時間を消す


どんなに悔いても過去は変わらない。どれほど心配したところで未来もどうなるものでもない。いま、現在に最善を尽くすことである。

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松下幸之助



未来への執着を捨てる

今この瞬間に意識を向けるようになると、過去から自由になれるだけでなく、未来からも自由になれることを人は発見する。チベット仏教の教えにあるように、未来が”起きる”前に未来を自分の思考の中に招き入れて不必要に悩んだりしなくなる。というのも、過去の思い出にとらわれてしまうのと同じように、未来への期待や予感にとらわれてしまうこともあるからだ。



ラム・ダス(「人生をやり直せるなら私はもっと失敗をしてもっと馬鹿げたことをしよう」175ページ)



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奇跡のコースでは、時間は本当は存在しないと言います。そして、時間は学びの道具であり、必要が無くなれば消滅すると言います。

時間が無いと言われても、私たちとしては腑に落ちません。「はあ?」と疑問符が湧いてくるだけです。



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Alan Watts
アラン・ワッツ

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健康のためなら死んでもいい!

アラン・ワッツ先生の「タブーの書」で紹介されていた面白いエピソードがあります。

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昔イギリスでのお話ですが、1752年9月2日に当時イギリスで採用されていたユリウス暦を廃して、グレゴリオ暦を導入したため、誤差を生じていたユリウス暦からグレゴリオ暦に修正を行い、2日の翌日が飛んで14日になってしまいました。これに対して、市民には、まじめに自分の時間を返せと役所に押しかけた人が多くいたそうです。

これは笑い話ですが、幻想に深く迷い込んでしまうと、外から見ているとお笑い草でしかないようなことでも当人は真剣に命にかかわることのように悩むということはあるものです。

ネットゲーム(オンライン・ゲーム)での通貨や品物などのアイテムやステータスも、そのゲームに没入している人からすれば、外の現実(この世界の現実であって神の現実ではない)でのお金や品物や地位よりも大切な場合もありえ、現にそのために、痛ましい犯罪が起きたりもしています。

この世界でも、お金や品物や地位が大切になりすぎて、命をすり減らしてでもそれらを守ろうとすることがよくあります。

そして、この世界も幻想だとすれば、この世界でのアイテムやステータスに肩入れしすぎるのも、本当は、ゲームにのめり込んで我を見失っている人と変わらないのかもしれません。

「健康のためなら死んでもいい!」という迷言と同じく、その本末転倒ぶりは本来、笑うべきこととすらいえるはずなのですが。。。



時間とは何なのだろう?

時間とは何なのでしょうか?科学的な回答や哲学問答を求めることはここではしません。

私たちは現に時間や空間があるとしか思えないこの世界に生きています。この素朴な疑問に対する答えはあるのでしょうか。


空間芸術と呼ばれる絵画では、一瞬で全体を把握できますが、絵の訴えかけてくるものは、心の中で余韻をもって響きます。真に素晴らしい絵は、見る者に、この世界とは別の本当の故郷が存在することをうかがわせ、そこに通じる窓となってくれます。
ミヒャエル・エンデの「遠い旅路の目的地」という短編は、このテーマについての物語です。


時間芸術と呼ばれる音楽は、時間の中で味わうものです。よく、音楽は、本当は、音と音との間の無音の間隙の部分を味わう愉しみなのだと言われたりします。

なんだか薀蓄だけはこもっていそうだけれど、わかったようなわからないような言葉です。
ですが、本当に我を忘れさせてくれるような音楽は、時間というものが、等間隔に並んで流れるものではなく、その背後に隠されている永遠性を垣間見せてくれるように感じさせるものです。
この意味で、素晴らしい音楽は、音と音の間に潜んでいる永遠を見せてくれるということを私たちも薄々感じ取っているということなのかもしれません。

いずれにせよ、優れた芸術作品は、私たちの心の中に時空間的な広がりをもってイマジネーションをかきたて、共感覚的に作用するようです。


映画は、絵画と音楽の両面を持ちますが、よい映画は、私たちに日常を忘れさせ、普段の自分を忘れて、映画の主人公と一体化させ、映画の世界に没入させてくれます。
小説を読むことも同じように作用します。

映画が終わった後、小説を読み終えた後、私たちは頭の中で物語の全体像を描くことができます。

このときには、実際に映画を観ているときに縛られていたように、物語の時間の流れに縛られることはありません。
私たちは自由に、時間的な前後関係、因果関係を飛び越えて、場面を移動することができます。



私たちは人生という映画の再生装置

私たち自身の今生きている人生についても、既に歩んできた過去については、既に再生し終わったDVDと同じように心の中で振り返ることができます。
記憶というものはそれほど鮮明であり続けるわけでもなく、DVDで見た映画の場面とそう代わり映えはしないもので、自分の人生であっても、映画の一場面と同じ程度の鮮明さしか持ち合わせないことは多いものです。

音楽や映画の記録媒体を再生するときには、昔のレコードでいう針、カセットテープやフロッピーディスクの磁気ヘッド、CDやDVD等のレーザー光ピックアップといった「今」に焦点を当てる装置が必要です。


小説のような文字媒体は、機械と比べると興味深いものです。小説を読むときは人が針になります。

コースは、過去は無いと繰り返します。同じく、未来もないと言います。
過去も未来もないということは理論的には理解できます。

世界を展開するには、レコードに針を乗せる必要がありますが、針の乗っている場所がつねに現在なので、たとえレコードの針を持ち上げて他の時点に移すように、過去や未来にスキップできるとしても、その時点を再生した瞬間、そこは現在になっているということです。
想像の中にしか過去や未来はなく、現在しかないということです。

私たちの意識というものは、時間とのかかわりではレコードの針のような働きをします。

この意識、身体を自分であると自覚することによって、心は自らが把握できる範囲を特定の時空間だけに絞り込んで限定します。この身体の自覚としての意識がレコードの針に相当します。



私たちというレコードの針

私たち個別の心の数だけ、針があります。個別の心は、魂(soul)と呼ぶこともできます。

奇跡のコースFIP版では、霊という用語は出てきても、魂という用語は数か所しか出てきませんが、URTEXTでは、個別の心を指す言葉としてたくさん出てきます。
そして、コースは、テキストでは輪廻転生について明確には述べません。
これは、幻想世界への変な執着を生み出さないためには賢明なスタンスです。もっとも、コースは輪廻がないとは述べず、むしろ輪廻転生を前提とした記述がまま見受けられます。そして、マニュアルでは、輪廻転生に一節を設けて、輪廻転生は、究極的には存在しないが、学習の便宜に役立てる限りは概念として有益だとします。

コースは、神の現実においては本当ではないことでも、神の子の誰かが真実であると信じるなら、誤創造ではあっても、その人にとってはそれが現実となるといいます。

そして、私たち現代人を含めて人類誰もが、表層意識では、輪廻転生など胡散臭いと思うことがあったとしても、心の奥底では喜んで信じたがっている信念であるのは確かです。
誰も、この人生が終わったら、すべておしまいだなんて思いたくないのです。

したがって、究極的に神の現実に輪廻転生など実在ないとしても(輪廻転生は、複数の人の人生が時空間的に存在することが前提ですから、個別の自己は幻想であり、神のひとり子である神の子しか実在しないという奇跡のコースが究極的に輪廻を肯定するということは当然ありえないことです)、これまた実在しない時間を理解する便宜として、ここでは、輪廻する個別の心、つまり魂があると仮定して論を進めます。



私たちが人生を生きる意義

この世界での人の人生は、映画に譬えることもできるし、筋書がコントロールされつつもマルチエンディングなロールプレイングゲームにたとえることもできます。

ここで、魂が何の目的で人生をプレイするのかといったことは考えません。一見、人生の目的はと問うことは、とても高尚な議論として耳に響きます。

しかし、これを問うに際して、問いを発する主体が誰かということ次第では愚問となります。

たしかに、人生、そして、この世界は、魂を向上させ、純化して、「アセンション」をするための学校なのかもしれないし、もしくは、単純に神を楽しませる「リーラ」として遊びでしかないのかもせれません。あるいは、罪を犯した魂を投獄しておく刑務所として世界があり、個々の身体は牢獄なのかもしれません。

しかし、どれであったとしても、そんなことは重要ではありません。

いずれの発想も、個別に分離した存在としての魂の存在を前提として、その魂の向上や処罰という観点に立脚するものだからです。

すなわち、そもそも、究極的には、魂(個別の心)は本来の自分が大いなる心であることを思い出して、そこへ帰還しなければならないものだとすれば、魂が何の目的で輪廻転生を繰り返すのかということに囚われているかぎり、それは誰かが誰かを出し抜いて先に解脱を成し遂げることができるとかいう自他の区別、不平等の幻想つまり分離への迷い込みを深めることにしかならないということです。

個別の自己ではなく大いなる自己の観点から、個別の自己の人生の目的を問うならば、それはこの世界の目的と同じく、個別の自己が幻想で自分が神の子であることを思い出して目覚めるための道具であるということに尽きるでしょう。



この世とあの世

さて、ひとつの人生を終えると、魂は、あの世(神の現実ではないこの幻想世界の控室としてのあの世。霊界、アストラル界等たくさんの種類や呼び方があるようです)で待機することになります。

そして、あの世からみれば、この世界での人生映画、人生ゲームは、一冊一冊の本、一枚一枚のディスク、サブスクリプションの動画配信コンテンツのようなものです。

時間が終わって戻る世界としてのあの世は、図書館で小説を選んだり、レンタルDVD店やネットフリックスやアマプラの画面映画やゲームを選べるように、たくさんのこの世界での誰かの人生がデータベース化されている(アカシック・レコードというやつです)ようなものです。
私たちが図書館やネットフリックスで、次に読む本や映画を探している場面において、私たちは、この世界の時間の中にはいますが、以前に読んだり、見たりした本や映画やこれから読んだり見たりする本や映画の世界の中で展開する時間には全く縛られていません。本や映画の中の世界は、誰かが本を読んだり映画を再生してくれるまでは、本の文字や映画のデジタルデータの中に畳み込まれて時間も空間もない状態で眠っています。

少なくとも、この図書館や映画を選ぼうとしている人物と本の物語や映画の主人公の関係性をパラレルにスライドさせることで、相対的な意味合いで、あの世とこの世界との時制の関係性を捉えることができると思います(なお、これは永遠である神の現実とこの世界の時間との対比にはならないので注意です)。

つまり、図書館や自宅で何を見ようか思案している際の私たちが、以前に見た本や映画やこれから見ることになる本や映画の中の時間から自由であるのと同じように、あの世に帰った際の私たちも、今、私たちが生きているこの世界での自分の人生の時制から自由だし、来世の時制からも自由だということです。

ここで、映画を選んで見るというと楽しいことのように捉えられてしまうと思いますが、奇跡のコースの目的は、この映画を楽しく見ることにあるのではないということを決して忘れてはなりません。
本当の自分が何者なのかを忘れて分離の幻想に迷い込むことは恐怖映画でしかない、取り憑かれたようにひたすらつぎからつぎへと映像コンテンツを見ては、次の映画というふうな繰り返しの無間地獄からいかに脱出するかということが課題なのです。

人生の意味の探究は目的にするものではない(フランクル先生の言うように私たちのほうが人生に応えることを求められている)

さて、幻想として、あの世から旅立つ先の世界は、この世界だけでなく、ほかにもたくさんあるかもしれないし、この世界しかないのかもしれません。映画やゲームの舞台設定としては、何でもありえます。また、体験する人生も、木としての生命もあれば、虫や動物としての生命、宇宙人としての生命、ほかの惑星やSFで登場するような異世界だってありえます。

あの世では、個別の魂は、次に読む本は何にしようか、どの映画を観ようか、どのゲームをプレイしようかと選ぶような状態にあります。

選択に際しては、この世界の歴史の時系列的な順序に拘束されるわけではありません。

また、以前に体験した登場人物の血筋を引く子孫が主人公の映画しか選べないわけでもありません。

さて、魂が再度、この世界での体験を得ようと、ある時代のある人物の人生を選んだとします。

そこでは、上記の人生の目的として当の魂の信ずるところによって、その人生で果たすべき課題とういものを設定するのでしょう。それは、前世で失敗したカルマの清算かもしれません。

ただし、先に述べた理由もあり、個別の自己という観点に縛られるかぎり、人生の意味といったことを探求しすぎると本末転倒になるということもありうるので、ほどほどにということになるのでしょう。

この点で、最近は、かつての「自分探し」ブームへの揺り戻しか、自分探しに冷や水を浴びせるような風潮ですが、人生の意味の探求に度を越して入れ込み、迷宮に入り込むような事態への警鐘としては意味もなくはないのかなと思います。

ですが、以前述べたように、コースのカリキュラムの目標は「自分自身を知る」ことなので、自分探しは決して悪いことではありません。そして、多くの自分探しは、外の世界に出て行って、その中で自分を見つけようというものですので、人と接する中で、エゴに従うものとしての自分を知り、かつ、聖霊に従って、誰かとの出会いを聖なる出会いとして大いなる自己を知る機会として活かすこともできるので、そう馬鹿にしたものでもないとは思います。

脱線しました。話を元に戻しましょう。



世界と映画

魂は、エゴ・身体としての一生を生きるべく、この世界へと生まれます。

これは、見る映画を選択して再生を始めたのと同じです。


私たちの人生は、映画館で見る映画のように、決められた上映時間でフィルムが回る順序通りに展開するという決まり事を受け入れることで流れていきます。

これがエゴ・身体の生きる人生です。筋書の固定された映画ではなく、選択肢で筋書が枝分かれしていくように思えるロールプレイングゲームだったとしても、時間経過自体は同じです(選択という幻想については前回お話ししたところです)。

ここで、映像配信コンテンツとの類比に戻ります。

映像配信サービスであれば、映画館で見るのとは違って、あなたは、いろんな再生の仕方をすることができます。

最初は、そのまま全部を通してみて、2回目は、チャプターを飛ばしたり、早送りしたりして好きなシーンを見たり、後ろのチャプターから遡って謎解きをしたり、別アングルから撮影されたシーンのあるDVDでは別アングルから見てみたり、別の言語で音声を聞いてみたりといろいろできます。

再生し始める前の私たちは、未再生の状態でデジタルデータとして再生されるのを待ち構えている映画が再生によって展開されることで生まれる時間から自由でした。

そして、映画館で映画の主人公になりきっている際に比べて、自宅でくつろいで、何度も見た映画を観ている際の私たちは、一歩引いた目で画面を眺めることができます。

実際に映画を再生している際でも、映画館で完全に映画に没入しきっている時とは違い、一時停止して考えたり、上のような再生の仕方をコントロールしたりということができます。

魂とエゴ・身体についても、同じことが言えます。

エゴ・身体に完全に一体化していると、魂は、自分は世界の時間・空間に縛られていると信じ込みます。

しかし、この世界は幻想かもしれない、エゴ・身体はこの幻想の世界の中で遊ぶために必要なスーパーマリオのマリオのようなキャラクターにすぎず、幻想かもしれない、そして、エゴ・身体とほぼ一体化している魂というものがあり、それが本当の自分かもしれない、さらには、その魂すら本当の自分ではなく、ばらばらになっている魂がひとつになった真の自分というものがあるのかもしれないという観点で眺めるならば、絶対だと思い込んでいたこの世界の時制も、相対的なものでしかないと思えてくるのではないでしょうか。



意識と霊

私たちの意識というものは、個別の心が画面の中の主人公である自分の身体の感覚器官の及ぶ範囲のみを知覚する結果生じるもので、DVDのレーザーピックアップであり、この意識が焦点を当てることで、知覚という作用によってあの世のDVDの中に情報として畳み込まれていた世界が時間と空間という形で展開していくということです。

この意識と魂は別物です。

魂が本来、霊として時間や空間に縛られることなく自由であるところ、この意識によって、人生というDVDを再生して、世界が展開し、その世界の中で、魂はエゴの仮面を付け、身体という夢の中の登場人物と一体化して人生を体験します。

コースは、奇跡は時間の順序を変えることができるといいます。そして、この時間の順序の変更について次のような説明をします。

「奇跡は、時間の必要性を最小化します。
 時間と空間に前と後ろがある水平面にいる限りは、神の子である者たちが平等であることを認めようとしても、ほとんど無限の時間を必要とするように思えます。
 しかしながら、奇跡は、水平に知覚することから、垂直に知覚することへの突然の移行を必然的に引き起こします。
 この水平軸から垂直軸への突然の移行によって、奇跡の与え手と受け手の両者が、水平の知覚のままであったなら、そこに留まっていたはずの時点と、彼らが本来、さらにずっと進んだ先の時間において現れることになるはずの時点との隔たりが引き合わされることになります。
 かくして、奇跡は、それが及ぶ時間的隔たりを不必要にして、その範囲において時間を完全に無くすという独自の性質を持っているということができます。」(テキスト 第一章 二 啓示、時間、そして奇跡 4.)。

ここでいう時空の前後関係のある水平面は、過去から未来へと進行する時間経過のことです。エゴ・身体に同一化している限り、この時系列からは逃れられません。



奇跡

しかし、奇跡がこの水平軸から垂直軸への移行を引き起こします。

これは、聖霊を選択し、エゴ・身体との一体化を解消した魂が、画面の中の身体から一歩引き下がって、本来の見る者の立場を取り戻すことによって、意識という針がレコードの溝の上を水平に走っていたところを垂直に上に持ち上げて、本来水平面を走っていたならば、ずっと先の未来になって初めて展開する時点へと移されるということです。

「あなたが、自分の身に起こる何事も、あなた自身の外部の要因によって引き起こされていると信じるかぎり、あなたは時間を使って永遠へと戻ることはできません。
 あなたは、時間とは専らあなたの意のままになるものであり、この世界の何ものも、この時間の処分に関する権能をあなたから取り上げることはできないと学ぶ必要があります。」(テキスト 第十章 序論)。

自分の外部の要因によって人生の出来事が引き起こされているとの信念をあなたが抱くかぎり、レコードの針は水平に溝の上を走り続けるしかありません。

しかし、真実は、時間は私たちの自由になるものだということです。

すなわち、この幻想世界の何ものも、私たちの時間についての処分権限を奪うことができない、つまり、人生という映像コンテンツを見ているのは映画の中の登場人物である身体とは別の見る者である魂であって、その見る者である魂が、見られる対象にすぎない画面の中の登場人物や出来事に縛られる必要はないということです。

いかに映画の画面の中で主人公に襲い掛かる敵が強力に見えても、また、主人公が遭遇する災難が途方のないものであったとしても、映画を見る側が、そんなものに束縛されるなどということは到底ありえない、そんなものは錯覚にすぎないということです。

画面から貞子が這い出してくるわけではないのです。

自分の外部の要因によって人生の出来事が引き起こされていると私たちが信じるのは、エゴの仮面を被り、身体こそが自分自身だと誤信しているせいです。

エゴにとっては、この幻想の世界しか寄生する宿主となる私たちに取りつく場所はないので、この世界の存続を図るために画策します。

エゴは、罪悪感を巧妙に用いて、過去を未来に同調させて、現在をぼやかし、レコードのターンテーブルが一定のスピードで回り続けるように、過去から未来への時間経過を固定しようとします。

「罪悪感は、時間の守護者です。
 罪悪感が、報復されたり、見捨てられるのではないかという恐れを引き起こします。こうすることで、罪悪感は、未来も過去と同じようになるであろうと確信させてしまいます。
 こうして、エゴは継続することになります。
 あなたが時間から逃れることができないと信じることによって、罪悪感はエゴに偽りの安心感を与えます。
 しかし、あなたは時間から逃れられるし、また逃れなければなりません。」(テキスト 第五章 六 永遠と時間 2.)。

自分の犯してしまったと思う罪についての罪悪感によって、神を含めた誰かからいつか報復されるのではないかと未来を恐れることになります。つまり、過去の罪が存在する以上は、過去によって未来は決まっているという因果論、決定論から抜け出せなくなるのです。そうなれば、時間は、過去から未来へと自動的に流れていくようになり、現在は、その流れを取り持つ中継地点でしかなくなります。

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「しかし、次のように考えてみてください。すなわち、あなたは、時間の中では、罪が無いといえないとしても、永遠においては、罪は無いのです。
 あなたは過去に『罪を犯した』としても、どこにも過去などないのです。
 永遠なる状態には方向性などありません。
 時間は、ひとつの方向に向かうように見えますが、あなたが時間の終点に達したなら、時間はまるで、あなたの背後の過去に沿って広がった長い絨毯が巻上がるように消え失せてしまうのです。
 あなたが神の子に罪があると信じるかぎり、あなたはこの絨毯の上を、それが死に至るものと信じながら、歩むことになります。
 そして、その旅路は、長く、残酷で、馬鹿げているように思えてくるでしょう。というのも、それこそまさに、その通りだからです。」(テキスト 第九章 六 あなたの兄弟を受け入れること6.)。



永遠なる状態

永遠なる状態とは、映画を見はじめる前の状態にスライドさせて捉えることができます。

この映画を見はじめる前の状態には、時間の連続性も方向性もありませんでした。

映画の再生が終われば、存在したかのように思えた時間は消え失せてしまいます。

そして、過去から未来に向けてシーケンシャルに再生するというのはエゴ仕様の標準設定ではありますが、見るものである魂は自分の好きな順序で再生する自由を持っています。


「罪に対して戦いを挑むことによって贖罪に到達しようとするのは、困難極まりないことです。」(テキスト 第十八章 七 私は何もする必要はない4.)。

罪というのは、映画の中での出来事です。画面の中で起こっている出来事がいかに悲惨なものであり、その出来事を画面の中の自分である身体が引き起こしているように見えたとしても、その罪に対して働きかけることによって贖罪を達成しようとしても不可能なことです。

これは以前「贖罪」について、コースで言う「贖罪」はテーブルをひっくり返すことであり、テーブル上で埋め合わせをするという一般的な贖罪とは違うとお話ししたところです。

「あなたが時間についてエゴと聖霊のどちらの解釈を使うかによって、時間は、幽閉することができるのと同じように、解放することもできます。
 あなたが過去と現在と未来に継続性を押しつけないかぎり、過去と現在と未来は、継続的なものではありません。
 あなたは、過去と現在と未来を継続的なものとして知覚し、自分にとって過去と現在と未来を継続的なものにすることができます。」(テキスト 第十三章 六 現在を見出す4.)

 過去と現在と未来は継続的なものではないというのは、DVDのように、再生させる、レコードに針を落とすことによって、世界が展開しはじめ、時間が生まれ流れはじめるだけであって、針の乗っかっている場面がつねに現在なのであって、過去や未来などありません。

知覚することしかできないエゴ・身体が一挙にDVDの全体像を完全想起(トータル・リコール)しようとしても、それは不可能ですが、知るものである魂にとっては、不可能なことではありません。

すなわち、パソコンに取り込んだデータであれば、DVDに記録されたものを、理屈上は、全ての時間ポイントを再生点として、一挙に同時に再生することは可能です。

ただし、ひとつの画面、スピーカーから全情報を再生しても、真っ黒な画像と野太い単調な音声となるだけでしょう。

パソコンを含めた再生装置を身体、再生されたものを見る人を魂とすれば、再生装置はあくまでも、知覚するものでしかないので、すべての情報を一挙に与えられても、理解できず、細分化して、時系列的に並べなければ、まったく混乱してしまうだけなのに対して、霊である魂は、全体像を一挙に把握することができる力を持っているということです。



他者と自己

さて、以前に他者は本当にいるのかというお話をしたことがあります。

結論は、究極的には神の子しかおらず、この世界での登場人物としてエゴ・身体と同一化している個別の心(魂)は実在はしないが、仮初めのものとして存在する、だから、個別の心の誰かひとりしかおらず、ほかの人たちは木偶人形というわけではない、個別の誰かがいるというのであれば、他者も同じようにいるということでした。

「あなたは、自分ひとりだけで奇跡を行うことはできません。なぜなら、奇跡は受容することを与えたり、受容することを受け取ったりするひとつの方法だからです。」(テキスト 第九章 六 あなたの兄弟を受け入れること 6.)。

コースは、奇跡は人と人との関係において起こるといいます。針を持ち上げることによって奇跡が起こるのだとしたら、何が針を持ち上げてくれるのでしょうか。

それは意識の拡大、拡張です。

エゴの仮面を付けている限り、意識は身体という自分の外の世界に気に入らないものを投影しては、縮こまり狭まっていきます。

こうして、意識が一点に絞り込まれることによって、DVDやCDのピックアップのレーザー光線のように収斂して、畳み込まれた情報が世界として展開します。

これに対して、自分と他者は切り離された別々の存在に見えているけれど、本当は一体であるということを理解していくと、意識は広がり拡張して行きます。

この意識の拡張によって、意識が狭窄しているときには長い時間をかけて再生しなければ把握することのできなかった全体像が、絵のように把握できるようになるのではないでしょうか。



時間的な意識の拡大

ご自分の人生を振り返っても、そのときの自分は、意識が恐怖心や嫉妬心や罪悪感で縮こまっていて、最悪の事態だと受け止めて悲嘆にくれていたことが、実は自分の人生を大きく展開させるきっかけだったということがあるのではないでしょうか。

そのときは、敵にしか見えなかった誰かは実は自分の成長にとって欠かせない役割を果たしてくれていたと思うこともあるのではないでしょうか。

そのときの萎縮した意識よりも振り返っている「今の」私たちの意識は拡張しているということです。

この理屈をスライドさせると、これからの人生でいろんな困難を乗り越えた未来のいまわの際の私たちが、自分の人生を振り返って、今の自分に対してアドバイスできるなら、今悩んでいることについて、大変だったけれど、何とか乗り越えることができるんだから頑張れ、と言葉をかけてくれるはずであり、そうであれば、自分の意識を臨終間際の自分へと想像の世界で飛ばし、そこから今の自分を振り返って回想してみるということは有益でしょう。

これは自分の人生の中での時間的な意識の拡大です。



空間的な意識の拡大

これに対して、同じ時間の中での空間的な意識の拡大もあります。

すなわち、同じ時間の中に、無数の他者が生きています。私たちには、この他者というものは、自分とは切り離された別物であるとしか思えません。

しかし、時間的に、過去や未来の自分が今の自分にとっては他人と同じようなものでしかないと感じるのと同じくらい、他人が自分ではないと感じるのも錯覚なのかもしれません。

しかし、エゴは、罪悪感を生み出す基礎となる特別な関係による自他の区別を固守しようとします。

個別の自己が他の誰かと神聖な関係を結び、その中で自他の一体性に気づくことは、エゴにとって、危険なことです。

「神聖でない関係の『理想』とは、夢を台無しにしてしまう相手の真実の姿が少しも入り込んでこない関係のことだといえます。
 だから、相手がその関係に持ち込むものが少なければ少ないほど、その関係は『より良い』関係になるということです。
 こうして、結びつこうとする試みは、結合することを求めた当の相手すらをも排除するひとつの手段となってしまいます。
 というのは、神聖でない関係は、結合しようとする相手を関係から締め出して、邪魔されることのない『至福」の中で、空想に浸るために形成されたものだからです。」(テキスト 第十七章 三 過去の影4.)

エゴの欲しがる神聖でない関係の理想像は、それこそ、他者が中身のない操り人形で、自分の思いどおりになるロボットであってくれることです。自分の欲求や必要性を満たしてくれる関係は「よい関係」でそうでないものは悪い関係ということになります。

自分にとって完璧に都合の良い個性を備えた他者などいないし、なんとか妥協できる他者を見つけても、移りゆくこの世界では生老病死で変化します。

だから、エゴにとっては、片思いで自分の望みどおりのやり取りを妄想できる素材を提供してくれる程度の人間関係こそが理想だということになるのです。

これを裏返せば、関係を持とうとする相手に対して投影した自分の理想像を押し付けて、相手のありのままの姿を認めないということなので、相手をその関係から締め出してしまうということです。



擬似同期

「エゴは、過去を基準にあなたが現在出会う人たちを知覚するよう指図するので、あなたの出会う人たちの今ある真の姿を不明瞭にしてしまいます。
 実際のところ、あなたがエゴの指図に従うならば、あなたは自分の兄弟に対して、まるで彼が誰か別の人であるかのように反応することでしょう。そして、このことによって、あなたがその兄弟のことをありのままに認識できなくなってしまうことは確実です。
 そして、あなたは、その兄弟を介して、あなた自身の過去からのメッセージを受け取ることになります。なぜなら、あなたは、過去を現在において現実化することによって、自分自身に過去を手放すことを禁じているからです。
 かくして、あなたは、兄弟の一人ひとりが、今あなたに差し出してくれている解放のメッセージを自分自身に拒絶することになってしまうのです。」(テキスト 第十三章 四 時間の役割 5.)

過去を基準に見るように仕向けることで、エゴは、私たちの出会う人たちが実は自分自身だという真の姿を見せないようにし、過去から未来へと続く時間の連続性を維持するのです。


この自他の区別の錯覚に関連して、「擬似同期」という概念があります(濱野智史さんという方がとても鋭い分析をされて一般化した概念のようです)。

複数人が参加するメディアについて、リアルタイムに参加する形態(真性同期)と擬似的にリアルタイムに参加しているように見せかけるもの(擬似同期)があるということです。

昔、世間を賑わせた「セカンド・ライフ」と「ニコニコ動画」がそれぞれの例とされます。

真性同期では、参加者が実際に同じタイミングでメディアに参加していないと出会うこともできないし、参加時間がずれるとすれ違いが生じ、セカンド・ライフのように閑散としてしまいます。

これに対して、参加者はそれぞれの自分なりのタイミングでストリーミング再生しても(この世界で、各自が参加する時間が違っていても)、そのコンテンツ内の時間経過に合わせたコメントをそのタイミングで記録する手法をとることで、ニコ動では、各自がそれぞれ開いている時間の中で、擬似的にみんなが同じ時間に参加しているように見せかけ、参加者がすれ違うことなく盛り上がることができ、つねに祭りを起こすことが可能となります。

この擬似同期によるネットゲームでは、プレイヤーが参加する外の世界でのタイミングがずれていても、ゲーム世界の中ではすれ違うことなく接することが可能となります。

この擬似同期を推し進めれば、究極的には、ひとつのゲーム世界の中のたくさんの住民をひとりの人間が順繰りにプレイしながらも、その世界の中では、同じ時間の中をそのひとりが多数人の仮面を付けてプレイすることを同時進行させるということも可能となります。

すなわち、私たちは、自分が今生きる人生を終えたら、次は、擬似同期で再度この世界に参加して、今の自分の奥さんとしての人生を生きる、その次は、どうしても許せない敵として生きるといった具合です。それでいて、ゲーム世界の中では、それぞれの人生は同時進行しているのです。

このひとりの人間が個別の心としての誰かではなく、神の子であるというのがコースのいうところです。

このように、時間的にも空間(自他の別)的にも自分や他者という人と人との関係で意識を拡張することで、レコードから針を持ち上げることで奇跡が起こります。


「しかし、時間を過去と現在と未来に分割し、過去の経験に従って未来を計画することによって、あなたは過去と未来を同調させて、奇跡が起こらないようにさせているのです。というのも、奇跡は、あなたを解放して再生させるために、過去と未来の間に介入することができるからです。」(テキスト 第十三章 六 現在を見出す4.)

エゴは、奇跡が起こって、贖罪が進んでいくと、幻想に巣食う自分の居場所が無くなってしまうので、奇跡が起こらないようにしようとします。


「聖霊は、エゴが地獄に追い立てるのと同じくらい着実に、あなたを天国へと導いてくれます。
 なぜなら、現在のみを知る聖霊は、現在を使って、エゴが現在を用無しにするために利用する恐怖心を取り消してくれるからです。
 エゴの時間の使い方をしているかぎり、恐れからの逃げ道はありません。
 なぜなら、エゴの教えようとするところによれば、時間とは、罪悪感がすべてを包み込んで永遠に復讐を要求し続けるようになるまで、罪悪感をより増悪させることを教えるための道具でしかないからです。
9. このレッスンを学ぶにはまったく時間を要しません。
 なぜなら、過去と未来がなければ時間には何の意味もないからです。
 あなたをここまで完全に誤って導くことには時間がかかったのは確かです。しかし、あなたが本来の自分に戻るには、まったく時間を必要としません。
 幸福と平安を学ぶ教材として、聖霊の時間の使い方を実践しはじめてください。
 今という、まさにこの一瞬を捉えてください。そして、この瞬間のことを存在する時間のすべてだと考えてみてください。
 ここにいるあなたに、過去から届くものなど何ひとつとしてありません。そして、ここにおいてこそ、あなたは完全に罪から免れており、完全に解放され、決して罪の宣告を受けることなどありません。
 聖なる存在が再誕したこの神聖なる瞬間から、あなたは恐れを伴うことなく、また、時間に伴う変化の感覚を持つこともなく、時間の中へと歩みを進めていくことでしょう。」(テキスト 第十五章 一 時間の二つの利用法 7.、9.)

今というこの一瞬を捉えて、この瞬間を存在する時間のすべてだと考えるようにというのはどういう意味でしょうか。

今とは映画の中で進行する時間の中の現時点で再生中の今、レコードの針が落ちて再生されている今、スクリーンに映し出されているフィルムの一コマ、この瞬間です。この瞬間自体を切り取れば、それは過去や未来から何も影響を受けないものです。
そして、この瞬間を意識の拡大によって、すべてのフィルムのコマへとあてはめ、映画の世界に存在する時間のすべてが実はすでに終わっている映画にすぎないのだと考えることで、映画の主人公こそ自分だと思い込んでいたが、その自分は見られている者としての自分、エゴ・身体にすぎず、それを見ていた見る者としての魂がいたと気づくのです。

「毎日、そして、一日を構成する毎分、毎分を構成する一つひとつの瞬間ごとに、愛の場所を戦慄の時が奪い取ったひとつの瞬間をあなたは再び生きているにすぎません。
 だから、過去と現在の間にある隔たりを渡るまで、あなたは、再び生きるために、毎日、死ぬのです。本当は、そんな隔たりなどまったくないというのに。
 一つひとつの人生というのはそんなものです。すなわち、誕生から死まで続くように見える合い間、そして、再び生まれてくるという、はるか昔に過ぎ去って二度と再び生きることなどできないはずの一瞬の繰り返しなのです。
 だから、時間というものはすべて、すでに終わったことがいまだにここに今あるという狂気の信念にすぎないのです。」」(テキスト 第二十六章 五 些細な障害 13.)

しかし、分離の幻想を抱く「あなたは、自分がいまだに時間の内に生きていると信じ、時間が過ぎ去ったとはわかっていません。聖霊は、とうの昔に過ぎ去ったはずの時間の中で、あなたが依然として知覚している非常に小さくて無意味な迷宮から抜け出せるようにあなたを導いてくれます。」(テキスト 第二十六章 五 些細な障害 4.)。



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