T2-7 原因と結果


Love does not dominate; it cultivates.
愛は支配しない。愛は育むのだ。

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Johann Wolfgang von Goethe
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

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The real and lasting victories are those of peace, and not of war.
永続する真の勝利とは、戦争の勝利ではなく平和の勝利である。



Ralph Waldo Emerson
ラルフ・ウォルドー・エマソン

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The Way of Mastery is to break all the rules—but you have to know them perfectly before you can do this; otherwise you are not in a position to transcend them.
ものごとを会得する方法は、あらゆるルールを破ることだ。ただし、あなたがあらゆるルールを破れるようになるには、その前に、あなたはすべてのルールに精通しなければならない。さもなければ、あなたはそれらのルールを超える境地に立てないからだ。



Aleister Crowley, Magical and Philosophical Commentaries on The Book of the Law
アレイスター・クロウリー(「法の書」より)

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Know the rules well, so you can break them effectively.
法則を熟知しておきなさい。そうすれば、あなたは必要に応じて法則を破れるようになる。



Dalai Lama XIV
ダライ・ラマ14世





優れた資質を備えるだけでは十分ではない。それを管理する必要もあるのだ。

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フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー




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テキスト第二章から、原因と結果についての一節をご紹介します。


私たちはイェシュアの導きを受けつつ自分で恐れをコントロールしなければならないし、コントロールすることができる



前節で、イェシュアは、些末な事柄はすべて、イェシュアが自らのコントロール下に引き取ってくれ、重要なことについては私たちを指導してくれる、私たちが恐怖を抱くことは、イェシュアにコントロールを委ねるのを困難にしてしまう、私たちはイェシュアの力によって自分を恐怖から解放してもらうことはできず、私たちが自分で恐れをコントロールする必要があり、コントロールできるということが述べられました。

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1.「If I intervened between your thoughts and their results, I would be tampering with a basic law of cause and effect; the most fundamental law there is.
 もし私があなたの思考とあなたの思考の結果として起こることの間に介入したなら、私は、存在する法則の中で最も根本的な法則である原因と結果という基本法則を枉げることになってしまいます。

 I would hardly help you if I depreciated the power of your own thinking.
 もし私があなた自身が持っている思考の力を軽視するなら、私はあなたを助けることがほとんどできなくなってしまうでしょう。

 This would be in direct opposition to the purpose of this course.
 このようなことは、このコースの目的に真正面から反することです。」

レッスン238「救済は全面的に私の決断にかかっている」が参考になると思います。

神が愛の神なら、そもそも私たちを間違いを犯して苦しむ存在として創造したりしなかったはずだし、間違ったとしても、すぐさま救いの手を差し延べられるはずなのに、現に手をこまねいている(私たちが苦悩に満ちて生きていること自体が何よりの証しである)ということは、神がいないか、神が愛の神ではない証拠だという素朴な疑問が湧いてくるかもしれません。

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しかし、神は、愛そのものであるがゆえに、神自身とまったく同等の自由意志を持つ創造主として神の子を創造したのであり、その全能の力を誤用する自由すら否定しなかったほど大きな愛を与えてくれているのであり、上手に力を使えないからと口出しして強制すること自体が、与えた愛を制限することになるために、神は子の意志に介入したり強制したりすることはできず、聖霊という助け主を与える形で子が自分で帰還できるよう支援することしかできないということです。





「10. You do not realize how much you have denied yourself, and how much God, in his love, would not have it so.
 あなたは、自分がどれほど自分自身を否認してきたか理解していません。そしてまた、あなたは、神が自らの愛ゆえに、あなたに自分自身を拒んだままにさせないよう、どれほど強く意図したかも理解していません。

 Yet he would not interfere with you, because he would not know his son if he were not free.
 それでも、神はあなたに干渉しようとはしません。なぜなら、もし神の子が自由でなかったら、神は自らの子を知ることができなくなってしまうからです。

 To interfere with you would be to attack himself, and God is not insane.
 神があなたに干渉することは、神自らを攻撃することになってしまいますが、神は正気を失ってなどいません。

 When you deny him you are insane.
 あなたが神を否認するとき、あなたは狂気に陥っているのです。

 Would you have him share your insanity?
 あなたは神に、自分の狂気を共有させたいというのでしょうか。」(T10-5 神を否認すること


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どのように恐れをコントロールするの?

さて、私たちが自分で恐れをコントロールでき、コントロールしなければならないとして、どのようにすべきなのでしょうか?

私たちは恐れとは自然に湧いてくる感情で自分で制御しようがないものだと感じ、そう信じています。

この信念を前提とすると、恐れを無理やりねじ伏せて力で抑え込むようなコントロール法が素朴に思いつきます。

けれど、この方法は役に立ちません。

というのも、恐怖を力で強引に抑え込まなければならないという発想自体が、力でねじ伏せて対抗しなければならない力が恐れにはあることを前提として認めるものだからです。

本節では、恐れの真の克服は、愛を通しての完全な理解によると言います。


愛を通しての完全な理解とは? ~赦しとの類似性

この理解とは、愛は実在するものであるのに対して、恐れは実在する愛の不在、欠乏状態に名前をつけたものでしかなく、愛と同じような積極的実在性を持ち合わせない影、無だという真理に愛を通して到達することです。


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このような通常の恐怖の克服法と真の克服法の相違は、許しと赦しの相違に似ています。

恐れの存在を前提に、それに蓋をして抑え込む通常の克服方法は、罪が実在することを前提に、それに目こぼししてやる許しに通じます。

これに対して、愛を通して完全に理解することで恐れが存在しないということが本当だと見極め、その通り看過する真の克服方法は、罪が実在しないと見極め、その認識通り看過する赦しに通じます。



文意の解釈が難しい箇所

3.の"The cause and effect principle now becomes a real expediter, though only temporarily."は文意の把握が困難な文章です。

Message Of A Course In Miracles: A Trans: A Translation of the Text in Plain Language (English Edition) (Elizabeth A. Cronkhite 著)では、あなたは神に近づくことを恐れているが、実はあなたは神を恐れているのではない、あなたは神についての自分の思考を恐れているのだ、これはあなたにとって苦痛に満ちた状態だという文章に続けて、
「The way out of pain is to accept that your own thoughts cause your perceptions and experiences.
苦痛から脱する方法は、あなたの知覚や経験を引き起こしているのは、あなた独自の思考だということを受け入れることだ。」としています。

真の原因である神について自分と分離した恐ろしい存在と解釈する独自の思考を抱くことによって、誤った知覚が惹起されているのだから、愛の神との分離はなく子である自分は神と愛でひとつに結ばれていると正しく因果律を認識することで、自分独自の思考による誤った知覚を免れるという理屈になります。

そこで、誤創造の苦痛から脱するには、私たちが誤創造の世界で採用している偽りの因果関係ではなく、真の因果関係に気づくことが重要になります。

そこで、訳文としては
「The cause and effect principle now becomes a real expediter, though only temporarily.
 たとえ一時的にでも、いまや、原因と結果の原理が真に創造を促進するものとなります。」
としています。


「神はそのひとり子をお与えになるほど、世を愛された。」 ~ヨハネによる福音書第3章

5.「The statement "For God so loved the world that he gave his only begotten son, that whosoever believeth in him should not perish but have everlasting life" needs only one slight correction to be meaningful in this context; "He gave it to his only begotten son."
 『神はそのひとり子をお与えになるほど、世を愛された。それはそのひとり子を信じる者たちがみな亡びることなく永遠の命を受けるためである。』との声明が、この文脈の中で意味を持つようにするには『神はそのひとり子に世をお与えになるほど』とたったひとつ、ささやかな修正を施せば事足ります。」

の中の引用句は、ヨハネによる福音書第3章16節です。


“You are Israel’s teacher,” said Jesus, “and do you not understand these things?
イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。

Very truly I tell you, we speak of what we know, and we testify to what we have seen, but still you people do not accept our testimony.
よくよく言っておく。私たちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたは私たちのあかしを受けいれない。

I have spoken to you of earthly things and you do not believe; how then will you believe if I speak of heavenly things?
私が地上のことを語ってあなたがたが信じないというのに、もし私が天上のことを語ったとて、どうしてあなたがたがそれを信じるだろうか。

No one has ever gone into heaven except the one who came from heaven—the Son of Man.
天から降ってきた者、つまり、人の子のほかには、だれも天に昇った者はない。

Just as Moses lifted up the snake in the wilderness, so the Son of Man must be lifted up, that everyone who believes may have eternal life in him.”
まさにモーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。

For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.
神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

For God did not send his Son into the world to condemn the world, but to save the world through him.
神が御子を世につかわされたのは、世を裁くためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

Whoever believes in him is not condemned, but whoever does not believe stands condemned already because they have not believed in the name of God’s one and only Son.
彼を信じる者は、裁かれない。信じない者は、すでに裁かれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

This is the verdict: Light has come into the world, but people loved darkness instead of light because their deeds were evil.
その裁きというのは、光がこの世に来たのに、人々はその行いが悪いために、光よりも闇のほうを愛したことである。

Everyone who does evil hates the light, and will not come into the light for fear that their deeds will be exposed.
悪を行っている者はみな光を憎む。そして、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の中に来ようとはしない。

But whoever lives by the truth comes into the light, so that it may be seen plainly that what they have done has been done in the sight of God.
しかし、真理を行っている者は光の中に来る。その人の行いの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。


John 3:10
ヨハネによる福音書第3章


このヨハネ福音書のイェシュアによる訂正箇所についての説明を本節のコメント欄( ↓ )で行なっていますので、ご覧ください。
質問をいただいたTAPAさん、ありがとうございました。




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テキスト 第二章 

VII.Cause and Effect
七 原因と結果



1. You may still complain about fear, but you nevertheless persist in making yourself fearful.
 恐れはなくならないと、まだあなたは文句を言うかもしれませんが、それでも、執拗に自分自身を怖がらせ続けているのはやはりあなたなのです。

 I have already indicated that you cannot ask me to release you from fear.
 すでに指摘しておいたように、あなたは、自分を恐れから解放してくれるよう私に頼むことはできません。

 I know it does not exist, but you do not.
 私は恐れは存在しないと知っています。しかし、あなたは恐れが存在しないことがわかっていません。

 If I intervened between your thoughts and their results, I would be tampering with a basic law of cause and effect; the most fundamental law there is.
 もし私があなたの思考とあなたの思考の結果として起こることの間に介入したなら、私は、存在する法則の中で最も根本的な法則である原因と結果という基本法則を枉げることになってしまいます。

 I would hardly help you if I depreciated the power of your own thinking.
 もし私があなたが持っている思考の力を軽視していたなら、私はあなたを助けることがほとんどできなくなってしまうでしょう。

 This would be in direct opposition to the purpose of this course.
 このようなことは、このコースの目的に真正面から反することです。

 It is much more helpful to remind you that you do not guard your thoughts carefully enough.
 そんな無駄骨を折るよりも、ずっと有益なのは、あなたが自分の思考に十分な注意を払って警戒していないとあなたに気づかせてあげることです。

 You may feel that at this point it would take a miracle to enable you to do this, which is perfectly true.
 今の時点では、あなたは奇跡でも起きないかぎり、自分で恐れから脱出することなどできるはずがないと感じているかもしれません。たしかに、奇跡によってそれが可能になるというのはまさしくその通りの真実です。

 You are not used to miracle-minded thinking, but you can be trained to think that way.
 あなたは奇跡が自然に起こるような考え方をすることにまだ馴染んでいません。しかし、あなたは修練を積めば、そのように考えられるようになります。

 All miracle workers need that kind of training.
 奇跡を起こす者になるには、誰しもこの種の訓練を必要とするのです。



2. I cannot let you leave your mind unguarded, or you will not be able to help me.
 私は、あなたに自分の心を無防備なままにさせておくわけにはいきません。さもないと、私はあなたに手助けしてもらうことができなくなってしまうからです。

 Miracle working entails a full realization of the power of thought in order to avoid miscreation.
 奇跡を起こすに際しては、誤って創造することを避けるために、思考の力について十分に理解しておく必要があります。

 Otherwise a miracle will be necessary to set the mind itself straight, a circular process that would not foster the time collapse for which the miracle was intended.
 さもないと、心そのものを正すために奇跡が必要となり、奇跡によって時間を縮めようとしているというのに、堂々巡りのプロセスとなって、時間の崩壊を促進できなくなってしまいます。

 The miracle worker must have genuine respect for true cause and effect as a necessary condition for the miracle to occur.
 奇跡を起こす者は、奇跡が起こるための必要条件として、真の原因と結果に対して純粋な敬意を払わなければなりません。

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3. Both miracles and fear come from thoughts.
 奇跡と恐れはいずれも、思考から生じます。

 If you are not free to choose one, you would also not be free to choose the other.
 もしあなたが奇跡と恐れのうちの一方を自由に選べないとしたら、あなたはまた他方も自由に選べないはずです。

 By choosing the miracle you have rejected fear, if only temporarily.
 奇跡を選ぶことによって、たとえそれが一時的なものでしかないとしても、あなたは恐れを拒絶したことになります。

 You have been fearful of everyone and everything.
 あなたはすべての人を恐れ、すべての物事を恐れてきました。

 You are afraid of God, of me and of yourself.
 あなたは神を恐れ、私を恐れ、そして自分自身を恐れています。

 You have misperceived or miscreated Us, and believe in what you have made.
 あなたは、神と私、そしてあなた自身を誤って知覚し、つまり、誤って創造し、そして、自分が誤創造によって作り出したものが本物だと信じこんでいます。

 You would not have done this if you were not afraid of your own thoughts.
 もしあなたが自分独自の思考を恐れていなかったら、あなたはこんなことをしなかったはずです。

 The fearful must miscreate, because they misperceive creation.
 恐れる者は、創造物を誤って知覚するので、どうしても誤って創造してしまいます。

 When you miscreate you are in pain.
 あなたが誤って創造するとき、あなたは苦痛の中にいます。

 The cause and effect principle now becomes a real expediter, though only temporarily.
 たとえ一時的にでも、いまや、原因と結果の原理が真に創造を促進するものとなります。

 Actually, "Cause" is a term properly belonging to God, and his "effect" is his son.
 実際のところ、「真の原因」とは神のことを正確に示す用語であり、そして、神の「結果」とは神の子のことです。

 This entails a set of Cause and Effect relationships totally different from those you introduce into miscreation.
 神の創造には真の原因と真の結果という一組の関係性を必要とするのであり、それはあなたが誤創造に取り入れる原因や結果とはまったく異なるものです。

 The fundamental conflict in this world, then, is between creation and miscreation.
 したがって、この世界における根本的な葛藤は、創造と誤創造との間にあるのです。

 All fear is implicit in the second, and all love in the first.
 すべての恐れは誤創造に内在し、すべての愛は創造に内在します。

 The conflict is therefore one between love and fear.
 よって、葛藤とは愛と恐れとの間のものなのです。



4. It has already been said that you believe you cannot control fear because you yourself made it, and your belief in it seems to render it out of your control.
 すでに述べたように、あなたは自分には恐れをコントロールすることができないと信じています。なぜなら、あなたは自分で恐れを作り出したので、あなたは恐怖を信じこんでしまっており、この恐怖への信仰が、あなたにとって恐れを自らのコントロールの及ばないものに見せているからです。

 Yet any attempt to resolve the error through attempting the mastery of fear is useless.
 しかし、恐れはコントロールできないと信じこむ誤りを、恐れを力で支配しようと試みることを通じて解消しようとするなら、それがいかなる試みであれ、何の役にも立ちません。

 In fact, it asserts the power of fear by the very assumption that it need be mastered.
 それどころか、まさに恐れを力で支配しなければならないと決めてかかること自体が、恐れに力があることを擁護することになってしまいます。

 The true resolution rests entirely on mastery through love.
 恐れを真に克服することは、愛を通じての完全な理解に全面的にかかっています。

 In the interim, however, the sense of conflict is inevitable, since you have placed yourself in a position where you believe in the power of what does not exist.
 しかしながら、その理解に至るまでの間は、葛藤を感じることを免れないでしょう。なぜなら、あなたは、すでに自分自身を存在しない恐れの力を信じる状態に置いてしまっているからです。

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5. Nothing and everything cannot coexist.
 何もない状態とすべてがある状態とは両立できません。

 To believe in one is to deny the other.
 一方を信じれば、他方を否認することになるからです。

 Fear is really nothing and love is everything.
 恐れは本当に無であり、愛は有るものすべてです。

 Whenever light enters darkness, the darkness is abolished.
 光が闇に射し込むと、必ず闇は完全に無くなります。

 What you believe is true for you.
 あなたが信ずることは、あなたにとっての真実となります。

 In this sense the separation has occurred, and to deny it is merely to use denial inappropriately.
 この意味で、あなたがそう信じるがゆえに、分離は起こった事実です。だから、分離が起こったという事実を否認したところで、単に否認を不適切な方法で使うことにしかなりません。

 However, to concentrate on error is only a further error.
 かといって、誤りに焦点を当てて集中することは、さらなる誤りを重ねることにしかなりません。

 The initial corrective procedure is to recognize temporarily that there is a problem, but only as an indication that immediate correction is needed.
 修正のプロセスの手始めは、一時的に問題の存在を認めることです。ただし、それはただ即座に修正する必要があることを示す指標としてのみ認めるということです。

 This establishes a state of mind in which the Atonement can be accepted without delay.
 このように即座に修正する必要がある指標として一時的に問題の存在を認めることが、遅滞なく贖罪を受け入れることのできる心の状態を確立します。

 It should be emphasized, however, that ultimately no compromise is possible between everything and nothing.
 しかし、最終的には、有と無との間では、いかなる妥協も不可能だということは力説しておかねばなりません。

 Time is essentially a device by which all compromise in this respect can be given up.
 時間は本質的に、この観点におけるあらゆる妥協を放棄できるようにするための道具です。

 It only seems to be abolished by degrees, because time itself involves intervals that do not exist.
 有と無の間の妥協が完全に無くなるまでのプロセスが、少しずつしか進まないように思えるのは、時間それ自体が存在しない間隔を含んでいるからです。

 Miscreation made this necessary as a corrective device.
 誤創造によって、この時間という間隔が、修正するための道具として必要になったのです。

 The statement "For God so loved the world that he gave his only begotten son, that whosoever believeth in him should not perish but have everlasting life" needs only one slight correction to be meaningful in this context; "He gave it to his only begotten son."
 「神はそのひとり子をお与えになるほど、世を愛された。それはそのひとり子を信じる者たちがみな亡びることなく永遠の命を受けるためである。」との声明が、この文脈の中で意味を持つようにするには「神はそのひとり子に世をお与えになるほど」とたったひとつ、ささやかな修正を施せば事足ります。

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6. It should especially be noted that God has only one son.
 この声明でとくに着目すべきなのは、神がただひとりの子しか持たないという点です。

 If all his creations are his sons, every one must be an integral part of the whole sonship.
 もし神の創造物すべてが神の子らであるなら、創造物の一つひとつは神のひとり子を構成する不可欠な部分であるに違いありません。

 The sonship in its oneness transcends the sum of its parts.
 ひとつに結ばれた神のひとり子は、それを構成する数多くの部分の単なる総和を凌駕するものです。

 However, this is obscured as long as any of its parts is missing.
 しかしながら、神の子全体の構成部分が少しでも欠けているかぎり、このことはわからないままです。

 That is why the conflict cannot ultimately be resolved until all the parts of the sonship have returned.
 だから、神の子全体に属するすべての者たちが回帰するまでは、究極的には葛藤が解消されることはありえません。

 Only then can the meaning of wholeness in the true sense be understood.
 ただ全員が戻ったときにのみ、真の意味で、全体性の意味を理解することができます。

 Any part of the sonship can believe in error or incompleteness if he so chooses.
 神の子のどの部分を構成する者も、彼がもしそれを選ぶなら、誤りや不完全さを信じることができます。

 However, if he does so, he is believing in the existence of nothingness.
 けれども、もし彼が誤りや不完全さを信じるなら、彼は無が存在すると信じているのです。

 The correction of this error is the Atonement.
 この誤りを修正するのが贖罪です。



7. I have already briefly spoken about readiness, but some additional points might be helpful here.
 私はすでに、準備ができているとはどういうことか手短かに述べましたが、それにいくつかの要点を補足すれば、ここでの理解に役立つことと思います。

 Readiness is only the prerequisite for accomplishment.
 準備ができていることは、何かを成し遂げるための前提条件にすぎません。

 The two should not be confused.
 この準備と成就のふたつを混同してはなりません。

 As soon as a state of readiness occurs, there is usually some degree of desire to accomplish, but it is by no means necessarily undivided.
 準備ができ次第、たいていの場合、ある程度は成し遂げたいと望む気持ちが湧いてくるものです。しかし、このことは必ずしも、準備と成就が区別できないことを意味するわけではありません。

 The state does not imply more than a potential for a change of mind.
 準備のできた状態は、心が変化する可能性があることを意味するにとどまります。

 Confidence cannot develop fully until mastery has been accomplished.
 何事も、習得しようとすることに習熟してそれを会得するまでは、十分な確信を持てるものではありません。

 We have already attempted to correct the fundamental error that fear can be mastered, and have emphasized that the only real mastery is through love.
 私たちはすでに、恐れを力で支配しうるという根本的な誤りを正す試みをしました。そして、愛を通じてしか真の統御は会得できないことも強調しておきました。

 Readiness is only the beginning of confidence.
 準備ができたことは、確信を得るためのほんの皮切りにすぎません。

 You may think this implies that an enormous amount of time is necessary between readiness and mastery, but let me remind you that time and space are under my control.
 このように言うと、あなたは、準備ができたときから真の統御を会得するまでには、途轍もなく長い時間が必要だと仄めかしているように思うかもしれません。しかし、あなたに思い出してほしいことがあります。それは、時間と空間はこの私のコントロールの下にあるということです。


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TAPA
2024/02/11 (Sun) 20:48

"He gave it to his only begotten son"について

いつもありがとうございます。

こちらのエッセイの

The statement "For God so loved the world that he gave his only begotten son, that whosoever believeth in him should not perish but have everlasting life" needs only one slight correction to be meaningful in this context; "He gave it to his only begotten son."

の部分ですが、

これは”Message Of A Course In Miracles”の中の文章なのでしょうか?それとも、ヨハネ福音書の当該部分の正しい解釈を松山さんが書かれたものなのでしょうか?

もちろん、“誰が言ったかは重要ではなく内容のみが重要”ということは承知しております(ただ確認のために伺っております)。これは『コントロールを手放す(無条件の愛―キリスト意識を鏡として)』のエッセイで松山さんが詳しく説明されたようにです。冒頭の言葉がヒトラーの言葉と聞いて驚きましたし、このエッセイの趣旨に沿うよう冒頭にこれを持ってくるあたり、さすが松山さん・・・と感じました。

またエッセイで例示されたように、長い引用があった時、自分もスクロールして先に筆者を探してしまったことがあります^^;(家内もやったと言っておりました)。権威という偶像崇拝です。

神のメッセージが・そしてイェシュアのメッセージが、特定の経路からしか伝えられないという偶像崇拝が、2000年前からだけでなく、現在でも、またコース界隈でも散見されていると感じています。

とある日本のコースの権威が「『神の使者』なんて単語、このサイト内で見たくもない!」と吐き捨てるように言うのを聞いてショックを覚えたのを今でも覚えています。内々での会議の時です。私はこの権威から「コースをやめた方がいい」と言われました。彼らの態度が狭量な原理主義者のそれと重なって見えたため、「それが本当にコースを受け取った人の発言・行動として適切なのでしょうか?」と疑問を呈したためです。それを攻撃と受け取られました。攻撃を攻撃にできるのは自分の知覚だけだと教えられているはずです・・・

神が・イェシュアが集めようとしているものを分けようとしているのに、コースを正しく理解している・教える資格もあると勘違いできるのはどうしてなのだろうか?と思っていました。

ただ、この一連の出来事や状況およびサイトを信奉している人々を、分離の視座から見ることなく、聖霊の采配による単なるAtonement Pathの違いにしか過ぎないという視座に至れるまで、キリスト意識をFollowしていくという意欲を私に起こさせるための“私用のAtonement Path”だったのでは?と今は感じています。

パウロ神学はイェシュアの教えと同一ではないと思っていますが、パウロ神学により一気に裏返る環境を作れたのがキリスト教文化圏だと思います。“満ちたエゴは落ちるのみ”というOSHOの教えのようにです(この時のエッセイも良かったです。私はOSHOに対してワイルドワイルドジャーニー等のドキュメンタリーで代表されるネガティブな印象しかもっていませんでしたので。)

不二一元論が早くから説かれていた東洋では、先人が垣間見た教えを弟子たちが理解できなかったため、大元となる経典が一つに定まらず自我が満ち難い環境になってしまったと考えております。

ですが、自我が満ち難い東洋には、東洋の気質に適した(特に日本人に適した)コースの学習姿勢もある気がします。

西洋のキリスト教が日本人の気質に合わないため、井上洋治神父や遠藤周作さんがキリスト教の仕立て直しを目指しましたが、同じことがコースにも必要なのかも?と思っております。

“白黒を付けたがらない”・“自分の意見がない”という気質は、“白も黒も合わせ飲み易い”・“I surrenderし易い”ということでもあると思います。ガイドを誰に頼むかの決断を誤ることがなければ・・・

長くなってすみません。単に確認の質問だけをするつもりでしたが、最近読ませて頂いたエッセイの感想を感謝の意味を込めて書かせていただきました。

  • To 松山 健 Matsuyama Kenさん
  • コメント
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 松山 健 Matsuyama Ken
2024/02/12 (Mon) 00:54

Re: "He gave it to his only begotten son"について

TAPAさん

いつもありがとうございます。
先月もメールで誤記の指摘をありがとうございました。返信したのですが、また届いていなかったでしょうか。

質問と学習における思いのこもった感想と感謝のお気持ちをいただき、どうもありがとうございます。


名言が誰の言葉かスクロールして見ちゃうのは、あるあるですね(笑)。

7つの習慣でスティーブン・R・コヴィー先生が指摘されているように、人が物事を受け入れ理解するには、エトス・パトス・ロゴスの順序が重要で、信頼性を意味するエトスの第一関門が自然に働くのは健全で社会生活を営むうえでも重要なことなので、一概に、筆者が誰かを気にかけることを権威主義、偶像崇拝と決めつける必要はありません。

ただ、イェシュアは万人、万物を経路としてメッセージを伝えられるはずだという意識を失わないことは大切だと思います。

そして、この万人、万物が各人にとっての学びの教師、教材となりうるという仕組みからすれば、回顧的に思い至られているように、別の登山道で登っている人たちは、同道することもあれば別の道を行くこともあるが、相互に同じ頂上を目指す者として敬意をもって、与えられた気づきに感謝するのみですよね。

奇跡には、まったく違った考え方をする多様な人々の存在を歓迎し尊重することが不可欠です。

エヴェレスト級の登山ではシェルパの助けがいるように、高い山に登ろうとする場合には、道案内がついてしっかりと装備をしてオーソドックスな手順を厳密に守って進むことが安全を守るために欠かせません。

TAPAさんのように、自分の羅針盤だけで野性の勘を頼りに道を歩むことのできる人もいれば、自分だけでは道に迷って遭難してしまう人もいます。

狭量で権威主義に感じられたかもしれない指導・学習スタンスも、多くの人を迷いの落とし穴に落ちずに拾い上げて一緒に進むためには大切なことだともいえます。



自我の熟しにくい東洋、とくに白黒つけたがらず、清濁合わせ飲む日本人の奇跡のコースの学び方というものがあるという点は、私も同感です。

分離、発展、派生を特質とする西洋に対して、調和、統合、収束を特質とする東洋を比べるなら、コースの機能は、分離から統合へのシフトなわけなので、東洋的思考によく馴染むし、和魂洋才的に大和精神で大いなる調和を遂げて平安に至るには日本人の大和魂はきっと役に立つはずです。



それでは、ご質問のほうに移ってご回答しますね。


> こちらのエッセイの
>
> The statement "For God so loved the world that he gave his only begotten son, that whosoever believeth in him should not perish but have everlasting life" needs only one slight correction to be meaningful in this context; "He gave it to his only begotten son."
>
> の部分ですが、
>
> これは”Message Of A Course In Miracles”の中の文章なのでしょうか?それとも、ヨハネ福音書の当該部分の正しい解釈を松山さんが書かれたものなのでしょうか?

この文章は、本節の5.の最終文の引用部分です。ですので、”Message Of A Course In Miracles”でも私でもなく、”A Course In Miracles”の文章ということです。

この文章では、ヨハネ福音書第3章16節のつぎの一文について、ほんのわずかだけイェシュアが訂正したものです。


For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.
神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。


訂正はつぎの箇所だけです。

ヨハネ:"He gave his only begotten son."
    ↓
ACIM:"He gave it to his only begotten son."

これだけですが、これによって意味が逆になります。

For God so loved the world that he gave it to his only begotten son, that whosoever believeth in him should not perish but have everlasting life" needs only one slight correction to be meaningful in this context; "He gave it to his only begotten son.
神はそのひとり子に世をお与えになるほど、世を愛された。それはそのひとり子を信じる者たちがみな亡びることなく永遠の命を受けるためである。


ヨハネ福音書のこの文の前後は、前の文では、神のひとり子を信ずる者たちがみな永遠の生命を得るために、天から降ってきた神のひとり子はふたたび天に昇らなければならない、後の文では、神が子を世界につかわしたのは、世を裁くためではなく子によって世を救うためである、と続きます。


訂正箇所:神が世界にひとり子を与えた → 神は世界をひとり子に与えた


形式面だけみるかぎり、文章としては、神が世界に子を与えたという元の文章のほうが世界に子を遣わしたという後の文にすんなりつながって、元のままで十分に意味は通じるので、なぜ訂正が必要なのか釈然としないかもしれません。

しかし、文脈の趣旨は、永遠である天から時間のある地上に下った神のひとり子はふたたび天に昇って永遠の生命に戻らねばならない、そうすることで、ひとり子を信ずる者たちは自らの本質がひとり子であることを知り永遠の生命に至る、つまり、ひとり子が世界に来て天に帰ることで、世界は救われる、というものです。

これは、世界が神のひとり子が狂気の投影によって生み出した幻想であり、神の子が幻想世界の中のアバターになりきって逝っちゃったままにならないよう目覚めさせるために神が聖霊を与えたというコースの世界観からすると、すんなり理解できる仕組みです。

神の子が分離幻想によって投影して、投げ開かれた投網のように世界に散らばった幻想世界の中の幻想である分裂人格、アバターたちが、聖霊によって正気を取り戻した主人格であるキリストを信ずることで投網が引き戻されるように主人格へと統合されアイデンティティー回復が達成される、分離による拡散を逆転させた統合による収斂というイメージです。

闇狩りをするために幻想ケーサツとなるひとり子を幻想世界に派遣して片っ端から取り締まって裁くのではなく、暖かい光であるひとり子に彼がかつて放り出した幻想世界のほうを与えて愛の光で照らされて闇が消えて主人格への人格統合を果たして世界を救うというふうに、ベクトルは逆になります。

コースのほかの箇所でよく出てくる光を闇に運ぶのではなく、闇を光にもたらす、光に到達した者は光で闇を照らして消し去る任務(赦し)が生じるという仕組み( https://thereisnospoon.jp/blog-entry-649.html )からしても、このイェシュアの訂正はしっくりくるといえます。

それでは、今後ともよろしくお願いいたします。

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TAPA
2024/02/13 (Tue) 21:13

No title

>先月もメールで誤記の指摘をありがとうございました。返信したのですが、また届いていなかったでしょうか。

はい、すぐにお返事と訂正をして頂き、感謝しておりました。ただ、お返事を返さなかったのは、今回のコメントでもお分かり頂けるように、一度心の内を吐露し出すと長くなってしまい、結果的に相手に迷惑をかけることになってしまう・・・・を危惧してのことでした。所詮誤記なので、“事務連絡ね“と思って下さるだろうと思いご返信しませんでした。


今回質問させて頂いた部分を訂正されたとおりに読むと、松山さんの次の解説のように理解できました。

>神の子が分離幻想によって投影して、投げ開かれた投網のように世界に散らばった幻想世界の中の幻想である分裂人格、アバターたちが、聖霊によって正気を取り戻した主人格であるキリストを信ずることで投網が引き戻されるように主人格へと統合されアイデンティティー回復が達成される、分離による拡散を逆転させた統合による収斂というイメージです。

>このイェシュアの訂正はしっくりくるといえます。


今回ご質問させて頂く前に、『コースの言葉では?』と思い(記憶にありませんでした、恥ずかしながら・・・不勉強です)、F.I.P版とCircle of Atonement版・松山さんのサイト・大畑さんのサイトを検索しましたが、ヒットしませんでした。今回のお返事で検索の仕方が悪かったのだと分かりましたが、、、

ただ、あまりにも“しっくり”くる訂正を、たった2単語を挿入するだけ可能とする知性と、尚且つ、アンタッチャブルとされている聖書の言葉をいとも簡単に訂正できる大胆さの主は?・・・その出所は?・・・いやいやそもそも“しっくり”くるように感じたその自分の心象自体が勘違いなのでは?・・・と思った故の今回の質問でした。


コースの言葉と聞いて、自分の不勉強を反省するのと共に、イェシュアの知性と優しさを感じました。大幅な改変を聖書にするなら反発する人も多いでしょうが、ちょっとした訂正のみで意味を変えるなら、気づかない人は素通りできるし、気づく人なら大いなる恵みにできる、というやり方にです。もちろん、松山さんの知性と優しさも言うまでもなくです。


>TAPAさんのように、自分の羅針盤だけで野性の勘を頼りに道を歩むことのできる人もいれば、

野性の勘ではなく、自分としてはいつもエトスの言葉を“毒を食らわば皿まで”の姿勢で学んできたつもりです。ただそのエトスの説くロゴスが、他のエトスの説く反ロゴスを包含できなくなった時、乗り換えをしてきました。私にとって、松山さん・松山さんのサイトおよび松山さんの紹介される本は、現在の私のエトスとなっています。なぜならエッセイ等から受け取れるロゴスが、全て包含しようとするパトスを感じさせてくれるからです。


>自分だけでは道に迷って遭難してしまう人もいます。

先のサイトを作った直後で、まだ管理者の権限を放棄する前、『“盲人が盲人の手を引く”をするサイトを作ってしまったのかも?』と思い、全消去をしたくなった衝動に駆られた時がありました。先のリーダーに報告して管理者の権限を剥奪してもらいました。

今もそのサイトは活気があるみたいです。誰かの役には立っています。また、そこから追い出された人も何人か知っていますが、その人達も、その経験を赦すことで進んでいるようですし、自分もその一人でありたいと思っています。


昔、トライアスロンをやっていた時、runパートの途中で並走してきてくれる人がいました。疲労困憊の中、一人で最後の42kmを走る辛さを知っている人だったのでしょう。並走者がいることで私のペースも上がりました。挫けそうな心を繋ぎ止めてくれました。ただ、私が彼のペースで走れていた間は並走してくれましたが、私が付いて行けなくなった時、彼は別の人を見つけ並走を続けていきました。


>別の登山道で登っている人たちは、同道することもあれば別の道を行くこともあるが、相互に同じ頂上を目指す者として敬意をもって、与えられた気づきに感謝するのみですよね。

同じゴール・頂上を目指すもの同志、できるときは協力しあい、別の道を行くことになったら、“ゴールで会いましょう!”と言い合える仲でありたいですよね。

追伸:
ジョセフ・ベナーさんの三部作も読ませて頂きました。とてもよかったです。「もうすぐ死にます」はアマプラで見ました。主人公と死との最後の対話がとても印象深かったです。死が「私のルールの中でお前は勝った」という内容の発言をしましたよね。このシーンを見た時、荒野での三大試練のことを思い出しました。「結局、イェシュアもサタンのルールの枠内で勝ったんだよね・・・」と思いました。

頂いたお返事に対し、不十分な返信にも感じますが、レスポンスの速さと文の短さを優先してお送りします。

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 松山 健 Matsuyama Ken
 松山 健 Matsuyama Ken
2024/02/15 (Thu) 08:56

Re: No title


TAPAさま

お返事ありがとうございます。
メールの件、ご説明ありがとうございました。


> 今回ご質問させて頂く前に、『コースの言葉では?』と思い(記憶にありませんでした、恥ずかしながら・・・不勉強です)、F.I.P版とCircle of Atonement版・松山さんのサイト・大畑さんのサイトを検索しましたが、ヒットしませんでした。今回のお返事で検索の仕方が悪かったのだと分かりましたが、、、


灯台下暗しで、同じ記事のコースの本文からの抜粋なので、検索するまでもなく、しっかり本文を読んでもらえば事足りたわけです(笑)。


エッセイで管理人の文章ではない抜粋や引用の文章は、「」で表記し、カギカッコの末尾に()で抜粋元の表示や関連記事のリンクをつけています。


他方で、「」で括りながら、末尾に抜粋や引用の参照先の表記のない文章は、当該記事のエッセイのあとに続くコースの本文の解説のために、コース本文から解説を要する文章を一部抜粋したものです。


今後、「このサイトの使い方」の記事を修正して、凡例として、この点にも触れて示したいと思います。








> 野性の勘ではなく、自分としてはいつもエトスの言葉を“毒を食らわば皿まで”の姿勢で学んできたつもりです。ただそのエトスの説くロゴスが、他のエトスの説く反ロゴスを包含できなくなった時、乗り換えをしてきました。私にとって、松山さん・松山さんのサイトおよび松山さんの紹介される本は、現在の私のエトスとなっています。なぜならエッセイ等から受け取れるロゴスが、全て包含しようとするパトスを感じさせてくれるからです。


「すべてを包含しようとするパトス」、私がコースを通じてイェシュアに対して抱いているイメージは、まさにそんな感覚です。


コースは罪や幻想を看過する赦しを教えるので、実在する真理のみを尊び、幻想はガラクタとして切り捨てて排除すべしという発想につながりやすいといえます。


けれど、これこそが本来自分のものであり自分自身でもあるすべてのうちの気に入らないものを「自分」の「外」に投げ捨てて、分離した主体としての自分と、客体となる、ゴミ捨て場としての世界と他者を生み出す元凶となった誤創造、投影の仕組みなわけです。


ですので、このプロセスを逆転させて投げ広げた投網を引き戻す作業において、聖なるものだけを選別しようと裁き心を発揮するのではなく、神聖さも不浄さも、真偽、美醜、善悪、賢愚を問わず、すべてを区別せずに受け入れようとするスタンスは大切だと思います。
https://thereisnospoon.jp/blog-entry-98.html


この世界では、実在、愛、真善美といったものの評価は立ち位置によって簡単にコロコロと転変するものですが、価値判断は私たちにはなしえず聖霊のみが為しうるものだからです。




「The power of God is limitless.
 神の力は無限のものです。


 And being always maximal, it offers everything to every call from anyone.
 そして、神の力はつねに最大限のものなので、神の力は誰からのどんな呼び声に対しても、すべてを差し延べてくれます。


 There is no order of difficulty here.
 このことに関して、難しさの序列などありません。


 A call for help is given help.
 助けを求める呼び声には、助けが与えられるのです。




7. The only judgment involved is the Holy Spirit's one division into two categories; one of love, and the other the call for love.
 そのために必要な唯一の価値判断は、 こうした呼び声をふたつのカテゴリーに振り分ける聖霊のなす唯一の区別だけです。カテゴリーの区分は、ひとつは愛、もうひとつは愛を求める呼び声です。」( https://thereisnospoon.jp/blog-entry-736.html )


引き戻した投網には、愛だけでなく、愛以外のガラクタのようにしか見えないものがたくさん引っかかってくるわけですが、それを聖霊に2カテゴリーに分類してもらって、幻想は実在しない無であるとして成仏させるのが赦しとなるのだと思います。


このように、コースは、愛以外の非難・攻撃等の受け入れがたい呼び声に対して、攻撃で返すのではなく、愛を求める呼び声のカテゴリーに分類して本質通りに愛で返すようにと教えるわけで、それはつまり、すべてを区別せずに歓迎するスタンスだといえます。

相手や対象を序列化したり選別したりせず清濁合わせ飲む、はてしない物語の女王幼ごころの君がファンタージエン国のすべての生き物を自分自身として大切にするのと同じような感覚です。

コースのスタンスは、このように万物を除外せずに包容するという、きわめて寛容度が高く安定性の高いOSであるように感じています。

ウイルス対策ソフトのようなもので、そもそも異分子を取り込んで問題解消するために設計されているので、異質な思想等から影響されて害悪を被って体系が破綻するのを恐れなければならないヤワな代物ではなく、ハイパワー掃除機のように、ゴミやウイルスでもなんでも取り込んでも少しもダメージを受けることはなく、むしろポジティブなきれいごとだけ吸引したのでは、材料が足りずに光を放つことができないという感じです(不浄なものや災厄、不幸といったネガティブはポジティブと引き合わせることで光に転化させるための大切な材料です。 https://thereisnospoon.jp/blog-entry-707.html )。

汚泥を養分として綺麗な花を咲かせる蓮のような植物からすれば、泥水は不浄だといって濾過して浄化した清い水の中に植わることになったら、かえって栄養失調になって花を咲かすどころか枯れてしまうでしょう。


アンラーンを実現するため、すなわち、実在しない幻想を削ぎ落として奥にある真理を露わにするためなら、大理石の中の天使を彫り出すための鑿ややすりとして、善悪、美醜、賢愚を問わず、すべてを取り込んで生かすことができるはずだという発想です。


先日のコメントでの東洋、日本人ならではの学びという点に通じますが、外来のものをなんでも取り込んで独自の優れたものへと昇華する日本文化さながらに、プラスもマイナスも区別せずに万教帰一的にあらゆるものごとを受け入れて光に変えていくという感覚です。

このような感覚なので、コースを端末に入れるアプリケーションのひとつとして位置づけるなら、後生大事に異質な考えに毒されないように大切に割れ物を扱うように保って鑑賞しなければならないけれど、端末の基盤となるO Sとして位置づけるなら、異質な思想は外敵ではなく、端末がよりよく本領を発揮できるようにするためのエネルギー源のような位置づけとなります。





> 同じゴール・頂上を目指すもの同志、できるときは協力しあい、別の道を行くことになったら、“ゴールで会いましょう!”と言い合える仲でありたいですよね。


そうですね。同じ目的を目指すという意識があれば、無理に人や物事に執着してすがりつく必要はなくなりますよね。


他者に対しては、心の中で、自分と同じく神の子が「私」I AMとして宿る兄弟であるという認識さえ見失わなければ、万人と仲良しになる必要はないし、むしろ葛藤や争いを避けずに自分の道を進むことが大切に思います。
https://thereisnospoon.jp/blog-entry-586.html




> 追伸:
> ジョセフ・ベナーさんの三部作も読ませて頂きました。とてもよかったです。「もうすぐ死にます」はアマプラで見ました。主人公と死との最後の対話がとても印象深かったです。死が「私のルールの中でお前は勝った」という内容の発言をしましたよね。このシーンを見た時、荒野での三大試練のことを思い出しました。「結局、イェシュアもサタンのルールの枠内で勝ったんだよね・・・」と思いました。



私は、ジョセフ・ベナーさんの存在をつい最近まで知りませんでしたが、著作を読んでみると、おぼろげに感じていたことを明確に語ってくれていて、そうそう!と膝を打って、世界は面白いなあと感じ、イェシュアは、適切なタイミングで必要なものを与えてくれるものだと感謝しているところです。



「もうすぐ死にます」の最終話で、死が「私のルールの中で私に勝つといったな」「お前の勝ちだ」と言うセリフですね。


ジョーゼフ・キャンベルさんのヒーローズ・ジャーニーと神話の法則で言えば、「もうすぐ死にます」の死は、敵対者の形をとった師(メンター)に当たると思います。

主人公イジェは、最初は、自分よりも強大な力を持つ存在である死から罰を与えられたと受け止めて、そのまま地獄行きを免れるために、死から科されたルールに従って、難ゲームに挑戦するようにゲームクリアして、死に勝って地獄行きを回避しようとします。

けれど、12人に転生するという「罰」を受け終えた時点で、自殺した最初の時点では気づいていなかったさまざまな観点からの気づきを得て、自分の持ちもののように捨てた自分の生命は、実は、自分の持ちものではなく他者に捧げるために神から託された贈りものだったのだ、死から与えられた罰は実は恵みに気づかせてくれる「祝福」だったのだと思い至ります。

イジェは死から科される罰を受け入れ体験することを通じての学びでした。

バスチアンが欲望に従ってエゴに支配される道を歩み痛い目を見ることで学んだように。

これに対して、イエスの荒野の試練は、罰ではなく誘惑という形で、誘惑を受け入れず選択することでした。

まだまだ学ぶことがたくさんあったイジェに対して、イエスは、すでに学びを遂げてこれから救世の業に乗り出そうという、それまでの学びの総仕上げとしての試練でした。

エゴの奴隷となったバスチアンのように、誘惑に屈して虚しさを味わったり痛い目に遭うことを通じての学びは、もはやイエスはとっくに修了しているということを確認するための最終テストです。

イエスを荒野に導いたのが悪魔ではなく聖霊であったことからも、荒野の試練は聖霊が主宰する最終テストで、聖霊から試験官を頼まれた悪魔によって、誘惑を退けられるかという試練を受けたわけで、悪魔は敵対者の形をとった味方だったといえます。

この悪魔の誘惑に対して、イエスが奇跡の力で石をパンに変えて解決したり、悪魔に屈服して世界を支配したり、神に守られていることを示すために神殿の頂上から飛び降りたりと、悪魔の設定にそのまま乗っかって自分の力や地位を証明したとしたら、それは力は持ってはいてもエゴに奉仕していることを示すだけなので、テストには落第になっただけでしょう。

この点で、「もうすぐ死にます」の死の試練と荒野の誘惑での悪魔の試練とは、ベクトルは逆な面もあると思いました。


TAPAさんには、アラン・ワッツ先生の「タブーの書」がしっくりくるように感じます。
まだ読まれていなかったら、ぜひ読んでみてくださいね。

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 松山 健 Matsuyama Ken
 松山 健 Matsuyama Ken
2024/02/17 (Sat) 08:58

Re: Re: No title

「タブーの書」は「ラットレースから抜け出す方法」と同じ本なので、どちらかをお持ちだったら、別のを買う必要はありません。

https://thereisnospoon.jp/blog-entry-421.html

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TAPA
2024/02/19 (Mon) 21:50

その1

注)釈迦に説法的なコメントになってしまいましたが、公開コメントなので他の方が読んで下さることを待して書きました。偉そうに見えたり聞こえたり、非難のように見えたとしてもご容赦ください。

注2)長すぎるせいか不正なコメントと判断され投稿できませんでしたので、分割して投稿します。

>コースは罪や幻想を看過する赦しを教えるので、実在する真理のみを尊び、幻想はガラクタとして切り捨てて排除すべしという発想につながりやすいといえます。

>この世界では、実在、愛、真善美といったものの評価は立ち位置によって簡単にコロコロと転変するものですが、価値判断は私たちにはなしえず聖霊のみが為しうるものだからです。

まさにこのとおりだと思います。

価値判断はコースの原書では、“judgment”と記載されますよね。これを邦訳では、“裁き”とか“価値判断”という訳語を訳者の視点により、あらかじめ使い分けられてしまっています。ただ、その判断は、訳者の特定の立ち位置から生じたものです。したがって、日本語訳のみを読む場合、少なくとも立ち位置を選択する機会・訓練を一回奪われていると思います。このような邦訳による弊害は他の多くの単語でも起こっているので、できれば原典を読むこと、無理ならば少なくとも英語と邦訳を見比べながら学ぶことが、コースを正しく理解する上でとても大切だと思います。

特に“real”というような単語は、“実相”とか“実相世界”とか“あなたの現実”とかと訳されますが、文脈によって何を意味しているかが変わります。しかし、どの立ち位置から見るかによって、二通りの読み方ができるように、あえて書かれている箇所もあるように感じておりました。

『どちらの意味だろう・・・どの立ち位置からの言葉なのだろう・・・』と考える中で、立ち位置の違いや自我の形成過程で自分に刷り込まれたロジックをより深く理解(疑っていくこと)ができてきたと感じています。

この訓練の中で、聖霊に明け渡すべき価値判断の立ち位置の見極めができてきたように感じています。


><1>、このような感覚なので、コースを端末に入れるアプリケーションのひとつとして位置づけるなら、後生大事に異質な考えに毒されないように大切に割れ物を扱うように保って鑑賞しなければならないけれど、
><2>、端末の基盤となるOSとして位置づけるなら、異質な思想は外敵ではなく、端末がよりよく本領を発揮できるようにするためのエネルギー源のような位置づけとなります。

私が今回お伝えしたサイトは、コースを<1>のように考え管理されているように見えました。管理者の一人から『コースと他のものを混ぜないように』とよく私は注意をされました。私には混ぜるという意識は一切なく、“エポケー”してきた課題を、コースの教えを活用して“包含するために”“解釈し直す”ということを行なっていたつもりでしたし、それはコースの教えでもある<もう一度選び直しなさい>の実践だとも思っていました。(弁証法のアウフヘーベンと言っても、第3の案を探す行為と言ってもいいと思います)。しかし、その行為を否定されたので、意味がわかりませんした。新たなエポケー起点となりました。

また、私と同じようにこのサイトを追放されたうちの一人は、元々カトリックの信者だったので、既存のキリスト教的神学から解放されていない部分があるにはありました。それが他の学習者に悪影響を与えるという判断のもと追放に至ったそうです。この<1>のような姿勢でコースと向き合っていたなら、これらの反応も同然なのかもしれません。

正しい姿勢は、<2>のように、聖霊の選択の第2カテゴリにかつての反を入れてもらい、そもそもの正反の判断自体が誤りだったということを教えてもらう機会として受け入れることだと思います。

先のサイトの管理者から「一つの投稿からサイトの雰囲気が悪くなることがある。それらを管理するのがとても大変だ。そのために自分たちは目を光らせている。」というようなことを言われました。暗に「あなたたちのような人が雰囲気を悪くするので・・・」ということを言いたかったようです。和気藹々とするなかでコースの真髄を受け取ることができるのであればそれでもいいですが、その可能性は低いと思います。

この管理する・コントロールするという姿勢は、イェシュアの言葉の流布・解釈ついても当てはまると考えているようでした。イェシュアの言葉にもこの世での権利という枠をはめようとしていましたが、イェシュアの言葉以上にパブリックドメインなものはこの時空内には存在しないはずです。

全てを包含するものに対極はありえないを忘れてはいけないと思います。

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TAPA
2024/02/19 (Mon) 21:51

その2

話題を変えますね。もうすぐ死にますについてです。


>エゴの奴隷となったバスチアンのように、誘惑に屈して虚しさを味わったり痛い目に遭うことを通じての学びは、もはやイエスはとっくに修了しているということを確認するための最終テストです。

私もまさにこのように考えています。私が、なんの説明もせずに、「私のルールの中で私に勝つといったな」「お前の勝ちだ」の部分を引用してしまったために、私が「もうすぐ死にます」のドラマにイエスの生涯を重ねている?と思わせてしまったかもしれません。もしそうだとしたらゴメンなさい、誤解です。「もうすぐ死にます」にあって同じコンセプトの小説である「九死虫」(こちらも読ませて頂きました)になかったのが、この“同じルールの中で勝つ”という視点だと感じました。

私が、「結局、イェシュアもサタンのルールの枠内で勝ったんだよね・・・」と感想を述べた真意は、ヨガナンダ先生が、『人生の永遠の探求』の講話39「イエスは再臨するか」の中で語られていたのと同じような見方からです。(松山さんが紹介されていので読ませて頂きました)

以下、ちょっと長くなりますが、松山さん以外の方も読んでくれるかも?という願いを込めて引用します。

『イエスがこの地上で演じた完全な生涯も、彼がいくつもの過去世を通じて養った自己制御の結果です。イエスのキリストとしての奇跡的生涯は、長い過去世における修行の賜物なのです。彼はアヴァター(神の化身)として生まれましたが、実は過去世において、普通の人間として肉体の誘惑と闘い、それを完全に克服していたのです。彼は、自らそういう手本を示すことによって人類に明確な希望を与えました。そのような実例を見せられなかったら、人はだれも、自分たちの可能性に気づくことさえできなかったでしょう。そして、神が天使を遣わして教えを説いても、私ならこう言うでしょう、「主よ、あなたはなぜ私も天使としてつくってくださらなかったのですか?私があなたから課せらているのと同じ試練や誘惑と闘った経験のない、初めから完全につくられた人たちを、どうしてまねすることができましょう」と。
 われわれが見習うことのできる手本は、本質的にわれわれと同じ人間でなければなりません。イエスも今生でいろいろな誘惑に会いましたが、「サタンよ、去れ」と言って、それに打ち勝ちました。もしイエスが、初めから誘惑を知らない完全な存在だったら、「サタンよ、去れ」と言った彼の言葉は単なる演技で、われわれに勇気を与える力はなかったでしょう。イエスは、過去世においてすでに肉体を克服していましたが、今生でイエスとして生まれることによって、再び肉体の弱さを感じなければなりませんでした。そうすることによって彼は、われわれと同じ条件のもとで誘惑を克服し、だれでも彼のような高い霊的成長を遂げることができるという模範を示したのです。』(人生の永遠の探求、p229-p230)

これが私の感想「結局、イェシュアもサタンのルールの枠内で勝ったんだよね・・・」の真意ですが、先のコメントで詳しい解説を書かせてしまう事態になるとは思わず、お手を煩わせてしまい申し訳ありませんでした。単に感銘深く見させて頂きましたというご報告のつもりでした。

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TAPA
2024/02/19 (Mon) 21:54

その3


同じルール内ということの重要性は以下のようなできことからも感じて来たことです。

コース学習者とその指導者との会話で“ちゃぶ台返し”的なルール違反を感じることが間々ありました。

ある学習者が日常での悩み・苦しみを打ち明けていた時に、『全ては夢なので・・・』を繰り返す指導者や、指導者側から『世界はあるの?他人はいるの?』と質問し返し、『ない!』と回答させる指導者とそう答えてしまう学習者を見た時などです。

これは、自分の経験を否定するというコースが戒める否定の使い方に該当するのでは?と感じてしまいます。


「最高ですか~?」「最高で~す!」というコール&レスポンスを信者に対して繰り返していた宗教団体の教祖が逮捕された事件がありましたよね。自分の心を偽って「世界はない」と言ったとしたら、コースを学んでいたとしても、同じ穴の狢と言えると思います。コースは自己欺瞞の教えではないはずですよね。

>コースは罪や幻想を看過する赦しを教えるので、実在する真理のみを尊び、幻想はガラクタとして切り捨てて排除すべしという発想につながりやすいといえます。

今回の返信で最初に引用させて頂いたこの松山さんご指摘ですが、これを地で行く例と言えるかもしれません。形而上学的にはillusionであったとしても自分がrealだと感じていたらそれはあくまでも自分にとってはrealであり、「幻想ですか~?」「幻想で~す!」を何度繰り返しても、問題に真摯に向き合うことをせず、根底にfearが隠されていたままなら、自分のrealはillusionには還らないと思います。

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TAPA
2024/02/19 (Mon) 21:58

その4

NHKのこころの時代で見たのですが、NPO法人抱樸(ほうぼく)の代表の方が、「現代のキリスト者・教団が忘れてしまったことは、3つ目の役割であるインマヌエルということだと思います。インマニュエルとは、ヘブライ語で『神は我々と共におられる』という意味です。」とおっしゃっていました。

先の2人のコースの指導者の回答は相談者と共にあるという姿勢からは外れていると思います。共にあるとは、隣人であろうとすると言い換えることもできると思います。

“鏡としての世界をどう見るか”“自分の目にはどう写っているか”によって自分が聖霊と共に見ようとしているのか、自我と共に(結局は一人で)見ようとしてるかを判断できるとコースは教えていると思います。

これは、『夜と霧』『それでも人生にイエスと言う』等の著作で有名なヴィクトール・E・フランクルさんが「私たちが人生の意味を問うのではなく、私たちが人生(世界)に問われている」と著作で述べていますが、このことはコースと同じことを伝えているのでは?と感じていました。

「ヴィクトール・E・フランクルさんのこの見方は、聖霊に『あなたはこれらの出来事をどのように見ますか?見たいですか?』と問われているコースの教えと同じ見方では?」と先の指導者に意見を聞いたところ

「それは間違えている。世界はないから・・・」とのお返事を頂きました。私の本意が伝わらなかったのかもしれませんが、このような見方は自己欺瞞の穴へと落ちていく危険もあると思います。少なくとも、手首足首に釘を打たれて痛みを感じるレベルで“世界はない”と本気で言える人はいないと思います。とんぷく的にどうしても恐怖から抜けられない時に一時凌ぎとして「世界はない」をお題目として唱えるのはいいとしても、常用するのはリスクが高いと思います。

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TAPA
2024/02/19 (Mon) 21:59

その5

ワプニックさんも、「妻も娘もレイプされた上に殺された人に『全ては幻想です』というのではあまりにも残酷です。」と言っていました。あくまでも心での訂正のみを強調されていたワプニックさんででもです。究極的には「全ては幻想です」は正解です、、、

ですが、これは最後の段階であり、そこに至る前には、他人の利益と自分の利益を等しく考えるというところから出発しないとだめであり、そのためにはまず寄り添えるということが必要だと思います。先のNPO法人の方の言葉を借りると『抱樸』ということです。抱樸とは丸太をそのまま抱くという意味だそうです。そのままの丸太は、ささくれ立ったところなどがあるため、そのまま抱くと痛い、その痛みごと抱く、という思い・決意が込められているそうです。

善きサマリア人のたとえで、ロゴスでイエスをやり込めようとしていた律法学者のルールの中で、イエスは、当時、神に近い存在だと思われていた祭司でもレビ人でもなく、相手に寄り添おうとしたパトスを持った、当時、神から遠い存在と見られていたサマリア人を、あえていのちへ至る人として取り上げ、隣人としての例示としました。

この律法学者はイエスに対し攻撃を仕掛けたのですが、それを助けを求める誓願としてイエスは処理したのだと思います。そのため、その律法学者が謙虚にイエスの言葉に耳を傾けたなら、それまでに培ったロゴスを活用し、いのちへの道を邁進できたのでは?したのでは?と思っています、願いを込めて。


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TAPA
2024/02/20 (Tue) 10:25

その6

おなじこと(同じルール内で対応するという姿勢)は以下のような部分からも感じています。

イエスは、律法を成就するために来たと言いました。律法を廃するのではなく、律法の解釈が間違っているので訂正し完全な解釈を提示(=律法の成就)してくれているのだと思います。それは、2000年前からずっと続いているのだと思います。

「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に・・・」では、この世の法律にも神の立法にも抵触することなく、仕掛けられたトラップを避けつつかつ真理を示してくれました。(正も反も併せ呑んだアウフヘーベン)

姦淫した女を石打ちにせよという時も、律法をやぶることなく、罪はないということも言わず(罪は単なる誤りですとは言わず。受け入れる土壌がないため当時はルール違反)、その場を収めましたしたし、悔い改めの機会をその場の全員に示しました。

また、他のところでは、律法は行為として姦淫しなければといいと言っていると思ってるだろうが、本当の律法は、心での姦淫や心での殺人をしなくなることである、ということを示してくれました。

イェシュアの回答は、問題の発生した次元を超えてはいますが、問題を抱えている人の次元から乖離することなく寄り添いながら諭してくれていると思います。同じルール内で勝つについては以上です。


ちょっと話がずれるかもしれませんが、広い意味では関係があると思うので、ちょっと書かせてください。ちゃぶ台返し的な対応が起こる元凶は、ゴールの見誤りという気がしています。

コース学習者にあなたは何のためにコースを勉強していますか?と問いかけたとしたら、以下のような答えが返ってくるのでは?と想像します。

   コースを身につけるのが学ぶ目的
   輪廻から抜けるのが目的
   幻想を幻想として見極められるようになるのが目的
   天国に至るのが目的

コースを学ぶ目的を考えた場合、このような色々な理由が挙げられるでしょう。ですが、本当のゴールは“平安にあること”と言えると思います。そして“ゴールは今受け取れなけれはいつまでも受け取れない”とも言える気がします。

これが第一義的なゴールであり、上に例示したものは全て二義的なものだと思います。そしてこの第一義的ゴールを目指す上の心構えとして以下の姿勢が重要だと感じています。

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TAPA
2024/02/20 (Tue) 10:28

その7

Even if no salvation should come, I want to be worthy of it at every moment.
たとえもし救済が訪れることがないとしても、私はどんな瞬間においても、救済にふさわしくありたいと思う。

これは松山さんがエッセイで引用してくださったカフカの言葉です。


コースを勉強している人の中に、「もう輪廻しない」をゴールとして定めている人がいるそうです。これはちょっと動機がずれている気がします。迷っている羊が一匹でもいる間は、その一匹のために輪廻しなければならないとするなら、何度、輪廻しても構わないということこそが上の文の it に相応しいということになるのだと思います。最終的に salvation が訪れ輪廻から抜ける状態が訪れるでしょうが、その前に、たとえ天国に入れないとしても、迷っている羊がいるならば、それに寄り添い続けるという意欲が“平安にある”という目標に必要なのだと思います。

マタイ5章
38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
41 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
42 求める者には与え、借りようとする者を断るな。
43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
46 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
47 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

これが世界を赦すための・隣人になるための姿勢なのだと思います。これができているならゴールに達していると言えるでしょうし、輪廻のことやいつゴールに達するのかなどということなど気にならなくなると思います。

すでにある(I am)ものが、何かになる(I become)ことはできない、すでにあるものである(I am that I am)を思い出すように、そのために必要なものは全て与えられている、それを信頼しなさい、と呼びかけられているのですよね・・・

そのためには、『世界はない・他人はいない』などと言わずに、他人・世界・罪のように見える物に真摯に向き合うことが出発点だと思います。コースを真面目に勉強している人なら形而上学的なペーパーテストで満点をとるのは簡単でしょう。でもそれを使えなければ持っていないと同じですよね。与えた時に持っていたことがわかるのですから、善いものも悪いものも・・・


この状態に対しての警鐘とも解釈できる聖句があるようにも思っています。

先のものが後になり後のものが先になるという聖句がありますが、この聖句の意味には、悟りたい・ゴールに着きたいと、寄り添うべき人に寄り添わず、許すべきことを赦さずに先を急ぐ者は、結果的にその思いが足枷となり、悟りが遅れるということも含んでいるのかもしれません。善きサマリア人のたとえの最初の2人のような人たちです。先の引用の<1>のような姿勢です。

エマヌエル・スウェーデンボルグさんの本を読んだ時、「イエスの使徒が地獄にいるのを見た」という記述があったのを覚えています。出典を探したのですが、見つかりませんでした。なぜ地獄にいるのかについては、イエスの教えを正しく理解していなかったため、という説明が書かれていたような・・・といううっすらとした記憶がありますが、気のせいの可能性も高いです・・・ただ、本当にイエスの弟子でありなおかつ地獄のような場所が存在するなら、そこの住人を救うために、イエスの弟子がそこに赴いていたとしてもなんの不思議もないと思います。

最後の一匹を見つけるまでその一匹を気に掛けるのが善き羊飼いであり、その羊飼いの弟子ならば、どこへでも赴くと思います。自分もそうでありたいと思います。

文まとまりませんでしたが、ひとまずこれで終わります。

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 松山 健 Matsuyama Ken
 松山 健 Matsuyama Ken
2024/02/24 (Sat) 11:16

Re: その7

TAPAさん


コメント、どうもありがとうございました。
読み応えのある内容で、このサイトの読者の方々の参考になる観点が述べていただけていると思います。感謝申し上げます。


さて、詳細に説明いただいて、「同じルールの枠内で」との言葉で意図された趣旨がよくわかりました。真意を汲み取れず誤解してしまいました。申し訳ありません。


私たちコースを学ぶ者にとって、TAPAさんが最後に引いてくださった善きサマリア人のたとえは、つねに心に留め置く必要がありますね。


>この律法学者はイエスに対し攻撃を仕掛けたのですが、それを助けを求める誓願としてイエスは処理したのだと思います。そのため、その律法学者が謙虚にイエスの言葉に耳を傾けたなら、それまでに培ったロゴスを活用し、いのちへの道を邁進できたのでは?したのでは?と思っています、願いを込めて。

この観点は面白いですね。

イエスにとっては、自分に論理攻撃を仕掛けてくる律法学者も助けを求める兄弟であり、律法学者と同じロゴスのルール内で切り返すことで、愛と生命に至る道を示して助けで返したという捉え方ですね。

私たちは、どうしても敵や悪者として自分の外に分類した他者は、救いの対象から切り捨てられて当然だし、むしろ報いを受けて罰せられるべきですらある、という発想に陥ってしまいます。

同じ人間として憐みを施したサマリア人に対して、形式的に律法に従って助けずに見捨てた祭司やレビ人は人でなしと感じてしまうし、イエスを試すために論理の罠にはめようとした律法学者のことも、おそれ多くもイエスを攻撃した不届きな悪者としてみて救いの対象から外してみてしまいがちです。

ですが、当のイエス自身は、それを助けを求める哀訴とみて、反撃することなく、相手である律法学者にとって最も気づきの得やすいロゴスのルールの枠内で生命への道を示して助けで返してあげたのでしょうね。




コースを学ぶ目的に触れてもらったので、補足をさせていただきます。

>コース学習者にあなたは何のためにコースを勉強していますか?と問いかけたとしたら、以下のような答えが返ってくるのでは?と想像します。

   コースを身につけるのが学ぶ目的
   輪廻から抜けるのが目的
   幻想を幻想として見極められるようになるのが目的
   天国に至るのが目的

コースを学ぶ目的を考えた場合、このような色々な理由が挙げられるでしょう。ですが、本当のゴールは“平安にあること”と言えると思います。そして“ゴールは今受け取れなけれはいつまでも受け取れない”とも言える気がします。



そうですね。つぎのように、コースの学習目的を個人の側から表現すれば、平安な境地に到達するためということになります。

「1. Forget not that the motivation for this course is the attainment and the keeping of the state of peace.
このコースを学ぶのは、平安な心境に到達し、その心境を維持するためだということを忘れないでください。

Given this state the mind is quiet, and the condition in which God is remembered is attained.
平安な心境にあれば、心は静まり、神を思い出すための条件が整います。」( 第二十四章 特別であるという目標 https://thereisnospoon.jp/blog-entry-752.html )

コースは人の子の覚醒ではなく、神の子の覚醒を目指している(レッスン212(レッスン192の復習) https://thereisnospoon.jp/blog-entry-431.html のエッセイ)という観点からすると、アバターである私たちが神の子が天国に到達することを妨げている張本人なわけなので、その学習者個人が解脱したり悟りを得たり天国に到達したりすることを目的にコースに取り組むことは的外れと言えるかもせれませんね。


アバターであるエゴが自分が覚醒しようとがんばって神の子の覚醒を邪魔するのをやめる、明け渡し状態に達することを平安に至ると表現するわけですが、平安な境地に至るということも、個人の側からの位置づけをしてみるかぎりは、(個人としての)「自分が」輪廻から脱する、天国に至ることを目指してコースを学ぶのと変わらないエゴ本位の動機付けのようにみえて区別がしにくくなってしまいます。


この点で、私は(そもそもコースを学び始める際の動機は、引き寄せの法則的なエゴの欲しがる現世利益の実現を期待して、というものでも、悟りを得たいというスピリチュアル・エゴの欲求によるるものでも全然かまわないと思いますが、)いったんはじめた学習を平安に至るうえで効果的な方向に軌道修正するうえでは、学習目的をドラスティックに転換するのが効果的だと感じています。


それは、真善美のみを奉り、アバターでしかないはずの自分個人の覚醒を目指すという結晶化した神聖さ至上主義から、虚偽や災厄や不運というネガティブを歓迎し、自分を架空の存在とみなして他者を実在する神の子を宿す真実の存在とみなしてという意図的な価値観の反転を導入することです。


このように、自分個人の覚醒や平安は得られようが得られまいがどうだっていい(笑)と、獲得することを目指す目標としては据えずに、棚上げして、他者を神の子とみて彼が本当の自分に気づく手助けをすることに専念できるよう思考体系を組み替えるのが結果的に平安な境地をもたらすのではないでしょうか。

そのためのツールとしてであれば、コースは本領を発揮するように思います。


今後ともよろしくお願いいたします。

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