T1-7 妄想の生まれてくる過程
友よ、あなたは自分の夢の主人公です。闇を夢見たのもあなたなら、光をもたらすのもあなたです。あなたは誘惑者と救済者の一人二役です。そのことを、あなたはすでに知っているはずなのですが、改めて知るようになります。
この自作自演のドラマの中で、あなたの抱える問題は神との関係のみです。見かけは兄弟との揉め事のように感じるかもしれませんが、そうではありません。善悪の木は、あなたの心の中に生えています。自分がつまらないものだとか、力を誤ったふうに使うとか、あなたが考えているのは、あなたの心の中でだけです。
あなたの答えと神の答えがぴったりとひとつになるときがやってきます。そのとき、善悪の木は、分かち難い全体である、生命の木になるでしょう。愛はもはやその敵対物を持たず、自由にあらゆる方向へ広がってゆきます。

イエス・キリスト(ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」より)

テキスト第一章から、奇跡への衝動の歪曲という一節をご紹介します。
この節では、ヴィジョンが歪曲されて空想、妄想が生じる仕組みが解き明かされます。
後半では、コースの学習における基礎固めの重要性についても語られます。
身体を敵視して否認しようとしない
2.「You can use your body best to help you enlarge your perception so you can achieve real vision, of which the physical eye is inapable.
あなたは、自分の身体を自分の知覚力を拡大する助けとして、最も有効に役立てることができます。そうすれば、あなたは肉眼では捉えることが不可能な真のヴィジョンを獲得することができます。
Learning to do this is the body's only true usefulness.
こうすることを学ぶことこそが、身体の唯一の正しい役立て方です。」
奇跡のコースを学んでいると、身体が幻想であるということが繰り返し強調して指摘されるので、身体のことを否認し捨て去るべき害悪であるかのように受け止めてしまうこともあるかもしれません。
「However, it is almost impossible to deny its existence in this world.
しかしながら、この世界の中で身体の存在を否定することは、ほとんど不可能です。
Those who do so are engaging in a particularly unworthy form of denial.
この世界の中で身体の存在を否定しようとする者たちは、否認の中でも、とりわけ価値のない形の否認にかまけているといえます。
The term "unworthy" here implies only that it is not necessary to protect the mind by denying the unmindful.
ここで『価値のない』という言葉を使うのは、ひとえに心の誤用の結果である身体を否認することによって心を保護する必要などないと示すためです。
If one denies this unfortunate aspect of the mind's power, one is also denying the power itself.
というのは、もしある人が、この身体の存在という心の力が不適切に表れた側面を否認するなら、彼は同時に心の力そのものをも否定することになってしまうからです。」(T2-4 恐れからの解放としての癒し、3.)
幻想を攻撃して消去しようとするのは幻想を支持すること
これは身体に限らず、エゴをはじめとして、分離、特別性、犠牲、共感等のコースが取り消すべきと主張する概念のすべてにあてはまります。
非二元、不二一元論に立つコースのスタンスは、実在するのは真理のみで、幻想は無であって実在しないのだから、仕組み的に、積極的に幻想を攻撃して消去しなければならないという発想は出てきようがありません。
本質が無で、ありもしない幻想を、あたかもある有として攻撃して消し去ろうとするのは、無を有に格上げして支援することです。
コースは、この世界に神の子が自分で閉じこもる状態を維持する道具となっている実在の不在に名前をつけた影であるエゴ等は、まさに間違った光の当たり方によってできた影でしかないので、正しく光が当たるようにすればよいだけだというスタンスであり、しかも、聖霊は合気道の達人のように、それまでエゴが分離のための道具として使ってきた手段をその道具の力自体は維持したまま、愛による統合のための道具として役立てることができます。
ですので、エゴを取り消すといっても、エゴと戦って打ち倒すわけではないし、この世界で人間が持ついわゆる自我(同じ"ego"の訳語ですが、日本語の一般的用法として利己的なエゴイズムを意味する悪者扱いの「エゴ」に対して価値中立な用語として、アイデンティティーの面よりもパーソナリティーの面での作用としての"self"に近い)、個人としての人格まで全否定するわけではなく、個性に間違った光が当たってできるエゴという負の側面、影が消えるように求めるだけで、正しく光が当たってパーソナリティーとしての自我が成熟して光り輝き、その個性を発揮して全体に奉仕するために役立てることは否認するどころか推奨します。
「There is, however, a particular appeal in unusual abilities that can be curiously tempting.
しかしながら、非凡な能力には独特の魅力があり、不思議なほど惹きつける力を持ちうるものです。
Here are strengths which the Holy Spirit wants and needs.
ここに、聖霊が望み、必要とする強さがあります。
Yet the ego sees in these same strengths an opportunity to glorify itself.
しかし、エゴは、これらの同じ強さの中に、エゴ自らを賛美する機会を見ています。」(M25 超能力は望ましいもの?4.)
この点は、T24-2 特別であるという裏切りのエッセイでも述べているのでご一読ください。

身体感覚を磨くことは大切
さて、少し脱線しましたが、真のヴィジョンの獲得に向けて、身体を知覚力を増大させる助けとして役立てることができるということです。
コースでは肉体の五感を介しての知覚作用が私たちが幻想に惑わされる要因だということがたびたび指摘されるので、ともすれば、肉眼等の五感に重きを置かず、身体をないがしろにしてよいどころか、むしろ身体は無視または軽視すべきなのかとすら思いがちですが、そうではないということです。
誘惑の元になるという理解は徹底的であるべきではあるが、五感等の身体の感覚器官を磨くことがむしろヴィジョンの獲得につながるとすら言ってよいでしょう。
これは、進化した五感の知覚が究極の変容を遂げてヴィジョンに昇華するという意味ではなく、知覚の歪曲を正して、偽りの知覚に真の知覚であるヴィジョンを妨げさせることを解消するという間接的な意味です。
身体感覚を磨き精緻化することは、サングラスや歪んだメガネ、AR(拡張現実)グラス等をかけてありのままの実像を見ることができない状態から、サングラスの色を落とし、メガネの歪みを解消し、ARの機能を停止させることに相当します。
肉体的衝動は奇跡衝動が誤導された発露
さて、1.では、肉体的衝動は、奇跡への衝動が誤って方向づけられたものだという指摘が出てきます。
私たちは、奇跡への衝動、つまり、愛に基づいて本当の自分である神の子としてひとつに結ばれたいという衝動を本質的に抱いています。
この衝動が身体というアバターに自己同一化することで、知覚は歪曲されて諸々の身体的欲求として発現します。
性衝動や安全欲求等々の身体的衝動に覆われると、自分が本当は奇跡を求めている、本当の自分自身に戻りたい、ひとつの神の子になりたいと望んでいるという自分の真の意志がわからなくなります。
なお、本節では、ヴィジョンという概念が出てきますが、今のところ、肉眼に対応する心眼というようなイメージでとらえてもらうとよいです(T12-6 キリストのヴィジョン)。
空想はヴィジョンの歪曲形態
3.では、空想は、ヴィジョンの歪曲形態だということが述べられます。
ヴィジョンも空想も、身体の感覚器官を介さない心の知覚作用です。
しかし、ヴィジョンは、天国という神の現実を反映する実在のみを正しく知覚する作用であるのに対して、空想は、エゴに従って、実在しない幻想を心に思い浮かべて虚構を知覚して快楽に耽る知覚作用であり、まったく逆の働きをします。
ヴィジョンがレントゲンのように、肉眼がそこで止まってしまう幻想世界内の物事の表面の外観を通り越して透視する視力だとすれば、空想はARグラスで幻想に加えてそこにありもしない像を付け足して見る、または、VR(仮想現実)ゴーグルをつけて完全な妄想を見る虚構を見る視力だということができます。

テキスト第一章
VII.Distortions of Miracle Impulses
七 奇跡への衝動の歪曲
1. Your distorted perceptions produce a dense cover over miracle impulses, making it hard for them to reach your own awareness.
あなたの歪んだ知覚は、奇跡を起こそうとする衝動を隠す濃密な覆いを生み出し、それによって、あなたが奇跡への衝動を自覚するのを困難にしています。
The confusion of miracle impulses with physical impulses is a major perceptual distortion.
奇跡への衝動と肉体的な衝動とを混同するのは、よく起こる深刻な知覚の歪曲状態です。
Physical impulses are misdirected miracle impulses.
肉体的な衝動は、奇跡への衝動が誤った経路で発現したものです。
All real pleasure comes from doing God's will.
真の喜びはすべて、神の意志を行うことから生じます。
This is because not doing it is a denial of self.
その理由は、神の意志を行わずにいることは、真の自己を否認することだからです。
Denial of self results in illusions, while correction of the error brings release from it.
真の自己を否認すれば、結果として幻想が生じます。反対に言えば、その誤りを修正すれば、幻想から解放されることになります。
Do not deceive yourself into believing that you can relate in peace to God or to your brothers with anything external.
自分には何らかの外面的な物事を介して、神や兄弟たちと平安のうちに関わることができるなどと、思い違いをして信じこまないようにしなさい。
2. Child of God, you were created to create the good, the beautiful and the holy.
神の子供よ、あなたは、善なるもの、美しきもの、そして聖なるものを創造するために創造されたのです。
Do not forget this.
このことを決して忘れないでください。
The love of God, for a little while, must still be expressed through one body to another, because vision is still so dim.
今しばらくは、ヴィジョンがまだぼんやりしているために、神の愛は依然として、ある身体を通してほかの身体へと表現されなければなりません。
You can use your body best to help you enlarge your perception so you can achieve real vision, of which the physical eye is incapable.
あなたは、自分の身体を自分の知覚力を拡大する助けとして、最も有効に役立てることができます。そうすれば、あなたは肉眼では捉えることが不可能な真のヴィジョンを獲得することができます。
Learning to do this is the body's only true usefulness.
こうすることを学ぶことこそが、身体の唯一の正しい役立て方です。

3. Fantasy is a distorted form of vision.
空想はヴィジョンの歪んだ形態のひとつです。
Fantasies of any kind are distortions, because they always involve twisting perception into unreality.
いかなる種類であろうとも、空想は歪曲です。なぜなら、空想は必ず知覚を虚構の中にねじ曲げることを必要とするからです。
Actions that stem from distortions are literally the reactions of those who know not what they do.
歪曲から起こる行動は、文字どおり、自分で自分が何をしているのかわかっていない者たちがする反応の仕方です。
Fantasy is an attempt to control reality according to false needs.
空想は、偽りの必要性に沿うように現実を支配して従わせようと試みることです。
Twist reality in any way and you are perceiving destructively.
いかようにであれ、現実をねじ曲げるなら、あなたは破壊的に知覚しているのです。
Fantasies are a means of making false associations and attempting to obtain pleasure from them.
空想は、偽りの連想を作り出して、そのような欺瞞から快楽を得ようと試みるための手段です。
But although you can perceive false associations, you can never make them real except to yourself.
しかし、たとえあなたが連想した欺瞞を知覚できるとしても、あなたには自分自身に対して以外は、それらの欺瞞を本物にすることは決してできません。
You believe in what you make.
あなたは自分の作り出すものを信じます。
If you offer miracles, you will be equally strong in your belief in them.
もしあなたが奇跡を差し出すなら、あなたは同じように強く、奇跡のことも信じるようになるでしょう。
The strength of your conviction will then sustain the belief of the miracle receiver.
そうなれば、あなたの確信の強さが、奇跡を受け取る者の信頼する気持ちを支援することになります。
Reality is "lost" through usurpation, which produces tyranny.
現実が「失われた」のは、権威の簒奪がなされてそれが暴政を生み出しているためです。
As long as a single "slave" remains to walk the earth, your release is not complete.
ただのひとりでも「奴隷」が取り残されて地上を歩むかぎり、あなたの解放は完了しません。
Complete restoration of the Sonship is the only goal of the miracle-minded.
神の子の全体性を完全に回復することこそが、奇跡を起こそうとする者にとっての唯一の目標なのです。
4. This is a course in mind training.
このコースは、心を訓練することを学ぶ学習課程です。
All learning involves attention and study at some level.
どんな学びであっても、ある程度の関心を向けて勉強することを要します。
Some of the later parts of the course rest too heavily on these earlier sections not to require their careful study.
このコースの後半で出てくる部分は、これらの最初のほうの部分に本当に大きな基盤を置いているので、これらの初め数章を注意深く勉強することが何よりも求められます。
You will also need them for preparation.
また、あなたの準備を整えるためにも、これらの初めの数章を念入りに学習しておくことが必要です。
Without this, you may become much too fearful of what is to come to make constructive use of it.
これらの初めの部分を注意深く学習して準備しておかなければ、あなたは後の章で出てくる部分で言わんとすることにあまりにも強い恐れを抱いてしまい、それを建設的に利用することができなくなってしまいかねません。
However, as you study these earlier sections, you will begin to see some of the implications that will be amplified later on.
しかし、あなたがこれらの初めの部分を勉強しておけば、あなたにも、あとになって敷衍されることになる含意がわかりはじめるはずです。

5. A solid foundation is necessary because of the confusion between fear and awe to which I have already referred, and which is often made.
すでに言及したように、恐れと畏敬の念とを混同してしまうことがありうるし、それは本当によく起こることなので、しっかりした基礎固めが必要なのです。
I have said that awe is inappropriate in connection with the Sons of God, because you should not experience awe in the presence of your equals.
これもすでに述べたことですが、神の子たち同士の関係においては、畏敬の念を抱くのは適切ではありません。なぜなら、あなたは自分と等しい者たちを前にして畏敬の念を覚えるべきではないからです。
However, it was also emphasized that awe is proper in the Presence of your Creator.
しかしながら、あなたの大いなる創造主の臨在を前にして畏敬の念を抱くことは適切であるとも強調しました。
I have been careful to clarify my role in the Atonement without either over- or understating it.
私は、贖罪における私の役割を、過大にも過小にも評価することなく明らかにするよう慎重に配慮してきました。
I am also trying to do the same with yours.
私はまた、贖罪におけるあなたの役割についても、同じように明らかにしようと努めています。
I have stressed that awe is not an appropriate reaction to me because of our inherent equality.
私は、私たちが本来同等であるがゆえに、私に対して畏敬の念を抱くのは適切な態度ではないと力説しておきました。
Some of the later steps in this course, however, involve a more direct approach to God himself.
しかし、このコースのあとのほうに出てくる段階では、より直接的に大いなる神自身に接近することが必要になってきます。
It would be unwise to start on these steps without careful preparation, or awe will be confused with fear, and the experience will be more traumatic than beatific.
入念な準備なくして、このような段階に取り掛かるのは賢明なことだとはいえません。さもないと、畏敬の念を恐怖と混同してしまい、そうした経験は至福に満ちたものとなるどころか、かえって精神的な傷を与えるものとなってしまいかねません。
Healing is of God in the end.
最終的には、癒しは神から訪れます。
The means are being carefully explained to you.
そのための手段が、あなたに念入りに説明されてゆきます。
Revelation may occasionally reveal the end to you, but to reach it the means are needed.
啓示は、ときにはあなたに最終目的地を見せてくれることもあるでしょう。しかし、最終目的地へと到達するには手段を必要とするのです。


- 関連記事