T4-2 エゴの起源

2013年09月23日
テキスト第4章(エゴという幻想) 0

人間同士の間の関係は、イメージ形成という一つの防衛機構に基づいている。我々はあらゆる関係において、いつも他人に関するイメージを作り上げる。こうしてお互いに作り上げたイメージが関係しあうのであって、人間そのものが関係しあうのではない。



ジッドゥ・クリシュナムルティ



間違いと失敗は、我々が前進するための訓練だ。

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ウィリアム・エラリー・チャニング



ミスや失敗の数だけ誰かの役に立てることが増える。

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塚本亮



科学者のマインドセットを持つ人は、失敗をただの”データポイント”として扱います。実験のプロセスにミスがあろうが、仮説とは異なる結果が出ようが、すべては最終的な答えに近づくために必要なデータでしかないのです。

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鈴木祐(「運の方程式」195ページ)



History that repeats itself turns to farce.
歴史が同じことを繰り返す様は茶番となる。

Farce that repeats itself turns to history.
同じ茶番劇が繰り返されることで歴史となる。

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Jean Baudrillard, The Agony of Power
ジャン・ボードリヤール



Children have a lesson adults should learn, to not be ashamed of failing, but to get up and try again.
子どもたちは、大人が学ぶべき大切なことを教えてくれる。それは、彼らが失敗することを恥じたりなどせず、いくらでも立ち上がって再び挑戦することだ。

Most of us adults are so afraid, so cautious, so 'safe,' and therefore so shrinking and rigid and afraid that it is why so many humans fail.
これに対して、私たち大人のほとんどは、あまりに用心深く、あまりに「安全志向」で、そのせいで、必要以上に萎縮して怯えて硬直してしまう。実に多くの人たちが失敗してしまうのはこういうわけだ。

Most middle-aged adults have resigned themselves to failure.
つまり、中高年の大人のほとんどは、自分で自分に失敗を余儀なくしているのだ。



Malcolm X
マルコム・X




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今回は、テキストから「エゴと間違った自律」という一節をご紹介します。


知識を捨て去ったら、一度も知識を持ったことがなかったかのようになるはず

3.「When you threw knowledge away it is as if you never had it.
 あなたが知識を捨て去ってしまったとしたら、あなたはまるで一度も知識を持ったことがないような状態になってしまうはずです。

 This is so apparent that one need only recognize it to see that it does happen.
 これは本当にわかりきった明白なことなので、誰でもただこのことに気づきさえすれば、それが現に起こっていることなのだとわかるはずです。

 If this occurs in the present, why is it surprising that it occurred in the past?
 もし知識を捨て去って自分がかつて知識を持っていたことを忘れ去ってしまうという現象が現在も起こっているのなら、同じことが過去に起こっていたとしても、驚くには値しないはずです。

 Surprise is a reasonable response to the unfamiliar, though hardly to something that occurs with such persistence.
 未知の出来事について驚くのは当然の反応ですが、ずっと繰り返し起こり続けていることに対して驚くのは、とても当然の反応とはいえません。」

この観点は面白いと感じないでしょうか?


進化論

私たちは、進化論を信奉して、多様な進化を遂げて微生物から人間にまでなったと思っています。

進化に関して考える際には、進化と創造に関する素晴らしい考察が展開されている「進化思考――生き残るコンセプトをつくる『変異と適応』」 (太刀川英輔著・海士の風出版)は、さまざまな示唆を与えてくれる必読の書です。なによりエラーを悪とみなすのではなく、進化・創造のために必要な二極のうちの一極と位置づけている点は、罪を認めず誤りの修正が必要なだけと主張するコースの学びに役立つはずです。




退化論と退化論

さて、本節で述べられているのは、究極の退化論です。

万能の神の子が自らを矮小化して私たちのようなさまざまな存在へとなり下がって、自分が本当はより優れた存在、自分だと思っている人の子とはまったく次元の異なる完璧な存在だということを完全に忘れ切っているわけだからです。

レッスン26「私の攻撃的な思いが、私の傷つきようのない不滅性を攻撃している」のエッセイがこのテーマの参考になると思います。

このようにして、本当は豊かさに満ち、すべてを持ち、すべてである存在の神の子が、自分をより欠乏し、すべてではなく、すべてを持たない、すべてよりも卑小な存在へと退化・減縮させた存在だと信じ込むために作られたのがエゴです。

つまり、エゴは、豊かさの代用として生み出されたということです。


意図と願望



豊かさマインドを前提とすると、自分がすべてであると同時に自分がすべてを所有しているので、ある状態をどのようにしたいか「意図」することはありえても、ない状態を前提に、ありたい自分像や獲得したいもの、達成したい状態を想定してそれを手に入れようと奮闘する「願望」、「欲望」することはありえません。

欠乏マインドを前提とすると、自分は広大な世界の一点を占める卑小な存在でしかなく、欠乏状態からいかにして多くを自分のものとして手に入れることができるかが問題となり、自分の持ち物ではないものについては、自分のコントロールが及ばないので、自らの意図によって左右することはできないので、ないものねだりの願望をすることしかできません。

エゴの中には、欠乏の原理と、「願望・欲望」という何かを「手に入れる」メカニズムが組みこまれているので、エゴに従うかぎり、私たちには、自分がすべてであることも自分がすべてを持っていることも信じることはできず、自分だと思っているアバターの到達範囲を超えることについて「意図」することなど思いもよりません。

エゴは欠乏マインドに基盤を置くので、自分の持ち合わせるものを他者に与えると、その持ち分を失ってしまうと信じているので、他者に対して真の意味で慈悲深くなることができません。


願望の根源

7.「Appetites are "getting" mechanisms, representing the ego's need to confirm itself.
 本能的な欲望は『手に入れる』ためのメカニズムであり、エゴが自分自身を承認することを必要としていることを表しています。

 This is as true of body appetites as it is of the so-called "higher ego needs."
 このようなエゴの自己承認の必要性が欲望として発現する仕組みは、いわゆる『高次の自我の心理的欲求』についてと同じように、肉体的な本能的欲求についてもあてはまります。

 Body appetites are not physical in origin.
 肉体の本能的欲求は肉体にその起源があるわけではないのです。」

エゴの願望は本能的欲望から心理的な欲求に至るまで、その本源は身体ではなく自己承認欲求にあります。

分離幻想から生まれたエゴは、個別の自己が抱く、自分は完全に独力で存在するという信念です。

なので、エゴには自分以外のものと真に融合してひとつに結びつくということができません。

けれど、孤独の中に生まれ、ひとりきりで存在している状態は耐えきれない恐怖をもたらすので、エゴは、ほかのエゴとみせかけの結びつきを得るか、ほかのエゴを攻撃して自らの力を誇示して増長して自分を安心させようとします。

さらにエゴは、おぼろげながらも、自らが偽物であることを意識しているので、絶えず霊の承認を得て自らの存在を確かなものにしようとしますが、霊とエゴはまったく接点を持たないので、エゴの試みは徒労に終わります。

このように、エゴは分離を維持するための仕組みであるものの、エゴが取り憑く私たちの本質は、一体となったひとつの心を持つ一なる霊であるがゆえに、他者と分離した孤独な存在であると信じ続けることに耐えられるはずがありません。


奇跡衝動の歪曲化

エゴが自己承認を求めるこの衝動は、自分たちが本当は一つであることを思い出したいという奇跡への衝動が歪曲されたものです。

「The confusion of miracle impulses with physical impulses is a major perceptual distortion.
 奇跡への衝動と肉体的な衝動とを混同するのは、知覚が深刻に歪んだ状態です。

 Physical impulses are misdirected miracle impulses.
 肉体的な衝動は、奇跡への衝動が誤って方向づけられたものです。」(T1-7 妄想の生まれてくる過程


レッスン345「私は今日、奇跡だけを与えることにする。というのも、私はその奇跡を自分の許へと戻してもらうつもりだからだ」のエッセイの渦巻きのイメージが分離幻想によって歪められる奇跡衝動が求める本質がひとつの大いなる愛であることの理解に役立つと思います。



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テキスト 第四章 

II. The Ego and False Autonomy
二 エゴと間違った自律



1. It is reasonable to ask how the mind could ever have made the ego.
 いったいどのようにして心はエゴを作り出すことができたのか、と問うのは理に適っています。

 In fact, it is the best question you could ask.
 実際、これこそあなたが尋ねることのできる一番よい質問です。

 There is, however, no point in giving an answer in terms of the past because the past does not matter, and history would not exist if the same errors were not being repeated in the present.
 しかしながら、心がいかにしてエゴを作り出したのかという質問に、過去の観点から答えることにはまったく意味がありません。なぜなら、過ぎ去ったことなど重要ではないし、それに、歴史が存在するということは、過去と同じ誤りが現在もなお繰り返されているということだからです。

 Abstract thought applies to knowledge because knowledge is completely impersonal, and examples are irrelevant to its understanding.
 知識は完全に没個性的なものなので、知識には抽象的な思考があてはまります。したがって、知識を理解するために実例を持ち出すのは筋違いです。

 Perception, however, is always specific, and therefore quite concrete.
 他方で、知覚はつねに特定のものに向けられるので、きわめて具体的です。



2. Everyone makes an ego or a self for himself, which is subject to enormous variation because of its instability.
 誰もがみな、エゴという自分自身のための個別の自己を作ります。このエゴは、その不安定さゆえに、目まぐるしい変化にさらされます。

 He also makes an ego for everyone else he perceives, which is equally variable.
 また、誰もが、自分の知覚する他者全員のためにも、それぞれのエゴを作りますが、それらのエゴも同じように不安定なものです。

 Their interaction is a process that alters both, because they were not made by or with the unalterable.
 あなたのエゴと他者のエゴとの相互作用は双方を変えるプロセスです。なぜなら、エゴは不変なる存在によって作られたものでも、不変なる存在を元にして作られたものでもないからです。

 It is important to realize that this alteration can and does occur as readily when the interaction takes place in the mind as when it involves physical interaction.
 心の中で相互作用が起こるとき、身体同士のやりとりが変化を容易に起こすのと同じくらい、こうした変化が実に容易に起こりうるし、現に起こっているのだと理解することが重要です。

 There could be no better example that the ego is only an idea and not a fact.
 エゴはただの想念にすぎず、事実ではないことを示す実例として、これに優るものはないでしょう。

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3. Your own state of mind is a good example of how the ego was made.
 どのようにしてエゴが作られたのかを示すには、あなた自身の心の状態がよい実例となります。

 When you threw knowledge away it is as if you never had it.
 あなたが知識を捨て去ってしまったとしたら、あなたはまるで一度も知識を持ったことがないような状態になってしまうはずです。

 This is so apparent that one need only recognize it to see that it does happen.
 これは本当にわかりきった明白なことなので、誰でもただこのことに気づきさえすれば、それが現に起こっていることなのだとわかるはずです。

 If this occurs in the present, why is it surprising that it occurred in the past?
 もし知識を捨て去って自分がかつて知識を持っていたことを忘れ去ってしまうという現象が現在も起こっているのなら、同じことが過去に起こっていたとしても、驚くには値しないはずです。

 Surprise is a reasonable response to the unfamiliar, though hardly to something that occurs with such persistence.
 未知の出来事について驚くのは当然の反応ですが、ずっと繰り返し起こり続けていることに対して驚くのは、とても当然の反応とはいえません。

 But do not forget that the mind need not work that way, even though it does work that way now.
 しかし、心が今のところはそのように反応してしまうのは確かだとしても、心をそんなふうに働かせる必要はないということを覚えておいてください。



4. Think of the love of animals for their offspring, and the need they feel to protect them.
 動物がわが子に対して愛情を抱き、わが子を守らねばならないと感じることについて考えてみてください。

 That is because they regard them as part of themselves.
 動物が愛情を抱くわが子を守ろうとするのは、動物が子供を自分の一部だとみなしているからです。

 No one dismisses something he considers part of himself.
 誰も、自分自身の一部だと思っているものを排除しようとはしないものです。

 You react to your ego much as God does to his creations . . . with love, protection and charity.
 あなたは自分のエゴに対して、神が自らの創造物を愛し、守り、思いやって反応するのとほとんど同じように反応します。

 Your reactions to the self you made are not surprising.
 自分が作り出した小さな自己に対するあなたの反応の仕方は、驚くに値しません。

 In fact, they resemble in many ways how you will one day react to your real creations, which are as timeless as you are.
 それどころか、このようなあなたの反応は、あなたと同じように時間を超越しているあなたの真の創造物たちに対して、いつの日かあなたが示すはずの反応にさまざまな面で類似しています。

 The question is not how you respond to the ego, but what you believe you are.
 問題は、あなたがエゴに対してどのように反応するかではなくて、あなたが自分を何者だと信じるかです。

 Belief is an ego function, and as long as your origin is open to belief you are regarding it from an ego viewpoint.
 信じることはエゴの働きです。だから、あなたの素性についてあれこれと信じる余地が残っているかぎり、あなたは自分が何者だと信じるかという問題をエゴの観点から見ていることになります。

 When teaching is no longer necessary you will merely know God.
 もはや教わる必要がなくなったとき、あなたはただ神を知るでしょう。

 Belief that there is another way of perceiving is the loftiest idea of which ego thinking is capable.
 自分の見方以外にほかの知覚の仕方もあるはずだと信じることは、エゴの思考でも抱くことができる最も高邁な想念です。

 That is because it contains a hint of recognition that the ego is not the self.
 その理由は、ほかにも知覚の仕方があるはずだと信じることには、エゴが真の自己ではないと気づくための手がかりが含まれているからです。

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5. Undermining the ego's thought system must be perceived as painful, even though this is anything but true.
 たとえそれが真実ではないとしても、エゴの思考システムを土台から徐々に掘り崩してゆくことは苦痛に満ちたものとして知覚されるはずです。

 Babies scream in rage if you take away a knife or scissors, although they may well harm themselves if you do not.
 あなたにナイフやはさみを取りあげられると、赤ん坊は怒って激しく泣き喚きます。とはいえ、もしあなたがナイフやはさみを取りあげずにいたら、赤ん坊が自分を傷つけてしまうのは目に見えています。

 In this sense you are still a baby.
 この意味で、あなたはまだ赤ん坊なのです。

 You have no sense of real self-preservation, and are likely to decide that you need precisely what would hurt you most.
 あなたは真の自己防衛が何を意味するかまったくわかっていないばかりか、最も自分を傷つけてしまうようなものこそ、まさしく自分が必要としているものだと決めつけてしまいがちです。

 Yet whether or not you recognize it now, you have agreed to cooperate in the effort to become both harmless and helpful, attributes that go together.
 けれども、あなたが今そのことに気づいているかいないかは別として、あなたは、危害を加えることも危害を被ることも免れていながらも防衛に役立つ存在となれるように努力を払い、協力することに同意してくれているのです。この無害性と有用性という属性は必ず両立します。

 Your attitudes even toward this are necessarily conflicted, because all attitudes are ego-based.
 とはいえ、あなたが無害であると同時に有用でもあろうとすると、どうしても葛藤を生じてしまうはずです。なぜなら、エゴに基づかないかぎり、いかなる態度決定もできないからです。

 This will not last.
 しかし、この葛藤がいつまでも続く心配はありません。

 Be patient a while and remember that the outcome is as certain as God.
 いましばらく辛抱して、その成果は神のごとくに確実なものだと覚えておいてください。



6. Only those who have a real and lasting sense of abundance can be truly charitable.
 真に慈悲深くなることができるのは、自分が豊かに満ち足りていると実感し、その感覚を持続できる者だけです。

 This is obvious when you consider what is involved.
 あなたも、真に慈悲深くあるためには何が必要なのか考えてみれば、これがその通りだとすぐわかるはずです。

 To the ego, to give anything implies that you will have to do without it.
 エゴにとっては、何かを与えることは、あなたがその分だけ自分の持ち分無しでやっていかなければならないことを意味します。

 When you associate giving with sacrifice, you give only because you believe that you are somehow getting something better, and can therefore do without the thing you give.
 あなたが与えることを犠牲と結びつけるとき、あなたが与えるのは、とにかく自分がより良いものを手に入れられるのであれば、自分が与えるもの無しでもやっていけると信じているからでしかありません。

 "Giving to get" is an inescapable law of the ego, which always evaluates itself in relation to other egos.
 「手に入れるために与える」というのは、つねにほかのエゴとの関係において自らを評価しているエゴが免れない法則です。

 It is therefore continually preoccupied with the belief in scarcity that gave rise to it.
 つねにほかのエゴとの関係で自らを評価しているせいで、エゴは絶え間なく、エゴを生じさせた欠乏に対する信念に心を奪われています。

 Its whole perception of other egos as real is only an attempt to convince itself that it is real.
 あるエゴがほかのエゴが実在すると知覚することがあるとしても、それはすべて、単にそのエゴが、自分は確かに実在すると自分自身を納得させようとする試みにすぎません。

 "Self-esteem" is always vulnerable to stress, a term which refers to any perceived threat to the ego's existence.
 「自尊心」は、つねにストレスに対して脆弱です。このストレスとは、エゴの存在を脅かすように知覚されるあらゆるものを指します。

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7. The ego literally lives by comparisons.
 エゴは、文字どおり比較することによって生きています。

 Equality is beyond its grasp, and charity becomes impossible.
 平等性は、エゴの理解の及ばない概念です。ゆえに、エゴが思いやり深くなることなどありえません。

 The ego never gives out of abundance, because it was made as a substitute for it.
 エゴは、決して豊かさで満ち足りているとの思いから与えることはありません。なぜなら、エゴは豊かさの代用として豊かさに取って代わらせるために作り出されたからです。

 That is why the concept of "getting" arose in the ego's thought system.
 これが、「手に入れる」という概念がエゴの思考システムの中に生じた理由です。

 Appetites are "getting" mechanisms, representing the ego's need to confirm itself.
 本能的な欲望は「手に入れる」ためのメカニズムであり、エゴが自分自身を承認することを必要としていることを表しています。

 This is as true of body appetites as it is of the so-called "higher ego needs."
 このようなエゴの自己承認の必要性が欲望として発現する仕組みは、いわゆる「高次の自我の心理的欲求」についてと同じように、肉体的な本能的欲求についてもあてはまります。

 Body appetites are not physical in origin.
 肉体の本能的欲求は肉体がその源泉なわけではないのです。

 The ego regards the body as its home, and tries to satisfy itself through the body.
 エゴは身体を自らの住み処とみなしているので、身体を通して自らを満足させようとするからです。

 But the idea that this is possible is a decision of the mind, which has become completely confused about what is really possible.
 とはいえ、身体を通して満足を得ることが可能だと考えるかどうかは心が決めることですが、当の心は、何が本当に可能なのか完全に混乱してしまっているのです。

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8. The ego believes it is completely on its own, which is merely another way of describing how it thinks it originated.
 エゴは、完全に自分は独力で存在していると信じこんでいます。これは単に、エゴが自分がいかにして誕生したと思っているのかを違ったふうに描写しているだけです。

 This is such a fearful state that it can only turn to other egos and try to unite with them in a feeble attempt at identification, or attack them in an equally feeble show of strength.
 孤独の中に生れ、ひとりきりで存在することはあまりに恐ろしい状態なので、エゴはただほかのエゴに頼ることしかできません。だから、エゴは、一体感を持ちたいという思いから、痛ましくもほかのエゴと結びつこうと試みるか、または、同じく痛々しいばかりの見せかけの力強さを誇示するために、ほかのエゴを攻撃しようとします。

 It is not free, however, to open the premise to question, because the premise is its foundation.
 しかし、エゴには自分が完全に独立しているという前提を気安く疑問にさらすことができません。なぜなら、その前提こそがエゴの土台だからです。

 The ego is the mind's belief that it is completely on its own.
 エゴとは、分離した心が抱く、自分は完全に独力で存在しているという信念です。

 The ego's ceaseless attempts to gain the spirit's acknowledgment and thus establish its own existence are useless.
 エゴは絶えず、霊の承認を獲得して自らの存在を確立しようと試みますが、徒労に終わります。

 Spirit in its knowledge is unaware of the ego.
 自らを知る霊は、エゴを知ることはありません。

 It does not attack it; it merely cannot conceive of it at all.
 霊はエゴを攻撃するわけではありません。霊は単にエゴのことをまったく想像することすらできないだけです。

 While the ego is equally unaware of spirit, it does perceive itself as being rejected by something greater than itself.
 他方で、エゴも同じように霊を知ることはできません。ただし、エゴは自分が自分自身よりも偉大な何ものかに拒絶されていると知覚しているのは確かです。

 This is why self-esteem in ego terms must be delusional.
 これこそ、エゴの言うところの自尊心が妄想であるに違いない理由です。

 The creations of God do not create myths, although creative effort can be turned to mythology.
 神の創造物たちが神話を創造することはありません。とはいえ、創造的な作用が神話に転じることはありえます。

 It can do so, however, only under one condition; what it makes is then no longer creative.
 しかしながら、創造的な作用が神話に転化することがありうるとしても、それはたったひとつの条件の下でしか起こりえません。その条件とは、その時点で神の創造物たちが生み出すものがもはや創造的ではなくなっていることです。

 Myths are entirely perceptual, and so ambiguous in form and characteristically good-and-evil in nature that the most benevolent of them is not without fearful connotations.
 神話は全面的に知覚によるものです。したがって、神話の形態はきわめて曖昧で多義的だし、本来的な特徴として、善悪の物語となります。それゆえ、最も慈悲深い神話でさえ、漏れなく恐れに満ちた意味合いを含み持っているわけです。

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9. Myths and magic are closely associated, since myths are usually related to ego origins, and magic to the powers the ego ascribes to itself.
 神話と魔術は、密接に関連しています。というのも、神話は決まってエゴの起源と関連づけられ、魔術はエゴが自分に属すると考えている力と関連づけられるからです。

 Mythological systems generally include some account of "the creation," and associate this with its particular form of magic.
 神話の体系は一般的に、「天地創造」に関する何らかの物語を含んでおり、この物語は神話に特有の形式で魔術に結びつけられています。

 The so-called "battle for survival" is only the ego's struggle to preserve itself, and its interpretation of its own beginning.
 いわゆる「生存競争」とは、ただ、エゴの自己保存のためのあがきであり、自分自身の起源に関するエゴなりの解釈にすぎません。

 This beginning is usually associated with physical birth, because it is hard to maintain that the ego existed before that point in time.
 エゴの起源は通常、身体の誕生と結びつけられます。なぜなら、時間の中では身体の誕生の時点以前にエゴが存在していたと主張するのが困難だからです。

 The more "religiously" ego-oriented may believe that the soul existed before, and will continue to exist after a temporary lapse into ego life.
 もっとも、より「信心深い」エゴ志向の者は、魂は身体の誕生以前にも存在していたし、また魂は一時的に身体の中へと堕落してエゴとして生きたあとも存在し続けると信じるかもしれません。

 Some even believe that the soul will be punished for this lapse.
 中には、こうして堕落したことに対して魂が罰を受けることになると信じる者すらいます。

 However, salvation does not apply to spirit, which is not in danger and does not need to be salvaged.
 しかしながら、救済が霊に対して適用されることはありません。なぜなら、そもそも霊は危険にさらされてなどおらず、救われる必要などないからです。



10. Salvation is nothing more than "right-mindedness," which is not the one- mindedness of the Holy Spirit, but which must be achieved before one- mindedness is restored.
 救済とは「心が正しい状態になること」でしかありません。それは聖霊の一なる心の状態とは異なります。しかし、心を一なる状態に回復させるには、その前にまず、心の正しい状態が獲得されていなければなりません。

 Right-mindedness leads to the next step automatically, because right perception is uniformly without attack, and therefore wrong-mindedness is obliterated.
 心が正しい状態になれば、自動的に次のステップに至ります。なぜなら、正しい知覚は完全に攻撃することがないので、心の間違った状態が消去されるからです。

 The ego cannot survive without judgment, and is laid aside accordingly.
 エゴは、価値判断して裁くことなしには生きながらえることができません。だから、裁くことがなくなれば、エゴは捨て去られことになります。

 The mind then has only one direction in which it can move.
 そうなれば、心はただひとつの方向にしか進むことができなくなります。

 Its direction is always automatic, because it cannot but be dictated by the thought system to which it adheres.
 心が向かう方向はいつも自動的に定まります。なぜなら、心は、自らが信奉する思考システムによる導きを受けずにはいられないからです。

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11. It cannot be emphasized too often that correcting perception is merely a temporary expedient.
 知覚を修正することは、単なるその場しのぎの方便でしかないことは、何度でも繰り返して強調しておかなければなりません。

 It is necessary only because misperception is a block to knowledge, while accurate perception is a steppingstone towards it.
 知覚の修正が必要となるのは、単に、誤った知覚が知識への障害となっているので、正確に知覚することが知識に向かう足がかりとなるからにすぎません。

 The whole value of right perception lies in the inevitable realization that all perception is unnecessary.
 正しい知覚が持つ価値は、いかなる知覚も必要ないと理解することを余儀なくさせる点に尽きます。

 This removes the block entirely.
 この一切の知覚が不要だという認識が、障害を完全に取り除きます。

 You may ask how this is possible as long as you appear to be living in this world.
 あなたはたぶん、自分がこの世界の中に生きているように思えるかぎりは、一切の知覚が不要だと理解することなど、どうすればできるだろうかと訝しむことでしょう。

 That is a reasonable question.
 それはもっともな疑問です。

 You must be careful, however, that you really understand it.
 それでも、あなたが一切の知覚が不要だと真に理解するために、あなたは注意深くならなければなりません。

 Who is the "you" who are living in this world?
 この世界の中に生きている「あなた」とは、いったい何者なのでしょうか。

 Spirit is immortal, and immortality is a constant state.
 霊は不滅です。そして、不滅であることは絶え間なく不変である状態です。

 It is as true now as it ever was or ever will be, because it implies no change at all.
 霊が不滅であることは、今も真実であり、これまでもそうであったのと同じく、これからもずっと真実です。なぜなら、不滅性はまったく変化しないことを意味するからです。

 It is not a continuum, nor is it understood by being compared to an opposite.
 不滅であることは、時間的に連続してゆくものでもなければ、反対のものと比べることによって理解できるものでもありません。

 Knowledge never involves comparisons.
 知識は、決して比較することを必要とはしません。

 That is its main difference from everything else the mind can grasp.
 知識が決して比較を必要としないことこそ、心の把握できるほかのあらゆるものと知識との最大の相違点です。


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It’s not how much we give, but how much love we put into giving. – Mother Teresa

 松山 健 Matsuyama Ken
この記事を書いた人:  松山 健 Matsuyama Ken

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