T24-1 愛の代用としての特別性

「遠い遠い昔のこと、」花咲くおばさまははなしはじめた。
「わたしたちの国の女王幼ごころの君は、重いご病気で、もう死にかけていらっしゃいました。女王さまには新しいお名前が必要で、それをさしあげることができるのは人間世界のものだけだったのに、人間がもうファンタージエンにこなくなっていたからです。どうしてこないのか、だれにもわかりませんでした。もし女王さまがおかくれになれば、ファンタージエンはおしまいになってしまうのです。
ところがある日、というよりある夜のこと、やっとまた人間がやってきました。小さい男の子でした。そのぼうやが、幼ごころの君に、月の子という名をさしあげました。女王さまはそれでまたお元気になられ、お礼に、この国でぼうやの望みはなんでも実現させてあげると約束なさいました。ぼうやが、真の意志を見つけるまで、なのだけれど。それからというもの、ぼうやは一つの望みから次の望みへと、長い旅をして、そのつど望みがみたされてゆきました。一つ望みがかなえられると、新しい望みが生まれました。よい望みばかりではなく、わるい望みもありましたが、女王幼ごころの君は全然区別なさいませんでした。幼ごころの君は何もかも等しくお認めになり、女王さまの国ではみんな同じように大切なのです。そして、とうとうエルフェンバイン塔が崩れおちることになったときでさえ、それを防ごうとはなさいませんでした。
ところが、ぼうやは、望みが一つかなえられるたびに、自分の元いた世界の記憶を、一つずつなくしていったのです。といっても、ぼうやはもう帰る気持はなかったので、気にもかけませんでした。だから次から次へと望みを持っては進むうちに、とうとう記憶のほとんどを失ってしまいました。覚えていることがなくては、もう望むこともできません。こうしてぼうやは、もう人間というより、ほとんどファンタージエン人になってしまったのです。
ぼうやはそれでもまだ、何が真の意志なのかわかりませんでした。今やそれが見つからないまま、残されたわずかな記憶までなくなってしまう危険が出てきたのです。もしそんなことになれば、ぼうやはもう自分の世界に帰れなくなるのです。そのとき、ぼうやは、やっと変わる家にたどりつきました。そして、真の意志が何なのか、それがわかるまでそこにいることになりました。というのは、この変わる家というのは、家そのものが変わるだけではなくて、家がその中に住む人を変えるから、そういう名前がついているのです。それは、ぼうやにはとても大切なことでした。ぼうやはそれまで、自分とはちがう、別のものになりたいといつも思ってきましたが、自分を変えようとは思わなかったからです。」

ミヒャエル・エンデ(「はてしない物語」より)

テキストから、愛の代用としての特別性についての一節をご紹介します。
特別性の魅力
私たちは、特別という言葉に弱いものです。
人とは違う特別な存在になりたい、特別なものを得たい、平々凡々では満足なんかできないと。
たしかに、自分が特別だと感じたり、特別扱いされたりするととても気分がよいもので、エゴが尻尾をふりふりしてよだれを垂れ流しながら喜ぶのがよくわかります。
しかし、特別性は、全体の中のひとかけらにだけ、よいものや悪いものが偏っているという状態であり、特別性が存在すると見ることは、分離があると見ることだし、特別性に価値を置くことは、価値判断をして裁くことを正当化し、争いによる分離の拡大を助長することになります。
特別性は神の子に対する攻撃
特別性は神の子の真の姿を不明瞭にする攻撃です。
自分が特別な存在だと思う人が、自分よりも劣った存在とみなすほかの誰かのことを兄弟として、そして、自分自身として認識することなどありえないことです。
本当の私たちである神の子がすべてを持つと同時にすべてである存在だとすれば、特別であろうとすることは、すべてである自分を放り捨てて、塵のような一点だけを自分と同視して全宇宙に闘いを挑むことです。
特別性の本質は愛を求める哀訴
特別さに恋焦がれる欲求の本質は、分離幻想に陥った心が真の自分とひとつに結ばれたい、愛に満たされたいという願望が、身体という独房に幽閉されて叶わないために、愛の不在による渇望を埋め合わせようとするもので、愛の不在である恐怖の一形態です。
全体をばらばらに砕いたかけらのように自分をみなすと、ジグソーパズルのピースのように、自分というピースにはまるピースさえ手に入れば満足を感じてしまいます。
それは、中身ではなく形で満足できるという錯覚です。
赤ちゃんがお母さんのおっぱいや哺乳瓶ではなく、ミルクの出てこないおしゃぶりを口にすることで満足するように、ミルクという本当に求めるコンテンツではなく、吸い口となるアタッチメントに惑わされる疑似的な満足に嗜癖して、そちらのほうを欲しがるようなものです。

フェチとの類似性
成人の性愛の領域の用語でフェティシズム(fetishism)というものがあります。
性的な次元を離れて、いわゆる「フェチ」として一般的に、その人固有の愛着を指し示す言葉にもなっています。
フェティシズムは、元々は「呪物崇拝」を意味する語であり、通俗的には「異性の体の一部などに性的な魅力を感じる嗜好(=フェチ)」の意味で用いられます。
Wikiからの引用
「本来、フェティシズムとは、生命を持たない呪術的な物(フェティッシュ英: fetish、仏: féticheという)に対しての崇拝を指し、性欲とは無関係であった[2]。原義のフェティシズムについては呪物崇拝を参照されたい。もともとは人類学、宗教学の用語であったが、19世紀後半にオーギュスト・コントやアルフレッド・ビネーといった心理学者が、崇拝構造を『性欲の対象とするもの』と『対象によって惹起される性欲』との関係として流用し、ある種の性的倒錯の説明として用いた[2]。リヒャルト・フォン・クラフト=エビングは性的な物神崇拝、同性愛、サディズム、マゾヒズムについて著書『性的精神病理』で説いた。その後フロイトも著書『性の理論に関する三つの論文』(1905年)において、フェティシズムという用語を用いて足や髪、衣服などを性の対象とするある種の性の逸脱現象の説明として、それを幼児期の体験に基づくものとした。日本においては心理学的な用法がポルノグラフィーその他で広まった関係で呪物崇拝という原義よりも性的フェティシズムのことを指すことが一般的である。
精神医学的なフェティシズム
「精神障害#定義」も参照
精神医学でいうフェティシズムは変態性欲、性的倒錯とされており現代日本で用いられる軽い趣味ではなく、性的対象の歪曲を指す。診断は訓練をつんだ専門家によって行なわなければならないが、アメリカ精神医学会の『精神障害の診断と統計マニュアル』にはフェティシズムの診断基準が設けられている。それによれば、
長期(少なくとも6ヶ月以上)にわたる、生命のない対象物に対する強烈な性衝動、妄想、行動が持続、反復する。
その性衝動、妄想、行動により著しい苦痛、または社会的、職業的な障害を引き起こしている。
対象物は衣服や性具に限らない。
とされている。
また物以外の状況・行動などへの偏愛はおおまかにパラフィリアと呼ばれる。」
手段の自己目的化に通じる生命エネルギーの「変態」化現象です。
ミルクが飲めないのにおしゃぶりで満足する赤ちゃんも、実際に性交渉につながるわけではないのに下着だけで性的興奮を覚える人も偶像崇拝の罠にはまっているといえるわけです。
パンツだけで性的に満足できる男性を「変態」視する多くの人たちが気づいていないのは、自分もまた人間というアバター、偶像を自分だと誤信するフェティシズムに陥っている「変態」化した神の子なのだという事実です。
すべての偶像崇拝は、抑圧された愛が姿を変えたものであり、奇跡衝動が歪曲されたものです。
人間が自分だと思うことそれ自体が特別性
人の子というアバターにアイデンティティーを持つこと自体が特別性と同義です。
特別性は愛の代用であって、特別であることに価値があるというのは錯覚であるということに気づいて、目標を分かち合う存在として兄弟を捉え直し、兄弟を友とし、そして、自分と同じものであるとみなす必要があります。
私たちが特別性に惹きつけられており、特別性が愛の代用であるということは、私たちが本当は愛を求めていること、そして、私たちは自分が真に欲する愛に気づかずに逆に愛を遠ざける特別性を求めていることを示しています。
自分への攻撃である特別性の追求への正しいリアクションは攻撃である特別性で応えることではない
聖霊の3大レッスンのひとつに、他者の攻撃は実は愛を求める哀訴なのだから、それには攻撃ではなく愛に満ちた助けで応えるべきだというものがあります。
上記の特別性の本質からすれば、私たちが自ら特別であろうと特別性を追い求めることは自分自身に対する攻撃と言ってよいでしょう。
ですから、他者の攻撃に対する聖霊のレッスンを応用するなら、他者のエゴの非難・攻撃に本質である愛を求める哀訴として、愛に基づく助けを返すべきであるなら、それと同じように、自分自身の特別性の追求に対しては、攻撃である特別性でもって応えるのではなく、その本質である愛を求める哀訴に対して、愛である分かち合い、助けで応えるべきだということになります。
つまり、自分が特別でありたいという欲求に駆られるときに、それに対する反応として、特別性の追求に拍車をかけて邁進するのは、他者の非難・攻撃に反撃するのと同じ誤りであると。
必要なのは、エゴの欲求に屈して特別性の追求に同調することではなく、自分が特別性として独り占めしたいと欲する属性を他者に与え、他者と分かち合うのが特別性の隠れ蓑に隠れた愛を求める哀訴への正しい答えだということです。

テキスト 第二十四章
I. Specialness as a Substitute for Love
1愛の代用としての特別性
1. Love is extension.
愛とは拡張することです。
To withhold the smallest gift is not to know love's purpose.
どんなに小さな贈り物であっても、それを与えずにおくことは、愛の目的を知らずにいることです。
Love offers everything forever.
愛はあらゆるものを永遠に差し延べます。
Hold back but one belief, one offering, and love is gone, because you asked a substitute to take its place.
ただの一回でも信じることをやめたり与えることを差し控えたりしたら、愛は去ってしまいます。なぜなら、あなたは愛に取って代わるよう、ひとつの代用に求めたことになるからです。
And now must war, the substitute for peace, come with the one alternative that you can choose for love.
そうなると必ず、あなたが愛の代用として選べる唯一の選択肢と一緒に、平安の代用である争いが訪れることになります。
Your choosing it has given it all the reality it seems to have.
あなたが愛の代用を選んだことで、争いは実に本物らしく思えるようになります。
2. Beliefs will never openly attack each other because conflicting outcomes are impossible.
結果同士が矛盾していることは不可能なので、ある信念と別の信念が公然と相互に攻撃し合うことは決してありません。
But an unrecognized belief is a decision to war in secret, where the results of conflict are kept unknown and never brought to reason, to be considered sensible or not.
しかし、無自覚に信じることは、密かに戦う決心をすることです。その秘密の戦いでは、争いの結末はわからないままにされ、道理に適うことかどうか考慮するために理性の下にもたらされることは決してありません。
And many senseless outcomes have been reached, and meaningless decisions have been made and kept hidden, to become beliefs now given power to direct all subsequent decisions.
こうして数多くの愚かな結果に到達したり、無意味な決断が下されて隠されたままにされて、今度は、それらの結果や決断が、その後のすべての決断を方向づける力を与えられた信念となります。
Mistake you not the power of these hidden warriors to disrupt your peace.
この無自覚な信念という隠密の兵士が持つあなたの平安をかき乱す力を見損なってはなりません。
For it is at their mercy while you decide to leave it there.
というのは、あなたがそれらを放置しておこうと決断しているかぎりは、平安はその兵士たちのなすがままになってしまうからです。
The secret enemies of peace, your least decision to choose attack instead of love, unrecognized and swift to challenge you to combat and to violence far more inclusive than you think, are there by your election.
平安の秘密の敵であるこの無自覚な信念は、あなたに愛の代用として攻撃を選ぶほんの小さな決断をさせて、気づないほど速やかに、あなたが思うよりずっと包括的に、あなたを闘いや暴力に駆り立てますが、あなたは自分の選択によってこの敵を自分の心にいさせているのです。
Do not deny their presence nor their terrible results.
だからといって、それらの敵の存在も、それらの敵の及ぼすひどい結果も否認してはなりません。
All that can be denied is their reality, but not their outcome.
否認できるのはそれらの敵の実在性だけであって、それらの結果ではないからです。

3. All that is ever cherished as a hidden belief, to be defended though unrecognized, is faith in specialness.
気づかれないにもかかわらず、守られるべき、隠れた信念としてこれまで大事にされてきたのは、特別であることに対する信頼だけです。
This takes many forms, but always clashes with the reality of God's creation and with the grandeur that He gave His Son.
この特別性への信頼は、さまざまな形をとりますが、つねに神の創造したものの真実の姿や、神が子に授けた壮大さと衝突します。
What else could justify attack?
こんな衝突以外の何が攻撃を正当化できるでしょうか。
For who could hate someone whose Self is his, and Whom he knows?
相手の真の自己が自分の真の自己でもあり、しかも自分がその大いなる自己を知っているとしたら、いったい誰がその相手を憎んだりできるでしょうか。
Only the special could have enemies, for they are different and not the same.
敵を持つことができるのは特別な者だけです。というのも、彼らは互いに異なっており、同じではないからです。
And difference of any kind imposes orders of reality, and a need to judge that cannot be escaped.
そして、どんな種類の相違も、実在に序列を押しつけ、逃れようのない価値判断を必要にしてしまいます。
4. What God created cannot be attacked, for there is nothing in the universe unlike itself.
神が創造したものが攻撃されることなど不可能です。というのは、宇宙には、それ自体と同じでないものは何ひとつ存在しないからです。
But what is different calls for judgment, and this must come from someone "better," someone incapable of being like what he condemns, "above" it, sinless by comparison with it.
しかし、異なるものがあるとすれば、価値判断による裁きが必要となります。そして、その裁きは、「より優れた」誰か、自分の非難する相手のような失態を演じる余地のない誰か、非難する相手よりも「高みにいる」誰か、非難する相手とは対照的に罪のない誰かによってなされなければなりません。
And thus does specialness become a means and end at once.
こうして、特別であることが手段であると同時に目的になります。
For specialness not only sets apart, but serves as grounds from which attack on those who seem "beneath" the special one is "natural" and "just. "
なぜなら、特別であることは、区別して分離するだけでなく、特別な者が彼よりも「劣っている」ように見える者を攻撃することを「当然」視して「正当」化する根拠として作用するからです。
The special ones feel weak and frail because of differences, for what would make them special is their enemy.
特別な者たちは違いのゆえに、自らを弱くて脆いと感じます。というのも、彼らの敵の存在が彼らを特別な存在たらしめているわけだからです。
Yet they protect its enmity and call it "friend. "
それでも、特別な者たちは、自らの抱く敵意を保護して、それを「盟友」と呼びます。
On its behalf they fight against the universe, for nothing in the world they value more.
そして、特別な者たちは、自らの盟友である敵意のために、全宇宙を相手に戦いを挑みます。なぜなら、この世界で、特別であろうとする者が敵意以上に価値を置くものは何もないからです。

5. Specialness is the great dictator of the wrong decisions.
特別であろうとすることが間違った決断に導く大きな強制力となります。
Here is the grand illusion of what you are and what your brother is.
ここにこそ、あなたと兄弟が何者なのかについての最大の錯覚があります。
And here is what must make the body dear and worth preserving.
そして、このことが、身体を大切で保護する価値があるものにしているに違いありません。
Specialness must be defended.
特別であることは守られるべきものとなります。
Illusions can attack it, and they do.
幻想は特別性を攻撃できるし、現に攻撃します。
For what your brother must become to keep your specialness is an illusion.
というのは、あなたが特別であり続けるためには、あなたの兄弟はひとつの幻とならなければならないからです。
He who is "worse" than you must be attacked, so that your specialness can live on his defeat.
あなたより「悪い」者が攻撃されるべきだし、したがって、その相手の敗北の上でこそあなたは特別でいられるわけです。
For specialness is triumph, and its victory is his defeat and shame.
というのも、特別であることは勝利であり、特別性の勝利は相手の敗北であり恥辱だからです。
How can he live, with all your sins upon him?
あなたの罪をすべて背負わされて、その相手はどうして生きていけるでしょうか。
And who must be his conqueror but you?
そして、その相手を征服した者とは、あなたにほかならないのです。
6. Would it be possible for you to hate your brother if you were like him?
もしあなたが自分の兄弟と同じものであるとすれば、あなたに兄弟を憎むことができるでしょうか。
Could you attack him if you realized you journey with him, to a goal that is the same?
もしあなたが自分はその兄弟とともに同じ目的地に向かって旅をしているのだと理解したなら、あなたに彼を攻撃することなどできるでしょうか。
Would you not help him reach it in every way you could, if his attainment of it were perceived as yours?
もし兄弟が目標を達成することが自分が目標を達成することだと知覚するなら、あなたは自分にできるかぎりの手立てを講じてでも、彼が目標を達成できるように手助けしようとするのではないでしょうか。
You are his enemy in specialness; his friend in a shared purpose.
特別であろうとするなら、あなたは兄弟の敵となり、目的を分かち合うなら、あなたは兄弟の味方となります。
Specialness can never share, for it depends on goals that you alone can reach.
特別である状態を分かち合うことは、決してできません。というのは、特別であることは、あなただけが到達できる目標の上に成り立っているからです。
And he must never reach them, or your goal is jeopardized.
そうすると、兄弟は決して目標を達成してはならないことになります。さもないと、あなたの目標が危険にさらされてしまうからです。
Can love have meaning where the goal is triumph?
勝利が目標とされるようなところで、愛が意味を持つことなどできるでしょうか。
And what decision can be made for this that will not hurt you?
勝利という目標に向けて決断することで、あなたを傷つけずに済むようなどんな決断を下せるというのでしょうか。

7. Your brother is your friend because his Father created him like you.
あなたの兄弟はあなたの友です。なぜなら、その兄弟の大いなる父は、彼をあなたと同じものとして創造したからです。
There is no difference.
あなたと兄弟には、何の違いもありません。
You have been given to your brother that love might be extended, not cut off from him.
兄弟の許にあなたが遣わされたのは、兄弟から愛を分断するためではなく、兄弟に愛を拡張するためです。
What you keep is lost to you.
あなたが取っておこうとするものは、あなたから失われます。
God gave you and your brother Himself, and to remember this is now the only purpose that you share.
神は、あなたと兄弟に神自身を与えてくれたのであり、このことを思い出すことだけが、いまや、あなたと兄弟が分かち合う唯一の目的です。
And so it is the only one you have.
だから、それがあなたの持つ唯一の目的です。
Could you attack your brother if you chose to see no specialness of any kind between you and him?
もしあなたが自分と兄弟の間に何の特別性もまったく見ないことを選んだなら、あなたは兄弟を攻撃できるでしょうか。
Look fairly at whatever makes you give your brother only partial welcome, or would let you think that you are better off apart.
あなたに自分の兄弟を全面的に歓迎する気にさせないもの、あるいは、兄弟から離れていたほうがましだと思わせるものがあるなら、それが何であれ、それを虚心坦懐に見つめてください。
Is it not always your belief your specialness is limited by your relationship?
それはつねに、自分が関係を結ぶことによって自分の特別さが制限されてしまうとあなたが信じているせいではないでしょうか。
And is not this the "enemy" that makes you and your brother illusions to each other?
そして、この信念こそが、あなたと兄弟を相互に幻の存在にしてしまう「敵」なのではないでしょうか。
8. The fear of God and of your brother comes from each unrecognized belief in specialness.
神と自分の兄弟に対する恐れは、特別であることについての信念をそうとは気づかずに抱くたびに生じます。
For you demand your brother bow to it against his will.
というのも、あなたは兄弟に、あなたが特別な存在だという信念に彼の意に反して従うように要求しているからです。
And God Himself must honor it or suffer vengeance.
そして、神自身ですら、あなたが特別であることに敬意を払わないなら、復讐されるはずだというのです。
Every twinge of malice, or stab of hate or wish to separate arises here.
悪意の疼きや憎しみの刺すような痛みや分離したいという願望の数々が、ここで生じてきます。
For here the purpose that you and your brother share becomes obscured from both of you.
というのは、ここにおいて、あなたと兄弟が分かち合う目的は、あなたにも兄弟にも、ともに不明瞭になってしまうからです。
You would oppose this course because it teaches you you and your brother are alike.
このコースはあなたと兄弟は同じだとあなたに教えようとするので、あなたはこのコースに反対しようとするでしょう。
You have no purpose that is not the same, and none your Father does not share with you.
しかし、あなたたちは、同じではない目標をひとつも持っていないし、大いなる父があなたたちと分かち合っていない目標もひとつも持っていません。
For your relationship has been made clean of special goals.
というのは、すでにあなたの関係からは、特別な目標は一掃されているからです。
And would you now defeat the goal of holiness that Heaven gave it?
それなのに、あなたは今になって、天国があなたの関係に与えてくれた神聖さという目標を挫くつもりでしょうか。
What perspective can the special have that does not change with every seeming blow, each slight, or fancied judgment on itself?
自分を特別だと思う者には、自分が攻撃されているように思えたり、自分が侮辱を受けたと感じたり、自分の価値を判断されたと想像したりするつど、ころころと観点が変わってしまうような視座しか持つことができないはずです。

9. Those who are special must defend illusions against the truth.
自分を特別だと思う者たちは、真理に逆らって幻想を守らなければなりません。
For what is specialness but an attack upon the Will of God?
というのは、特別であろうとすることは、神の大いなる意志に対する攻撃以外の何ものでもないからです。
You love your brother not while it is this you would defend against him.
あなたが兄弟に反対し、自分の特別性を守ろうとしているかぎり、あなたは兄弟を愛しているとはいえません。
This is what he attacks, and you protect.
あなたが特別であることを兄弟は攻撃し、そして、あなたは自分が特別であることを守ろうとします。
Here is the ground of battle which you wage against him.
ここにこそ、あなたが兄弟に対して戦いを仕掛ける根拠があります。
Here must he be your enemy and not your friend.
ここでは、彼はあなたの敵であり、あなたの味方ではないに違いありません。
Never can there be peace among the different.
異なる者同士の間では、決して平安はありえません。
He is your friend because you are the same.
しかし、あなたたちは同じものなのだから、その兄弟はあなたの味方なのです。

