T15-10 再生のときは今


Miracles are proud creatures; they will not reveal themselves to those who do not Believe.
奇跡は誇り高い創造物なので、奇跡は信じない者たちのもとには姿を現さないだろう。

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Yahia Lababidi
ヤヒア・ラバビディ





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テキスト第十五章から「再生の時」をご紹介します。


エゴの虜囚となるか神の宿し主となるか

5. 「When you are willing to regard them, not as separate, but as different manifestations of the same idea, and one you do not want, they go together.
 しかし、そんな恐れのとるさまざまな姿は別々のものではなく、単に同一の想念が異なった形で現われているだけで、その想念を自分が望まないものだとみなす気になったなら、それらの多様な恐れの姿はすべて一緒に消え去ってしまいます。

 The idea is simply this: You believe it is possible to be host to the ego or hostage to God.
  The idea is simply this: You believe it is possible to be host to the ego or hostage to God.
 その同一の想念とは、簡潔に言えば、次の信念です。つまり、あなたは、自分はエゴを宿すこともできれば、神の人質になることもできる、と信じているということです。

 This is the choice you think you have, and the decision you believe that you must make.
 エゴの宿主となるか神の虜囚となるかの二者択一が、あなたが自分が持っていると思いこんでいる選択肢であり、自分が下さなければならないと信じている決断です。

 You see no other alternatives, for you cannot accept the fact that sacrifice gets nothing.
 あなたには、エゴの宿主か神の虜囚となる以外の選択肢が見えていません。というのは、犠牲を払うことによっては何も得られないという事実をあなたは受け入れられないからです。」






このエゴの宿主か神の虜囚かという選択肢は、真実とは逆になっています。

宿主(やどぬし。寄生でいう「しゅくしゅ」ではない)は、客を宿しもてなす主人のことです。

虜囚は、囚われた捕虜のことです。

エゴの虜囚となるか神の宿し主となるかが真の選択肢です。


エゴの誘惑

エゴは、エゴを宿してくれさえすれば、エゴは罪悪感を他者に投影してなすりつけてお前を楽にしてやれる、と持ちかけて、私たちにエゴを宿らせます。

そして、私たちの思考システムには犠牲という観念が根深く巣食っているので、私たちは犠牲を払わずに救われるとは信じられないので、エゴは自分のところに代償の支払いを請求してこないと思っている私たちから、エゴは恐れという代償を容赦なく取り立て、私たちを自らの虜にしてしまうのです。





エゴを宿すなら、軒(「のき」 庇(ひさし)に同じ)を貸して母屋を取られる式に、寄生虫が宿主を乗っ取るように客が主人の座をぶんどってしまうわけです。

こうなったら宿主は、表面的には主人のまま「宿主」(やどぬし)ですが、実質的には客の虜囚である「宿主」(しゅくしゅ)となり、ゾンビのようにエゴに操られることになります。


神が代償を求めるという誤解

これに対して、神は私たちに何の代償も求めることなくただ愛を差し延べるだけなので、私たちを閉じ込めて虜にすることはありません。

しかし、犠牲を信じる私たちには、犠牲を求めない愛など思いもよらないので、愛は攻撃や恐怖と不可分であり、神から愛を受け取るなら代償として恐れをもって支払わなければならないと考えてしまいます。

そうなると、大いなる愛を与える神は、とてつもない犠牲を求める恐るべき存在だということになります。

したがって、何もしないでいたら、神の愛に包囲されて神の虜囚になって、はては神に取り込まれて自分を喪失するというきわめて深刻で大きな犠牲を払わされてしまうということになります。

そこで、エゴがろくでもないものだとしても、もう一方の選択肢の神のほうも自分に害悪をもたらし、それもよりいっそう甚大な害悪なのだから、まだエゴのほうがましだ、神の座をエゴに与えて、エゴに守ってもらったほうが得策だということになります。

したがって、犠牲という観念を払いのけることがきわめて重要になります。



贖罪には犠牲は無用

真の犠牲の意味とは?

必要のない「犠牲」とは?

T26-8 救いはもう、済んでいる

が参考になると思います。



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テキスト第十五章 

X. The Time of Rebirth
十 再生の時



1. It is in your power, in time, to delay the perfect union of the Father and the Son.
 時間の中では、あなたには父と子が完全に結ばれるのを遅らせる力があります。

 For in this world, the attraction of guilt does stand between them.
 というのも、この世界では、父と子の間には確かに罪悪感の魅力が立ちはだかっているからです。

 Neither time nor season means anything in eternity.
 永遠においては、時間にも季節にも何の意味もありません。

 But here it is the Holy Spirit's function to use them both, though not as the ego uses them.
 しかし、この幻想の世界では、時間や季節を活用することが聖霊の役目です。もっとも、聖霊はエゴがそれらを利用するようには用いません。

 This is the season when you would celebrate my birth into the world.
 この季節は、私がこの世界に誕生したことをあなたたちが祝ってくれるときです。

 Yet you know not how to do it.
 しかし、あなたたちは、この世界へのキリストの降誕をどのように祝福すればよいのかわかっていません。

 Let the Holy Spirit teach you, and let me celebrate your birth through Him.
 聖霊にそれを教えてもらって、あなたが聖霊を通して誕生することを私に祝福させてください。

 The only gift I can accept of you is the gift I gave to you.
 私があなたから受け取ることができる唯一の贈り物は、私があなたに与えた贈り物だけです。

 Release me as I choose your own release.
 あなた自身が解放されることを私が選んでいるように、あなたも私を自由にしてください。

 The time of Christ we celebrate together, for it has no meaning if we are apart.
 キリストの時を私たちで一緒に祝いましょう。なぜなら、私たちが離れていたのでは、キリストの時は何の意味も持たないからです。

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2. The holy instant is truly the time of Christ.
 神聖な瞬間こそ、まさしくキリストの時です。

 For in this liberating instant no guilt is laid upon the Son of God, and his unlimited power is thus restored to him.
 なぜなら、この解放の瞬間においては、神の子は罪を着せられることが一切ないので、それによって、神の子はその無限の力を回復するからです。

 What other gift can you offer me, when only this I choose to offer you?
 私が神聖な瞬間だけを選んであなたに捧げているというのに、あなたは神聖な瞬間以外のどんな贈り物を私に捧げられるというのでしょうか。

 And to see me is to see me in everyone, and offer everyone the gift you offer me.
 そして、私を見ることはすべての人の中に私を見ることなのだから、すべての人に贈り物を捧げるなら、あなたは私に贈り物を捧げていることになります。

 I am as incapable of receiving sacrifice as God is, and every sacrifice you ask of yourself you ask of me.
 ただし、神と同じように私も、犠牲を捧げられても、それを受け取ることができません。だから、あなたが自分自身に犠牲を求めるたびに、あなたは私に犠牲になるように求めていることになります。

 Learn now that sacrifice of any kind is nothing but a limitation imposed on giving.
 今こそ、いかなる形の犠牲であろうとも、それは与えることを制限することでしかないと学んでください。

 And by this limitation you have limited acceptance of the gift I offer you.
 そして、こんな制限をすることによって、あなたはこれまで、私があなたに差し延べる贈り物を受け取ることを制限してきたのです。



3. We who are one cannot give separately.
 私とあなたはひとつなので、別々に与えることはできません。

 When you are willing to accept our relationship as real, guilt will hold no attraction for you.
 あなたが本当に私とあなたがひとつに結ばれていることを受け入れる気になったら、もはや罪悪感はあなたを惹きつける何の魅力も維持できなくなるでしょう。

 For in our union you will accept all of our brothers.
 というのは、私とひとつに結ばれることで、あなたは私たちの兄弟全員を受け入れることになるからです。

 The gift of union is the only gift that I was born to give.
 ひとつに結ばれるという贈り物だけを与えるために、私は生まれました。

 Give it to me, that you may have it.
 あなたがその贈り物を得られるように、ひとつに結ばれるという贈り物を私に差し出してください。

 The time of Christ is the time appointed for the gift of freedom, offered to everyone.
 キリストの時は、すべての人に差し延べられている自由という贈り物のために定められた時のことです。

 And by your acceptance of it, you offer it to everyone.
 そして、あなたがキリストの時を受け入れることによって、あなたは自由という贈り物をすべての兄弟に差し延べるのです。

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4. It is in your power to make this season holy, for it is in your power to make the time of Christ be now.
 あなたには、この季節を神聖なものにする力があります。なぜなら、キリストの時を今にする力をあなたは持っているからです。

 It is possible to do this all at once because there is but one shift in perception that is necessary, for you made but one mistake.
 今をキリストの時にしてこの季節を神聖なものにすることを一挙に成し遂げることは可能なことです。なぜなら、あなたはたったひとつの間違いを犯しただけなので、あなたに必要なのは知覚の仕方をたったひとつ変えることだけだからです。

 It seems like many, but it is all the same.
 あなたの間違いはたくさんあるように見えていますが、すべて同じものなのです。

 For though the ego takes many forms, it is always the same idea.
 というのは、エゴはさまざまな形をとりますが、エゴはつねに同じ想念だからです。

 What is not love is always fear, and nothing else.
 愛でないものは必ず恐れであり、それ以外の何ものでもないのです。



5. It is not necessary to follow fear through all the circuitous routes by which it burrows underground and hides in darkness, to emerge in forms quite different from what it is.
 恐れは、あらゆる回り道を使って地下に潜って闇に隠れ、本来の姿とはまったく異なる形で姿を現しますが、恐れの通り道のすべてを辿り直す必要などありません。

 Yet it is necessary to examine each one as long as you would retain the principle that governs all of them.
 もっとも、あなたがそんな恐れのとるすべての形を支配する原理を手つかずのままにしようとするかぎりは、その姿の一つひとつを調べることが必要となるでしょう。

 When you are willing to regard them, not as separate, but as different manifestations of the same idea, and one you do not want, they go together.
 しかし、そんな恐れのとるさまざまな姿は別々のものではなく、単に同一の想念が異なった形で現われているだけで、その想念を自分が望まないものだとみなす気になったなら、それらの多様な恐れの姿はすべて一緒に消え去ってしまいます。

 The idea is simply this: You believe it is possible to be host to the ego or hostage to God.
 その同一の想念とは、簡潔に言えば、次の信念です。つまり、あなたは、自分はエゴを宿すこともできれば、神の人質になることもできる、と信じているということです。

 This is the choice you think you have, and the decision you believe that you must make.
 エゴの宿主となるか神の虜囚となるかの二者択一が、あなたが自分が持っていると思いこんでいる選択肢であり、自分が下さなければならないと信じている決断です。

 You see no other alternatives, for you cannot accept the fact that sacrifice gets nothing.
 あなたには、エゴの宿主か神の虜囚となる以外の選択肢が見えていません。というのは、あなたには、犠牲を払うことによっては何も得られないという事実を受け入ることができないからです。

 Sacrifice is so essential to your thought system that salvation apart from sacrifice means nothing to you.
 犠牲という概念は、あなたの思考システムにとって、あまりに本質的なものなので、あなたにとって、犠牲を必要としない救いというものは何も意味しません。

 Your confusion of sacrifice and love is so profound that you cannot conceive of love without sacrifice.
 あなたは犠牲と愛を本当に深刻に混同しているので、あなたには犠牲を伴わない愛など想像すらできないからです。

 And it is this that you must look upon; sacrifice is attack, not love.
 しかし、あなたは次のことをじっくり考えてみなければなりません。それは、犠牲を払うことは攻撃であって、愛ではないということです。

 If you would accept but this one idea, your fear of love would vanish.
 もしあなたがこのひとつの観念さえ受け入れることができれば、あなたの愛に対する恐れは消滅してしまうはずです。

 Guilt cannot last when the idea of sacrifice has been removed.
 犠牲という観念が取り除かれたなら、罪悪感は持続できません。

 For if there is sacrifice, someone must pay and someone must get.
 なぜなら、もし犠牲が存在するとすれば、誰かが犠牲を払い、誰かが得をするに違いないからです。

 And the only question that remains is how much is the price, and for getting what.
 そうなると、唯一の残された問題は、支払うことになる代価はいくらになるのか、そして、その支払いによって何が手に入るのかということだけです。

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6. As host to the ego, you believe that you can give all your guilt away whenever you want, and thereby purchase peace.
 エゴを宿す主人として、あなたはいつでも自分の好きなときに、自分のすべての罪悪感を誰かになすりつけることができ、そうすることによって平安を買収できるものと信じています。

 And the payment does not seem to be yours.
 そして、その代金のつけは、主人であるあなたのところには回ってこないように思えます。

 While it is obvious that the ego does demand payment it never seems to be demanding it of you.
 エゴが代償の支払いを要求するのは明らかですが、エゴがあなたに支払いを要求しているようには絶対に見えないからです。

 You are unwilling to recognize that the ego, which you invited, is treacherous only to those who think they are its host.
 あなたは自分の招き入れたエゴが、自分のことをエゴの主人だと思っている者たちだけを裏切るものだとは認めたくないのです。

 The ego will never let you perceive this, since this recognition would make it homeless.
 そしてエゴのほうも、決して自分が実際には宿主に直接的に代償の支払いを要求するのだとあなたに気づかせたいとは思っていません。というのも、このことに感づかれたら、エゴは宿無しになってしまうからです。

 For when the recognition dawns clearly, you will not be deceived by any form the ego takes to protect itself from your sight.
 すなわち、エゴが実際には宿主に直接代償の支払いを要求してくることをあなたがはっきり認識しはじめたら、あなたの目から逃れて自分自身を守るためにエゴが講じるいかなる形の偽装工作によっても、あなたは騙されなくなってしまうからです。

 Each form will be recognized as but a cover for the one idea that hides behind them all;
 そうなれば、エゴのまとう一つひとつの形は、それらの偽装の背後に隠蔽している次のひとつの観念に被せられた覆いでしかないとわかるようになるでしょう。


that love demands sacrifice, and is therefore inseparable from attack and fear.
それは、愛は犠牲を要求するので、愛は攻撃や恐れと不可分だ。

And that guilt is the price of love, which must be paid by fear.
罪悪感は愛の代償であって、それは恐れによって支払われなければない、という観念です。



7. How fearful, then, has God become to you, and how great a sacrifice do you believe His Love demands!
 こうして神は、あなたにとってなんと恐ろしい存在になってしまっていることでしょうか。そして、神の大いなる愛が要求する犠牲がどんなに大きなものだとあなたは信じこんでいることでしょうか。

 For total love would demand total sacrifice.
 なぜなら、完全な愛は完全な犠牲を要求するはずだからです。

 And so the ego seems to demand less of you than God, and of the two is judged as the lesser of two evils, one to be feared a little, perhaps, but the other to be destroyed.
 そうなると、まだエゴのほうが、神よりもあなたに要求するところが少ないように思えてきます。そして、エゴと神というふたつの害悪のうちでもエゴのほうがまだましであり、エゴのほうは多少は恐れるべき存在かもしれないが、神のほうは破滅させられてしまうに違いない存在だと判断されることになります。

 For you see love as destructive, and your only question is who is to be destroyed, you or another?
 なぜなら、あなたは愛を破壊的なものだとみなしており、あなたが気にかける唯一の問題は破滅させられるのが自分なのか他者なのかということだけだからです。

 You seek to answer this question in your special relationships, in which you seem to be both destroyer and destroyed in part, but able to be neither completely.
 あなたは特別な関係の中にこの問題の答えを見つけ出そうとします。特別な関係の中では、あなたはある面で破壊する者でもあれば、別の面では破壊される者でもあるように思えるので、完全にはどちらにもなりきらずにいられるように思えるからです。

 And this you think saves you from God, Whose total Love would completely destroy you.
 こうすることで、あなたは完全な大いなる愛であなたを完全に破滅させようとする神から自分を救うことができると思っているのです。

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8. You think that everyone outside yourself demands your sacrifice, but you do not see that only you demand sacrifice, and only of yourself.
 あなたは自分自身の外側のすべての者たちが、自分に犠牲を払うように求めていると思っています。しかし、あなたは、ただ自分だけが犠牲を要求しているのであり、それもただ自分自身からのみ犠牲を要求していることがわかっていません。

 Yet the demand of sacrifice is so savage and so fearful that you cannot accept it where it is.
 しかも、この犠牲の要求があまりに残忍で恐ろしいものなので、あなたは犠牲の要求が存在する自分の心の中でそのことを受け入れることができません。

 The real price of not accepting this has been so great that you have given God away rather than look at it.
 自分だけが犠牲を自分からのみ要求しているという事実を受け入れないことで支払わざるをえなかった真の代償は、あまりに大きなものでした。そのため、あなたは自分の犠牲の要求を直視する代わりに、神を見限ってしまったのです。

 For if God would demand total sacrifice of you, it seems safer to project Him outward and away from you, and not be host to Him.
 なぜなら、もし神があなたに全面的な犠牲を要求するなら、神を外側に投影して自分から遠ざけて、神を宿さないようにしたほうがまだ無事でいられるように思えるからです。

 To Him you ascribed the ego's treachery, inviting it to take His place to protect you from Him.
 あなたはエゴの裏切りを神のせいにして、エゴを招き入れて神の座に据えて神から自分を守らせようとしたのです。

 And you do not recognize that it is what you invited in that would destroy you, and does demand total sacrifice of you.
 そんなあなたには、自ら招いたエゴこそが自分を破滅させようとして自分に全面的な犠牲を要求するのだとは思いもよりません。

 No partial sacrifice will appease this savage guest, for it is an invader who but seems to offer kindness, but always to make the sacrifice complete.
 中途半端な犠牲では、この残忍な客を宥めることはできません。というのは、エゴは、親切さを差し出すように見えるだけで、必ず完全な犠牲を払わせる侵略者だからです。



9. You will not succeed in being partial hostage to the ego, for it keeps no bargains and would leave you nothing.
 あなたが部分的にだけエゴの虜になろうとしても、それはうまくいかないでしょう。なぜなら、エゴは約束を守らないので、あなたに何も残そうとはしないからです。

 You must choose between total freedom and total bondage, for there are no alternatives but these.
 あなたは完全な自由か完全な隷属か、そのどちらかを選ばざるをえなくなります。なぜなら、このふたつしか選択肢がないからです。

 You have tried many compromises in the attempt to avoid recognizing the one decision you must make.
 あなたは、自分が下さなければならないのはこのひとつの決断だけだと認めるのを避けようとして、数多くの妥協を図ろうとしてきました。

 And yet it is the recognition of the decision, just as it is, that makes the decision so easy.
 しかし、ただありのままこの決断を認めれば、この決断は本当に容易になります。

 Salvation is simple, being of God, and therefore very easy to understand.
 救済は神に由来するがゆえに単純であり、したがって、実に容易に理解できます。

 Do not try to project it from you and see it outside yourself.
 救済を自分から投影して、自分自身の外側に見ようとしてはなりません。

 In you are both the question and the answer; the demand for sacrifice and the peace of God.
 あなたの中に、問いと答えの両方があります。すなわち、犠牲の要求と神の平安がともにあるのです。


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