T7-2 神の法
Giving is the most powerful tool God has at His command.
与えることは、神が御心のままにならしむる最大の方法だ。
It is His cardinal law.
与えることこそ、神の基本法なのだ。

Kenneth M. Copeland
ケネス・M・コープランド
Love feels no burden, thinks nothing of trouble, attempts what is above its strength, pleads no excuse of impossibility; for it thinks all things lawful for itself, and all things possible.
愛する者は重荷を負っていると少しも感じず、どんなことも厄介事とは思わず、自分の力を上回ることに挑み、何事にも不可能だと言い訳をしたりしない。というのも、愛する者は、すべての物事を自分自身に従わせる資格があるので、どんなことも可能だと考えているからだ。

Thomas à Kempis
トマス・ア・ケンピス

今回は、テキスト 第七章から王国の法についての一節をご紹介します。
Law 法、法則
「法則」というと、自然法則や物理法則のように、自然界の物事の間における関連性を帰納的に抽出したものをイメージさせます。
「法」というと、法律等、神や国家という権威者によって演繹的に人や国家を統制すべく制定された規範をイメージさせます。
保つものとの原義を持つダルマ【dharma】は、法則や規範、秩序という意味を持ち、仏教では「法」と漢訳されます。
いずれにせよ、法や法則は、「もし●●なら、○○となる」という条件と効果で構成される式(あるいはその集合体)であり、コンピューターのプログラムと同じだということができます。
法は、コンピューターのプログラムと同じく、一定の目的のために働くものであり、それ自体は目的ではありません。
法則も物事に適用される際には、一定の目的のために活用されるものであって、道具であるということがいえます。
手段の自己目的化現象
目的達成のための手段であるはずの道具が自己目的化してしまう現象というのは面白いものです。
「正しい日本語」というのが数年ごとに流行ったりします。
伝統的に「正しい」用語法に則った言葉の使いかたはこうだから、それに沿わない今の世間一般の語法は間違いであり、正されるべきだという言葉狩りのような現象です。
しかし、言葉は、観念を伝えるための手段であって、もしテレパシーの能力をみんなが身につけたり、将来、直接観念を転送する機械が開発されたら必要なくなるものです。
言葉の役割は、言葉が運ぶ観念、イメージをできるだけ正確に送り手から受け手に届けて伝えることに尽きます。

正義を主役の座に据えてはならない
何にせよ、正しさ、正義というものを第一義において、そこから演繹的に発想すると、たいてい不都合や問題を生じ、誰かを非難しなければならなくなるものです。
それはなぜかと言えば、正義という観念自体、目的ではなく、手段原理だからです。
奇跡のコースも、目的ではありません。手段であり、単なる道具でしかありません。
道具自体が目的になってしまったり、道具と心中してしまうことほど滑稽で哀れなことはありません。
気をつけたいものです。
(正義とは何か)
王国の法とは
さて、本節では、王国の法について述べられます。
「What you project or extend is real for you.
あなたが投影したり拡張したりするものは、あなたにとっての現実となります。
This is an immutable law of the mind in this world as well as in the Kingdom.
あなたが投影したり拡張するものがあなたの現実となるということこそ、王国においてと同様に、この世界においても、不変の心の法則です。」
王国には知識があり、知識は真理であって、ただ在るものなので、王国においては、教えることも学ぶこともありません。
王国では、実在と所有とは一致し、神=神の子はすべてであると同時にすべてを持つということでした。
神の法の構成要素:所有と実在の知識
神の法を構成するのは、この王国の原理である実在と所有の知識です。
すなわち、実在する愛である神はすべてであり、愛の作用は拡張なので、神の拡張である神の子と神の子が創造するすべては神のものであることになります。
神は自己を確信しているので、
“I am that I am”と正しい自己認識を保っています。
そして、実在するのは大いなる愛だけであり、愛の作用は拡張であり、しかも混じりけのない光の拡張としての創造なので、
「Only love creates, and only like itself.
ただ愛だけが創造し、それも、愛それ自体と同じようにのみ創造します。」(W2ST-11.創造物ってなに?、1.)
つまり、神と神の拡張である神の子=創造物すべては等しいということです。
この“I am that I am”と”Only love creates, and only like itself.”を組み合わせると、自分が拡張するすべては、自分自身であり自分のものである現実である、つまり、自分の拡張するものは自分の現実となるということになります。
王国では拡張→すべては自分自身の内側にある実在 ⇔ 世界では投影→すべては自分以外の外部にある幻想
王国では、創造は自らを拡張することによって行われるので、拡張するものも自分であり、それは現実となります。
これに対して、この世界では、“I am that I am”という知識は失われて、知覚に置き換わり、時間と空間の中で、神の子は分裂してエゴ・身体として個別の自己にアイデンティティーを抱き、個別の自己へと限定された観点で世界を眺めます。
この観点によると、愛が自分自身と同じものとして創造することは不可能となり、創造する力は、エゴのスライドで色づけされて、歪曲された形での投影となります。
投影は、すべてである本当の自分が広がってゆく拡張とは異なり、小さな自己像へと自分を分離縮小し、その自己像以外の自分を無=恐怖のスクリーンに投げ出して幻の像を映し出す働きなので、投影像は幻想で、本当は自分の中に実在するものに目を背けることでしかありません。
実在は「知る」ことができるが、幻は「信じる」ことしかできない
したがって、投影されたものを知覚するとき、私たちは、自分のものだと認めたくない自分の中にある現実に目を背け、自分の外部にそこにはない幻を見ていることになります。
現実ではない幻想は、幻でしかなく、幻を現実に変えることはできないので、「信じる」ことしかできません。
神の法のエゴの法則への変容
それゆえ、この世界では、「自分が拡張するものは、自分にとっての現実となる」という神の法は、「自分の投影するものを自分は信じる」というエゴの法則に変容することになります。
「This is because the laws have been adapted to the circumstances of this world, in which diametrically opposed outcomes seem possible because you can respond to two conflicting voices.
これは、心の法則がこの世界の状況に適合させられており、この世界では、あなたがふたつの矛盾する声に応答できるために、まったく相容れない結果に到ることが可能に思えてしまうからです。
3. Outside the Kingdom, the law that prevails inside is adapted to "What you project you believe."
王国の外側では、王国の内側で有効に行き渡っている『あなたが拡張するものがあなたの現実となる』という法則が『あなたが投影するものをあなたは信じる』という形に変容させられます。」
聖霊の解釈に委ねることで拡張に戻してもらえる

このように、エゴに従うがゆえに変容されてしまう神の法ですが、この世界でも、聖霊によって正しい解釈をしてもらえば、本来の形で法が作用するようにできるといいます。
「The extension of truth, which is the law of the Kingdom, rests only on the knowledge of what truth is.
王国の法則そのものである真理の拡張は、ただ真理が何であるかという知識だけに基づいています。
This is your inheritance and requires no learning at all, but when you disinherited yourself you became a learner of necessity.
真理の拡張は、あなたが受け継いだものであり、まったく学ぶ必要などありません。しかし、あなたが自分で自らの相続権を放棄するならば、あなたは必然的に学習する者となってしまいます。」
神の心である王国には、真理があり、その真理とは神の完全なる一体性であり、その唯一の意味は愛です。
「このコースは、愛の意味を教えることを目指してはいません。なぜなら、それは教わることのできる範囲を越えているからです。
そうではなくて、このコースはあなたが生まれながらに受け継いでいる愛の存在に目覚めるうえでの障害を取り除くことを目指しています。」(テキスト 第一章 序文)
放蕩息子が学ぶべきことは、愛を妨げている障害を取り除くこと
知識を放り出してしまって、愛の存在を忘れ、愛を思い出すうえでの障害に溢れかえる幻想の分離世界に迷いこんでしまった放蕩息子にとっては、障害物を取り除くことを学習することが必要なのです。
でも、愛自体は、すでに存在している一体性から当然に生じる作用であり、学んで身につけるようなものではありません。
それどころか、そもそも身につけるのは自分が持ち合わせていないものを対象にする場合ですが、愛こそが本当の自分自身なわけで、必要なのは愛が自分だとわからなくさせている覆い、障害を除去することだけです。
聖霊の教えは真の記憶を取り戻すために忘れるレッスン
「This needs no translation because it is perfectly understood, but it does need extension because it means extension.
王国の唯一の意味が神であることは、完璧に理解できることなので翻訳の必要はありません。しかし、それは拡張を意味するので、拡張する必要があるのは確かです。」
「6. No one questions the connection of learning and memory.
学習と記憶が関連することには、誰も疑問を持ちません。
Learning is impossible without memory since it must be consistent to be remembered.
学ぶことを覚えるためには、記憶が首尾一貫していなければならないので、記憶力を抜きにしては学ぶことは不可能です。
That is why the Holy Spirit's teaching is a lesson in remembering.
それゆえ、聖霊が教えるのは思い出すためのレッスンです。
I said before that he teaches remembering and forgetting, but the forgetting is only to make the remembering consistent.
私が以前に述べたように、聖霊は思い出すことと忘れることを教えます。しかし、忘れるのは、ただ思い出すことに一貫性を持たせるためでしかありません。
You forget in order to remember better.
あなたは、よりよく思い出すために忘れるのです。」
虚構を忘れ現実を思い出す
コースの学びは本当の自分を取り戻すための学びです。
本当の自分は幻想世界の中を探しても決して見つかりません。
どれほど過去の歴史を遡ろうとも、未来にどれほど進化しようとも、世界の中に本当の自分は存在しません。
それでも、本当の自分は思い出すものであり、本当の自分の記憶は世界の外にあります。
ですので、この記憶を取り戻すには偽りの自分を忘れることが必要です。
「4. The Holy Spirit can indeed make use of memory, for God Himself is there.
聖霊は本当に記憶を役立てることができます。なぜなら、記憶の中には神自身がいるからです。
Yet this is not a memory of past events, but only of a present state.
ただし、この記憶は、過去の出来事を思い出すことではなく、ただ現在の状態だけを思い出すことです。
You are so long accustomed to believe that memory holds only what is past, that it is hard for you to realize it is a skill that can remember now.
あなたはあまりにも長い間、記憶というのは過ぎ去ったことだけを保持するものだと信じることに慣れきってきたので、あなたにとって、記憶が今のことを思い出すことのできる能力だと理解するのは難しいことです。」(T28-1 現在の記憶)
VRゲームに没頭してゲーム世界のアバターが自分だと信じ込んだ状態から、プレイヤーとしての本当の自分を思い出すには、アバターは本当の自分ではないと気づき、偽りの自分を忘れることが必要となります。
思い出すために忘れ、現在を思い出すということです。
7.「Hold onto nothing.
何ものにもしがみつかないでください。
Do not bring with you one thought the past has taught, nor one belief you ever learned before from anything.
過去から教わった考えやあなたが以前に何かから学んだ信念など、何ひとつ自分と一緒に連れて行ってはなりません。
Forget this world, forget this course, and come with wholly empty hands unto your God.
この世界を忘れ、このコースを忘れ、そして、完全に両手を空っぽにしてあなたの神の下へと赴いてください。」(レッスン189「私は今、自らの内に神の愛を感じる」)
現実へと帰る手立ては、幻想の世界で、現実の記憶と引き換えに得ていた幻の持ち物を返すこと
はてしない物語で、アウリンの中にある生命の泉にたどり着いたバスチアンが父さんの待つ現実世界に帰るには、バスチアンは、ファンタージエン国で得た容姿や力、知識、勇気、持ち物、人間関係等々のすべてを返さなければなりませんでした。
はてしない物語のラストシーンで、バスチアンが生命の水に飛び込む直前の情景を描く部分を引用します。
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「アウリンは、バスチアンのさがし求めていた戸口である。始めからずっと自分で持っていたのだ。けれども、蛇たちは、ファンタージエンのものは何一つ通しはしないだろう。だからバスチアンは、幼ごころの君からいただいたものを、すべて返さなくてはならない。さもないと、生命の水を飲むことができない。水たちはそういっています。」
「でも、ぼくたちは幼ごころの君のおしるしの中にいるのでしょう。」アトレーユが大きな声でいった。「女王さまご自身は、ここにいらっしゃらないのですか?」
「水たちはいっています。月の子のお力はここまでで終わりだ。そして月の子だけは、この場所にいらっしゃることは絶対にできない。ご自身をはずすわけにはいかないから、おひかりの中にお入りになることはできない。」
アトレーユは困って、口をつぐんでしまった。
「今、水たちはたずねています。」フッフールがつづけていった。「バスチアンにその気持の用意ができているのか?と。」
「はい。できています。」アトレーユは叫んだ。「バスチアンはもちろんその気持です。」
その瞬間、黒の巨大な蛇が、白の蛇の尾を口にくわえたまま、ゆっくりゆっくり頭をもたげはじめた。堂々とした大きな胴体がぐらっと持ちあがり、ついに片側は黒く、片側は白い大きな門になった。
アトレーユはバスチアンの手をとり、この見るからに怖ろしい門をくぐった。二人の前には、泉が、今やその大きさ、見事さをあますところなく見せて噴きあがっていた。フッフールが二人につづいて入ってきた。二人は泉に向かって進んだ。すると、一歩ごとに、バスチアンがファンタージエンでもらったすばらしいものが、一つ一つなくなっていった。美しい、強い、怖れを知らぬ英雄は、ふたたび小さくて、太っちょの、気の弱い少年にもどった。ヨルのミンロウドでぼろ同然にすりきれてしまった服までもすっかり消え去り、何もなくなってしまった。ついにバスチアンは、一糸まとわぬはだかの姿で、大きな黄金の環の前に立っていた。
その環のまんなかから、生命の水が、ファンタージエンで得たものは一つ残らず失い、しかし、自分の世界と自分自身についての記憶はまだ甦ってこないこの最後の瞬間、バスチアンは、まったくよりどころのない状態を体験した。自分がどちらの世界のものなのか、自分はほんとうにいるのか、わからなくなったのだ。
だが、バスチアンは、ためらわずに水にとびこんだ。そして、水晶のように澄んだ水の中で、転げまわりはねまわり、水を吹きとばしはねかえして、きらきらととび散る水滴を口に受けて飲んだ。飲んで飲んで、渇きがすっかりおさまったとき、体中に悦びがみちあふれていた。生きる悦び、自分自身であることの悦び。自分がだれか、自分の世界がどこなのか、バスチアンには、今ふたたびわかった。新たな誕生だった。今は、あるがままの自分でありたいと思った。そう思えるのは、何よりすばらしいことだった。あらゆるあり方から一つを選ぶことができたとしても、バスチアンは、もうほかのものになりたいとは思わなかっただろう。今こそ、バスチアンにはわかった。世の中には悦びの形は何千何万とあるけれども、それはみな、結局のところたった一つ、愛することができるという悦びなのだと。愛することと悦び、この二つは一つ、同じものなのだ。
あとになって、バスチアンがまた自分の世界にもどってからずっと時がたち、やがて年老いてからも、この悦びはもう消え去ってしまうことはなかった。生涯のうちの最も困難な時期にさえ、かれにはこの心の悦びがあり、それがかれをほほえませ、まわりの人びとを慰めた。
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ミヒャエル・エンデ(「はてしない物語」より)
バスチアンがファンタージエンで得たすべて返さなければ、生命の水に飛び込めなかったように、私たちも、この世界を忘れ、このコースも忘れ、自己像を忘れ、すべてを忘れて天国に帰還しなければなりません。

テキスト 第七章
II. The Law of the Kingdom
二 王国の法
1. To heal is the only kind of thinking in this world that resembles the Thought of God, and because of the elements they share, can transfer easily to it.
この世界における思考様式の中で、神の大いなる思考に似ている唯一の思考は、癒すことだけです。そして、癒しと神の思考には共通する要素があるので、癒しは容易に神の思考へと移行することができます。
When a brother perceives himself as sick, he is perceiving himself as not whole, and therefore in need.
ある兄弟が自分は病気だと知覚するなら、彼は自分自身のことを完全ではなく、したがって、何かを必要としている存在として知覚しています。
If you, too, see him this way, you are seeing him as if he were absent from the Kingdom or separated from it, thus making the Kingdom itself obscure to both of you.
もしあなたまで彼を不完全で必要性を持つ存在とみなすなら、あなたは彼がまるで王国にはおらず、王国から分離しているかのようにみなしていることになります。こうして、王国そのものがあなたと兄弟の両方にとって覆い隠されてしまいます。
Sickness and separation are not of God, but the Kingdom is.
病気も分離も神には属さず、ただ王国だけが神に属します。
If you obscure the Kingdom, you are perceiving what is not of God.
もしあなたが王国を覆い隠すなら、あなたは神に属さないものを知覚していることになります。
2. To heal, then, is to correct perception in your brother and yourself by sharing the Holy Spirit with him.
ゆえに、癒すことは、兄弟と聖霊を分かち合うことによって、兄弟とあなた自身の知覚を修正することです。
This places you both within the Kingdom, and restores its wholeness in your mind.
知覚を修正して癒すことがあなたと兄弟の両者を王国の中に置いて、あなたの心の中で王国の完全な姿を回復します。
This reflects creation, because it unifies by increasing and integrates by extending.
これは創造の反映です。なぜなら、創造は増大することによってひとつのものへと結び合わせ、拡張することによってひとつのものへと統合するからです。
What you project or extend is real for you.
あなたが投影または拡張するものは、あなたにとって現実となります。
This is an immutable law of the mind in this world as well as in the Kingdom.
これこそ、王国においてもこの世界においても変わることのない心の法則です。
However, the content is different in this world, because the thoughts it governs are very different from the Thoughts in the Kingdom.
しかしながら、この世界では、王国におけるのとは法則の内容が違っています。なぜなら、心の法則が支配する思考は、王国における大いなる思考とは大いに異なっているからです。
Laws must be adapted to circumstances if they are to maintain order.
法によって秩序を維持するためには、法はその状況に即して変容されなければなりません。
The outstanding characteristic of the laws of mind as they operate in this world is that by obeying them, and I assure you that you must obey them, you can arrive at diametrically opposed results.
心の法則にあなたが従わざるをえないのは確かだと私が請け合っておきますが、心の法則がこの世界で作用する際に際立って特徴的なことは、心の法則に従うことによって、あなたはまったく正反対に対立するふたつの結果に達しうるということです。
This is because the laws have been adapted to the circumstances of this world, in which diametrically opposed outcomes seem possible because you can respond to two conflicting voices.
これは、心の法則がこの世界の状況に即応するよう焼き直して翻案されており、この世界では、あなたがふたつの矛盾する声に応答できるために、まったく相容れない結果に到ることが可能に思えてしまうからです。

3. Outside the Kingdom, the law that prevails inside is adapted to "What you project you believe."
王国の外側では、王国の内側で有効に行き渡っている「あなたが拡張するものがあなたの現実となる」という法が「あなたが投影するものをあなたは信じる」という形に変容されています。
This is its teaching form, because outside the Kingdom learning is essential.
「あなたが投影するものをあなたは信じる」というのがこの世界が教える法則の形です。なぜなら、王国の外では学ぶことが必要不可欠だからです。
This form implies that you will learn what you are from what you have projected onto others, and therefore believe they are.
この形は、あなたは、自分が他者に投影したことから、つまり、他者はこういう存在だと信じることから、自分が何者かを学ぶようになることを意味します。
In the Kingdom there is no teaching or learning, because there is no belief.
王国には信じるようなことは何もないので、そもそも王国では、教えることもなければ、学ぶこともありません。
There is only certainty.
王国にはただ確信だけがあります。
God and his sons, in the surety of being, know that what you extend you are.
神と神の子たちは、自らの実在を確信しているがゆえに、自分が拡張するものが自分自身であると知っています。
That form of the law is not adapted at all, being the law of creation.
王国では、この法の形はまったく変容させられてはいません。それは創造の法そのものだからです。
God himself created the law by creating by it.
この法に則って創造することによって、神自らが創造の法を創造したのです。
And his sons, who create like him, follow it gladly, knowing that the increase of the Kingdom depends on it, just as their own creation did.
そして、神と同じように創造する神の子たちは、創造の法に喜んで従います。なぜなら、彼らは、まさしく彼ら自身の創造が創造の法に基づいていたように、王国の増大も創造の法に依拠するものだとわかっているからです。
4. Laws must be communicated if they are to be helpful.
法が役に立つためには、そもそも法が周知されていなければなりません。
In effect, they must be translated for those who speak different languages.
法が有効であるためには、異なった言語を話す者たちにもわかるように法が翻訳される必要があります。
Nevertheless, a good translator, although he must alter the form of what he translates, never changes the meaning.
とはいえ、優れた翻訳者は、自分の訳するものの形を変えなければならないとしても、決してその意味を変えることはありません。
In fact, his whole purpose is to change the form so that the original meaning is retained.
それどころか、優れた翻訳者が目的とすることは、その元来の意味を保持できるように形を変えることに尽きるといえます。
The Holy Spirit is the Translator of the laws of God to those who do not understand them.
聖霊は、神の法を理解していない者たちのための神の法の偉大な翻訳者です。
You could not do this yourself because a conflicted mind cannot be faithful to one meaning, and will therefore change the meaning to preserve the form.
あなたは自分自身で神の法を翻訳することはできません。なぜなら、矛盾を抱える心はひとつの意味に忠実になることができないので、そのために、形を元のまま保とうとしてその意味を変えてしまうことになるからです。

5. The Holy Spirit's purpose in translating is exactly the opposite.
翻訳するに際しての聖霊の目的は、まさにその正反対です。
He translates only to preserve the original meaning in all respects and in all languages.
聖霊はあらゆる面で、また、すべての言語において、その本来の意味を保つためにのみ訳します。
Therefore, he opposes the idea that differences in form are meaningful, emphasizing always that these differences do not matter.
したがって、聖霊は形の違いに意味があると考えることには反対し、つねに形の相違など問題にならないと力説します。
The meaning of his message is always the same; only the meaning matters.
聖霊の伝えようとするメッセージの意味はいつでも同じです。それは、重要なのはただその意味だけだということです。
God's law of creation does not involve the use of truth to convince his Sons of truth.
神の創造の法は、神の子たちに真理を確信させるために、真理そのものを用いることを必要とはしません。
The extension of truth, which is the law of the Kingdom, rests only on the knowledge of what truth is.
王国の法そのものである真理の拡張は、ただ真理が何なのかという知識だけに基づいています。
This is your inheritance and requires no learning at all, but when you disinherited yourself you became a learner of necessity.
何が真理かという知識は、あなたが生まれながらに受け継いでいるものなので、まったく学ぶ必要などありません。しかし、あなたが自分で自らの相続権を放棄してしまったとき、あなたは必要なことを学ぶ者となってしまったのです。
6. No one questions the connection of learning and memory.
学習と記憶が関連することには、誰も疑問を持ちません。
Learning is impossible without memory since it must be consistent to be remembered.
学んだことを覚えておくためには、記憶が首尾一貫していなければならないので、記憶力を抜きにしては学ぶことは不可能です。
That is why the Holy Spirit's teaching is a lesson in remembering.
それゆえ、聖霊が教えるのは思い出すためのレッスンです。
I said before that he teaches remembering and forgetting, but the forgetting is only to make the remembering consistent.
私が以前に述べたように、聖霊は思い出すことと忘れることを教えます。しかし、忘れるのは、ただ矛盾なく思い出すことができるようにするためでしかありません。
You forget in order to remember better.
あなたは、よりよく思い出すために忘れるのです。
You will not understand his translations while you listen to two ways of interpreting them.
あなたが聖霊の翻訳することについての二通りの解釈に耳を傾けている間は、あなたには聖霊の翻訳することが理解できないでしょう。
Therefore you must forget or relinquish one to understand the other.
したがって、あなたは一方を理解するために、他方を忘れて捨て去らなければなりません。
This is the only way you can learn consistency, so that you can finally be consistent.
これこそが、あなたが一貫性を学ぶことができる唯一の方法であり、それでこそ、最終的にあなたは首尾一貫することができます。

7. What can the perfect consistency of the Kingdom mean to the confused?
王国が完全に一貫していることは、混乱している者たちにとって何を意味しうるでしょうか。
It is apparent that confusion interferes with meaning, and therefore prevents the learner from appreciating it.
混乱することが、意味を把握することを妨げてしまうのは明白です。したがって、混乱は学習する者が自分の学んでいることの真価を認めることを妨げてしまいます。
There is no confusion in the Kingdom, because there is only one meaning.
王国には混乱はありません。なぜなら、王国にはたったひとつの意味しかないからです。
This meaning comes from God and is God.
この唯一の意味は、神から来るものであり、そして、神そのものでもあります。
Because it is also you, you share it and extend it as your Creator did.
その意味はまた、あなたでもあります。それゆえに、あなたの創造主がそうしたように、あなたもその意味を分かち合い、そして拡張します。
This needs no translation because it is perfectly understood, but it does need extension because it means extension.
王国が神とあなたを意味することは、完全に意味がわかることなので、何ら翻訳する必要はありません。しかし、王国が神であるだけでなく子であるあなたでもあるということは拡張を意味するので、王国が拡張を必要とするのは確かです。
Communication is perfectly direct and perfectly united.
コミュニケーションは完全に直接に通じ合っているし、完全に同調しています。
It is totally free, because nothing discordant ever enters.
コミュニケーションには、不調和なものなど一切入りこめないので、コミュニケーションは完全に自由です。
That is why it is the Kingdom of God.
だからこそ、それは神の王国なのです。
It belongs to him and is therefore like him.
王国は神に属し、したがって、神と同じものです。
That is its reality, and nothing can assail it.
それこそ王国の真の姿であり、何ものも王国の真の姿を攻撃することなどできないのです。

