W2ST-13.奇跡ってなに?

ワークブック・パート②特別解説 0

Once miracles are admitted, every scientific explanation is out of the question.
ひとたび紛れもない奇跡が起こってしまったら、どんな科学的な説明もどうでもよくなってしまう。

ケプラー_1128115428

Johannes Kepler.
ヨハネス・ケプラー



Where there is great love there are always miracles.
大いなる愛のあるところにはつねに奇跡がある。



Willa Cather
ウィラ・キャザー



Jesus Walks on the Water
イエス、水の上を歩む



When evening came, his disciples went down to the lake, where they got into a boat and set off across the lake for Capernaum.
夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。

By now it was dark, and Jesus had not yet joined them.
すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。

A strong wind was blowing and the waters grew rough.
強い風が吹いてきて湖面は荒れ始めた。

When they had rowed about three or four miles, they saw Jesus approaching the boat, walking on the water; and they were frightened.
こうして、弟子たちが3、4マイルほど漕ぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の水の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、驚き恐れた。

But he said to them, “It is I; don’t be afraid.”
しかし、イエスは彼らに言われた。「私だ。恐れることはない。」

Then they were willing to take him into the boat, and immediately the boat reached the shore where they were heading.
そこで、彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく彼らの向かっていた岸辺に着いた。

The next day the crowd that had stayed on the opposite shore of the lake realized that only one boat had been there, and that Jesus had not entered it with his disciples, but that they had gone away alone.
その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻しかなく、また、イエスはその舟に弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが船出したことに気づいた。

Then some boats from Tiberias landed near the place where the people had eaten the bread after the Lord had given thanks.
それから、主が感謝を捧げられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。

Once the crowd realized that neither Jesus nor his disciples were there, they got into the boats and went to Capernaum in search of Jesus.
群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないとわかると、それらの小舟に乗り、イエスを探しにカペナウムに行った。

Jesus Christ

John6;16−24
イエス・キリスト(ヨハネによる福音書第6章16−24節)




今回は、ワークブックパート2特別解説から、「奇跡とは何か」をご紹介します。






奇跡の原理が参考になると思います(できれば、「奇跡の原理」は何度も何度も読み返していただきたいものです)。

"Miracle"の訳語、「きせき」には、「奇蹟」と「奇跡」の漢字があてられ、「奇跡」には常識では起こりえない不思議な出来事という意味が、「奇蹟」には神の意志と力による奇跡という意味合いが込められ、仏教でいう「霊験」に近い意味合いを持つようです。

ですので、語義からすれば、「奇跡のコース」というよりも「奇蹟のコース」というほうがより正確なのかもしれません。


さて、上記のように、「奇跡」は、通常、常識では起こりえないできごと、人の力や自然法則を超越するできごとが起こることを指します。

この点、コースでいう「奇跡」を「間違った思考や誤った知覚の訂正である」として、心の中で生じることであって、外的な行動や事象と無関係と捉える解釈も可能ですし、「心」を分離した個別の心ではなく大いなる心と捉え、心の外には何もないという理解が伴うかぎり、この解釈は正確なものと言えるでしょう。

しかし、私たちは大いなる心ではない自分独自の小さな心しか理解できないからこそコースを学んでいるわけで、どうしても個別の心を超えた発想ができません。

ゆえに、この解釈は、取り組むべき対象をスクリーン上の画像から投影元に位置づける意味では効果的ではあっても、外界と自分の心を切り離す副作用があるように思います。つまり、幻想世界である「現実」と折り合いをつけるべく、「奇跡」を矮小化して捉えてしまう嫌いがあります。

この意味で、イェシュアも、当然、この常識的な意味を十分理解したうえで、奇跡のコースというタイトルをつけているはずであり、(魔術的意味合いは一切含まないとはいえ)世間で言う奇跡とは違うものとして捉えるわけではないと解釈してみることには意義があると思います。


世界の幻想性を看破する道具として「奇跡」という概念を活用するうえでは、あえてこの世界の常識的な捉え方をしたほうが実践的なのは間違いありません。

コースで出てくる概念の捉え方に関して、コースの難解さや概念間の矛盾が生じることをクリアするためにいろんな解釈を参考にすることも大切ですが、この「現実世界」との辻褄合わせのために、奇跡という概念を矮小化したり縮小解釈しなければならないとしたら、それがはたして適切だろうかと考えて見る必要があります。

コースは、この世界の基盤をひっくり返すことを内容とするものであり、この世界を現実として、現実に矛盾・抵触しないよう現実の顔色を窺いながら現実(=世界)が許可してくれる現実の解釈をしようというものではないからです。

発想の起点にするのであれば、世界の存在や世界の正しさではなく、世界の虚構性、エゴが創造を誤って捻じ曲げて投影することで生じた幻覚であるべきです。

この世界の存在や法則の正しさを所与のものとして、それに適合させるために、概念のほうを捻じ曲げなければならないような局面ではつねに注意が必要だと思います。
このような局面では、コースに書かれていることだけを元に原理主義的に発想することも重要だと思います。

「What he enables you to do is clearly not of this world, for miracles violate every law of reality as this world judges it.
 聖霊があなたにできるようにさせることは、明らかにこの世界に属することではありません。なぜなら、奇跡はこの世界が判定するところの現実の法則をことごとく破るものだからです。

 Every law of time and space, of magnitude and mass is transcended, for what the Holy Spirit enables you to do is clearly beyond all of them.
 奇跡は時空の法則や質量の法則など、ことごとく超越します。というのは、聖霊があなたになすことができるようにさせることは、明らかに、これらの法則すべてが及ばないものだからです。」(T12-7-3

この節(T12-7-3)は、奇跡を行動として捉え、それも、世界の現実としての法則を破る出来事として単なる内心の解釈の変化にとどまらないものと捉えています。

世界はエゴの投影によって生み出された以上、エゴにとり憑かれて自分を人間だと信じるデフォルト・モードでは、世界には、エゴが信じる法則、常識に縛られた出来事しか起こりえません。

だから、エゴの支配の不徹底による綻びによって偶然起こる正しい知覚によって真理を垣間見る例外的な現象を「奇跡」と呼び、奇跡には稀有で無根拠な出来事という意味合いが込められることになります。

これが、赦しによって、投影先の妄想に縛られた想念の世界を支配するエゴの法則、常識が支配力を失って知覚の歪みが修正され、正しい知覚に切り替わると、投影先の世界には、元のエゴの投影状態では、常識的にはありえない事態や自然法則を破る外的事象を知覚することになります。

そして、正しい知覚が標準モードに近づくと、もはや旧来のエゴの常識からすればありえない非常識で自然法則に反する現象は、決して稀なことではなく、むしろそちらのほうが自然であるという認識になるので、奇跡が起こるのが当然となるでしょう。

知覚の変化を外的事象と無関係に解釈することは不可能であり、それが帰結するのは、奇跡を常識的な語義通りに捉えて縮小解釈する必要はないということです。

「It is unwise to accept any concept if you have to invert a whole frame of reference in order to justify it.
 どんな概念であれ、もしあなたがある概念を正当化するために判断基準をまるごと翻さなければならないようなら、そんな概念を受け入れるのは賢明とはいえません。

 This procedure is painful in its minor applications and genuinely tragic on a wider scale.
 こんな概念の正当化の仕方は、些細なことに適用するにしても耐えがたいことだし、より大きな規模で応用しようとするなら、実に悲劇的な事態を招きます。」(T3-1-2)

このように通常の意味と同様に奇跡を捉えると、当然、イエスが水の上を歩いたとか、病人を癒し、死者をよみがえらせたとか、自らが復活したことだとかといった奇跡として捉えられているエピソードも含めての奇跡ということになります。

この世界の実在性を所与の前提とせざるをえない通常のクリスチャンが、イエスの偉大さを讃えつつも、これらの奇跡だけは、現実ではないけれどイエスの力の偉大さを表す宗教的な脚色としてのお約束として事実であったこととしてみんなで了承するものとしてしか受け入れられないのは仕方がないでしょう。

けれど、世界の幻想性を教える奇跡のコースを学ぶ私たちまで、世の常識に束縛されて、「奇跡」は内心のことであって世界の法則を破る外的なできごととは関係ないというようなこじつけをしなければならないとしたら、もしかしたら自分は世界の実在性のほうを前提に発想してしまっているのではないか?と立ち止まって考えてみる必要があります。

というのも、世界の法則を破るできごとは、世界の常識からは奇跡であっても、奇跡のコースの側からすると、超常現象でも魔法でもなんでもない当然のできごとという位置づけになるからです。

なにせ、時間と空間のあるこの世界が実在すると思いこんで、しかも、たくさんに分裂した私たちがいると思いこんでいる「現実世界」や「常識」のほうこそが、ありえない狂気の幻想であり、魔術の幻惑だというのですから、発想が逆転します。

魔法の世界で自分勝手に作りあげたルールで縛ることによって不可能なことにしているだけのことを、本来の姿に修正して解き放つだけのことであっても、魔術に惑わされている人たちにとっては、理解の及ばない常識ではありえない超常現象だということになります。


このようなありえない幻の世界を歪んだ知覚によって、存在すると誤信しているわけなので、知覚を修正して正しい知覚をすることによって、癒しが起こり、贖罪がなされることになります。

その知覚の修正の過程をこの世界の観点から見ると、奇跡が起こったように見えるということになります。

ですので、奇跡を神聖視する必要はない(この意味で、冒頭の「奇蹟」という訳語を用いる必要はない)し、むしろ奇跡をありがたがる心の状態は、miracle-mindedness(奇跡を志向する心の状態)とはいえないということになります。

むしろ、奇跡を特別視するのではなく、この世界で常識とされていることについて、奇異に感じられる観点のほうが大切なのかもしれません。


「ありふれたことや、物事の当たり前に対して、どこか変だ、不気味だし、ひどく嘘っぽい、という感情を持つことは、めったにない啓示である。G・K・チェスタトンはかつてこう言った。ゴルゴンやグリフィンといった架空の生き物に目を見張ることはしばしばある。だが、サイやキリンのように、実在しているのに架空のもののように思われる生き物に目を見張るということは、それとはまったく別の、はるかに高級なことである、と。」(アラン・ワッツ「『ラットレース』から抜け出す方法」18ページ)




私たちはこの世界の常識に洗脳され、いったい何が本物で何が幻なのか、自分が本当は誰なのかわからなくなってしまっています。

私たちは、この世界に小さな自己として参加した当初は、この世界の物事のすべてに驚嘆する感覚を備えていたのに、時間をかけた世界からの教育によって、この世界の押しつける常識を当然のこととして、自分の中に組みこんできました(そして、この刷り込みは、人間として生まれた今生かぎりのものではなく、輪廻転生を通じてのものだとしたら、世界の常識がどれほど根深く私たちの魂にこびりついているか想像もつかないくらいです)。

逆に、時間をかけて組みこまれたこのようなエゴの思考システムを解除するのが奇跡のコースのカリキュラムの狙いなわけですが、聖霊は時間を学びを促進させる道具として使うことができます。

世界の常識を時間をかけて自分に信じこませたように、時間を味方にして、こびりついた常識を取り除いていくことができます。

もちろん、時間は幻想であり、今、この瞬間に即座にエゴの思考システムの解体が起こることはありうるわけですが、単に気づきの情報を得ることが自動的に気づきをもたらすわけではないことは、マトリックスでネオがジャンプ・プログラムで落っこち、自分の固定観念を落としていく作業が必要だったことからもわかります。

ですので、単純に情報として奇跡のコースを読んだからといって、すぐに知覚の修正がもたらされるとはいえません。

とくに、発想として、コースの言っていることを外部の情報として自分の中にインストールするという観点では、知覚の修正は困難でしょう。

自分だと思いこんでいる思考システムを解体するのが目的なのに、その自分の中に、自分を解体するための新たな思考システムを組みこもうとするわけです。


コンピューターで、模擬的に他の機械やOS等で動くソフトウェア等の動作をシミュレートして模倣するエミュレートという概念があります。

このエミュレーターを用いて、最新のゲーム機で、昔のファミコンのゲームを再生したり、マック上でウィンドウズを走らせたりすることができます。

外から真理を取りこんで悟り・覚醒を得ようという発想は、このエミュレートのようなものということができます。

エゴの思考システムは、自分の中に、一部の領域を割いて、新たに真理らしき別の思考システムを組みこんで、あたかもそれが独自に動作しているように見せかけるくらい容易にやってのける巧妙さを持ち合わせているし、私たち自身のマシンパワーは非常に強力なので、実際、このエミュレーションは可能です。

たしかに、奇跡のコースは、エゴの思考システムの取り消しのために、聖霊の思考システムとして、体系化されたプログラムの形にはなっています。

しかし、本当のところは、エゴの思考システムに対応するような形で、聖霊の思考システムというものを新たに作り上げることが目的なのではなく、エゴの思考システムという幻想を解体して取り消すことによって、本来ある自然の姿を露にする、元からある状態を回復するというのが目的なのです。


さて、冒頭に述べたように、奇跡から常識的な意味、つまり、通常起こりえないはずの自然法則に縛られない出来事を除外する必要がないということも重要ですが、そんなことはさておき、何より重要なのは、実は、私たちの日常そのものが奇跡に溢れているのに、私たちはそのことにまったく気づいていないということです。

私たちは、平凡な変化に乏しい日常に飽き飽きして、ありきたりな自分の人生に奇跡でも起こらないかなと思ったりするものです。

けれど、その人が自分ではつまらない平凡なものだと思っているその状態になり代われるものならすべてを投げうってもかまわないと思うような過酷な境遇にいる誰かもいるということを思うと、自分の人生がどれほど愛と奇跡に満ち溢れたものか多少は気づく余地が出てきます。

戦地で自分の目の前で大切な家族が敵兵に蹂躙されて殺される経験をしている人たち、深刻な病気や怪我で余命宣告を受け、守るべき家族の心配をしながら死ななければならない人たち、無実の罪で捕まり、重い刑罰を受ける人たち、運命に翻弄されてホームレス生活を余儀なくされている人たち、事件や事故によって半身不随の生活をしている人たち、そんな人たちからすれば、健康で普通に歩けてものが見えて、家族が元気で食べるにも困らない人並みの生活を送り、平凡すぎてつまらないと不平不満を抱くことができる人の平穏な人生がなんと幸福に満ちて感謝すべきことに溢れたすばらしいものに見えることでしょう。

私たちの平凡な人生をうらやむようなつらい境遇にあえぐその人たちは、別バージョンの私たちなのです。

本当によくよく考えてみれば、普通の人が当たり前と思うようなこと、たとえば、毎朝、家族が無事に健康でいて笑顔を見せてくれることが奇跡であることに気づけない自分はどうかしているに違いないと思い至るのではないでしょうか。

不平不満を抱くつまらない日常が実は奇跡に溢れていることに気づく力は、水の上を歩くことに優る超常能力というべきでしょう。



Today, which you have spent idly, is the tomorrow of somebody who died yesterday and was desperate to live.
君が無駄に過ごした今日は、昨日死んだ誰かが死ぬほど生きたかった明日なんだ。

(Kashikogi written by Cho Chong-in
カシコギ 趙 昌仁 著)






What is a Miracle ?
奇跡とは何か



1. A miracle is a correction.
 奇跡とは、修正です。

 It does not create, nor really change at all.
 奇跡は、創造するわけではないし、実際に何かを変化させるわけではまったくありません。

 It merely looks on devastation, and reminds the mind that what it sees is false.
 奇跡はただ荒廃を見て、心に見えているものは虚構だと心に気づかせるだけです。

 It undoes error, but does not attempt to go beyond perception, nor exceed the function of forgiveness.
 奇跡は誤りを取り消します。しかし、知覚の枠外に踏み出そうと試みることも、赦しという役目を超えて進もうともしません。

 Thus it stays within time’s limits.
 したがって、奇跡は、時間の制限の枠内に留まります。

 Yet it paves the way for the return of timelessness and love’s awakening, for fear must slip away under the gentle remedy it gives.
 とはいえ、奇跡は、時間のない永遠を回復し、愛を目覚めさせるための道ならしをします。というのも、奇跡に優しい治療を施されれば、恐れは必ず滑るように消え去ってしまうからです。



2. A miracle contains the gift of grace, for it is given and received as one.
 奇跡には、神の恵みが贈り物として含まれています。というのも、奇跡はひとつのものとして与えられ、そして、受け取られるからです。

 And thus it illustrates the law of truth the world does not obey, because it fails entirely to understand its ways.
 このようにして、奇跡は、真理の法がどのように作用するのかまったく理解することができないがゆえにこの世界が従ってはいない真理の法を示します。

 A miracle inverts perception which was upside-down before, and thus it ends the strange distortions that were manifest.
 奇跡は、以前には、上下が逆転していた知覚をひっくり返します。そうして、奇跡は、それまで発現していた異常な歪曲を終わらせます。

 Now is perception open to the truth.
 いまや、知覚は真理に対して開かれることになります。

 Now is forgiveness seen as justified.
 いまや、赦しは当然のことと見られるようになります。



3. Forgiveness is the home of miracles.
 赦しが、奇跡を生み出します。

 The eyes of Christ deliver them to all they look upon in mercy and in love.
 キリストの目は、自らが思いやりと愛をこめて見るものすべてに奇跡をもたらします。

 Perception stands corrected in His sight, and what was meant to curse has come to bless.
 キリストの視界の中で知覚は修正されるので、呪いを意図していたものが祝福するようになります。

 Each lily of forgiveness offers all the world the silent miracle of love.
 赦しの百合の一本いっぽんが、全世界に、静かな愛の奇跡を差し延べます。

 And each is laid before the Word of God upon the universal altar to Creator and creation, in the Light of perfect purity and endless joy.
 そして、奇跡の百合の一本いっぽんが、完璧な清らかさと終わりのない喜びの大いなる光の中で、創造主と創造物を祀る万物が共有する祭壇の上の神の大いなる言葉の前に供えられます。



4. The miracle is taken first on faith, because to ask for it implies the mind has been made ready to conceive of what it cannot see and does not understand.
 奇跡は、最初は、信頼することから始まります。なぜなら、奇跡を求めることは、その心が自分には見ることができないものや理解していないものを思い描く準備がすでに整っていることを暗に示しているからです。

 Yet faith will bring its witnesses to show that what it rested on is really there.
 そこで、信頼することによって、奇跡の依拠するものが本当に存在すると示す証拠がもたらされるでしょう。

 And thus the miracle will justify your faith in it, and show it rested on a world more real than what you saw before; a world redeemed from what you thought you saw.
 こうして、奇跡は、あなたが奇跡を信頼することの正しさを裏づけるようになります。そして、奇跡は、あなたが以前に見ていた世界よりも確かな世界、自分が見ているとあなたが思いこんでいたものから救われた世界にその基盤を置いていることを示します。



5. Miracles fall like drops of healing rain from Heaven on a dry and dusty world, where starved and thirsty creatures came to die.
 奇跡は、飢えて渇きを覚える生き物たちが訪れては死んでゆく乾燥した埃だらけの世界に、天から降り注ぐ癒しの雨粒のようなものです。

 Now they have water.
 いまや、飢えた者たちは水を得ました。

 Now the world is green.
 いまや、その世界は緑に覆われています。

 And everywhere the signs of life spring up, to show that what is born can never die, for what has life has immortality.
 そして、あらゆるところに生命の印が芽吹いて、生まれたものが死ぬことは決してありえないことを示してくれます。というのも、生命を持つものは不滅性を備えているからです。




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 松山 健 Matsuyama Ken
この記事を書いた人:  松山 健 Matsuyama Ken

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