T4-intro 正しいジコチュウになれば元気になれる!?
もし自分を説得しなければならないのなら、それは他人のものだ。もしそれがあなたのものならば、自分を説得する必要はない。

ヴァジム・ゼランド
気のふさいだ馬を見たことがあるか?
しょげかえった小鳥を見たことがあるか?
馬や小鳥が不幸にならないのは、仲間に「いいかっこう」を見せようとしないからだ。

デール・カーネギー
簡単に言うと、症状や問題というのは中心を欠いた深刻な身体状態なのです。食べ物への依存であれ、ニコチン中毒であれ、なんであれ、嗜癖を持つ人とのワークを行っていて頻繁に出てくるのは、「自分の中にブラックホールがあり、それを埋めるものがない」という感覚です。そういう言い方で、自分の中心が感じ取れないことを伝えています。
そこで、ひとつ公式を提案します。
「罪 + センタリング = 恩寵」
あるいは、少し異なる流派なら、こうなります。
「症状 + センタリング=リソース/解決策」
これは生成的な身体状態を創り出すことの真価のひとつで、そうすることによって、否定的な体験を肯定的な体験に変化させることができるということを表しています。


ロバート・ディルツ&スティーヴン・ギリガン(「NLPヒーローズ・ジャーニー」125ページ)
馬鹿になれ とことん馬鹿になれ 恥をかけ とことん恥をかけ かいてかいて恥かいて 裸になったら見えてくる 本当の自分が見えてくる 本当の自分も笑ってた それくらい 馬鹿になれ。

アントニオ猪木

テキスト第四章の序論をご紹介します。
元気ですかぁー!?
アントニオ猪木さんの言われるとおり、「元気があれば何でもできる!」というのは真理ですが、なかなか気づきがたい真理です。
元気がない極限状態であるうつの状態では、本当に何もできないということなら理解できます。
けれど、成人で、元気がある状態に真にあることのできている人は、なかなかいません。
自分では病気もなく健康で元気いっぱいのつもりでも、成人するまで、この世にデビューしてから少なくとも20年はエゴ・身体を稼働させてきたわけです。
パソコンでも使い方によっては1年もたたずに、ハード面では問題がなくても、ソフト面でいろいろと不具合が出てくるものです。
車でもメンテナンスが足りないと数年でガタが来ます。
20年も、誰からも正しい使用法を教わることができないまま、人間という機械をおそらく正しいとはいえない使い方で乱用していれば、本来のフルパワー状態に遠く及ばない低パフォーマンス状態になってしまうのは避けがたいことでしょう。
これが40年、60年ともなれば、それなりに稼働はするにしても、心身ともに本当の元気状態から遠く離れた状態になっているとういうことが容易に想像できます。
元気があれば何でもできる感覚は、誰でも自分の子供のころのマシンとしての心身の絶頂期を思い出して、そのときの万能感を思い出してみると、その片鱗をうかがい知ることができます。
霊性の喪失が疲労の原因
さて、本節では、疲労の原因について、霊性を失うことがその要因だと述べられます。
つまり、エゴ・身体というアバターが自分であるという思い込みに束縛されて、本当の自分である霊から離れることで、アバターのエネルギーの供給元である霊とのパイプが目詰まりしてしまうわけです。

「To be fatigued is to be dis-spirited, but to be inspired is to be in the spirit.
疲労を感じるというのは、霊から離れて鋭気が挫かれているということです。それに対して、霊感を得るというのは、霊の中に入って元気になるということです。
To be egocentric is to be dis-spirited, but to be Self-centred in the right sense is to be inspired or in spirit.
エゴ本位になると、霊から離れて鋭気を失うことになります。しかし、大いなる自己に中心を置いて、正しい意味で自己中心的になると、霊の中に入って霊感を得て元気になります。」
自然に元気が出るなら正しくセンタリングできている
エゴ本意になると元気を失い疲れてしまうということです。
エゴが真の自己を抑圧・否認する生命そのものである真の自己の不在を意味することからすれば、これは当然でしょう。
活動の源となる気、エネルギーを意味する元気そのものである本当の自分に蓋をして切り離し、偽りの自分であるエゴという殻に閉じ込めてその殻が自分だと思うことは、エネルギーを遮断するようなものです。
これを別の角度から見ると、あることをしたり考えたりして、自分に元気が出るか疲労するかが正しいセンタリングができているかの指標になるということです。
元気であるには、まず、大いなる自己に中心を置いて正しい自己中心性を得る必要があります。
これに加えて、この正しい自己認識を得たうえで、アバターである小さな自己の立ち位置、特性、能力を認識して、自己を他者、全体に奉仕するための道具として活かすことが必要です。

はたらく細胞で言えば、赤血球細胞が自分の本質はその身体を持つ魂であると自覚すること、そのうえで、アバターとしての自分が持つ役目が酸素を身体世界の隅々まで運び届けることだと理解し、粛々とその役目を果たすことです。
赤血球細胞が自分は赤血球細胞自体でしかなく、自分の配達先の細胞たちは自分とは無関係の存在で、敵ですらあると信じたり、自分のしている酸素を送り届けるという仕事は本当にやりたいことじゃない、自分は白血球のように悪い奴をやっつける仕事をするために生まれたはずだと白血球の仕事に転職しようとがんばりはじめたりしたら悲劇の始まりです。
"Be still and know that I am God."
さて、本文では、有名な詩篇第46篇10節 "Be still and know that I am God."が出てきます。
この文章は、一般的には、神が自分=神自身を指して、人に対して神のことを神と知るようにと求める意味で捉えられています。
詩編の文脈的には、この解釈は自然なものです。
しかし、本節では、つぎの一文の中に、この聖句が埋め込まれており、素直に訳すかぎり、
「If you speak from spirit you have chosen to "Be still and know that I am God."
もしあなたが霊から語るなら、あなたは『静まって、我こそが神であると知』ることを選んだことになります。」
と、私たちに向けて、自分たちとは別の存在として、「神を神と知るように」、という意味ではなく、「私たち自身が神であることを知れ」、という意味になります。
イェシュアは、この言葉の" I "「私」を、人とは分離した人格神であるエホバとしての神の一人称として捉えて人とは別に存在する神が「我を神として崇めよ」と人に求めるものではなく、すべての心に宿る普遍的な「私」と捉えて、個別の心に対して、三位一体である神の自己と同一の神の子としての大いなる自己を知れ、真のアイデンティティーを回復せよということを命ずる言葉として再解釈しているように思います。
出エジプト記3章14節についてのエッセイ もご覧ください。

Chapter 4 The Illusions of the Ego
第四章 エゴという幻想
Introduction
序論
1. The Bible says that you should go with a brother twice as far as he asks.
聖書は、もしあなたが兄弟からどこかに一緒に行くように求められたら、彼とともに彼の求める倍を行くようにと言います。
It certainly does not suggest that you set him back on his journey.
聖書は決して、その兄弟の旅路を妨げて彼をあと戻りさせてはどうかなどと勧めてはいません。
Devotion to a brother cannot set you back either.
兄弟に献身することが、あなたの旅路を後退させるようなこともありえません。
It can lead only to mutual progress.
兄弟への献身は、ただお互いの前進をもたらすことにしかなりえません。
The result of genuine devotion is inspiration, a word which properly understood is the opposite of fatigue.
真の献身が生む結果は霊に満たされて霊感を得ることです。霊感という言葉が正しく理解されるなら、それは疲労とは正反対のものを意味します。
To be fatigued is to be dis-spirited, but to be inspired is to be in the spirit.
疲労することは、霊から離れて鋭気が挫かれることです。それに対して、霊感を得ることは、霊の中に入って元気になることです。
To be egocentric is to be dis-spirited, but to be self-centered in the right sense is to be inspired or in spirit.
エゴ本位になると、霊から離れて鋭気を失います。しかし、正しい意味で真の自己に中心を置くと、霊の中に入って霊感を得て元気になります。
The truly inspired are enlightened and cannot abide in darkness.
真に霊感を受けた者は、啓発され光明を得たので、闇に留まることなどできません。
2. You can speak from the spirit or from the ego, as you choose.
あなたは自分の選択によって、霊かエゴのいずれからでも語ることができます。
If you speak from spirit you have chosen to "Be still and know that I am God."
もしあなたが霊から語るなら、あなたは「静まって、我こそが神であると知」ることを選んだのです。
These words are inspired because they reflect knowledge.
この言葉は霊感によって与えられたものです。なぜなら、この言葉は知識を反映するものだからです。
If you speak from the ego you are disclaiming knowledge instead of affirming it, and are thus dis- spiriting yourself.
もしあなたがエゴから語るなら、あなたは知識を肯定することなく否定することになり、その結果として、霊から離れてあなた自身の気力を挫くことになってしまいます。
Do not embark on useless journeys, because they are indeed in vain.
無益な旅路に足を踏み出してはなりません。なぜなら、そんな旅路は本当に無駄に終わってしまうものだからです。
The ego may desire them, but spirit cannot embark on them because it is forever unwilling to depart from its foundation.
エゴは、無益な旅路に出たがることでしょう。しかし、霊が無益な旅路に足を踏み出すことなどありえません。なぜなら、霊が自らの土台から離れることを意欲することなど永遠にないからです。

3. The journey to the cross should be the last "useless journey."
あの十字架への旅路こそ、最後の「無益な旅路」とすべきです。
Do not dwell upon it, but dismiss it as accomplished.
十字架への旅路について、くどくど考えてなどいないで、すでに終わったこととして、さっさと忘れ去ってしまいなさい。
If you can accept it as your own last useless journey, you are also free to join my resurrection.
もしあなたが、あの十字架への旅路を自分自身の最後の無益な旅路として受け入れることができれば、あなたもまた心置きなく私の復活に加わることができます。
Until you do so your life is indeed wasted.
あなたがそうするまでは、あなたの人生は本当に無駄に過ぎ行くことになってしまいます。
It merely re-enacts the separation, the loss of power, the futile attempts of the ego at reparation, and finally the crucifixion of the body, or death.
あなたの人生はただ単に、分離して力を喪失し、エゴが償いのためにする無益な試みをし、挙句の果ては、身体の十字架刑つまり死に到るという筋書きを延々と再演し続けるだけです。
Such repetitions are endless until they are voluntarily given up.
このような繰り返しは、あなたが自発的に放棄しないかぎり、果てしなく続くことになります。
Do not make the pathetic error of "clinging to the old rugged cross."
「古びてささくれ立った十字架に縋りつこうとする」ような、哀れな過ちを犯してはなりません。
The only message of the crucifixion is that you can overcome the cross.
キリストの磔刑が示すメッセージはただひとつ、あなたには磔刑のような苦難ですら乗り越えられるということだけです。
Until then you are free to crucify yourself as often as you choose.
磔刑のメッセージを理解するまでは、あなたは何度でも好きなだけ自分自身を十字架にかけることができます。
This is not the gospel I intended to offer you.
しかし、こんなことが、私があなたに伝えたかった福音であるはずがありません。
We have another journey to undertake, and if you will read these lessons carefully they will help prepare you to undertake it.
私たちは別の旅路に出発しなければなりません。そして、もしあなたがこれから述べるレッスンを注意深く読むなら、それらのレッスンが、この新たな旅立ちの準備を整えるうえでのあなたの助けとなるはずです。


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