M24 輪廻転生はあるか?


質問者 輪廻転生は真実でしょうか?

マハルシ 無知が存在するかぎり、輪廻転生は存在する。本当は、輪廻転生など全く存在しない。今も今までも、そしてこれからも、これが真理である。



ラマナ・マハルシ






Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.
明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。

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Mahatma Gandhi
マハトマ・ガンジー

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Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.
たとえ明日世界が破滅するとわかっていたとしても、それでも私はリンゴの木を植えよう。



Martin Luther
マルティン・ルター





何回も生まれ変わるとしたら、あなたの悔いは全一なものとはなれない。あなたは待ったり延期したりできる。こんなふうに考えることもできる。
「今回の生で取り逃したってどうということはない。次の生で何とかなる。」
これこそヒンドゥーの人たちがずっとやってきたことだ。この再生論のために彼らは世界一の怠け者になった。が、この再生論は真実だ。それが問題になる。彼らは常に引き延ばす。急ぐことはない、なぜそんなに急がなきゃいけないね? というわけだ。
これだからヒンドゥーの人たちは時間に目を向けたことがない。彼らは時計など作らない。彼らに任せておいたら、時計など絶対に発明しなかったろう。だから、ヒンドゥー精神にとって時計とはまったく異端の要素だ。ヒンドゥー教徒の家に柱時計など、まったくもって似合わない。
時計はキリスト教徒の発明品だ。時間は短い、どんどん減ってゆく。いや時計ではない、すり減ってゆくのは生命のほうだ。一旦死んだらその死は終局を意味する、引き延ばすことはできない……。
こういう発想は、引き延ばしを避けるために作られたものだ。
イエスとそのマスターの洗礼者ヨハネ、イエスを神秘の内へと引導したヨハネ、この二者の教え全体はこの”悔い改め”にかかっていた。
「悔い改めよ! 時はもはや残り少ない。これ以上引き延ばしてはならない。引き延ばしたら迷うことになる!」
彼らはこうして強烈さ、厳しさをもたらした。



OSHO愛の錬金術 隠されてきたキリスト 上巻」150ページ)

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The greatest weight
最大の重石


What, if some day or night a demon were to steal after you into your loneliest loneliness and say to you: “This life as you now live it and have lived it, you will have to live once more and innumerable times more; and there will be nothing new in it, but every pain and every joy and every thought and sigh and everything unutterably small or great in your life will have to return to you, all in the same succession and sequence—even this spider and this moonlight between the trees, and even this moment and I myself. The eternal hourglass of existence is turned upside down again and again, and you with it, speck of dust!” Would you not throw yourself down and gnash your teeth and curse the demon who spoke thus?
ある日、またはある晩、もし悪魔があなたの心細い孤独の中へと忍び込んで、こう言ったとしたらどうだろうか。「今お前が生き、これまでお前が生きてきたとおりのこの人生を、お前はもう一回どころか数えきれない回数これからもずっと生きなければならない。そして、その繰り返しの人生においてはまったく新しいことは起こりえず、あらゆる苦痛やあらゆる喜び、あらゆる思索や嘆き、お前の人生の中でとことん些細なことも途轍もなく大事なこともすべて、この蜘蛛や木々の間のこの月明りはもちろんのこと、この瞬間の俺とお前のやりとりでさえ、同じ順序と脈絡でそっくりそのままお前に舞い戻ってくるのだ。存在の永遠の砂時計が幾度も幾度もひっくり返されるたびに、砂粒のように、お前も一緒に人生を繰り返す羽目になるのだ。」これを耳にしたなら、あなたは地面に身を放り出して歯ぎしりしながら悪態をついて、こんなことを告げる悪魔を呪うのではないだろうか。

Or have you once experienced a tremendous moment when you would have answered him: “You are a god and never have I heard anything more divine.”
そうしないとしたら、きっとあなたはすでに、自分が悪魔に次のように答える途方もない瞬間をかつて体験したことがあるからに違いない。「あなたは神だ。私は今までこれほど神懸った話を聞いたことはない。」と。

If this thought gained possession of you, it would change you as you are or perhaps crush you.
ひとたびこの考えがあなたの心に取り憑いたら、きっとこの考えは、あなたを今のあなたとは別人に変えてしまうはずだし、ことによると、あなたの心を破壊してしまうかもしれない。

The question in each and every thing, “Do you desire this once more and innumerable times more?” would lie upon your actions as the greatest weight.
というのも、何ごとをなすにつけても、「お前はこの体験を、もう一度、そしてさらに、数えきれない回数繰り返したいと心の底から願うのか?」という疑念が最大級の重石となってあなたの心に圧し掛かることになるからだ。

Or how well disposed would you have to become to yourself and to life to crave nothing more fervently than this ultimate eternal confirmation and seal?
あるいは、あなたはどうにかして、この究極にして永遠の確証の印のほかにはもはや何ものも望まないために、自分自身を受け入れ、人生を引き受けなければならないと、首尾よく自らと決着をつけられるだろうか。



Friedrich Nietzsche; The Gay Science: With a Prelude in Rhymes and an Appendix of Songs
ニーチェ(「喜ばしき知恵」)

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時間とは輪廻です。輪廻は、神と離れたという意識に訪れる感覚です。神と離れたという「人間意識」のままでいる限り、全ての分離意識に日々とらわれ続けます。そしてそういった態度が、この世では「妥当」で「正しい」とさえ判断されるでしょう。そういった「人間意識」に留まる限り、輪廻というこの全き偽の概念に、あなたの存在を奪われ続けていくのです。

この獄からあなたを解放しようとしている愛の存在があるという事、そして真にはこの愛しか存在していないという事、この事を、あなたの顕在意識の部分で、まず認める事です。これが実に、真実なのです。あなたが今身を置いているこの場所に、これ以上の真実は存在しません。ここから、全ての赦しと救いが始まります。ここで読み進めるのをいったん止め、「愛しか存在しない」という事を、あなたの内側で宣言し、これを認めてみてください。ここから感じられる感覚を、少しの間でいいので、感じ取ってみてください。

あらためて伝えます、真の父母なる神はあなたに、キリスト意識に目覚めた存在、神我に目覚めた「霊人」に還って欲しいと、願っているのです。人と人との間に張り巡らされた、集合偽我たるマトリクスの間においてしか自分の存在を認識できない「人間状態」―偽我意識の声ばかりを聞き、恐怖感から派生した諸々に全てのエネルギーを搾取されるばかりの状態。あなたは、これまでずっと、自分自身が正にそのような状態にあったという事を、ここで認めなければなりません。あなたはこれまで、実に、幻影(現世、うつしよ)に生きてきたという事。そして、その獄からの解放がここに始まっているという事―この事を、今ここで、しっかりと認識してみるのです。

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イエス・キリスト(記述者匿名「あなたの内なるキリスト意識―キリスト意識の覚醒による神との境界の消滅について―」70ページ)

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今回は教師のためのマニュアルの中から、輪廻転生に関する一節をご紹介します。


究極的には輪廻転生はない

ある程度の長さ、人生を歩んできて、輪廻転生について考えたことのない人はいないでしょう。

本節が述べるように、究極的な真理においては、輪廻転生が存在することはありえません。

この世界は幻想で時間も錯覚なので、輪廻転生を繰り返す場となる時空間自体がないわけだし、神の子はひとりしかいないので、輪廻する主体としての個別の霊である魂も実在しないからです。


分離の世界では、むしろ「ある」と言わざるをえない

しかし、(死後の世界を含めた)この世界かぎりの話としては、輪廻転生が存在するか否かは検討の余地があります。

コースもUrtextやOriginal Editionをみると、 FIP版で"spirit"となっている箇所の多くがもともとは"soul"であったことが確認できます。

したがって、コースも、幻想世界かぎりでは魂を観念しうることを否定してはいないし、むしろ、大いなる霊から分かれた分霊たる魂としての私たちに、大いなる霊に戻ることを呼びかけているわけなので、分離幻想によって魂が「存在」してしまっている状態を前提に、その解消のための学習計画であるとすらいえます。




分離幻想を抱いたことによって神の子は自らの一なる霊を無数の魂に分裂させ、この世界という仮想空間を作り出し、世界の中を動き回って感知するために必要なアバターとなる身体を作り出して、車に乗る人間のように、身体に魂を宿らせます。

この状態がずっと継続するとなると、身体に宿る魂がそのうちに、自分たちの住む世界が作り物なのではないかと疑念を抱くようになり、分離が錯覚であることがバレて、分離状態が解消されてしまうリスクがあります。

このリスクを避けるには、身体の持続時間を区切って限定的なものにすることが有益です。

しかし、そうなると、せっかくアバターとして幻想世界に暮らす経験をして自分は身体だと信じ込むようになった魂を、身体が消滅する都度、神の子の霊という大いなる源に帰してしまうことになり、分離幻想が解消されてしまう大きなリスクを負うことになります。

そこで、身体の死後も神の子の分霊たちを個別の魂として存続させて、あの世という一時待避所に留め置いてから、再度、この世界に身体として生まれ変わらせるという仕組みをとって、それをひたすら繰り返せば、魂は、身体であることをやめた後も、魂たちは自分が神から分離した個別の属性を持つ個々に分離した存在であることを確信するようになります。

分離幻想を維持させたいエゴ側からの要請に輪廻転生ほどマッチする仕組みはないわけです。


輪廻転生は役に立つか

このように、この世界の生まれた仕組みから推測すると輪廻転生は存在するというのがありそうな筋です。

もっとも、輪廻転生があるかどうかは死んだあとになれば誰でもわかることですし(もしかしたら、別の身体に乗り換える輪廻転生という仕組みではなく、同じ人生をひたすら繰り返す永劫回帰のループが始まるかもしれませんが)、究極的には実在しないものなので、本節が述べるように、要点は、この概念が役に立つかどうかだけです。


さて、輪廻転生は役に立つでしょうか。


輪廻転生という「仕組み」

まず、輪廻転生という「仕組み」は役に立つでしょうか。

上記のように分離幻想を維持する上で輪廻転生という仕組みが貢献しているのは事実でしょう。

とはいえ、すべての幻想世界のデバイスについてあてはまる仕組みと同じで、エゴに従う場合には悪さばかりする道具も、聖霊に捧げて使ってもらうなら、分離を解消する道具に転化するわけなので、輪廻転生も、聖霊に導きを委ねるなら、個別の小さな自己が人生での経験を糧にフィードバックして直霊に戻る貴重な機会として活用できることになります。

したがって、個別の自己が幻想世界に生まれて魂としてさまよっている状態から脱するためには、この仕組みを活用しないわけにはいかないのですから、この仕組みは役に立つといえます。


輪廻転生という「概念」

では、輪廻転生という「概念」は役に立つでしょうか。

これは、人によるとしか言えないでしょう。


「一度きりの人生だから」というのが現代日本社会における物事の発想の基盤となる人生観・死生観です。

この観点は、もちろん、コースの言うように、実在するのは神の子だけで世界は幻想だからという理屈ではなく、唯物論に基礎を置くさもしい世界観を背景にしてのものです。

宗教的バックグラウンドを持つ国や文化で育った人は、その宗教が輪廻を前提とするものであればもちろん、正面から肯定してはいなくても、身体だけが自分の本質だから身体が死ねばおしまいであるという発想に囚われずにいられる可能性があることを考えると、私たち日本人は、世知辛い「現実」に向き合うことを求められる環境での成長と生活、そして終末を強いられている点で魂にとって救いのない酷薄な信念を抱かされているといえるでしょう。

しかし、「一度きりの人生だから」という人生観はマイナスばかりでなく、利点も多々あります。

むしろ「一度きりの人生だから」という点こそが、仮に転生があるとしても、転生のたびに前世の記憶がリセットされる仕組みを逆手に取って天国への帰還のために最大限に活用するために不可欠な観点だと言えます。


メメント・モリ

いわゆるメメント・モリ(死を想え)です。

一度きりの人生ではなく前世も来世もあって輪廻転生を繰り返しているというのが仮に事実だとしても、冒頭でOSHOが述べるように、それを前提にしているかぎり、ともすれば、明日があるさ的な発想で、今生がダメでも来世があるさという甘えた諦め根性が出てきかねません。

前世も来世もなく、今生で終わりなんだから、という切迫感は、今への集中力を生み出します。

何せ、死んだらおしまいなのですから、なんとかして自分が生きた爪痕を残したいと思うのが人情(エゴ)だからです。

通常は、エゴのこの動機づけは、個としての自分、アバターだけの利益追求に邁進する作用しか持たないものですが、目標設定が聖霊の目標に正しく設定されるなら、「死んだらおしまいパワー」はとてつもない威力を発揮することになります。

個別の魂の利益追求が目標であった状態では、魂という運転者が身体という車を通して享受しうる限りの快楽を追求することが車を使う目的でした。

しかし、聖霊の目標が設定された状態では、せっかくの気づきを得ることができた今の車を運転しているかぎりは、兄弟たちにそのメッセージを届けることができるけれど、次の車ではまた再び幽閉状態からの再スタートになってしまうので、同じ状態に達することができるかどうかすら疑わしい、という切迫した事情のもとで、この車が走れなくなるまで、元来魂が自分の中に携えていたことに気づいたメッセージをほかのたくさんの車の中にいる魂に届けることが車を使う目的となります。

そのメッセージを分かち合うことで、別の車を運転していた別の魂は実は自分自身の一部だと気づくことになります。


輪廻

生まれ変わり


永劫回帰という恐ろしい思想

さて、冒頭のニーチェの永劫回帰の考えにはじめて触れた方の中には、きわめて強烈なインパクトを受けた方もいらっしゃるかもしれません。

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はてしない物語で、幼ごころの君がさすらい山の古老を訪ね、古老に、書き記した物語をはじめから話すよう命じ、本を読んでいたバスチアンの話も含めた物語を永遠に繰り返す閉じた円環がはじまった場面を思い浮かべてみてください。

自分の人生が無自覚ながら、一切の変化のない同じ人生が、数十回、数百回、数億回と寸分たがわずに無限に繰り返され、これからも無限に続くのかもしれないという想像には、気の遠くなる思いがするはずです。

それは、繰り返しという動的なプロセスの形はとっているものの、もはやすべての瞬間が凍り付いて宇宙が静止した状態と変わりがない虚無です。


これに対して、輪廻転生は、バスチアンが、グラオーグラマーンの宮殿の扉から入りこんでさまよった千の扉の寺のような迷宮であり、いつかそこから抜け出せる希望のある仕組みとしてイメージすることができます。

ある意味では、幾度もやり直しの機会を得て成長できるという優しさと逃げ道のある輪廻転生の考え方に対して、永劫回帰は変化のありえない無限に循環し続ける閉じた時間の円環という牢獄に永遠に幽閉されたままだという虚無性を冷厳に指摘する救いのないニヒリズムの極致です。

輪廻転生は、迷いであり苦である輪廻を否定的に捉え、そこからの解脱を解くのに対し、永劫回帰はニヒリズムを超克して、それを引き受け、あるがままの運命を受け入れ、愛し、すべてを肯定する超人となることを説くので、ベクトルは正反対です。

奇跡のコースからすれば、神の子が狂気に陥って幻の人の子として生きる人生の位置づけは、幻想であるがゆえに、なんでもありなわけなので、どちらの考え方も、神の子の救済に役立つなら否定する必要はないということになると思います。


この点について、管理人としては、個々の分離した人の子の架空性をよりよく体得するうえでは、ニーチェの思考実験に乗っかるほうが輪廻転生を信奉するよりも神の子の救済には実効的だと思っています。

どちらも分離した魂の存在を前提に据える(つまり分離幻想を前提にする)考え方ではあります。

ですが、巡る運命の輪をよりよいものに切り替えてつないでいって、いくらでもやり直しができるというエゴにとっては夢のある輪廻転生に比べて、永劫回帰は、リプレイのつど前回よりも改善できるといういわゆるループものの物語のような希望もないままに、ひたすらひとつの運命の輪を無限に繰り返すというもので、よりよく生きるべき別の人生(自分の人生であれ他人としての人生であれ)という運命の輪が選択肢としてそもそも存在しない夢も希望もない考え方なわけです。

永劫回帰は、個として生きる人生は無限に同じ映画をリピート再生するようなもので、決まった通りにしか展開しないのだから、さすらい山の古老が永遠に同じ物語を語るサイクルに入った際のすべての時間があってないような固定した状態と同じで、何をしようが意味がないという絶望を個としての心に容赦なく突きつけてきて、ありうる選択肢は別の輪を見つけたりやり直しのつど前回よりはよりよい人生にしようと期待することではなく、このひとつの輪に永遠に閉じ込められたままでいるか運命を愛し超人となる(これがレコード盤から針を上げるように再生を止め、神の子としての復活につながる)のかという幻想と現実との二者択一を迫ります。

この容赦のない考えは、エゴに暗躍する機会を与えないし、最終的には運命愛にたどり着くしか救いがないので、すべてを引き受けすべてを聖霊に明け渡す境地につながりやすいはずだからです。

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“Was that life? Well then, once more!”
「これが人生だったのか。いいだろう。だったら、もう一回生きてやろうじゃないか!」



Friedrich Nietzsche, Thus Spoke Zarathustra
ニーチェ(「ツァラトゥストラはかく語りき」より)


女王幼ごころの君から突きつけられた永劫回帰の閉じた輪からの脱出は、バスチアンがすでに「はてしない物語」の中に入り込んでしまってもう後戻りはできないという自分の運命から逃げずに勇気を出して向き合うことによってしか成し遂げることはできませんでした。

私たちも、来世に期待したり、自分のスペックアップや引き寄せの法則による望ましい人生の引き寄せに期待したりというぬるま湯的な立ち位置にとどまっているかぎり、聖霊の呼びかけに真正面から答えずに、かえって空疎な人生を無限に繰り返すことにしかならないのかもしれません。

このサイトでは、あえて、アンチ「引き寄せの法則」的なスタンスをとって、すべてはすでに天の書に書かれているというような意味を持つアラブの言葉「マクトゥーブ」が象徴する、起こることを善悪を問わず受け入れ引き受けるスタンスを提示しています。

それは、コースが目指すのは、神の子の一なる霊が分裂した魂たちが夢の主人公である人間としての人生劇場の誘引力に引きずり込まれて神の子が世界に幽閉される状態の解消であり、個としての魂が向上したり、個人としての人間が人生を謳歌したりすることは、神の子の幽閉を継続することでしかないからです。






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Section 24
第24節

Is Reincarnation So?
輪廻転生はあるか



1. In the ultimate sense, reincarnation is impossible.
 究極的な意味では、輪廻転生はありえません。

 There is no past or future, and the idea of birth into a body has no meaning either once or many times.
 過去も未来も存在しないのだから、一度であれたくさんの回数であれ、身体の中に生まれてくると考えることはまったく意味をなさないからです。

 Reincarnation cannot, then, be true in any real sense.
 したがって、輪廻転生は、どう見ても本当の意味においては、真実ではありえません。

 Our only question should be, "Is the concept helpful?"
 私たちが唯一問うべきは、「この概念は役に立つか」ということだけです。

 And that depends, of course, on what it is used for.
 もちろん、役に立つかどうかは、何のためにこの概念を用いるかに左右されます。

 If it is used to strengthen the recognition of the eternal nature of life, it is helpful indeed.
 もしそれが生命の永遠なる本質への認識を強めるために用いられるなら、輪廻という概念は実に役に立ちます。

 Is any other question about it really useful in lighting up the way?
 それ以外に輪廻転生について問うたところで、それは道を照らすうえで本当に役に立つでしょうか。

 Like many other beliefs, it can be bitterly misused.
 ほかの多くの信念と同じように、この概念はひどく誤用される危険があります。

 At least, such misuse offers preoccupation and perhaps pride in the past.
 控えめに見ても、この概念が誤用された場合、過去世に夢中になったり、ときには自らの過去世への自惚れを生み出してしまいます。

 At worst, it induces inertia in the present.
 悪くすると、この概念は、現世を生きる意欲を喪失させてしまいます。

 In between, many kinds of folly are possible.
 それらの中間でも、いろんな愚行がありえます。



2. Reincarnation would not, under any circumstances, be the problem to be dealt with < now >.
 いかなる状況においても、輪廻転生が「今」対処すべき問題になるようなことはないでしょう。

 If it were responsible for some of the difficulties the individual faces now, his task would still be only to escape from them now.
 もし、ある個人が今直面している苦難の要因が前世にあったとしても、その人のなすべき課題はなおも、今、それらの苦難を脱することに尽きるはずです。

 If he is laying the groundwork for a future life, he can still work out his salvation only now.
 もし彼が来世のために徳を積もうとしているのだとしても、彼が自分の救済を成し遂げることができるのは、依然として、ただ今でしかありません。

 To some, there may be comfort in the concept, and if it heartens them its value is self-evident.
 ある者たちにとっては、輪廻という概念は慰めとなるかもしれません。そして、もしこの概念がその者たちを励まし勇気づけるなら、この概念に価値があるのは言うまでもないでしょう。

 It is certain, however, that the way to salvation can be found by those who believe in reincarnation and by those who do not.
 しかしながら、救済への道は、輪廻転生を信じる者、そして、それを信じない者、いずれによっても見出されうるものであるのは間違いありません。

 The idea cannot, therefore, be regarded as essential to the curriculum.
 だから、輪廻転生という概念を、このカリキュラムにとって必須のものとみなすことはできません。

 There is always some risk in seeing the present in terms of the past.
 過去の観点から現在を見ることには、つねに一定の危険を伴います。

 There is always some good in any thought which strengthens the idea that life and the body are not the same.
 もっとも、どんな思いであっても、それが生命と身体は同一ではないという考えを強めるなら、それはつねに望ましいことです。



3. For our purposes, it would not be helpful to take any definite stand on reincarnation.
 私たちの目的にとっては、どのようなものであれ、輪廻転生について明確な立場を取ることは無益でしょう。

 A teacher of God should be as helpful to those who believe in it as to those who do not.
 神の教師は、輪廻転生という概念を信じる者にとっても、それを信じない者にとっても、役に立てるようになるべきだからです。

 If a definite stand were required of him, it would merely limit his usefulness, as well as his own decision making.
 もし神の教師が明確な立場を取ることを要求されたとしたら、それは、彼自身の意思決定を制限するばかりか、彼が他者に奉仕できる機会をも制限することにしかならないでしょう。

 Our course is not concerned with any concept that is not acceptable to anyone, regardless of his formal beliefs.
 私たちのコースは、その人が表向きどんな信仰を持っているかに関わりなく誰にでも受け入れられるものでなければ、どんな概念にも関心を向けることはありません。

 His ego will be enough for him to cope with, and it is not the part of wisdom to add sectarian controversies to his burdens.
 その人は自分のエゴだけでも持て余しているというのに、彼の背負う重荷に宗派論争までつけ加えるのはちっとも賢明とは言えないからです。

Nor would there be an advantage in his premature acceptance of the course merely because it advocates a long-held belief of his own.
 それに、ただ単にこのコースが彼自身が長きに亘って抱いてきた信仰を支持しているという理由だけで、彼が時期尚早にもこのコースを受け入れてしまったとしたら、彼には何の益もないでしょう。
 


4. It cannot be too strongly emphasized that this course aims at a complete reversal of thought.
 このコースが、考え方を完全に逆転させることに狙いを定めていることについては、どれほど力説しても足りません。

 When this is finally accomplished, issues such as the validity of reincarnation become meaningless.
 この思考の逆転が最終的に達成されたとき、輪廻転生が正しいかどうかというような問題は無意味になります。

 Until then, they are likely to be merely controversial.
 そのときまでは、そんなことが論争を呼ぶことがしばしばあるだけです。

 The teacher of God is, therefore, wise to step away from all such questions, for he has much to teach and learn apart from them.
 したがって、神の教師は、そのような問題のすべてから一歩引き下がっているのが賢明です。というのも、彼には、そんな問題はさておいて、ほかに教えて学ぶべきことがたくさんあるからです。

 He should both learn and teach that theoretical issues but waste time, draining it away from its appointed purpose.
 神の教師は、観念的な論争は時間の無駄で、本来奉仕すべき目的から時間を逸脱させることになるだけだと学び、教えるべきです。

 If there are aspects to any concept or belief that will be helpful, he will be told about it.
 もしある概念や信念に有益な側面があるのであれば、教師にはそのことが告げられるはずです。

 He will also be told how to use it.
 彼にはまた、その概念をどう活用すべきかも告げられるでしょう。

 What more need he know?
 それ以上に、教師が何を知る必要があるというのでしょうか。
 


5. Does this mean that the teacher of God should not believe in reincarnation himself, or discuss it with others who do?
 このことは、神の教師は自分自身で輪廻転生を信じてはならないとか、それを信じる者たちと輪廻転生について話し合ってはならないことを意味するのでしょうか。

 The answer is, certainly not!
 もちろん、その答えは、ノーです。

 If he does believe in reincarnation, it would be a mistake for him to renounce the belief unless his internal Teacher so advised.
 もしその教師が輪廻転生を信じているなら、彼の内なる大いなる教師がそう助言したのでないかぎり、その信念を捨てることは誤りとなるでしょう。

 And this is most unlikely.
 そして、聖霊がそのような助言をすることは、まずありえません。

 He might be advised that he is misusing the belief in some way that is detrimental to his pupil's advance or his own.
 もっとも、その教師は、その信念を彼の生徒や彼自身の進歩にとって望ましくない方法で誤用していると忠告されることはあるかもしれません。

 Reinterpretation would then be recommended, because it is necessary.
 そのようなときは、信念を改めて解釈し直すことが必要なので、そうすべきでしょう。

 All that must be recognized, however, is that birth was not the beginning, and death is not the end.
 しかしながら、誕生は始まりではなかったこと、そして、死は終わりではないことだけは認識しておくべきです。

 Yet even this much is not required of the beginner.
 しかし、学び始めたばかりの者には、このことを認めることすら求めらてはいません。

 He need merely accept the idea that what he knows is not necessarily all there is to learn.
 彼は単に、必ずしも自分が学ぶべきことのすべてを自分は知っているわけではないと受け入れる必要があるだけです。

 His journey has begun.
 彼の旅路は始まったばかりなのです。



6. The emphasis of this course always remains the same;--it is at this moment that complete salvation is offered you, and it is at this moment that you can accept it.
 このコースが強調するのは、いつでも同じことです。それは、この瞬間、完璧な救済があなたに差し延べられており、そして、あなたが救済を受け入れることができるのは、まさにこの瞬間においてなのだ、ということです。

 This is still your one responsibility.
 この瞬間に救済を受け入れることこそが、依然として、あなたの唯一の責任です。

 Atonement might be equated with total escape from the past and total lack of interest in the future.
 贖罪は、完全に過去からの囚われを免れて、未来にまったく関心を持たなくなった境地に等しいと言ってよいかもしれません。

 Heaven is here.
 天国はここにあります。

 There is nowhere else.
 それ以外の場所などありません。

 Heaven is now.
 天国とは今このときのことです。

 There is no other time.
 それ以外の時間などありません。

 No teaching that does not lead to this is of concern to God's teachers.
 このことに導くことのない教えは、神の教師にとって重要ではありません。

 All beliefs will point to this if properly interpreted.
 もし正しく解釈されるならば、すべての信念はこのことを指し示すはずです。

 In this sense, it can be said that their truth lies in their usefulness.
 この意味で、どのような信念でもそれが真理であるかどうかは、その信念が役に立つかどうかでわかるといえます。

 All beliefs that lead to progress should be honored.
 それが進歩に導くなら、どんな信念も尊ぶべきです。

 This is the sole criterion this course requires.
 これこそが、このコースが求める唯一の基準です。

 No more than this is necessary.
 これ以上のことは何も必要ありません。






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