T6-intro,1 キリストの十字架刑の真の意味とは?
Fools learn from experience. I prefer to learn from the experience of others.
愚か者は経験によって学ぶが、私は他者の経験から学ぶほうがよい。

Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen
オットー・フォン・ビスマルク
Learn from the mistakes of others. You can’t live long enough to make them all yourself.
他人の失敗から学びなさい。あなたは自分ですべての失敗ができるほど長くは生きられないのだから。

Anna Eleanor Roosevelt
エレノア・ルーズベルト
A thankful heart is not only the greatest virtue, but the parent of all the other virtues.”
心を感謝で満たすことは、最大の徳目であるだけでなく、ほかのさまざまな美徳の生みの親となる。

Marcus Tullius Cicero
マルクス・トゥッリウス・キケロ
Fear is the path to the dark side.
恐れはダークサイドへの道なのじゃ。
Fear leads to anger.
恐れは怒りをもたらす。
Anger leads to hate.
怒りは憎しみをもたらす。
Hate leads to suffering.
憎しみは苦しみをもたらす。

Grandmaster Yoda
ヨーダ

今回は、テキストから、第六章 愛のレッスンの序論と第一節 キリストの磔刑とそのメッセージをご紹介します。
攻撃が狂気である仕組み
本節では、攻撃が狂気の沙汰である仕組みが解明されます。
よく韓ドラの復讐劇とかで、幼いころに死別した親の仇だと信じて復讐しようとしていた敵が実は、死んではいなかった恋しい親だったことに復讐を遂げる直前に気づいて自分はなんということをしていたのだと悔いて、復讐を達成しなかったことを神に感謝したり、あるいは、実際に復讐をしたあとに気づいて、やりきれない絶望感にまみれて苦々しい後味だけを残すというパターンのドラマが演じられます。
ドラマを見ている私たちは、いわば神の目線で見ることができて真実を知っているので、主人公が敵を攻撃するのを見ながら、「やめろー、その人はお前の大切な人なんだぞー!」とテレビの前で叫んで、主人公が知らず知らずのうちに復讐の罠にはまるのをもどかしく感じながら見ています。
もしコースの言うように、私たちが神の子として実は一体で、この世界でのエゴ・身体というアバターたちは、親子や兄弟よりも近しい自分自身といってよい存在なのだとしたら、すべての攻撃や報復は、このような復讐劇と同じように、実は愛すべき兄弟をそれと気づかずに傷つける狂気の沙汰だということになります。
そして、私たちは、現に狂気に陥っているがゆえに、世界は攻撃と報復の応酬で独楽(こま)のように回転し続け、戦争も絶えることはありません。
キリストの磔刑に込められたメッセージ
本節では、キリストの磔刑には、このような攻撃の無意味さと狂気を私たちが学ぶためのメッセージが込められていたことが語られます。
「2. You have been asked to take me as your model for learning, since an extreme example is a particularly helpful learning device.
極端な実例はとくに学習に役立つ教材となるので、あなたが学ぼうとするなら私をモデルにするようにと勧めておきました。」
「9. I elected, for your sake and mine, to demonstrate that the most outrageous assault, as judged by the ego, does not matter.
私は、あなたと私のためになるようにと、エゴの価値判断によれば、最も悪虐無道な蛮行でさえ問題ではないと実証することを選びました。」
イェシュアは、身を挺して私たちに模範を示し、私たちが一から苦難を経験して、痛い目を見ながら学ばなくても済むようにと、万人が役立てられる教訓を学ぶ素材を提供してくれたのです。
聖霊の学びは教訓をみんなで分かち合うこと
「10. We are still equal as learners, although we do not need to have equal experiences.
私とあなたは、今なお学ぶ者として同等の存在です。だからといって、あなたが私と同等の経験をしなければならないわけではありません。
The Holy Spirit is glad when you can learn from mine, and be reawakened by them.
あなたが私の経験から学ぶことができて、その学びによって再び目覚めるとき、聖霊は喜びます。
That is their only purpose, and that is the only way in which I can be perceived as the way, the truth and the life.
このように、あなたが私の経験から学んで再び目覚めることこそが、私の経験の唯一の目的であり、これこそ、私が道であり、真理であり、生命であるとして知覚されうるための唯一の方法です。
When you hear only one Voice you are never called on to sacrifice.
あなたがひとつの大いなる声にのみ耳を傾けるなら、あなたは決して犠牲を要求されることはありません。
On the contrary, by being able to hear the Holy Spirit in others you can learn from their experiences, and can gain from them without experiencing them directly yourself.
それどころか、ほかの者たちの中にいる聖霊からも聞くことができるようになるので、あなたは他者の経験から学べるようになり、自分自身で直接経験しなくても、他者の経験から学びを得られるようになります。
That is because the Holy Spirit is One, and anyone who listens is inevitably led to demonstrate His way for all.
その理由は、聖霊がひとつだからであり、聖霊に耳を傾ける者は誰でも、必然的に、聖霊の道をすべての者たちに実証する結果となるからです。」
私たちが聖霊に従うようになると、他者の中にいる聖霊から聞くことができるようになるために、他者の経験から学べるようになります。
ビスマルクの言葉とされる「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」に通じる真理です。なお、多くの名言でもあるように、この言葉も実はビスマルクのものではなく、ビスマルクの言葉とするのは誤りだという指摘があります。聖フランシスコの祈りの言葉(祈りの歌 目次)でも触れましたが、そんなことはこだわりポイントではありません。
そもそも世界そのものが作りものの幻想なのだとしたら、幻想の中での客観的真実性や歴史的正統性にこだわるのは酔狂で頓珍漢な狂人の妄執でしかありません。
歴史的な正統性、真実性は正しく歴史を学ぶための手段としては大切であるにしても、歴史を学ぶ意義は、教訓を得る点にあるのですから、このようなことに気を取られすぎていること自体、歴史に学んでいないということになるでしょう。

磔刑の教訓とは?
さて、磔刑の教訓に戻りましょう。
身体に対して暴行を加えることができ、破壊することができることに疑いの余地はありません。
4.「Yet if destruction itself is impossible, anything that is destructible cannot be real.
しかし、もし何かを破壊するということ自体が不可能だとすれば、破壊可能であるものは何であれ、実在のものであるはずがありません。」
軽く読むとよく意味がわからない文章です。
この世界に基盤を置くかぎり、破壊可能でも物事は実際に存在したままなので、破壊できるものが実在しないと言われてもピンと来ないということになります。
ここで指摘されているのは「存在」ではなく「実在」に関することです。
実在するものは不壊なるものであり、破壊できるはずがないということが指摘されているのです。
不二一元論、非二元論に立脚するかぎり、あるのは一者の実在だけであり、対立する対極はないのだから、それしかない実在が破壊されることはありえません。
したがって、破壊可能なものはそれがどんなにリアリティーを持っていようが、実在するものであるはずがないということになります。
天国の実在そのものについては、この通りだとしても、天国の「実在」とこの世の「存在」の相違として、天国に実在する愛や生命や平安がこの世界に反映されると、実在の不在が影として生まれ、あたかも実在と同等の積極的実在性を持つかのような様相を呈して「存在」するようになるので、この世界では、愛と恐れ、生命と死、平安と争い等が二極対立しているかのように見えるということでした。
そして、この世界に反映された実在と実在の不在に名前をつけただけの幻の違いは、実在は"invulnerability"「不死性」「傷つかざること」を属性として備えるのに対して、幻は”vulnerability”「脆弱性」「傷つきうること」が特質です。
天国に実在するものも、幻想世界に反映されれば、幻想の一部になるのだから傷つくようになるようにも思えます。
現に、この世界では、愛、生命、平安だって損なわれまくっていて、傷ついているじゃないか?そうでなきゃ、恐れや死や争いをどう説明するんだ?という疑問が湧いてきます。
たしかに一見そうは見えるし、そう見せかけること自体が幻想の機能なので、素朴に外見だけを見ていると、この世では、実在と実在の不在のいずれもが幻想として等しいように思えてきます。
しかし、実在するものは、幻想の中に反映されたからといって実在の属性を失うわけではありません。
というのも、本当にあるのは実在のみであり、実在は光であり、幻想は光の前に障害を置くことで影が投じられて、光と影が色と形を織りなすことで生まれる影法師ですが、光が映し出された部分は反映ではあっても、光の属性をそのまま残しているからです。
実在と幻の関係性はすべて、光と障害物の関係性の発展形なので、光源とスライドを通して光がスクリーンに当たってできる影絵のイメージで考えることができます。
闇の中で見る夢の世界とはいえ、夢見る主体自体が光、大いなる光から分かれた閃光なので、恐怖の暗雲というスクリーンに映し出された影絵を見てはいても、完全に光と無縁の妄想というわけではないのです。
エゴのスライドで色づけられて形ができはしますが、色や形が投影されるということは、スライドが完全には光を途絶してはおらず、スクリーンに投影できるだけの光が透過しているということです。
愛、生命、平安、真理、喜び、精神、神聖さ等々実在の属性は、すべてである神の子の一なる本質の多様な側面です。
白色光は、無色に見えていても、プリズムを通したらさまざまな色に分光することでわかるように、すべての色を包含する集合体であるように、神の子が持つ光もすべての属性の集合体です。
光は障害に遮られて拡張先に届かない影の部分に光の不在が起こることはあっても、光が傷つけられて変質するということはありえません。
そして不二にして一なるものなので、実在、真理、光が、それ以外の別の実在、真理、光と衝突することはありえず、破壊されることはありえません。
これに対して、スクリーン上の影はそもそも光の不在である無が色や形によってあたかもそこにあるかのように見えているだけの虚構、外観、殻です。
素朴なスクリーン上の影絵の場合、影同士がぶつかると、形が崩れ、色が混じってより闇が濃くなります。
投影元である心の奥から光源がスライドを介して影が投じられる世界というスクリーン上では、影は物質化して、スライドの変化が反映されるまでに遅延が生じる仕組みになっているので、物質化した影同士は衝突し合い、傷つき、破壊されることが可能です。
しかし、影を投影するためには光が必要であり、この光が持つ実在の属性自体は、光という本質からして、障害で遮られることはありえても、傷ついたり破壊されたりできないままです。
なので、傷つくとしたら、それは光ではなく影です。

「傷つくならば、それは『愛』ではない」(チャック・スペザーノ著)のタイトルの条件公式は、実在すべてに応用が利きます。
ここに聖霊の3大レッスンのひとつ、攻撃に対して示すべきリアクションは、自分が傷ついたことを示して相手に罪悪感を抱かせるのではなく、自分が微塵も傷ついてはおらず、相手に自分が無罪だとわからせてあげることだというレッスンの根拠があります。
「私は平和ではなく、剣をもたらすために来た」
さて、第1節15では、有名な「私は平和ではなく、剣をもたらすために来た」(マタイによる福音書第10章34節)について次のように語られます。
「15. These are some of the examples of upside-down thinking in the New Testament, although its gospel is really only the message of love.
次に述べるのは、新約聖書の中にある倒錯した考え方のいくつかの例です。とはいえ、それらの福音は、本当はただ愛のメッセージでしかないのです。
If the Apostles had not felt guilty, they never could have quoted me as saying, "I come not to bring peace but a sword. "
もし使徒たちが罪悪感を抱いていなかったなら、私の言った言葉として「私は平和ではなく、剣をもたらすために来た」と引用することなど彼らには決してできなかったはずです。
This is clearly the opposite of everything I taught.
この言葉は明らかに、私が教えたすべてのことと正反対のものです。」
この文章をテーマにレッスン333「赦しがこの地上での対立という夢を終わらせる」のエッセイで論じていますので、ご覧ください。
感謝する能力
第1節17では、感謝する能力について語られます。
「17. I do not need gratitude, but you need to develop your weakened ability to be grateful, or you cannot appreciate God.
私は感謝を必要としません。しかし、あなたは、衰えてしまった感謝するという自分の能力を改めて発達させなければなりません。さもないと、あなたは神の真価を認めることができないからです。
He does not need your appreciation, but you do.
神は、あなたに真価を認めてもらう必要などありません。しかし、あなたには神の真価を認める必要があるのは確かです。」
私たちは感謝する能力を衰退させてしまっていて、そのせいで、神の真価がわからなくなっているとのことです。
よくスピリチュアル本で、感謝の言葉を1万回ひたすら唱えたら、奇跡が起こり始めるとか語られますが、形から入っていく方法として悪くないはずです。
愛を忘れることで分離は可能となります。
つまり、自他が一体であることを忘れることで、私たちは個別の存在としての自分を意識します。
感謝は、分離状態にあって、一体性を神の恩寵として受け取れることで愛に気づくことで生まれる感情です。
赦しが罪が実在しないと見極めてその通り無視するというマイナスからニュートラルに戻す手法だとすれば、感謝は、積極的に愛を見極めて、その通り承認するというニュートラルからプラスに持っていく手法だといえます。
このように理屈で対比すると、感謝のほうが難しそうにも思えますが、そうでもありません。
罪があるようにしか思えないというエゴ支配思考のままで、罪が実はないと認めて、その通り無視するというのがとてつもなく困難なのは誰もが実感するところでしょう。
これに対して、感謝は意識さえすれば比較的容易にできます。
感謝の対象から素朴に個人的利益が得られる場合は容易に感謝できるし、発想として、反面教師的に教訓を引き出す観点を用意しておけば、害悪を逆転させてみれば簡単に教訓が引き出せるので、ニュートラルな出来事でないかぎり、どんなことでも感謝する点は見つけることができるからです。
この難易度の高くない感謝を習慣化すれば、赦しの実践の強力な補助手段となります。
赦しの実践に際して、その幻想についでに感謝するようにすれば、赦しがより容易になるでしょう。
GRATITUDE 毎日を好転させる感謝の習慣(スコット・アラン著)はおすすめです。


Chapter 6 The Lessons of Love
第六章 愛のレッスン
Introduction
序論
1. The relationship of anger to attack is obvious, but the relationship of anger to fear is not always so apparent.
怒りが攻撃につながるのは明らかです。しかし、怒りが恐れにつながることは、必ずしもそれほど明白なわけではありません。
Anger always involves projection of separation, which must ultimately be accepted as one's own responsibility, rather than being blamed on others.
怒りは必ず、自分と分離した存在としての他者への投影を必要としますが、怒りを他者のせいにして非難したりせずに自分自身の責任として受け入れなければなりません。
Anger cannot occur unless you believe that you have been attacked, that your attack is justified in return, and that you are in no way responsible for it.
あなたが攻撃されたこと、それに対する報復としてあなたが攻撃することが正当化されること、そして、そんなことになった責任があなたにまったくないこと、この三つをあなたが信じていないかぎり、怒りが生じるはずがありません。
Given these three wholly irrational premises, the equally irrational conclusion that a brother is worthy of attack rather than of love must follow.
まったく不合理なことを、このように三つも前提にすれば、兄弟は愛するよりも攻撃するに値するという同じくらい不合理な結論が出るのもやむをえません。
What can be expected from insane premises except an insane conclusion?
狂気の前提から狂気の結論以外のいったい何を期待できるというのでしょうか。
The way to undo an insane conclusion is to consider the sanity of the premises on which it rests.
狂気の結論を取り消す方法は、その結論が依拠する前提が正気で思いつかれたものなのかどうか、それをよく考えてみることです。
You cannot be attacked, attack has no justification, and you are responsible for what you believe.
あなたは攻撃されるはずがないし、攻撃が正当化される余地などないし、あなたが何を信じるかについてあなたに責任があるのは確かなことです。
2. You have been asked to take me as your model for learning, since an extreme example is a particularly helpful learning device.
極端な実例はとくに学習に役立つ教材となるので、あなたが学ぼうとするなら私をモデルにするようにと勧めておきました。
Everyone teaches, and teaches all the time.
誰もがみんな教えており、それもつねに教えています。
This is a responsibility you inevitably assume the moment you accept any premise at all, and no one can organize his life without some thought system.
教えることは、あなたが何らかの前提を少しでも受け入れた瞬間に、必然的に引き受けることになる責任です。そして、誰しも、何らかの思考システムを持たずには、自らの生活にまとまりを持たせることはできません。
Once you have developed a thought system of any kind, you live by it and teach it.
いかなる種類の思考システムにせよ、ひとたび自分でそれを身につけると、あなたはその思考システムによって生き、その思考システムを教えることになります。
Your capacity for allegiance to a thought system may be misplaced, but it is still a form of faith and can be redirected.
あなたは、ある思考システムに忠実になる能力を見当違いのものに向けてしまっているかもしれません。しかし、それはそれで、なおも何かを信頼している印であり、信頼をほかのものに向け直すことはできるのです。


I. The Message of the Crucifixion
一 キリストの磔刑のメッセージ
1. For learning purposes, let us consider the crucifixion again.
学ぶ目的のために、私たちでもう一度、キリストの磔刑についてよく考えてみましょう。
I did not dwell on it before because of the fearful connotations you may associate with it.
前に私がこのことを長々と論じなかったのは、あなたが磔刑から連想して恐ろしいイメージを抱いてしまいかねないためでした。
The only emphasis laid upon it so far has been that it was not a form of punishment.
これまでのところ、磔刑について唯一強調しておいたのは、それが刑罰の一種ではなかったということだけでした。
Nothing, however, can be explained in negative terms only.
しかしながら、何事も、否定的な観点からだけで説明しきれるものではありません。
There is a positive interpretation of the crucifixion that is wholly devoid of fear, and therefore wholly benign in what it teaches, if it is properly understood.
キリストの磔刑を肯定的に解釈することもできるし、そう解釈することにはまったく恐れは伴いません。したがって、磔刑を正しく理解するなら、磔刑からは実に恵み深い教訓を得ることができます。
2. The crucifixion is nothing more than an extreme example.
キリストの磔刑は、極端な例で模範を示したものにすぎません。
Its value, like the value of any teaching device, lies solely in the kind of learning it facilitates.
どんな教材の価値もそうであるように、磔刑の価値は、それがどのような種類の学びの役に立つのかということに尽きます。
It can be, and has been, misunderstood.
磔刑は誤解されやすく、現にずっと誤解されてきました。
This is only because the fearful are apt to perceive fearfully.
これはひとえに、怖がる者は何でも恐ろしいものとして知覚してしまいがちだからです。
I have already told you that you can always call on me to share my decision, and thus make it stronger.
すでに告げたように、あなたはいつでも私の決断を分かち合うために私に頼んで、共有することで、その決断を強めることができます。
I have also told you that the crucifixion was the last useless journey the Sonship need take, and that it represents release from fear to anyone who understands it.
私はまた、キリストの磔刑は神の子全体が辿るべき最後の無益な旅路であり、磔刑を理解する者は誰でも恐れから解放されることを意味するとも言っておきました。
While I emphasized only the resurrection before, the purpose of the crucifixion and how it actually led to the resurrection was not clarified then.
私は以前、キリストの復活だけを強調しましたが、その際には、キリストの磔刑の目的と磔刑がいかにして実際に復活へとつながって行ったのかについては明確にはしませんでした。
Nevertheless, it has a definite contribution to make to your own life, and if you will consider it without fear, it will help you understand your own role as a teacher.
それにもかかわらず、磔刑の目的と復活のつながりを理解することは、あなたが自分の人生を生きるうえで役に立つのは間違いないし、もしあなたが恐れずに磔刑の目的と復活のつながりをよく考えてくれるなら、それは教師としてのあなたの役割を理解するうえで、きっとあなたの役に立つはずです。

3. You have probably reacted for years as if you were being crucified.
たぶん、あなたは長い間、まるで自分が十字架に磔にされたかのように感じてきたことでしょう。
This is a marked tendency of the separated, who always refuse to consider what they have done to themselves.
このように被害を受けた側に肩入れしがちになるのは、分離している者たちに特徴的な反応であり、分離している者たちはつねに、被害者意識を抱くことに自分が貢献している可能性について深く考えてみるのを拒んでしまいます。
Projection means anger, anger fosters assault, and assault promotes fear.
投影は怒りを意味し、怒りは攻撃を助長し、そして、攻撃は恐れを生み出します。
The real meaning of the crucifixion lies in the apparent intensity of the assault of some of the Sons of God upon another.
キリストが磔刑にされたことの真の意味は、幾人もの神の子が別の神の子のひとりに加えた陵辱の見かけ上の苛烈さにあります。
This, of course, is impossible, and must be fully understood as impossible.
もちろん、これはそう見えただけで、実際には不可能であるし、不可能なことだと完全に理解する必要があります。
Otherwise, I cannot serve as a model for learning.
さもないと、私は学びの模範としての役目を果たせなくなってしまいます。
4. Assault can ultimately be made only on the body.
暴行を加えることができるのは、究極的には身体に対してだけです。
There is little doubt that one body can assault another, and can even destroy it.
ある身体が別の身体に暴行を加えることができ、そして、その身体を破壊すらできることに疑いの余地はありません。
Yet if destruction itself is impossible, anything that is destructible cannot be real.
しかし、もし何かを破壊するということ自体が不可能だとすれば、どんなものであれ破壊可能なものは、実在しないはずです。
Its destruction, therefore, does not justify anger.
したがって、身体が破壊されたとしても、それは怒りを正当化する根拠にはなりません。
To the extent to which you believe that it does, you are accepting false premises and teaching them to others.
あなたが身体が破壊されることについて怒りを正当化できると信じるなら、そう信じる程度において、あなたは間違った前提を受け入れて、ほかの者たちにもその誤った前提を教えているのです。
The message the crucifixion was intended to teach was that it is not necessary to perceive any form of assault in persecution, because you cannot be persecuted.
キリストの磔刑が教えようとしたメッセージは、あなたが迫害されることはありえないので、迫害をいかなる形の攻撃としても知覚する必要はないということです。
If you respond with anger, you must be equating yourself with the destructible, and are therefore regarding yourself insanely.
もしあなたが怒りで反応するなら、あなたは自分が破壊されうる存在だとみなしているに違いありません。したがって、あなたは的外れな異常な見方で自分自身のことを見ているということになります。

5. I have made it perfectly clear that I am like you and you are like me, but our fundamental equality can be demonstrated only through joint decision.
私はあなたと同じものであり、あなたは私と同じであるということを、私は完璧に明らかにしてきました。しかし、私たちが根本的に等しいものであることは、ただひとつに結びつく決断を通してのみ実証できます。
You are free to perceive yourself as persecuted if you choose.
もしあなたがそう選択するなら、自分が迫害されていると知覚するのはあなたの自由です。
When you do choose to react that way, however, you might remember that I was persecuted as the world judges, and did not share this evaluation for myself.
しかしながら、あなたが自分で選んでそのように反応するときでも、あなたには、この世界が私が迫害されたと価値判断しているとしても、私自身はそのような世界の評価を共有しなかったことを覚えておいてほしいのです。
And because I did not share it, I did not strengthen it.
そして、私が迫害されたというこの世界の評価を私は共有しなかったのだから、私はその評価を補強しませんでした。
I therefore offered a different interpretation of attack, and one which I want to share with you.
したがって、私は攻撃に関する異なった解釈を提案したのです。そして、私はこの解釈をあなたと共有したいと望んでいます。
If you will believe it, you will help me teach it.
もしあなたが私が迫害されてなどいないというこの解釈を信じるなら、あなたは、私がこの解釈を教える手助けをしてくれることになります。
6. As I have said before, "As you teach so shall you learn."
私が以前に述べたように、「自分の教えるように、あなたは学ぶ」ことになります。
If you react as if you are persecuted, you are teaching persecution.
もしあなたが、まるで自分が迫害されているかのように反応するなら、あなたは迫害を教えているのです。
This is not a lesson a Son of God should want to teach if he is to realize his own salvation.
もし神の子が自分の救いを実現したいのなら、迫害は神の子が教えることを望むべきレッスンではありません。
Rather, teach your own perfect immunity, which is the truth in you, and realize that it cannot be assailed.
それよりも、あなた自身が迫害を完全に免れていることを教えてください。それこそ、あなたの内なる真理だからです。だから、本当の自分は攻撃されようがないのだと理解してください。
Do not try to protect it yourself, or you are believing that it is assailable.
本当の自分を自分で守ろうとしてはなりません。さもなければ、あなたは、本当の自分は迫害によって攻撃されうるような代物だと信じることになってしまいます。
You are not asked to be crucified, which was part of my own teaching contribution.
あなたは十字架に磔にされることを求められてはいません。磔刑は私が自らの教えを有意義にするために私が担った役割だったのです。
You are merely asked to follow my example in the face of much less extreme temptations to misperceive, and not to accept them as false justifications for anger.
あなたはただ、私の例ほど極端ではないにしても、誤って知覚しそうな誘惑に面したときに、私の実例に倣って、その誘惑を怒りを感じる正当な理由だと間違って受け入れないように求められているだけです。
There can be no justification for the unjustifiable.
正当化する余地のないものを正当なものにする理屈など、成り立つはずがありません。
Do not believe there is, and do not teach that there is.
正当化しようのないものを正当化する余地があると信じてはならないし、正当化できないものを正当化できると教えてもなりません。
Remember always that what you believe you will teach.
自ら信じることをあなたは教えることになることを、つねに忘れないでください。
Believe with me, and we will become equal as teachers.
私と一緒に信じてください。そうすれば、私たちは教師として等しいものになるでしょう。

7. Your resurrection is your reawakening.
あなたの復活とは、あなたが再び目を覚ますことです。
I am the model for rebirth, but rebirth itself is merely the dawning on your mind of what is already in it.
私はあなたが生まれ変わるための模範ですが、生まれ変わって復活することそれ自体は、単に、あなたの心の中にすでにあるものが姿を現すことでしかありません。
God placed it there Himself, and so it is true forever.
神自ら復活をあなたの心に置いたのだから、復活は永遠に真実です。
I believed in it, and therefore accepted it as true for me.
私は再生を信じ、それゆえに、復活することが私にとっての真実だと受け入れたのです。
Help me to teach it to our brothers in the name of the Kingdom of God, but first believe that it is true for you, or you will teach amiss.
神の王国の名において、私が復活を私たちの兄弟たちに教えるのを助けてください。ただし、まずはじめに、あなたにとって再生が真実であると信じてください。さもなければ、あなたは間違って教えることになってしまいます。
My brothers slept during the "agony in the garden", but I could not be angry with them because I knew I could not be abandoned.
「ゲッセマネの園での苦悶」の間、私の兄弟たちはずっと眠っていました。しかし、私は自分が見捨てられることはありえないとわかっていたので、私が彼らに対して腹を立てることなどできたはずがないのです。
8. I am sorry when my brothers do not share my decision to hear only one Voice, because it weakens them as teachers and as learners.
私の兄弟たちが、ただひとつの大いなる声だけを聞くという私の決断を分かち合おうとしないとき、私は残念に思います。なぜなら、ひとつの大いなる声だけを聞こうとしないことが、教師として、そして、学ぶ者としての彼らの力を弱めてしまうからです。
Yet I know they cannot really betray themselves or me, and that it is still on them that I must build my church.
それでも、私は兄弟たちが、彼ら自身や私を真の意味で裏切ることはできないし、私はなおも、私の教会をその兄弟たちの上に建てなければならないとわかっています。
There is no choice in this, because only you can be the foundation of God's church.
このことに選択の余地はありません。なぜなら、神の教会の礎となることができるのは、あなたたちだけだからです。
A church is where an altar is, and the presence of the altar is what makes the church holy.
教会とは祭壇のある場所を指します。そして、その祭壇の存在こそが教会を神聖なものにします。
A church that does not inspire love has a hidden altar that is not serving the purpose for which God intended it.
愛を呼び起こさない教会には、神が意図した目的のために奉仕することのない秘密の祭壇があるのです。
I must found His church on you, because those who accept me as a model are literally my disciples.
私は、あなたたちの上に神の教会を建てなければなりません。なぜなら、私を手本として受け入れる者たちこそ、文字どおり私の弟子たちだからです。
Disciples are followers, and if the model they follow has chosen to save them pain in all respects, they are unwise not to follow him.
弟子とは従う者です。だから、もし従うべき模範となる師が、あらゆる面で弟子たちが苦痛を味わわずに済むようにすることを選んだのだとすれば、弟子たちが師の選択に従わないのは賢明なことではありません。

9. I elected, for your sake and mine, to demonstrate that the most outrageous assault, as judged by the ego, does not matter.
私は、あなたと私のためになるようにと、エゴの価値判断によれば、最も悪虐無道な蛮行でさえ問題にならないと実証することを選びました。
As the world judges these things, but not as God knows them, I was betrayed, abandoned, beaten, torn, and finally killed.
この世界が評価するところによると、この蛮行において、私は裏切られ、見捨てられ、鞭打たれ、身を裂かれ、ついには殺されたということになっています。もちろん、そんなことは神の関知するところではありません。
It was clear that this was only because of the projection of others onto me, since I had not harmed anyone and had healed many.
これは単にほかの者たちが私に投影したからでしかないのは明らかでした。なぜなら、私は誰ひとり傷つけることはなかったし、多くの人々を癒したからです。
10. We are still equal as learners, although we do not need to have equal experiences.
私とあなたは、今なお学ぶ者として同等の存在です。だからといって、あなたが私と同等の経験をしなければならないわけではありません。
The Holy Spirit is glad when you can learn from mine, and be reawakened by them.
あなたが私の経験から学ぶことができて、その学びによって再び目覚めるとき、聖霊は歓喜します。
That is their only purpose, and that is the only way in which I can be perceived as the way, the truth and the life.
このように、あなたが私の経験から学んで再び目覚めることこそが、私の経験の唯一の目的であり、これこそ、私が道であり、真理であり、生命であるとして知覚されうるための唯一の方法です。
When you hear only one Voice you are never called on to sacrifice.
あなたがひとつの大いなる声にのみ耳を傾けるなら、あなたは決して犠牲を要求されることはありません。
On the contrary, by being able to hear the Holy Spirit in others you can learn from their experiences, and can gain from them without experiencing them directly yourself.
それどころか、ほかの者たちの中にいる聖霊からも聞くことができるようになるので、あなたは他者の経験から学べるようになり、自分自身で直接経験しなくても、他者の経験から学びを得られるようになります。
That is because the Holy Spirit is One, and anyone who listens is inevitably led to demonstrate His way for all.
その理由は、聖霊がひとつだからであり、聖霊に耳を傾ける者は誰でも、必然的に、聖霊の道をすべての者たちに実証する結果となるからです。


11. You are not persecuted, nor was I.
あなたは迫害されていないし、私も迫害されたことなどありません。
You are not asked to repeat my experiences because the Holy Spirit, Whom we share, makes this unnecessary.
あなたには、私の経験を繰り返すことは求められていません。なぜなら、私たちが共有する聖霊がそんな必要を無くしてくれるからです。
To use my experiences constructively, however, you must still follow my example in how to perceive them.
とはいえ、私の経験を建設的に活用するために、私の経験をどのように解釈するかという点においては、あなたは依然として私の例に倣うべきです。
My brothers and yours are constantly engaged in justifying the unjustifiable.
私の兄弟であり、あなたの兄弟でもある者たちは、道理に合わないことを正当化しようとして、始終、躍起になっています。
My one lesson, which I must teach as I learned it, is that no perception that is out of accord with the judgment of the Holy Spirit can be justified.
自らがそれを学んだがゆえに私が何としても教えなければならないレッスンのひとつは、聖霊の価値判断に一致しない知覚は正当化する余地がないということです。
I undertook to show this was true in an extreme case, merely because it would serve as a good teaching aid to those whose temptation to give in to anger and assault would not be so extreme.
私は、このことが極端な事例においてさえも真実であると示すことを引き受けたのです。それはひとえに、それほど極端ではないにせよ、怒ったり攻撃したりしたくなるような誘惑に駆られる者たちにとって、私の実例がよい教えの助けとして役に立つはずだからです。
I will with God that none of His Sons should suffer.
私は神とともに、神の子らのうちの誰も苦しまないことを意図しています。
12. The crucifixion cannot be shared because it is the symbol of projection, but the resurrection is the symbol of sharing because the reawakening of every Son of God is necessary to enable the Sonship to know its Wholeness.
キリストの磔刑を分かち合うことはできません。なぜなら、それは投影の象徴だからです。しかし、復活は、分かち合いの象徴です。なぜなら、神の子全体が自らの完全さを知るためには、一人ひとりの神の子がみんな再び目覚めることが必要だからです。
Only this is knowledge.
ただこれだけが知識です。
13. The message of the crucifixion is perfectly clear:
キリストの磔刑の伝える次のメッセージは完全に明瞭なものです。
Teach only love, for that is what you are.
愛だけを教えなさい。というのも、愛こそあなたの本質だからです。
14. If you interpret the crucifixion in any other way, you are using it as a weapon for assault rather than as the call for peace for which it was intended.
もしあなたがキリストの磔刑について、少しでもこれとは違った解釈の仕方をするなら、あなたは磔刑を、それが本来意図されていた平安への呼びかけとしてではなく、攻撃のための武器として使っていることになります。
The Apostles often misunderstood it, and for the same reason that anyone misunderstands it.
使徒たちですら、たいていこのことを誤解していたし、同じ理由で誰もが誤解してしまいます。
Their own imperfect love made them vulnerable to projection, and out of their own fear they spoke of the "wrath of God" as His retaliatory weapon.
使徒たちの愛が不完全なものであったために、彼らは投影せずにはいられず、彼らは自分たちの恐れゆえに、神からの報復攻撃として「神罰」が降り懸かると述べたりもしました。
Nor could they speak of the crucifixion entirely without anger, because their sense of guilt had made them angry.
また、彼らはキリストの磔刑について完全に怒りを感じずには語ることができませんでした。それというのも、彼らの罪の意識が彼らに怒りを覚えさせたからです。

15. These are some of the examples of upside-down thinking in the New Testament, although its gospel is really only the message of love.
次に述べるのは、新約聖書の中にある倒錯した考え方のいくつかの例です。とはいえ、それらの福音は、本当はただ愛のメッセージでしかないのです。
If the Apostles had not felt guilty, they never could have quoted me as saying, "I come not to bring peace but a sword. "
もし使徒たちが罪悪感を抱いていなかったなら、私の言った言葉として「私は平和ではなく、剣をもたらすために来た」と引用することなど彼らには決してできなかったはずです。
This is clearly the opposite of everything I taught.
この言葉は明らかに、私が教えたすべてのことと正反対のものです。
Nor could they have described my reactions to Judas as they did, if they had really understood me.
また、もし使徒たちが私を真に理解していたなら、ユダに対する私の反応を聖書にあるようには描写できなかったはずです。
I could not have said, "Betrayest thou the Son of man with a kiss? " unless I believed in betrayal.
もし私が裏切られたと信じていたのでもないかぎり、私が「汝は口づけをして人の子を裏切るのか」と言ったはずがありません。
The whole message of the crucifixion was simply that I did not.
磔刑のメッセージ全体が伝えようとすることを簡潔に言えば、私は裏切られたと信じてなどいなかった、ということになります。
The "punishment" I was said to have called forth upon Judas was a similar mistake.
私がユダに「罰」を呼び起こしたことになっているのも、同じ間違いです。
Judas was my brother and a Son of God, as much a part of the Sonship as myself.
ユダは私の兄弟であり、神の子でした。そして、私自身と同じように神の子全体に欠かせない一部でした。
Was it likely that I would condemn him when I was ready to demonstrate that condemnation is impossible?
有罪を宣告することなど不可能だと実証する用意のできていたこの私が、ユダに罰を科そうとしたはずがありません。
16. As you read the teachings of the Apostles, remember that I told them myself that there was much they would understand later, because they were not wholly ready to follow me at the time.
あなたが使徒たちの教えを読むに際しては、私自身が使徒たちに対して、あとになって彼らに理解できるようになることがたくさんあると彼らに告げていたことを覚えておくようにしてください。というのも、使徒たちはその当時、私に従う準備が完全にはできていなかったからです。
I do not want you to allow any fear to enter into the thought system toward which I am guiding you.
私はあなたに、私があなたを導こうとしている思考システムの中に、少しでも恐れを入りこませないようにしてほしいのです。
I do not call for martyrs but for teachers.
私は殉教者を求めてはいません。そうではなく、私は教師を求めているのです。
No one is punished for sins, and the Sons of God are not sinners.
罪について罰を受ける者はひとりもありません。だから、神の子らは罪人ではないのです。
Any concept of punishment involves the projection of blame, and reinforces the idea that blame is justified.
処罰という概念は、どれも必然的に責任転嫁のための投影を必要とし、責任を問うのは正当なことであるという考え方を強化します。
The result is a lesson in blame, for all behavior teaches the beliefs that motivate it.
その結果として、非難することを学ぶことになります。というのも、いかなる振る舞いであっても、その行動に駆り立てる原因となる信念を教えることになるからです。
The crucifixion was the result of clearly opposed thought systems; the perfect symbol of the "conflict" between the ego and the Son of God.
キリストの磔刑は、思考システム同士の明確な対立の帰結であり、エゴと神の子の「葛藤」を完璧に象徴するものです。
This conflict seems just as real now, and its lessons must be learned now as well as then.
この葛藤は、今でも、まさに現実のもののように思えます。だから、そのレッスンを当時と同じように、今、学ばなければならないのです。

17. I do not need gratitude, but you need to develop your weakened ability to be grateful, or you cannot appreciate God.
私は感謝を必要としません。しかし、あなたは、衰えてしまった感謝するという自分の能力を改めて発達させなければなりません。さもないと、あなたは神の真価を認めることができないからです。
He does not need your appreciation, but you do.
神は、あなたに真価を認めてもらう必要などありません。しかし、あなたには神の真価を認める必要があるのは確かです。
You cannot love what you do not appreciate, for fear makes appreciation impossible.
恐れが正しく評価することを不可能にしてしまうために、あなたは、自分が真価を認めないものを愛することができないからです。
When you are afraid of what you are you do not appreciate it, and will therefore reject it.
あなたが本当の自分に恐れを抱くとき、あなたは本当の自分の価値を正しく認めてはいないし、それゆえに、あなたは本当の自分を受け入れようとはしないでしょう。
As a result, you will teach rejection.
その結果、あなたは拒絶を教えることになってしまうのです。
18. The power of the Sons of God is present all the time, because they were created as creators.
神の子たちの力はつねに存在します。なぜなら、神の子たちは創造者として創造されたからです。
Their influence on each other is without limit, and must be used for their joint salvation.
神の子同士がお互いに与える影響力には限りがありません。そして、その影響力は彼らが一緒に救済されるためにこそ用いられるべきものです。
Each one must learn to teach that all forms of rejection are meaningless.
神の子の一人ひとりは、どんな形であれ、拒絶することは無意味であると教えることを学ばなければなりません。
The separation is the notion of rejection.
分離とは、拒絶するという観念です。
As long as you teach this you will believe it.
あなたが拒絶することを教えるかぎり、あなたは分離を信じることでしょう。
This is not as God thinks, and you must think as He thinks if you are to know Him again.
これは神の考え方ではないし、もしあなたが再び神を知ろうとするなら、あなたは神が考えるように考えなければなりません。
19. Remember that the Holy Spirit is the Communication Link between God the Father and His separated Sons.
聖霊は、父なる神と分離した神の子たちとのコミュニケーションの絆であることを思い出してください。
If you will listen to His Voice you will know that you cannot either hurt or be hurt, and that many need your blessing to help them hear this for themselves.
もしあなたが聖霊の大いなる声に耳を澄ますなら、あなたは、自分が誰かを傷つけることも誰かに傷つけられることも不可能だと知るでしょう。そして、大勢の者たちがこのことを自分で聞けるようになるための助けとして、あなたからの祝福を必要としていることもわかってくるでしょう。
When you perceive only this need in them, and do not respond to any other, you will have learned of me and will be as eager to share your learning as I am.
あなたがただ、彼らの中にこの必要性だけを知覚し、ほかのことには何も反応しなくなったなら、そのとき、あなたは私から学んだのです。そうなれば、あなたは私と同じように、自分の学んだことを分かち合いたいと熱望するようになるはずです。


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