら、あなたはすべての者を承認したことになるからです。

 By your recognition you awaken theirs, and through theirs yours is extended.
 あなたが認識することによって、あなたは、すべての者たちの認識を目覚めさせます。そして、彼らが認識することを通して、あなたの認識は拡張されます。

 Awakening runs easily and gladly through the Kingdom, in answer to the Call for God.
 神を代弁する呼びかけに呼応して、目覚めが喜びのうちに神の王国の隅々にまで軽々と広がってゆきます。

 This is the natural response of every Son of God to the Voice for his Creator, because It is the Voice for his creations and for his own extension.
 これこそ、創造主に代わって語る大いなる声に対する神の子一人ひとりの自然な反応です。なぜなら、その声こそ、神の子が創造したものたちと神の子自身を拡張するようにと求める大いなる声だからです。


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 松山 健 Matsuyama Ken
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┣  テキスト第2章(分離と贖罪) (8)
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┣  テキスト第4章(エゴという幻想) (8)
┣  テキスト第5章(癒しと完全性) (8)
┣  テキスト第6章(愛のレッスン) (8)
┣  テキスト第7章(王国の贈り物) (11)
┣  テキスト第8章(戻りの旅路) (9)
┣  テキスト第9章(贖罪の受容) (8)
┣  テキスト第10章(病の偶像) (6)
┣  テキスト第11章(神かエゴか) (9)
┣  テキスト第12章(聖霊のカリキュラム) (8)
┣  テキスト第13章(罪なき世界) (12)
┣  テキスト第14章(真理のための教え) (11)
┣  テキスト第15章(神聖な瞬間) (11)
┣  テキスト第16章(幻想を赦す) (7)
┣  テキスト第17章(赦しと神聖な関係) (8)
┣  テキスト第18章(夢の消滅) (9)
┣  テキスト第19章(平安の達成) (9)
┣  テキスト第20章(神聖さのヴィジョン) (8)
┣  テキスト第21章(理性と知覚) (9)
┣  テキスト第22章(救いと神聖な関係) (7)
┣  テキスト第23章(自分自身との戦い) (5)
┣  テキスト第24章(特別であるという目標) (8)
┣  テキスト第25章(神の正義) (9)
┣  テキスト第26章(移行) (10)
┣  テキスト第27章(夢を癒す) (8)
┣  テキスト第28章(恐れを取り消す) (7)
┣  テキスト第29章(目覚め) (9)
┣  テキスト第30章(新たなる始まり) (8)
┗  テキスト第31章(最後のヴィジョン) (8)
ワークブック・パート① (237)
┣  レッスン1〜10 (11)
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┗  レッスン211〜220 (10)
ワークブック・パート② (159)
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┗  レッスン361〜365 (3)
マニュアル (42)
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心理療法 (13)
┣  心理療法 第1章 (2)
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用語解説 (8)
祈りの歌 (15)
┣  祈りの歌 第1章 (7)
┣  祈りの歌 第2章 (4)
┗  祈りの歌 第3章 (4)