コントロールを手放す(無条件の愛―キリスト意識を鏡として)

2013年10月10日
アフォリズム 0

誰がそう言ったかを尋ねるのではなく、言われたことが何なのか、それに心を向けなさい。

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Thomas à Kempis
トマス・ア・ケンピス(中世の神秘思想家。彼の著した信心書『キリストに倣いて』は、聖書に次いで最も読まれた本であるとさえ言われる。 生年月日: 1380年)



 イエスのような偉大な人たちの意識を見習いなさい。その普遍性を自分のうえにも実現しなさい。神はイエスに、普遍的な全知のキリスト意識をお授けになりました。私が今こうして話していることも、イエスはご存知です。彼は巨大な光として、今ここにいます。その光でこの教会は変貌し、その光の中に、ここにいる人たちがみな包み込まれています。われわれはまるで、神の光の海、キリスト意識の光の海に浮かぶ波のようです。この光――キリストの来臨――を見たとき、あなたがたはこの人生が、神に到達するためにはだれもが通らなければならない試練にすぎなかったことを知るでしょう。サタンの試練も、それを克服してみれば、サタンが単なる神の道具にすぎなかったことがわかります。試練もまた、われわれを神に近づけるための恩恵なのです。このことをよく覚えておきなさい。そして、この地上で何をするにも、神のためにしなさい。

 人は、みな独自の個性を持っています。まったく同じ人などひとりもいません。自分についてこう考えなさい。「私の個性は神からの贈り物だ。私は私であり、ほかのだれでもない。私は、自分に与えられた神聖な個性を誇りにしよう。私は自己を改善して、善良な人格を身につけよう。」と。もしあなたが、今の自分の役割を立派に演じれば、それは、一国の王や女王の役を演じる魂と同じに立派なことです。そして、自分の役割を立派に演じるかぎり、あなたはいつまでも魅力的で、だれからも愛されるでしょう。自分の役割を立派に果たすことは、神のもとへ行くためのパスポートです。

 アブラハム・リンカーンは、この人生という舞台で、その役割をみごとに演じた俳優です。彼は、自分の困難な役割を恐れることなく遂行しました。彼は神のために、そして、人間は平等でなければならないという自己の信念のために働きました。彼が今でも人々の心の中に残り、愛されているのはそのためです。神に奉仕すれば、すべての人々に奉仕したことになります。人を喜ばせるよりも、神を喜ばせようと考えなさい。

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パラマハンサ・ヨガナンダ(「人間の永遠の探求」145頁)







無条件の愛 キリスト意識を鏡として

何もしなくていいに関連するので、「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」(ポール・フェリーニ著 井辻朱美訳 ナチュラルスピリット)から「はじめに」をご紹介します。

このサイトの各記事の冒頭でよく引用している本です。

奇跡のコースは、マインドに働きかける知的なアプローチを用いているだけに、愛そのものであるイェシュアの優しさを垣間見ることはもちろんちょこちょこありますが、どうしてもドライでロジカルな文章になりがちです。

これに対して、この本ではイェシュアはハートに直接語りかけており、イェシュアの語りは本当に優しく愛に満ちていて、読者を温かく包み込んで癒してくれます。

当然、コースの学びを助ける効果は絶大なので、ぜひお手許に一冊置いておいていただきたい本です。


英語版は、kindleもオーディブル版もあります。

ポール・フェリーニさんの他の著作の多くは、英語版であれば、Kindle版はキンドル・アンリミテッドで読めます。





聖霊はあらゆるものを通じて私たちにメッセージを届けることができる

イェシュアは言います。「その意志のある人ならば、だれを通じても、わたしは語りかけることができます。」と。

神の声は、あらゆるものを通してその声に耳を貸そうとする人に届きます。

別に、聖なる書物を通じてしか神は私たちに語ることができないわけではありません。

聖霊の手にかかれば、エゴが幻想を存続させるために利用するあらゆる手立てを学びの道具に転化させられます。

私たちは、どうしてもランク付けしたいし、どこかの権威からお墨付きを得て安心したいという依頼心があります。

このサイトの各記事の冒頭では、記事の参考になるような偉人たちの格言、名言、引用句を挙げていますが、引用句が誰の言葉なのかは、文章が終わったあとに記す体裁にしています。

ですので、長文の引用の場合は、読み終えるまで誰の言葉なのか知りたくなって落ち着かないということもあるでしょう。


その言葉が真理を語るなら、誰の口が語るかによって、その言葉の価値が変わるはずがない

イエス・キリストやマザー・テレサの言葉だとわかって読むときには、自然とオープン・マインドになって心に染み入るのに、同じ趣旨の言葉がマイク・タイソンさんやガッツ石松さんの言葉だと心の間口で弾かれて響かない、まだアノニマス、作者不詳となっていたほうがすんなり心に入ってくるという人も決して少なくないはずです。

みんなが権威を感じる聖者の言葉とまったく同じ真理を自分が権威を感じないほかの人の口から聞いたら、その言葉の価値が下がるという不可思議な現象が起こるわけです。当然、ヒトラーや凶悪犯罪者などの語った言葉だとわかると、その言葉がまさしく真理を告げていても、私たちは素直に受け入れることができなくなります。

世の常識からすれば、これは当然かもしれませんが、奇跡のコースを学ぶ私たちがこんな常識的な発想に毒されたままだとしたら、学習がまったく進んでいないことを恥じるべきかもしれません。

というのも、コースが教えてくれるように、世界が幻想であるなら、善悪、賢愚、美醜等の差異にかかわらず、世界を構成するすべての存在を通じて神は自らの声を伝えられるはずだからです。


聖者や賢者よりも凡人や悪人、道化者、悪魔の言葉から真理のメッセージを受け取れたときの気づきのほうがより大きなこともある

それが「悪魔」であろうと「聖者」であろうと、この世界においては一個の幻想にすぎないという点では等しいものであり、聖霊は、その人にとって悪魔を介してメッセージを伝えることが適切ならば、そうするでしょう。

一見、みすぼらしいホームレスの姿をした兄弟を通じて届いたメッセージであってこそ、ある人にとっては、それまで人に貴賎があるとの思いに縛られていたりした場合、それを受け入れることができたときの気付きが、権威ある大立者を通じてメッセージを受け取るよりも大きなものになるということはありそうなことです。

ですから、その人が意志するなら、聖霊は、あらゆる存在を通じて私たちに語りかけてくれます。

それは、人物であったり、書物であったり、映画であったり、音楽であったり、絵画であったり、偶然のできごとであったり、心の中の声であったりするでしょう。



偶然とは、神が実名を明かしたくないときに用いるペンネームだ

パウロ・コエーリョさんの「アルケミスト」の冒頭で、少年サンチャゴとメルキゼデックの会話で、メルキゼデックは、自分の宝物を求める者を助けるために、あるときはある人物の姿をとり、あるときは、別の姿となって、メッセージを伝える、あるとき、宝石を発掘していた男があともう一堀りしさえすればたどり着くというところで絶望しかけたときには、自分は石ころになって、男の前に転がり、絶望の怒りで男が石を壁に投げつけて、割れた壁から、宝石がのぞくようにして助けたりもしたという話をします。

ヴァジム・ゼランドさんのリアリティ・トランサーフィンで「偶然とは、神が実名を明かしたくないときに用いるペンネームだ」という言葉が出てきます。



この寓意を伝えようとするたとえ話はたくさんありますが、単純に考えて、小説家が、自分の書いている物語の中の主人公が苦境に立っている場面で、助けとなるメッセージを彼に伝えたいときに、自分が「神」として天から登場して、主人公の前に降り立って、汝に尊いメッセージを授けよう、なんてやったのでは、せっかくの物語が台無しです。

小説家は他の登場人物や状況をうまく使ってそれを伝えることでしょう。

イェシュアも、私たちに意欲さえあれば、聖書やACIMからしか語ってくれないわけではありません。

友人の何気ない一言であったり、ふらりと入った本屋さんで手に取った本の一文であったり、自分の敵だと思っている誰かの気になる一言であったりするかもしれません。


私たちが自分で何かをしなければならないというコントロールを手放す程度に応じて、聖霊は私たちに語りかけることができる ~ コースの関連個所の抜粋

さて、「無条件の愛」の「はじめに」で、イェシュアは、私たちが自分で何かをしなければならないというコントロールを手放す程度に応じて、聖霊は私たちに語りかけることができるようになると語ってくれています。

まず、テキストから、関連箇所を抜粋します。

「3. It is pointless to believe that controlling the outcome of mis-thought can result in healing.
 誤った思考に基づく成り行きをコントロールすることによって、結果として癒しを実現できるなどと信じても、それは無意味なことです。

 When you are fearful, you have chosen wrongly.
 あなたが恐れを感じるとき、あなたはすでに間違って選んでしまっているのです。

 That is why you feel responsible for it.
 それなのに、誤った思考の成り行きをコントロールできると信じているがゆえに、あなたは自分の誤った選択の結果として癒しが実現しないことについて、責任を感じるのです。

 You must change your mind, not your behaviour, and this is a matter of willingness.
 あなたは自分の振る舞いではなく、自分の心を変えなければならないのです。そして、これは意欲の問題です。

 You do not need guidance except at the mind level.
 心のレベル以外においては、あなたには導きなど必要ないのです。

 Correction belongs only at the level where change is possible.
 修正がふさわしいのは、ただ変更が可能なレベルにおいてだけです。

 Change does not mean anything at the symptom level, where it cannot work.
 修正が作用できない、症状として表われるレベルにおける変化になど何の意味もないのです。」(テキスト 第二章 VI.Fear and Conflict  六 恐れと葛藤)


「7. I have already briefly spoken about readiness, but some additional points might be helpful here.
私は既に、準備ができているとはどういうことか、手短に述べたことがありますが、それにいくつかの要点を補足すれば、ここで役に立つかもしれません。

 Readiness is only the prerequisite for accomplishment.
 準備ができていることは、何かを成し遂げるための前提条件にすぎません。

 The two should not be confused.
 この準備と成就のふたつを混同してはなりません。

 As soon as a state of readiness occurs, there is usually some degree of desire to accomplish, but it is by no means necessarily undivided.
 準備ができ次第、成し遂げたいと望む気持ちをある程度持つのが普通です。しかし、それは必ずしも、準備と成就が絶対に分割できないという意味ではありません。

 The state does not imply more than a potential for a change of mind.
 準備のできた状態は、心が変化する可能性があるという意味を含んでいるにすぎません。

 Confidence cannot develop fully until mastery has been accomplished.
 何事も、習得しようとすることに習熟して、それを会得するまでは、十分な確信を持てるものではありません。

 We have already attempted to correct the fundamental error that fear can be mastered, and have emphasised that the only real mastery is through love.
 私たちは既に、恐れを力で制圧しうるなどという根本的な誤りを正す試みをしました。そして、愛を通じてしか真の統御は会得できないということも強調しておきました。


 Readiness is only be beginning of confidence.
 準備ができたことは、確信を得るためのほんの皮切りにすぎないのです。

 You may think this implies that an enormous amount of time is necessary between readiness and mastery, but let me remind you that time and space are under my control.
 こう言うとあなたは、準備ができたときから真の統御を会得するまでには、途轍もなく長い時間が必要だと仄めかしているように思うかも知れません。しかし、あなたに思い出して欲しいことがあります。それは、時間と空間はこの私のコントロールの下にあるということです。」(テキスト第二章 VII.Cause and Effect  七 原因と結果)


「3. You have very little trust in me as yet, but it will increase as you turn more and more often to me instead of to your ego for guidance.
今はまだ、あなたは私をほとんど信頼してくれてはいません。しかし、あなたが、エゴに指導を仰ぐ代わりに、もっと頻繁に私に指導を仰いでくれるようになれば、それにつれて、あなたの私への信頼は増していくでしょう。

 The results will convince you increasingly that this choice is the only sane one you can make.
 私の導きの結果によって、ますますあなたは、私の指導を仰ぐという選択こそが、自分にできる唯一の正気の選択なのだと納得するようになるはずです。

 No one who learns from experience that one choice brings peace and joy while another brings chaos and disaster needs additional convincing.
 誰であれ、ある選択が安らぎと喜びをもたらし、別の選択が混乱と惨事をもたらすということを経験から学んだ者は、更なる説得など必要としません。

 Learning through rewards is more effective than learning through pain, because pain is an ego illusion, and can never induce more than a temporary effect.
 褒美を通して学ぶ方が苦痛を通して学ぶよりも、より効果的なのです。なぜなら、苦痛はエゴの錯覚であって、決して、その場だけの効果以上のものは引き出せないからです。

 The rewards of God, however, are immediately recognised as eternal.
 しかしながら、神からの褒美は、永遠のものであることがすぐに認識できます。

 Since this recognition is made by you and not the ego, the recognition itself establishes that you and your ego cannot be identical.
 この認識は、エゴではなく、あなたによってなされます。それゆえ、この認識自体が、あなたとあなたのエゴは同一であるはずがないということを確証するのです。

 You may believe that you have already accepted this difference, but you are by no means convinced as yet.
 あなたは、このエゴとあなたの違いを既に理解していると自分では信じているかもしれません。しかし、まだあなたは、決して、あなたとあなたのエゴが同一であるはずがないということを真に確信したとはいえません。

 The fact that you believe you must escape from the ego shows this; but you cannot escape from the ego by humbling it or controlling it or punishing it.
 あなたがエゴから逃れなければならないと信じている事実が、あなたが真にあなたとエゴが同一であるはずがないと確信できていないことを示しています。しかし、あなたは、エゴを卑しめたり、コントロールしたり、懲らしめることによっては、エゴから逃れることはできません。」(テキスト 第四章 VI. The Rewards of God  六 神からの報い)




「5. You have but to ask for this memory, and you will remember.
 あなたは神の記憶だけを求めなければなりません。そうすれば、あなたは神を思い出すことになります。

 Yet the memory of God cannot shine in a mind that has obliterated it and wants to keep it so.
 とはいえ、神の記憶は、それを忘れ去って、そのままにしておきたいと望んでいる心の中には輝くことができません。

 For the memory of God can dawn only in a mind that chooses to remember, and that has relinquished the insane desire to control reality.
 なぜなら、神の記憶は、それを思い出すことを選び、現実をコントロールしたいという狂気の欲望を捨て去った心の中にしか蘇ることができないからです。

 You who cannot even control yourself should hardly aspire to control the universe.
 自分自身をコントロールすることすらできないあなたが、世界を制するという野望など、到底抱くべきではありません。

 But look upon what you have made of it, and rejoice that it is not so.
 ただ、あなたがそんな野望を抱いて自分が何をなそうというのか考えてみてください。そうして、世界がその通りになっていないことを喜びなさい。」(テキスト 第十二章 VIII. The Attraction of Love for Love 八 愛に対する愛の魅力)



無条件の愛 キリスト意識を鏡として はじめに


無条件の愛―キリスト意識を鏡として無条件の愛―キリスト意識を鏡として
(2002/03/03)
ポール・フェリーニ

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 はじめに


「まず最初に言っておきたいのは、あなたがどのくらいコントロールを手放そうとするかに応じて、わたしはあなたを通じて語りかけられるのだということです。その意味においては、あなたは特別な存在ではありません。その意志のある人ならば、だれを通じても、わたしは語りかけることができます。

あなたが何を聞くかは、あなたの心の中にすでにあるものに大いに関係してきます。わたしの声に耳を開く人は、自分の知覚や先入観に応じて、それを聞くことになります。それはしかたのないことです。

わたしの存在への扉を開くためにはまず、わたしと交流したいという願望が必要です。わたしはだれにも自分をむりに押しつけたりしません。わたしとの関係は自発的に、それぞれの準備ができたときに始められるべきなのです。

わたしはあなたが望む度合いに応じて、あなたに近づきます。それは、わたしというものが、すでにあなたの心の中にあるひとつの思考であるからです。そしてわたしであるものすべては、その思考から生じてきます。わたしでないものすべてが、別の思考から生じてくるように。このことは経験を通じて分かってくるでしょう。

わたしの代弁者だと主張する人たちがいますが、その人たちは別の声に耳を傾けているのです。わたしの声はだれをも非難せず、またおどしつけもしません。わたしの意図は万人を祝福することですから。わたしはあなたがたに、よくよく言っておきたいのです。あなたがたに罪があるのは、自分の心の中でだけであって、その想像上の罪悪感は滅ぼせるものであり、滅ぼすべきものだということを。

わたしの教えは簡潔です。わたしは罪の宥しを教えます。罪そのものに実体がないことを教えます。それがあたかも在るように見えるのは、あなたが自分は害されうる存在だと信じているからにすぎません。あなたがたは、自分が肉体であって、その肉体に害が加われば自分に不正がなされたのだと信じます。

その信念を捨て去るのがむずかしいことは、よくわかります。しかし、わたしが求めるのはそのことです。あなたは肉体ではありません。肉体は生まれて死にますが、あなたは生まれもせず、死ぬこともありません。

あなたは制限をもった思考ではありません。あなたを制限するあらゆる思考は、始まりと終わりをもつ肉体です。この肉体はあなたの信念ののぞき眼鏡にすぎません。密度の濃い肉体、薄い肉体がありますが、どれにもすべて始まり、あるいは終わりがあります。すべてはある種の自己限定の形態です。

わたしは制限なき思考です。なぜなら神の無限定性・不定形性の範囲にまで広がっているからです。わたしを閉じ込めうる形態はありません。わたしは完璧な宥しのなかで、神とひとつになっています。わたしは罪なきものです。わたしは悲しみなきものです。わたしは自分が不当に遇されることがあるとか、あるいは自分が他人を不当に遇しうるとは信じません。なぜなら、わたしはすべての存在は神において対等であることを、一点の曇りもなく知っているからです。

これを、あなたがたに信じてもらうのがむずかしいことはわかっています。あなたがたが世界の中に見るものの多くが、不公正を示しているからです。しかしこうした不公正は、ただあなたがたの作り出したものにすぎません。これらはあなたがたが抱いている、真理でない観念です。

もうそうした考えを抱いている必要はありません。兄弟すべてに神の愛を及ぼすことによって、それらの観念が本物でないことを示してください。そうすることによってのみ、神の王国は地上で経験されます。

他人がやること、あるいはやらないでいることに対して、あれこれ気をまわし、心配しないでください。自分の思考や行動を向上させることは、その当人の責任であって、あなたの責任ではありません。自分がどう考え、どう行動するかにのみ責任をとってください。あなたが神とともに考え、行動するなら、ひとことも言わなくても人々は感化されてゆくでしょう。

真の慈悲心は、自己責任の中にのみ見出されるものです。自分自身とまわりの人のために最善のことをし、あとは神に任せておきなさい。

人のした選択にあなたが責任を感じる必要はなく、またあなたの選択も他人の責任ではありません。しかし、あなたがたはおたがいに学ぶことができ、また学ぶべきなのです。なぜならあなたの選択は、兄弟の選択とそれほど違ってはいないからです。あなたがたは、同じような過ちを数多くおかすものです。

あやまちは学びの機会です。過ちをおかしたと言って兄弟を責めるのは、実際に自分が完全無欠でもないのに、完全無欠のふりをすることです。前にも私は同じことをたずねましたが、もう一度たずねましょう。だれがいったい最初の石を投げるのか(訳注 姦通罪に問われた女が石で撃ち殺されそうになった現場に来あわせたイエスが、「あなたがたの中で罪のないものが、まず石を投げるがよい」と言ったことをさして)。

あなたは心の中で兄弟をあれこれあげつらいますが、その判断・批判から彼を解き放つのです。解き放つことは、愛することです。なぜならそれはその人を、いかなる判断・批判をも超えた、愛のみしか存在しないところに置くからです。

自分の思考を自在に使いこなすことこそ、悟りへの第一歩です。わたしとともに歩むか、わたしに背を向けて歩み去るかは、あなたの思考の中で起きることですから。

あなたがたとちがい、わたしはつねに変わりません。あなたがたから歩み去ることは決してありません。つねにあなたのそばにいて、あなたがわたしに気づくのを待っています。

わたしのようになりたければ、わたしのように考えることから始めてください。わたしのように考えたければ、あなたの抱くすべての考えをわたしの手の中においてください。それが役に立つ考えかどうか、わたしが教えましょう。役に立たない考えは除き去るべきです。これがマインド・トレーニングのエッセンスです。わたしたちを祝福し、真実に向かわせる考えのみを残しておくべきです。

わたしの教えは、誤った考えすべてをおびやかすものなので、かつてもいまもゆがめられてきています。おびやかされた誤った考えは、わたしの教えをつかまえ、自分の目的に合う型にむりにはめこんでしまいます。ほどなく、わたしの言ったとされる言葉が、わたしのほんとうに言った言葉の正反対になってしまいました。

ですから、よく目を覚まし、気をつけていてください。しかしこの変形に抵抗したり、攻撃したり、無効だと証明したりしようとしないでください。そうすれば、それを強化するだけです。自分の心の中でのみ、きちんと納得していて、真実を愛し、誤りを拒絶してください。

たったひとつの誤った考えでも、それをいだく心を絶望に追いやることがあります。しかし、たったひとつの真実の考えは、王国をふたたびよみがえらせます。ですから、賢明に、あなたの思考を選びなさい。どう考えるべきか自信がもてないときは、そのジレンマをわたしにあずけなさい。

わたしにあけわたすということは、この世界であなたが知っているようないかなる種類のあけわたし、降伏とも違っています。世界は、あなたがあけわたしをすると、すぐさまそれを使ってあなたをコントロールしようとしますが、わたしはそれをおだやかに用いて、あなたを誤りから解き放し、真の“自己”につれもどします。

わたしのわざをするものは、あなたに対して、いまあるがままの自分自身を愛し、肯定しなさいと力づけます。そうでないものは、あなたの欠点をあげつらい、自分たちでもって正そうとします。そういう人たちは、あなたの救済のためだといって、あなたを自分たちに依存させます。そうしたうそを受けいれないでください。よく見きわめるようにしてください。この地上のだれも、あなたが自分自身とわたしに対する信頼を通じて見いだす答えよりも、すばらしい答えを見いだすことはできないのですから。」(「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」ポール・フェリーニ著 井辻朱美訳 ナチュラルスピリット 1ページ~)
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It’s not how much we give, but how much love we put into giving. – Mother Teresa

 松山 健 Matsuyama Ken
この記事を書いた人:  松山 健 Matsuyama Ken

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