コントロールを手放す(無条件の愛―キリスト意識を鏡として)


The art of reading and studying consists in remembering the essentials and forgetting what is not essential.
本質的なことだけを覚えておいて、本質的ではないなものはすべて忘れることが、学ぶために読書する際のコツだ。



Adolf Hitler, Mein Kampf
アドルフ・ヒトラー(「我が闘争」)



Of the reading of Holy Scriptures
聖なる書物の読み方について


It is Truth which we must look for in Holy Writ, not cunning of words.
われわれが聖なる書物の中に求めるべきなのは、大いなる真理であって、悪知恵ではない。

All Scripture ought to be read in the spirit in which it was written.
どんな聖典も、その書物が記されたのと同じ境地において読まれるべきである。

We must rather seek for what is profitable in Scripture, than for what ministereth to subtlety in discourse.
われわれは、論述の巧みさに気を取られることなく、聖典の中から役立つ英知を見出すようにすべきなのだ。

Therefore we ought to read books which are devotional and simple, as well as those which are deep and difficult.
それゆえ、われわれは、奥深く難解な書物ばかりでなく、短い祈りや基本的な書物も読むべきである。

And let not the weight of the writer be a stumbling-block to thee, whether he be of little or much learning, but let the love of the pure Truth draw thee to read.
同様に、著者が浅学であれ碩学であれ、著者の権威に惑わされることなく、純粋な真理への愛に引き寄せられるがままに読むようにするがよい。

Ask not, who hath said this or that, but look to what he says.
誰がそう言ったかを尋ねるのではなく、言われたことが何なのか、それに心を向けよ。

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Thomas à Kempis ,The Imitation of Christ chapter V
トマス・ア・ケンピス(中世の神秘思想家。彼の著した信心書『キリストに倣いて』は、聖書に次いで最も読まれた本であるとさえ言われる。 生年月日: 1380年)

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 イエスのような偉大な人たちの意識を見習いなさい。その普遍性を自分のうえにも実現しなさい。神はイエスに、普遍的な全知のキリスト意識をお授けになりました。私が今こうして話していることも、イエスはご存知です。彼は巨大な光として、今ここにいます。その光でこの教会は変貌し、その光の中に、ここにいる人たちがみな包み込まれています。われわれはまるで、神の光の海、キリスト意識の光の海に浮かぶ波のようです。この光――キリストの来臨――を見たとき、あなたがたはこの人生が、神に到達するためにはだれもが通らなければならない試練にすぎなかったことを知るでしょう。サタンの試練も、それを克服してみれば、サタンが単なる神の道具にすぎなかったことがわかります。試練もまた、われわれを神に近づけるための恩恵なのです。このことをよく覚えておきなさい。そして、この地上で何をするにも、神のためにしなさい。

 人は、みな独自の個性を持っています。まったく同じ人などひとりもいません。自分についてこう考えなさい。「私の個性は神からの贈り物だ。私は私であり、ほかのだれでもない。私は、自分に与えられた神聖な個性を誇りにしよう。私は自己を改善して、善良な人格を身につけよう。」と。もしあなたが、今の自分の役割を立派に演じれば、それは、一国の王や女王の役を演じる魂と同じに立派なことです。そして、自分の役割を立派に演じるかぎり、あなたはいつまでも魅力的で、だれからも愛されるでしょう。自分の役割を立派に果たすことは、神のもとへ行くためのパスポートです。

 アブラハム・リンカーンは、この人生という舞台で、その役割をみごとに演じた俳優です。彼は、自分の困難な役割を恐れることなく遂行しました。彼は神のために、そして、人間は平等でなければならないという自己の信念のために働きました。彼が今でも人々の心の中に残り、愛されているのはそのためです。神に奉仕すれば、すべての人々に奉仕したことになります。人を喜ばせるよりも、神を喜ばせようと考えなさい。

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Paramahansa Yogananda
パラマハンサ・ヨガナンダ(「人間の永遠の探求」145ページ)





 かつて存在した最大のヒンドゥー教哲学者であるシャンカラは、ひとりの不可触賤民によって目覚めさせられたと伝えられている。その不可触賤民が彼のグル(師)になったのだ。そのときまで、彼はひとりの大教師、知識の人だった。彼は『ウパニシャッド』や『ブラーフマ・スートラ』や「バガヴァッド・ギータ』について偉大な論文を書いており、ある特定の哲学を提起しつつあるところだった。ヴェーダンタ、アドヴァイト・ヴェーダント――リアリティーは非二元である、ひとつである……。
 そうしたところへ、ある日、ある朝早く、彼がガンジスから帰ってくるところでその出来事が起こった。彼が朝の水浴をすませ、自分の小屋へ帰る階段の途中で、ひとりのスードラ、ひとりの不可触賤民が彼の身体に触れた。彼は腹を立てるとこう言った。
 「お前は私の水浴を台なしにしてしまった。私はもう一度行って自分を浄めなくてはならないじゃないか」
 そのスードラは言う。
 「ちょっとお待ちください。私はあなたにお尋ねしたい。もしただひとつの存在しかないとしたら、もし全存在がひとつだとしたら、どうして私とあなたが存在することなどできましょう? どうしてあなたが、私の触れたことによって不浄になることなどあり得ましょう? 誰があなたに触れたのです? 誰が誰に触れたというのですか?」
 あたかも深~い眠りから、知識の人間の眠り――それは最大の眠りのひとつだ。それはほとんど昏睡と言ってもいい――から覚めるように、シャンカラは目を覚ました。
 すると、その男は重ねてこう尋ねた。
 「どうお考えですか? 私の肉体があなたに触れたのでしょうか? それとも私の魂が触れたのでしょうか? 私の肉体があなたの肉体に触れたのですか? あるいは私の肉体があなたの魂に触れたのですか? あなたは肉体というのが異なると思うのですか? あなたの体、バラモンの体は純粋……。そして私の体、スードラの体は不純……。あなたは、肉体が成り立っているところの五大要素が、バラモンとスードラ、不可触賤民で違うと思いますか? あなたは、もし私の体があなたに触れたなら、それはあなたの魂にまで触れ、それを不純にしてしまったと考えるのですか? それとも、私の魂があなたに触れたのでしょうか? あなたは魂までが不可触賤民、スードラであり得ると言えるのですか?」
 ほんの短い会話……。それで、全生涯がひっくり返ってしまった。シャンカラは、とうとう二度とふたたび水浴に行かずじまいだった。
 彼はそのスードラに敬意を表するとこう言った。
 「あなたは私のグルです。あなたは私を、私の眠りから覚ましてくださいました。〈ひとつ〉であるところのものについて語ってはいましたが、私はそれを知らなかったのです」
 もし本当にひとりの賢者が存在したならば、彼はあなたの目には、自由に交わる濁り水のように見えることだろう。なぜならば、彼にとって誰ひとり純粋な者もいなければ、誰ひとり不純な者もいないからだ。知恵の人というのは、けっして彼が純粋で、あなた方は不純だなどとは思わない。



OSHO(「TAO 老子の道(上)」231ページ)

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The person you consider ignorant and insignificant is the one who came from God, that he might learn bliss from grief and knowledge from gloom.
あなたが無知で取るに足らないと思う人物こそ、深い悲嘆から至福を、暗い憂鬱から英知を学べるようにと神から遣わされた人なのだ。

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Kahlil Gibran
ハリール・ジブラーン

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偏見を持つな。
相手が幕臣であろうと乞食であろうと、教えを受けるべき人間なら俺は受けるわい。



坂本龍馬



賢者は、愚か者が賢者から学ぶより多くのことを、愚か者から学ぶ。



Mārcus Porcius Catō Cēnsōrius
マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト 紀元前234年 - 紀元前149年 共和政ローマ中期の政務官。清廉で弁舌に優れ、執政官(コンスル)、監察官(ケンソル)を務めた。曾孫のマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(小カト)と区別するため、「大カト(ラテン語: Cato maior)」とも称される。)









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イエス・キリスト(Paul Ferrini ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」)

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何もしなくていいに関連するので、「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」(ポール・フェリーニ著 井辻朱美訳 ナチュラルスピリット)から「はじめに」をご紹介します。



このサイトの各記事の冒頭でよく引用している本です。

奇跡のコースは、マインドに働きかける知的なアプローチを用いているだけに、愛そのものであるイェシュアの優しさを垣間見ることはもちろんちょこちょこありますが、どうしてもドライでロジカルな文章になりがちです。

これに対して、この本ではイェシュアはハートに直接語りかけており、イェシュアの語りは本当に優しく愛に満ちていて、読者を温かく包み込んで癒してくれます。

当然、コースの学びを助ける効果は絶大なので、ぜひお手許に一冊置いておいていただきたい本です。


英語版は、kindleオーディブル版もあります。

ポール・フェリーニさんの他の著作の多くは、英語版であれば、Kindle版をキンドル・アンリミテッドで読めます。



聖霊はあらゆるものを通じて私たちにメッセージを届けることができる

イェシュアは言います。「その意志のある人ならば、だれを通じても、わたしは語りかけることができます。」と。

神の声は、あらゆるものを通してその声に耳を貸そうとする人に届きます。

別に、聖なる書物を通じてしか神は私たちに語ることができないわけではありません。

聖霊の手にかかれば、エゴが幻想を存続させるために利用するあらゆる手立てが学びの道具に転化させられます。

私たちは、どうしてもランク付けしたいし、どこかの権威からお墨付きを得て安心したいという依頼心があります。

このサイトの各記事の冒頭では、記事の参考になるような偉人たちの格言、名言、書籍等からの言葉の抜粋を挙げていますが、その引用句が誰の言葉なのかは、文章が終わったあとに記す体裁にしています。

ですので、長文の抜粋の場合は、読み終えるまで誰の言葉なのか知りたくなって落ち着かないということもあるでしょう。


その言葉が真理を語るなら、誰の口が語るかによって、その言葉の価値が変わるはずがない

それがイエス・キリストやマザー・テレサの言葉だとわかって読むときには、自然とオープン・マインドになって、言葉が心に染み入るのに、同じ趣旨の言葉がマイク・タイソンさんやガッツ石松さんの言葉だと心の間口で弾かれて響かない、まだアノニマス、作者不詳となっていたほうがすんなり心に入ってくるという人も決して少なくないはずです。

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みんなが権威を感じる聖者の言葉とまったく同じ真理を自分が権威を感じないほかの人の口から聞いたら、その言葉の価値が下がるという不可思議な現象が起こるわけです。当然、ヒトラーや凶悪犯罪者などの語った言葉だとわかると、その言葉がまさしく真理を告げていても、私たちは素直に受け入れることができなくなります。

世の常識からすれば、これは当然かもしれませんが、奇跡のコースを学ぶ私たちがこんな常識的な発想に毒されたままだとしたら、学習がまったく進んでいないことを恥じるべきかもしれません。

というのも、コースが教えてくれるように、世界が幻想であるなら、善悪、賢愚、美醜等の差異にかかわらず、世界を構成するすべての存在を通じて神は自らの声を伝えられるはずだからです。


聖者や賢者よりも凡人や悪人、道化者、悪魔の言葉から真理のメッセージを受け取れたときの気づきのほうがより大きなこともある

それが「悪魔」であろうと「聖者」であろうと、この世界においては一個の幻想にすぎないという点では等しいものであり、聖霊は、その人にとって悪魔を介してメッセージを伝えることが適切ならば、そうするでしょう。

一見、みすぼらしいホームレスの姿をした兄弟を通じて届いたメッセージであってこそ、ある人にとっては、それまで人に貴賎があるとの思いに縛られていたりした場合、それを受け入れることができたときの気づきが、権威ある大立者を通じてメッセージを受け取る場合よりも大きなものになるということはありそうなことです。

ですから、その人が意志するなら、聖霊は、あらゆる存在を通じて私たちに語りかけてくれます。

それは、人物であったり、書物であったり、映画であったり、音楽であったり、絵画であったり、偶然のできごとであったり、心の中の声であったりするでしょう。

それは、天啓のような光り輝くひらめきのこともあれば、慶事であることもあるし、逆に、病気や怪我、事件や事故等の不遇であったり、ときに平凡な日常のできごとの場合もあるでしょう。

究極的には、私たちの心次第で、人生に起こるすべての出来事、訪れる人や物事のすべてが奇跡であり、神からのメッセージであることに気づくことができるのでしょう。



偶然とは、神が実名を明かしたくないときに用いるペンネームだ

Coincidence is God's way of remaining anonymous.
シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)は、神が匿名性を維持する方法だ。



Albert Einstein
アルベルト・アインシュタイン







Paulo Coelho
パウロ・コエーリョ

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パウロ・コエーリョさんの「アルケミスト」の冒頭で、少年サンチャゴとメルキゼデックの会話で、メルキゼデックは、自分の宝物を求める者を助けるために、あるときはある人物の姿をとり、あるときは、別の姿となって、メッセージを伝える、あるとき、宝石を発掘していた男があともう一堀りしさえすればたどり着くというところで絶望しかけたときには、自分は石ころになって、男の前に転がり、絶望の怒りで男が石を壁に投げつけて、割れた壁から、宝石がのぞくようにして助けたりもしたという話をします。

ヴァジム・ゼランドさんのリアリティ・トランサーフィンで「偶然とは、神が実名を明かしたくないときに用いるペンネームだ」という言葉が出てきます。



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ヴァジム・ゼランド

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この寓意を伝えようとするたとえ話はたくさんありますが、単純に考えて、小説家が、自分の書いている物語の中の主人公が苦境に立っている場面で、助けとなるメッセージを彼に伝えたいときに、自分が「神」として天から登場して、主人公の前に降り立って、汝に尊いメッセージを授けよう、なんてやったのでは、せっかくの物語が台無しです。




ミヒャエル・エンデは「遠い旅路の目的地」で、神が人類との約束を果たそうと急に思い立って、空からエルサレムを天下らせて最後の審判を執り行うようなことをしたら「宇宙的規模の赤恥以外のなにものでもない」と皮肉たっぷりに語っています(T30-3 あらゆる偶像を越えて)。

デウス・エクス・マキナ(古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在(神)が現れ、混乱した状況に一石を投じて解決に導き、物語を収束させるという手法)や夢オチは、無粋の極みであり、小説家は物語の中の登場人物や状況をうまく使って自分の伝えたいメッセージを主人公に伝えることでしょう。

イェシュアも、私たちに意欲さえあれば、聖書やACIMからしか語ってくれないわけではありません。

それは、友人の何気ない一言であったり、ふらりと入った本屋さんで手に取った本の一文であったり、自分の敵だと思っている誰かの気になる一言であったり、頭痛がしたり鳥の糞が頭に落ちてきたりという出来事だったりするかもしれません。


純粋さ至上主義は不純さに対する排除志向につながりかねない

さて、奇跡のコースの学びには、コースを崇拝してほかの考え方を寄せ付けにくくさせるような誘惑がいろいろと付いて回ります。

まず、イエスが語ったという触れ込みだけでも十分にACIMという独自の思考体系を最も神聖な道として奉りたくなるものですし、それ以外にもコースを奉って信仰したくなるポイントはいくらでもあります。


たとえば、奇跡のコースは「純粋」非二元論と呼称され、世にあまたある非二元論とは一線を画す真のノン・デュアリティーの教えだという点にコースの意義を見出す学習者は多いようです。

たしかに、世界を創造したのは神と位置づける発想が出発点となるヴェーダーンタ等の考え方に対して、神の子が分離幻想を抱く狂気に陥って、誤創造によって生み出されたのがこの幻想世界だと位置付けるコースは、世界は幻想という同じ主張でありながらも、神のみがあり、神は幻想世界に関わらないという非二元性について、とても座りよく一なる実在と無である幻想を整理してみせる見事な独特の体系であるのは事実です。

この独自の体系には大いなる効用があります。

それは、神を世界の創造者と位置づけるほかの非二元の考えでは、どうしても、自分とは隔絶した「他者」として意識してしまう神との合一へのハードルは高く、世界の悪については創造者である神に責任を押しつける発想になりがちなのに対して、純粋非二元の考えでは、世界は狂った神の子が作り出したものと位置づけるので、投影によって神に責任転嫁できず、狂気に陥った自分の責任として引き受けて狂気の幻想から脱して正気に戻って本当の自分になければならないという発想になるので、神(=神の子)との合一へのハードルを下げるということです。

この体系が学びを促進する効用は決して小さなものではありません。

しかし、ヴェーダーンタ思想の核はウパニシャッドの梵我一如の思想であり、結局のところ、純粋非二元論も非二元論も、説明の仕方が違うだけで究極は同じことを語っているだけです。

この点で、コースはほかの非二元論に比べて純粋だと捉え、そこに学びの意義を見出すことは、たとえそれが事実だとしても、コースを真に崇高な至聖なる教えだと位置づける発想、無意識ながら、ほかの道を見下して排除する志向性につながりかねないように感じます。

冒頭のOSHOの話のように、光と闇が織りなす幻想世界では、闇である不純物を無視して光である純粋さだけを追い求めすぎると、「水清ければ魚棲まず」のことわざのとおり、かえって生命を見失う結果になりかねないでしょう。

自らの語った奇跡のコースの学習者たちがコースを信奉し、唯一のありがたい御教えであるとして奉って覚えこもうとするのを見て、イェシュアが満足して喜ぶと思うでしょうか。

そのような学習スタンスでは、正しいACIMの解釈を追求することになり、正しい解釈について議論し、自分の信じる正しい解釈に閉じこもって間違った解釈を除外・攻撃する狭量な思考に堕し、考え方の相違によって分派、セクト化するばかりで、結局、分離を助長することにしかならないので、きっと2000年前と同じ繰り返しになることをイェシュアは残念に思うことでしょう。

イェシュアが求めているのは、弟子である私たち学習者が、イェシュアの教えを頭から信心して従うことではなく、正しさよりも幸せを優先して選択し、自他の相違や誤りに対してオープンになり、むしろ間違いや災難を忌避せずに祝福の種として歓迎する度量の広さを身につけて、イェシュア自身と同じように自分で聖霊に従って生きられるようになることのはずです。

それは、自分の頭で考え、自分の心で感じ、自分の意図に従って行動し、それが聖霊の声と一致するよう自分の魂に忠実に生きることではないでしょうか。

奇跡のコースを経典のように墨守して思考停止してしまって、自分の心では何も感じられず、自分の外に権威となるコースの解釈を求め、その手引きとなる参考書やメンターがコースは内心の事柄しか関わらないと教えたら、自分がなすべきと思う行動すらできなくなり、といった具合で魂を外に出してあげるどころか自分の奥深くに幽閉するような学び方をするなら、イェシュアのように生きることから遠ざかるばかりでしょう。

目指すところはアンラーンであり、愛だけが実在することへの自覚を妨げる障害の除去に役立ちさえするなら、それが奇跡のコースだろうが、ヴェーダーンタであろうが、果ては二元論や唯物論であろうがすべてを受け入れて活用すべきという発想になるはずです。

イェシュアは、私たちに自分と同じように愛を生きるようになってほしいと、愛に至るための道具として、奇跡のコースを与えてくれたのであり、愛を置いてけぼりにして、道具でしかないコースを奉り、ほかの道を排したり見下したりといったスタンスは、キリストに倣って生きる生き方からは離れてしまうのではないでしょうか。

コースが"a course"と名乗って自分以外のほかの考え方を排除したりせずに尊重することを肝に銘じて、コース信者にならないように気をつけましょう!


遠藤周作著「沈黙」の一節を抜粋します。



「私の弱さ」司祭は首をふったが自信がなかった。「そうじゃない。私はあの人たちの救いを信じていたからだ」

「お前は彼等より自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが怖ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが怖ろしいからだ」そこまで怒ったように一気に言ったフェレイラの声が次第に弱くなって、「わしだってそうだった。あの真暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら」

 フェレイラは一瞬、沈黙を守ったが、すぐはっきりと力強く言った。

「たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう」

 夜が少しずつあけはじめてきた。今まで闇の塊だったこの囲いにもほの白い光がかすかに差しはじめた。

「基督は、人々のために、たしかに転んだだろう」

「そんなことはない」司祭は手で顔を覆って指の間からひきしぼるような声を出した。「そんなことはない」

「基督は転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」

「これ以上、わたしを苦しめないでくれ。去ってくれ。遠くに行ってくれ」
 司祭は大声で泣いていた。閂が鈍い音をたててはずれ、戸が開く。そして開いた戸から白い朝の光が流れこんだ。

「さあ」フェレイラはやさしく司祭の肩に手をかけて言った。「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ」

・・・・

「さあ」とフェレイラが言った。「勇気をだして」

 主よ。長い長い間、私は数えきれぬほど、あなたの顔を考えました。特にこの日本に来てから幾十回、私はそうしたことでしょう。トモギの山にかくれている時、海を小舟で渡った時、山中を放浪した時、あの牢舎での夜。あなたの祈られている顔を祈るたびに考え、あなたが祝福している顔を孤独な時思いだし、あなたが十字架を背負われた顔を捕われた日に甦らせ、そしてそのお顔は我が魂にふかく刻みこまれ、この世で最も美しいもの、最も高貴なものとなって私の心に生きていました。それを、今、私はこの足で踏もうとする。

 黎明のほのかな光。光はむき出しになった司祭の鶏のような首と鎖骨の浮いた肩にさした。司祭は両手で踏絵をもちあげ、顔に近づけた。人々の多くの足に踏まれたその顔に自分の顔を押しあてたかった。踏絵のなかのあの人は多くの人間に踏まれたために摩滅し、凹んだまま司祭を悲しげな眼差しで見つめている。その眼からはまさにひとしずく涙がこぼれそうだった。

「ああ」と司祭は震えた。「痛い」

「ほんの形だけのことだ。形などどうでもいいことではないか」通辞は興奮し、せいていた。「形だけ踏めばよいことだ」

 司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。

 こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。



遠藤周作(「沈黙」より)

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私たちが自分で何かをしなければならないというコントロールを手放す程度に応じて、聖霊は私たちに語りかけることができる ~ コースの関連個所の抜粋

さて、「無条件の愛」の「はじめに」で、イェシュアは、私たちが自分で何かをしなければならないというコントロールを手放す程度に応じて、聖霊は私たちに語りかけることができるようになると語ってくれています。

まず、テキストから、関連箇所を抜粋します。

「3. It is pointless to believe that controlling the outcome of mis-thought can result in healing.
 誤った思考に基づく成り行きをコントロールすることによって、結果として癒しを実現できるなどと信じても、それは無意味なことです。

 When you are fearful, you have chosen wrongly.
 あなたが恐れを感じるとき、あなたはすでに間違って選んでしまっているのです。

 That is why you feel responsible for it.
 それなのに、誤った思考の成り行きをコントロールできると信じているがゆえに、あなたは自分の誤った選択の結果として癒しが実現しないことについて、責任を感じるのです。

 You must change your mind, not your behaviour, and this is a matter of willingness.
 あなたは自分の振る舞いではなく、自分の心を変えなければならないのです。そして、これは意欲の問題です。

 You do not need guidance except at the mind level.
 心のレベル以外においては、あなたには導きなど必要ないのです。

 Correction belongs only at the level where change is possible.
 修正がふさわしいのは、ただ変更が可能なレベルにおいてだけです。

 Change does not mean anything at the symptom level, where it cannot work.
 修正が作用できない、症状として表われるレベルにおける変化になど何の意味もないのです。」(テキスト 第二章 VI.Fear and Conflict  六 恐れと葛藤)


「7. I have already briefly spoken about readiness, but some additional points might be helpful here.
私は既に、準備ができているとはどういうことか、手短に述べたことがありますが、それにいくつかの要点を補足すれば、ここで役に立つかもしれません。

 Readiness is only the prerequisite for accomplishment.
 準備ができていることは、何かを成し遂げるための前提条件にすぎません。

 The two should not be confused.
 この準備と成就のふたつを混同してはなりません。

 As soon as a state of readiness occurs, there is usually some degree of desire to accomplish, but it is by no means necessarily undivided.
 準備ができ次第、成し遂げたいと望む気持ちをある程度持つのが普通です。しかし、それは必ずしも、準備と成就が絶対に分割できないという意味ではありません。

 The state does not imply more than a potential for a change of mind.
 準備のできた状態は、心が変化する可能性があるという意味を含んでいるにすぎません。

 Confidence cannot develop fully until mastery has been accomplished.
 何事も、習得しようとすることに習熟して、それを会得するまでは、十分な確信を持てるものではありません。

 We have already attempted to correct the fundamental error that fear can be mastered, and have emphasised that the only real mastery is through love.
 私たちは既に、恐れを力で制圧しうるなどという根本的な誤りを正す試みをしました。そして、愛を通じてしか真の統御は会得できないということも強調しておきました。


 Readiness is only be beginning of confidence.
 準備ができたことは、確信を得るためのほんの皮切りにすぎないのです。

 You may think this implies that an enormous amount of time is necessary between readiness and mastery, but let me remind you that time and space are under my control.
 こう言うとあなたは、準備ができたときから真の統御を会得するまでには、途轍もなく長い時間が必要だと仄めかしているように思うかも知れません。しかし、あなたに思い出して欲しいことがあります。それは、時間と空間はこの私のコントロールの下にあるということです。」(テキスト第二章 VII.Cause and Effect  七 原因と結果)


「3. You have very little trust in me as yet, but it will increase as you turn more and more often to me instead of to your ego for guidance.
今はまだ、あなたは私をほとんど信頼してくれてはいません。しかし、あなたが、エゴに指導を仰ぐ代わりに、もっと頻繁に私に指導を仰いでくれるようになれば、それにつれて、あなたの私への信頼は増していくでしょう。

 The results will convince you increasingly that this choice is the only sane one you can make.
 私の導きの結果によって、ますますあなたは、私の指導を仰ぐという選択こそが、自分にできる唯一の正気の選択なのだと納得するようになるはずです。

 No one who learns from experience that one choice brings peace and joy while another brings chaos and disaster needs additional convincing.
 誰であれ、ある選択が安らぎと喜びをもたらし、別の選択が混乱と惨事をもたらすということを経験から学んだ者は、更なる説得など必要としません。

 Learning through rewards is more effective than learning through pain, because pain is an ego illusion, and can never induce more than a temporary effect.
 褒美を通して学ぶ方が苦痛を通して学ぶよりも、より効果的なのです。なぜなら、苦痛はエゴの錯覚であって、決して、その場だけの効果以上のものは引き出せないからです。

 The rewards of God, however, are immediately recognised as eternal.
 しかしながら、神からの褒美は、永遠のものであることがすぐに認識できます。

 Since this recognition is made by you and not the ego, the recognition itself establishes that you and your ego cannot be identical.
 この認識は、エゴではなく、あなたによってなされます。それゆえ、この認識自体が、あなたとあなたのエゴは同一であるはずがないということを確証するのです。

 You may believe that you have already accepted this difference, but you are by no means convinced as yet.
 あなたは、このエゴとあなたの違いを既に理解していると自分では信じているかもしれません。しかし、まだあなたは、決して、あなたとあなたのエゴが同一であるはずがないということを真に確信したとはいえません。

 The fact that you believe you must escape from the ego shows this; but you cannot escape from the ego by humbling it or controlling it or punishing it.
 あなたがエゴから逃れなければならないと信じている事実が、あなたが真にあなたとエゴが同一であるはずがないと確信できていないことを示しています。しかし、あなたは、エゴを卑しめたり、コントロールしたり、懲らしめることによっては、エゴから逃れることはできません。」(テキスト 第四章 VI. The Rewards of God  六 神からの報い)




「5. You have but to ask for this memory, and you will remember.
 あなたは神の記憶だけを求めなければなりません。そうすれば、あなたは神を思い出すことになります。

 Yet the memory of God cannot shine in a mind that has obliterated it and wants to keep it so.
 とはいえ、神の記憶は、それを忘れ去って、そのままにしておきたいと望んでいる心の中には輝くことができません。

 For the memory of God can dawn only in a mind that chooses to remember, and that has relinquished the insane desire to control reality.
 なぜなら、神の記憶は、それを思い出すことを選び、現実をコントロールしたいという狂気の欲望を捨て去った心の中にしか蘇ることができないからです。

 You who cannot even control yourself should hardly aspire to control the universe.
 自分自身をコントロールすることすらできないあなたが、世界を制するという野望など、到底抱くべきではありません。

 But look upon what you have made of it, and rejoice that it is not so.
 ただ、あなたがそんな野望を抱いて自分が何をなそうというのか考えてみてください。そうして、世界がその通りになっていないことを喜びなさい。」(テキスト 第十二章 VIII. The Attraction of Love for Love 八 愛に対する愛の魅力)



無条件の愛 キリスト意識を鏡として はじめに


 はじめに


「まず最初に言っておきたいのは、あなたがどのくらいコントロールを手放そうとするかに応じて、わたしはあなたを通じて語りかけられるのだということです。その意味においては、あなたは特別な存在ではありません。その意志のある人ならば、だれを通じても、わたしは語りかけることができます。

あなたが何を聞くかは、あなたの心の中にすでにあるものに大いに関係してきます。わたしの声に耳を開く人は、自分の知覚や先入観に応じて、それを聞くことになります。それはしかたのないことです。

わたしの存在への扉を開くためにはまず、わたしと交流したいという願望が必要です。わたしはだれにも自分をむりに押しつけたりしません。わたしとの関係は自発的に、それぞれの準備ができたときに始められるべきなのです。

わたしはあなたが望む度合いに応じて、あなたに近づきます。それは、わたしというものが、すでにあなたの心の中にあるひとつの思考であるからです。そしてわたしであるものすべては、その思考から生じてきます。わたしでないものすべてが、別の思考から生じてくるように。このことは経験を通じて分かってくるでしょう。

わたしの代弁者だと主張する人たちがいますが、その人たちは別の声に耳を傾けているのです。わたしの声はだれをも非難せず、またおどしつけもしません。わたしの意図は万人を祝福することですから。わたしはあなたがたに、よくよく言っておきたいのです。あなたがたに罪があるのは、自分の心の中でだけであって、その想像上の罪悪感は滅ぼせるものであり、滅ぼすべきものだということを。

わたしの教えは簡潔です。わたしは罪の宥しを教えます。罪そのものに実体がないことを教えます。それがあたかも在るように見えるのは、あなたが自分は害されうる存在だと信じているからにすぎません。あなたがたは、自分が肉体であって、その肉体に害が加われば自分に不正がなされたのだと信じます。

その信念を捨て去るのがむずかしいことは、よくわかります。しかし、わたしが求めるのはそのことです。あなたは肉体ではありません。肉体は生まれて死にますが、あなたは生まれもせず、死ぬこともありません。

あなたは制限をもった思考ではありません。あなたを制限するあらゆる思考は、始まりと終わりをもつ肉体です。この肉体はあなたの信念ののぞき眼鏡にすぎません。密度の濃い肉体、薄い肉体がありますが、どれにもすべて始まり、あるいは終わりがあります。すべてはある種の自己限定の形態です。

わたしは制限なき思考です。なぜなら神の無限定性・不定形性の範囲にまで広がっているからです。わたしを閉じ込めうる形態はありません。わたしは完璧な宥しのなかで、神とひとつになっています。わたしは罪なきものです。わたしは悲しみなきものです。わたしは自分が不当に遇されることがあるとか、あるいは自分が他人を不当に遇しうるとは信じません。なぜなら、わたしはすべての存在は神において対等であることを、一点の曇りもなく知っているからです。

これを、あなたがたに信じてもらうのがむずかしいことはわかっています。あなたがたが世界の中に見るものの多くが、不公正を示しているからです。しかしこうした不公正は、ただあなたがたの作り出したものにすぎません。これらはあなたがたが抱いている、真理でない観念です。

もうそうした考えを抱いている必要はありません。兄弟すべてに神の愛を及ぼすことによって、それらの観念が本物でないことを示してください。そうすることによってのみ、神の王国は地上で経験されます。

他人がやること、あるいはやらないでいることに対して、あれこれ気をまわし、心配しないでください。自分の思考や行動を向上させることは、その当人の責任であって、あなたの責任ではありません。自分がどう考え、どう行動するかにのみ責任をとってください。あなたが神とともに考え、行動するなら、ひとことも言わなくても人々は感化されてゆくでしょう。

真の慈悲心は、自己責任の中にのみ見出されるものです。自分自身とまわりの人のために最善のことをし、あとは神に任せておきなさい。

人のした選択にあなたが責任を感じる必要はなく、またあなたの選択も他人の責任ではありません。しかし、あなたがたはおたがいに学ぶことができ、また学ぶべきなのです。なぜならあなたの選択は、兄弟の選択とそれほど違ってはいないからです。あなたがたは、同じような過ちを数多くおかすものです。

あやまちは学びの機会です。過ちをおかしたと言って兄弟を責めるのは、実際に自分が完全無欠でもないのに、完全無欠のふりをすることです。前にも私は同じことをたずねましたが、もう一度たずねましょう。だれがいったい最初の石を投げるのか(訳注 姦通罪に問われた女が石で撃ち殺されそうになった現場に来あわせたイエスが、「あなたがたの中で罪のないものが、まず石を投げるがよい」と言ったことをさして)。

あなたは心の中で兄弟をあれこれあげつらいますが、その判断・批判から彼を解き放つのです。解き放つことは、愛することです。なぜならそれはその人を、いかなる判断・批判をも超えた、愛のみしか存在しないところに置くからです。

自分の思考を自在に使いこなすことこそ、悟りへの第一歩です。わたしとともに歩むか、わたしに背を向けて歩み去るかは、あなたの思考の中で起きることですから。

あなたがたとちがい、わたしはつねに変わりません。あなたがたから歩み去ることは決してありません。つねにあなたのそばにいて、あなたがわたしに気づくのを待っています。

わたしのようになりたければ、わたしのように考えることから始めてください。わたしのように考えたければ、あなたの抱くすべての考えをわたしの手の中においてください。それが役に立つ考えかどうか、わたしが教えましょう。役に立たない考えは除き去るべきです。これがマインド・トレーニングのエッセンスです。わたしたちを祝福し、真実に向かわせる考えのみを残しておくべきです。

わたしの教えは、誤った考えすべてをおびやかすものなので、かつてもいまもゆがめられてきています。おびやかされた誤った考えは、わたしの教えをつかまえ、自分の目的に合う型にむりにはめこんでしまいます。ほどなく、わたしの言ったとされる言葉が、わたしのほんとうに言った言葉の正反対になってしまいました。

ですから、よく目を覚まし、気をつけていてください。しかしこの変形に抵抗したり、攻撃したり、無効だと証明したりしようとしないでください。そうすれば、それを強化するだけです。自分の心の中でのみ、きちんと納得していて、真実を愛し、誤りを拒絶してください。

たったひとつの誤った考えでも、それをいだく心を絶望に追いやることがあります。しかし、たったひとつの真実の考えは、王国をふたたびよみがえらせます。ですから、賢明に、あなたの思考を選びなさい。どう考えるべきか自信がもてないときは、そのジレンマをわたしにあずけなさい。

わたしにあけわたすということは、この世界であなたが知っているようないかなる種類のあけわたし、降伏とも違っています。世界は、あなたがあけわたしをすると、すぐさまそれを使ってあなたをコントロールしようとしますが、わたしはそれをおだやかに用いて、あなたを誤りから解き放し、真の“自己”につれもどします。

わたしのわざをするものは、あなたに対して、いまあるがままの自分自身を愛し、肯定しなさいと力づけます。そうでないものは、あなたの欠点をあげつらい、自分たちでもって正そうとします。そういう人たちは、あなたの救済のためだといって、あなたを自分たちに依存させます。そうしたうそを受けいれないでください。よく見きわめるようにしてください。この地上のだれも、あなたが自分自身とわたしに対する信頼を通じて見いだす答えよりも、すばらしい答えを見いだすことはできないのですから。」(「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」ポール・フェリーニ著 井辻朱美訳 ナチュラルスピリット 1ページ~)
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