T18-7 何もしなくていい
すべての世界はすでに、聖なる父の中に抱かれている。その思考があなたと言う存在である。それは「あなたの本質」である。
「それゆえ、完全でありなさい、何ひとつ欠くことなく」
その完全さとは、あなたそのものだから。
そうあることに、実際何の努力も必要ない。
エゴにとって、これはまったくの困惑である。
エゴは、何をする必要もないということをまったく理解することができない。
鍵はすでにあなたに渡してある。
このことについてよく考えてみなさい。

イエス・キリスト(マーク・ハマー著「イェシュアの手紙」208ページ)
Try something different – surrender.
ちょっと違ったふうにやってごらん。がんばらずに降参するんだ。

Rumi
ルーミー
あなたの救済のために、あなたは何ひとつすることはできません。つまり、あなたが何やかやをすれば、それはすべて、そこにあるものを発見する邪魔になるのです。救済はもうそこにあります。あなたはもう救われているのです。私から、あるいは兄弟から、あるいは何処かの境界やシナゴーグから、救済を買い取る必要はありません。
あなたが赦しを実習するのは、救済を買い取るためではなく、赦しの実習が、今ここにある救済を体験させてくれるからです。贈り物として来るものを受け入れるということを学ぶだけです。それは、神にゴマをするためではなく、受け入れれば、この状況にはどこにもまずいところはないこと、いえ、今までもなかったのだということがわかるからです。

イエス・キリスト(ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」より)
Muddy water is best cleared by leaving it alone.
泥水を清く澄んだ状態にする最善の方法は、泥水を放っておくことだ。

Alan Watts
アラン・ワッツ
It is truth that liberates, not your effort to be free.
あなたが自由になろうと努力することによってではなく、真理によって解放されるのだ。

Jiddu Krishnamurti, The First and Last Freedom
ジッドゥ・クリシュナムルティ
老子の言う無為為とは、今、この瞬間の世界の完全さを手放しで受容することなのです。簡単に言えば、今、この瞬間に起こっている状況、物、事、人、出来事、見るもの、聞くものすべてに「イエス」と言うことです。心で完全さを受容しながら行う行為は、すべて無為為の行為となります。すると、無為為によって最大の変化と最高の愛、美、叡智が人生にもたらされます。無為為とは、意識の持ち方(心の在りよう)のシフトです。

丸山修寛(「病気を癒し、人生を好転させる奇跡の魔法ループ」185ページ)

今回は、テキストから、私たちは何もする必要がないということを説明する一節をご紹介します。

私たちの出番がないなんて聞いてないよ!
この節は、贖罪のために、私たちは何もしなくていいと言います。
「え、なんで?」という感じではないでしょうか?
出家して修行するとか山篭りするまでは考えてはいないけど、エゴを取り消すためには、エゴと戦って打ち倒してエゴを消滅させなきゃいけないんじゃないの?
エゴが巧妙に罠にかけようと誘惑して、罪悪感を抱かせようとすることと格闘せざるをえないし、そのためには、瞑想したりしないといけないんじゃないの?と。
でも、エゴやその味方を敵視して戦いを挑むことは、本当は存在しないものをあるものとして格上げして、今ではない将来に、勝利のときがやってくることを目指すことになります。
「You cannot prepare for it without placing it in the future.
あなたは神聖な瞬間を未来に置くことなくして、神聖な瞬間の準備をすることはできません。
Release is given you the instant you desire it.
解放は、あなたがそれを強く望んだ瞬間に与えられるものです。」
私たちがエゴを抹殺しようと躍起になるほどエゴは小躍りして喜ぶ
何かを積極的にしなければ贖罪を完了できない、覚醒を得られないという発想自体がそれを遠ざけてしまうということです(レッスン93「光と喜びと平安が私の中にある」)。
憧れの異性が実はありのままの自分を好きでいてくれたのに、もっと美しい容姿でなければ、今の性格を変えなければ自分なんか好きになってもらえないとひとり決めしてそれを固く信じて美容整形を受けたり、色んなセミナーに通ったりコーチを雇ったりして、世間的に誰も文句をつけないはずの理想の人物に自分を仕立て上げたと思って自信満々で告白したら、元のあなたのほうがよかったとあっさり振られてしまうということがあります。
客観的にこの人がやったことは、自分から望む状況を遠ざけて破滅することです(その後、世間的によしとされる容姿や人当たりのよさを身につけたこの人は、以前よりもずっとモテるようにはなるでしょう。けれど、本当の自分に蓋をして仮面を何重にもかぶっている状態のままで表面的な快感をいくら味わっても、仮面の奥底で眠ってしまった魂は、窒息しかけて苦しんでいるはずです。)。
エゴは、エゴを抹殺しようと私たちが躍起になればなるほど、裏で舌を出しながら、小躍りして喜ぶことでしょう。
何もしなくていいというのは、逆説的ではありますが、私たちが、ふたつの自分を抱え、一方の偽の自分に強引にコントロールされている状態にあるために、本当の自分が出てくるように偽の自分に何もさせないという至極当たり前の正しいことすら、私たちには奇異なことに思えてしまうということです。
救いの公式
私たちが瞑想をしたり座禅を組んだり修行して自分を神にふさわしくしようと奮闘することをせず、自分には何もする必要はないと認めた上で、兄弟と一緒になってひとつに結びつくことがこのコースが時間節約のために用いる特別な手段だといいます(救いの公式)。
私たちは、本当は、神に創造されたままの姿で存在し、すでに完全であり、何も欠けるところが無い存在であるとすれば、それをありのまま認めることだけが必要なことだということになります。
そして、その本来の自然な状態に気づくためには、兄弟とひとつに結びつくこと(そもそも分離しておらずひとつであると気づくこと)が必要なだけだということです。
しかし、私たちは、兄弟たちと身体という塀で隔てられていて、身体を重視しているかぎり、この分離を乗り越えてひとつになることを難しく感じます。
そして、何かをするには身体を必要とするので、自分には何かをする必要があるという観点を持つかぎり、分離の象徴としての身体の重要性を退けることは困難です。
聖霊にすべて任せきったのだから、自分には何もする必要はないと決意するということです。

テキスト 第十八章
VII. I Need Do Nothing
七 私は何もする必要はない
1. You still have too much faith in the body as a source of strength.
あなたは今もなお、力の源泉として肉体に過大な信仰心を抱いています。
What plans do you make that do not involve its comfort or protection or enjoyment in some way?
あなたが立てる計画で、身体を快適にしたり、身体を保護したり、身体に快楽を与えたりすることに少しも関連しないものがあるでしょうか。
This makes the body an end and not a means in your interpretation, and this always means you still find sin attractive.
つまりあなたは、身体は手段ではなく目的だと解釈しているのであり、このことはつねに、あなたが依然として罪に魅力を感じていることを意味します。
No one accepts Atonement for himself who still accepts sin as his goal.
罪を自分の目標にしているかぎり、誰も自分自身のために贖罪を受け入れることはありません。
You have thus not met your one responsibility.
したがって、あなたは自らの唯一の責任を果していないことになります。
Atonement is not welcomed by those who prefer pain and destruction.
苦痛や破壊を好む者が、贖罪を喜んで受け入れるはずがないからです。
2. There is one thing that you have never done; you have not utterly forgotten the body.
あなたがかつて一度もやったためしのないことがひとつあります。それは、あなたはこれまで身体を完全に忘れ去ったことはないということです。
It has perhaps faded at times from your sight, but it has not yet completely disappeared.
ときには、身体があなたの視界から見えなくなることはあったかもしれませんが、身体が完全に消え去ったことはまだありません。
You are not asked to let this happen for more than an instant, yet it is in this instant that the miracle of Atonement happens.
あなたに求められているのは、ほんの一瞬だけ身体を完全に忘却することが起こるようにさせることだけです。それでも、まさにこの一瞬において贖罪という奇跡が起こるのです。
Afterwards you will see the body again, but never quite the same.
そのあとで、あなたは再び身体を見ることになりますが、決してそれまでとまったく同じように見ることはありません。
And every instant that you spend without awareness of it gives you a different view of it when you return.
そして、あなたが身体を意識しない一瞬を過ごすたびに、あなたの意識が身体に戻るとき、その一瞬があなたにそれまでとは違った見方で身体を見せてくれるようになります。

3. At no single instant does the body exist at all.
ただの一瞬たりとも、身体はまったく存在していません。
It is always remembered or anticipated, but never experienced just now.
身体はつねに想起されるか予期されるかであって、決して、まさに今この瞬間において経験されることはありません。
Only its past and future make it seem real.
身体が実在するように思わせているのは、身体の過去や未来だけです。
Time controls it entirely, for sin is never wholly in the present.
時間が身体を完全に支配しています。というのも、罪が完全に現在にあることは決してないからです。
In any single instant the attraction of guilt would be experienced as pain and nothing else, and would be avoided.
いかなる一瞬であれ、その瞬間においては、罪悪感に引きつけられることは苦痛としてしか体験されないので、罪悪感の魅力は避けられるようになります。
It has no attraction now.
罪悪感は、今、何の魅力も持ってはいないからです。
Its whole attraction is imaginary, and therefore must be thought of in the past or in the future.
罪悪感の魅力はすべて想像上のものにすぎず、したがって、それは過去または未来のことを思考することであるに違いありません。

4. It is impossible to accept the holy instant without reservation unless, just for an instant, you are willing to see no past or future.
あなたがほんの一瞬でも過去も未来も見ないでいようとする意欲を持たないかぎり、心置きなく無条件に神聖な瞬間を受け入れることは不可能です。
You cannot prepare for it without placing it in the future.
あなたが神聖な瞬間のために準備しようとするなら、どうしても神聖な瞬間を未来に位置づけることになってしまいます。
Release is given you the instant you desire it.
しかし、解放は、あなたがそれを強く望んだ瞬間に与えられるものです。
Many have spent a lifetime in preparation, and have indeed achieved their instants of success.
数多くの者たちが準備のために一生を費やし、実際に成功の瞬間を達成してきました。
This course does not attempt to teach more than they learned in time, but it does aim at saving time.
このコースは、彼らが時間の中で習得した以上のことを教えようとしているわけではありません。けれども、このコースは、同じことを習得するためにかかる時間を節約することに狙いを定めているのは確かです。
You may be attempting to follow a very long road to the goal you have accepted.
あなたは、自らの受け入れた目標に向かって、とても長い道のりを辿るつもりでいるのかもしれません。
It is extremely difficult to reach Atonement by fighting against sin.
罪に対して戦いを挑むことによって贖罪に到達するのは、困難きわまりないことです。
Nor is a lifetime of contemplation and long periods of meditation aimed at detachment from the body necessary.
また、肉体からの解脱を目指して、生涯を沈思黙考に明け暮れることも、長期間に亘って瞑想に耽ることも必要ありません。
All such attempts will ultimately succeed because of their purpose.
そのような試みはどれも、その目的のゆえに、いつかは成功するでしょう。
Yet the means are tedious and very time consuming, for all of them look to the future for release from a state of present unworthiness and inadequacy.
しかし、その手段は退屈であるばかりか非常に時間を浪費するものとなります。というのも、そのような試みはどれもすべて、現在の自分が力不足で無価値だという心境からの解放を求めて未来に目を向けて期待するものだからです。

5. Your way will be different, not in purpose but in means.
あなたの道は、その目的は変わらなくても、その手段において異なったものになるでしょう。
A holy relationship is a means of saving time.
神聖な関係は時間を省く手段だからです。
One instant spent together restores the universe to both of you.
あなたたちが一緒に過ごす瞬間が、全宇宙をあなたたちふたりへと戻してくれます。
You are prepared.
あなたには、その準備ができています。
Now you need but to remember you need do nothing.
今あなたに必要なのは、ただ自分は何もする必要がないと覚えておくことだけです。
It would be far more profitable now merely to concentrate on this than to consider what you should do.
今は、自分が何をすべきかあれこれ考えるよりも、ただ自分は何もしなくていいという考えに意識を集中するほうがずっと有益なはずです。
When peace comes at last to those who wrestle with temptation and fight against the giving in to sin; when the light comes at last into the mind given to contemplation; or when the goal is finally achieved by anyone, it always comes with just one happy realization; "I need do nothing."
誘惑に負けないようにあがき、罪に屈しないように戦う者の許にようやく平安が訪れるとき、瞑想に耽る心についに光が射し込むとき、誰かが目標をついに達成するとき、それはつねに、ただ次のただひとつの喜ばしい気づきとともにやってきます。それは「私は何もしなくていいのだ」という気づきです。
6. Here is the ultimate release which everyone will one day find in his own way, at his own time.
ここにこそ、誰もがいつの日にかその人なりの方法で、その人なりに時間をかけて見出すことになる究極的な解放があります。
You do not need this time.
とはいえ、あなたは、こうした時間をかける必要はありません。
Time has been saved for you because you and your brother are together.
あなたと兄弟が一緒になったので、時間はすでに、あなたたちのために短縮されたからです。
This is the special means this course is using to save you time.
あなたと兄弟が一緒になることこそ、このコースが、あなたたちの時間を節約するために用いる特別な手段です。
You are not making use of the course if you insist on using means which have served others well, neglecting what was made for you.
もしあなたが、自分のために用意されたものを放り出して、ほかの人たちの役に立った手段のほうを使うことに固執するなら、あなたはこのコースを活用できていないことになります。
Save time for me by only this one preparation, and practice doing nothing else.
この唯一の準備だけを整えて、そのほかには何もしないことを実践することによって、私のために時間を短縮してください。
"I need do nothing" is a statement of allegiance, a truly undivided loyalty.
「私は何もする必要はない」というのは、献身を誓う声明であり、真に分裂していない忠誠心を意味します。
Believe it for just one instant, and you will accomplish more than is given to a century of contemplation, or of struggle against temptation.
ほんの一瞬でいいので、自分には何もする必要がないと信じてください。そうすれば、あなたは一世紀にも及ぶ瞑想や誘惑との苦闘に優ることを成し遂げるでしょう。

7. To do anything involves the body.
何かをするためには、身体が必要です。
And if you recognize you need do nothing, you have withdrawn the body's value from your mind.
だから、もしあなたが自分は何もする必要がないと認めるなら、あなたは自分の心から身体の重要性を退けたことになります。
Here is the quick and open door through which you slip past centuries of effort, and escape from time.
ここに開かれた扉がすぐ手の届くところにあります。あなたはその扉を通って何世紀もの努力を滑るようにすり抜け、時間から脱出できます。
This is the way in which sin loses all attraction right now.
これが、罪が今すぐにすべての魅力を喪失する道です。
For here is time denied, and past and future gone.
というのは、この道では、時間は否定されるので、過去も未来も去っているからです。
Who needs do nothing has no need for time.
何もする必要のない者には、時間は必要ありません。
To do nothing is to rest, and make a place within you where the activity of the body ceases to demand attention.
何もしないことは安らぐことであり、自分の中に、身体の活動が注意を喚起しなくなる場所を作ることです。
Into this place the Holy Spirit comes, and there abides.
この場所の中へと聖霊が到来し、そこに留まってくれます。
He will remain when you forget, and the body's activities return to occupy your conscious mind.
あなたが聖霊の存在を忘れ、そして、身体の活動が再びあなたの意識を占めるようになったときでも、聖霊はその場所にそのまま留まってくれるでしょう。
8. Yet there will always be this place of rest to which you can return.
この休息の場所は、これからずっとそこにあり続け、あなたはいつでもそこに戻ることができます。
And you will be more aware of this quiet center of the storm than all its raging activity.
だから、あなたは嵐のような身体の激しい活動のすべてよりも、その嵐の中のこの静かな中心をより自覚するようになるでしょう。
This quiet center, in which you do nothing, will remain with you, giving you rest in the midst of every busy doing on which you are sent.
その中であなたが何もしない、この静かな中心はあなたとともに留まり、あなたが送りこまれるどんな慌しい活動のただ中にあっても、あなたに安らぎを与えてくれるでしょう。
For from this center will you be directed how to use the body sinlessly.
というのも、この中心から、あなたはどのように身体を罪なく用いればよいか指示してもらえるようになるからです。
It is this center, from which the body is absent, that will keep it so in your awareness of it.
身体が不在になっているこの中心こそが、あなたが身体を罪のないものとして自覚し続けられるように保ってくれるのです。


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