T1-4 闇からの脱出


All the darkness in the world cannot extinguish the light of a single candle.
世界中のすべての闇をもってしても、たった一本の蝋燭の灯を消すことすらできない。



Francis of Assisi
アッシジの聖フランチェスコ



恐れは愛の不在に他ならない。何かをするときは愛をもってやりなさい。恐れは忘れなさい。もしあなたが十分に愛せば、恐れは消え去るだろう。
もしあなたが深く愛するならば、そこに恐れはない。恐れは愛の否定であり、、愛の欠如だ。これはとてもとても深く理解されなければならない。もしそこで誤りを犯すと、あなたは恐れの性質を決して理解することはできないだろう。それは暗闇のようなものだ。暗闇は存在しない。それはただ、あるように見えるだけだ。実のところ、それはただ光が無いということだ。光は存在する。その光を取り除くとーー暗闇がある。
暗闇は存在せず、あなたは暗闇を取り除くことはできない。やってみようと思うことは何でもしてごらん。でも、あなたは暗闇を取り除くことはできない。それを持ってくることもできない。それを投げ捨てることもできない。もしもあなたが暗闇を何とかしたいのであれば、あなたは光を使わなければならない。なぜならば、実在するものだけしか、それに関与することができないからだ。光を消せばそこに暗闇があり、光をつければ暗闇はそこにないーーあなたは光には何かをすることができる。しかし、暗闇に対しては何もできない。
恐れは暗闇だ。それは愛の欠如であり、あなたはそれに対して何もできない。あなたが何かしようとすればするほど、もっと恐ろしくなる。なぜならば、あなたはますますそれは不可能だとわかるからだ。問題はますます複雑になる。暗闇と闘ってもあなたは負けるだろう。あなたは剣を持ってきて暗闇を殺そうとすることはできる。でも、ただへとへとに疲れるだけだ。そして、ついにマインドは考えるだろう。「暗闇はとても強力だ、だから私は負けるのだ」
論理が誤るのはここだ。それは全く論理的ではあるーーあなたが暗闇とずっと闘ってきたのに、それを打ち負かすことができなかった。それを打ち破ることができなかったのだから、「暗闇にはとてつもない力がある。私はその前では無力だ」と結論することは全く論理的だ。しかし、現実はまさに正反対だ。あなたは無能ではなく、暗闇が無能なのだ。実は暗闇はそこにはないーーあなたが暗闇を打ち負かせなかった理由はそれなのだ。存在しないものをどうやって打ち負かすことができるだろうか?



OSHO(「愛の錬金術 隠されてきたキリスト」150ページ)





A single sunbeam is enough to drive away many shadows.
たくさんの暗がりを追い払うには、一筋の日差しだけで十分だ。



Francis of Assisi
アッシジの聖フランチェスコ



Darkness cannot drive out darkness; only light can do that.
闇には闇を追い払うことはできない。ただ光だけにそれができる。

Hate cannot drive out hate; only love can do that.
憎悪には憎悪を追い払うことはできない。ただ愛だけにそれができる。



Martin Luther King, Jr.
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア





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今回は、テキスト第一章から、「闇からの脱出」という一節をご紹介します。


「闇」とは

「闇」という言葉を読むに際しては、自分のことをエゴの仮面をつけて身体と一体化した小さな自己だと信じこみ、したがって、他者があり、この時間と空間のある世界が確固とした現実であって、自分も欠乏しているし、世界も限りある場所なので、敵である他者と競い合い、奪い合わなければならない、罪が実在するというようなコースが否認する無明、迷い、幻想の意味をこめて読まれるとよいと思います。


静寂は尊重されるのに闇は忌避されるのはなぜ?

視覚で知覚する光と闇、聴覚で知覚する物音と静寂をパラレルに捉えると、音の不在である静寂に対応するのは光の不在である闇であるということになりそうに思えます。それなのに、聴覚のほうでは静寂が尊ばれるのに、視覚のほうでは闇は毛嫌いされるのは不思議な気がします。なぜなんでしょうか。静寂と同じように、闇を求めることも役立つのでしょうか。

もちろん、魂の闇夜が真の光に気づく貴重な機会となることは稀なことではありません。

この点で、このサイトでは、ややもすれば、実在の不在を敵視して排除すべきという発想(諸悪の根源であるエゴを撲滅せよ、特別な関係を抹消せよ、幻想世界を消去せよ等々)になりがちなコースの学びにおいて、あえてネガティブを愛するスタンスが重要であることを折に触れて述べています。

もっとも、だからと言って、静寂を求めるのと同じように闇を求めるのは誤りとなるでしょう。

光と闇でいう光は、白光であり、それ以外の色つきの光はエゴのスライドを通した影であり「闇」の範疇に入ります。

つまり、この幻想世界の事象として視覚で知覚するあらゆる色つきの出来事は、光ではなく闇の範疇に入るわけです。

ですので、静寂以外の物音がノイズとなって聖霊の声を聴くのを妨げるように、白光以外の色つきの光もノイズとなってキリストのヴィジョンで見るのを妨げるということになります。

ですので、当然、闇を求めないのはもちろんのこと、真理の光以外の色つきの光を求めるのでもなく、真理の白光のみを求めるべきということになります。




静寂についてのレッスン273「神の平安の静けさは私のものだ」が参考になると思います。


闇からの脱出のプロセス

自分が神と一体である神の子としての大いなる自己であるという真理を否認して、無数に分裂したエゴ・身体こそが自分だと信じこむ自己欺瞞は、真理の光を遮る闇です。

闇からの脱出は、①闇には何かを隠すことはできないと認めること、②自分には隠したいものなど何もないと認めることの2つのステップが必要になるといいます。

ひっくり返すと、①闇は隠すことができる、②自分には隠したいものがあるということになります。


実際、私たちは、①も②も異論なくその通りだと思っています。

このように認識している私たちは、間違いなく闇に捉われてしまっているわけです。





闇に積極的な実在性はある?

しかし、①と②が本当にその通りなのか検討してみなくてはなりません。

まず、①が可能であるためには、闇に積極的な実在性と力が必要です。

しかし、罪が神聖さ(=実在である愛の一側面)の欠如であるように、闇は光が欠如した状態であり、闇とは光の不在に名前をつけたものでしかなく、たとえ闇が影として姿かたちをもっていたとしても、その本質は、実体のない無でしかありません。

そうなると、無でしかない闇には、当然、実在する真理を破壊したり、変更したりする力はないし、真理を覆い隠しているように見えるとしても、客観的に実在するものとしての闇が何か悪さをしているということではないということになります。

つまり、実際にはありもしない闇に実在性と力を持たせることはできず、せいぜい自分を騙して錯覚することくらいしかできないということです。

それは、光である自分(レッスン61「私は世界の光だ」)以外に、自分とは分離した別の光を遮る障害物が存在するわけではないということであり、自分に隠したいと思う意図があるのでなければ、光の不在は生じないということです。

すなわち、闇が隠しているのではなく、自分が隠したいという意図を持ち、それを投影によって自分以外の何かが覆い隠して闇がそれを隠していると錯覚しているという状態なのだから、要点は、自分には隠したいものがあると思うかどうかに帰着します。


隠したいものがあるという思いが生じる仕組みは?

そして、この②については、自分には隠したいものがあると誰もが思うはずです。

ほかの誰かに知られると恥ずかしい思いをするとか、誰かに知られると自分が損をしてしまうことがあると。

隠したいという思いはすべて、自分が欠乏しているという意識から生じています。

隠したいという思いはすべて、自分以外の他者の存在を前提とするものです。

自分しかいなかったら、何かを隠さなければという心理的な要請は生じようがありません。

自分しかいないとすれば、欠乏の意識(「7つの習慣」でいう「欠乏マインド」)など生じようがないのではないでしょうか。

後の章では、神の子はすべてである王国を持っていると同時に王国そのものでもあるということが説明されます(T7-3 神の王国の本当の姿とは)。

この所有と実在の一致の観念は、広大な大宇宙の辺境の一惑星の中にいっときだけ存在するひとりの人間、すべてに対してほぼ塵に等しい存在が自分だと骨の髄から信じきっている私たちからすればきわめて違和感を覚えるものです。

自他が分離した広大な世界にポツンと置かれた塵のような人間である私たちからすれば、自分がすべてを持たず、すべてではないことは疑いの余地のない事実だからです。

つまり、私たち人間の普通の知覚と思考によるかぎり、すべてを持たず、すべてを持たない欠乏状態が正確な現実認識ということになります。

したがって、天国には豊饒さしかなく、天国にいる(というより天国そのものである)神の子にとっては、「豊かさマインド」が当たり前の真理だとしても、エゴ・身体が自分だと信じる私たち人の子にとっては「欠乏マインド」のほうが正しいということです。

こうして、人の子にアイデンティティーを抱いているかぎりは、どうあがいても欠乏マインドから脱することはできないので、7つの習慣の豊かさマインドについても、きれいな理念として受け止めることはできても、心の底から呼吸をするように受け入れられることはできません。

分離幻想によって、人の子にアイデンティティーを抱いて、人の子というカメラを通して自分と世界を眺めるかぎり、自分がすべてでありすべてを持っていることが真理だとしても、それとは真逆の現実しか見えない、つまり、この世界に天国に実在する概念が反映される際にはつねに、実在の反映と実在の不在である影が生まれてしまうために、豊かさの不在である欠乏状態が生まれ、「欠乏マインド」を抱く状態が起こるということです。

この実在と実在の不在の影については、ほかの記事でもたびたび出てきます。

天国に実在する光、真理、愛、生命、平安、豊かさといった状態は、この世界に反映されると、その不在である闇、虚構、恐れ、死、争い、欠乏が影として生まれ、実在する真理等に対抗する二極対立があるような様相を呈することになります。


コミュニオン

本節では、「霊的交流」(communion 「コミュニオン」)という言葉が出てきますが、コミュニオンについては、雲 黒斎さんの図解での説明が大変わかりやすいと思います(もっと あの世に聞いた、この世の仕組み )ので、参照してみてください。






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テキスト 第一章 

IV. The Escape from Darkness
四 闇からの脱出



1. The escape from darkness involves two stages:First, the recognition that darkness cannot hide.
 闇からの脱出には、ふたつの段階があります。第一段階は、闇には何も隠すことはできないと認めることです。

 This step usually entails fear.
 この段階には、たいてい恐れが伴います。

 Second, the recognition that there is nothing you want to hide even if you could.
 第二段階は、たとえもしあなたが何かを隠すことができるとしても、自分には隠したいと思うものが何もないと認めることです。

 This step brings escape from fear.
 この段階が、恐れからの脱出をもたらします。

 When you have become willing to hide nothing, you will not only be willing to enter into communion but will also understand peace and joy.
 あなたが何も隠さなくていいと思うようになれば、あなたは喜んで聖餐と呼ばれる霊的交流に加わるようになるだけでなく、平安と喜びを理解するようにもなるでしょう。

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2. Holiness can never be really hidden in darkness, but you can deceive yourself about it.
 神聖さが真に闇の中に隠されてしまうことは決してありえません。しかし、あなたは自分を誤解させて神聖さが闇の中に隠されてしまうことがありうると信じることができます。

 This deception makes you fearful because you realize in your heart it is a deception, and you exert enormous efforts to establish its reality.
 この自己欺瞞があなたに恐れを抱かせます。なぜなら、あなたは心の中では、それが誤魔化しだと感づいているので、それが誤魔化しではなく本当のことだと確証しようとして、途方もない努力を費やす羽目になるからです。

 The miracle sets reality where it belongs.
 奇跡は、現実を本来それが属するところに位置づけます。

 Reality belongs only to spirit, and the miracle acknowledges only truth.
 現実はただ霊にのみ属し、奇跡はただ真理だけを承認します。

 It thus dispels illusions about yourself, and puts you in communion with yourself and God.
 こうして奇跡は、あなた自身についての幻想を追い払い、あなたをあなた自身と神との聖餐の中に置きます。

 The miracle joins in the Atonement by placing the mind in the service of the Holy Spirit.
 心を聖霊のために働くよう位置づけることによって、奇跡は贖罪の中に加わります。

 This establishes the proper function of the mind and corrects its errors, which are merely lacks of love.
 これにより、心の適切な働きが確立され、単なる愛の欠如にすぎない心の誤りが修正されます。

 Your mind can be possessed by illusions, but spirit is eternally free.
 あなたの心は幻想に取り憑かれることはありうるとしても、霊は永遠に自由なままです。

 If a mind perceives without love, it perceives an empty shell and is unaware of the spirit within.
 もし心が愛なしに知覚すれば、心には中身を伴わない外観しか知覚できないで、その外観の内側にある霊に気づくことができません。

 But the Atonement restores spirit to its proper place.
 しかし、贖罪によって霊は本来あるべき場所に戻されます。

 The mind that serves spirit is invulnerable.
 霊に奉仕する心は、決して傷つくことがありません。



3. Darkness is lack of light as sin is lack of love.
 罪が愛の欠如であるように、闇は光の欠如です。

 It has no unique properties of its own.
 闇には、それ自体が持つ独自の特性など何もありません。

 It is an example of the "scarcity" belief, from which only error can proceed.
 闇は「欠乏」という信念が形をなした一例であり、欠乏の信念からは誤りしか生じることができません。

 Truth is always abundant.
 真理はつねに豊かさで満ち溢れています。

 Those who perceive and acknowledge that they have everything have no needs of any kind.
 自分があらゆるものを持っていると知覚し承認する者たちには、いかなる種類の必要性もありません。

 The purpose of the Atonement is to restore everything to you; or rather, to restore it to your awareness.
 贖罪の目的は、あらゆるものをあなたに戻すことです。より正しく言うなら、あなたに万物が自分のものだという自覚を取り戻させることです。

 You were given everything when you were created, just as everyone was.
 まさに誰もがそうであったように、あなたは創造されたときに、あらゆるものを授かっているからです。

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4. The emptiness engendered by fear must be replaced by forgiveness.
 恐れのために引き起こされる空虚さは、赦しによって置き換えられなければなりません。

 That is what the Bible means by "There is no death," and why I could demonstrate that death does not exist.
 これが聖書の「死はない」との言葉の意味であり、私が死は存在しないと実証できた理由です。

 I came to fulfill the law by reinterpreting it.
 私がやって来たのは、律法を解釈し直すことによって律法を成就するためでした。

 The law itself, if properly understood, offers only protection.
 律法そのものは、もし正しく理解されるなら、ただ保護だけを与えるものだとわかるはずです。

 It is those who have not yet changed their minds who brought the "hell-fire" concept into it.
 律法の中に「地獄の業火」という概念を持ちこんだのは、自分の心をまだ変えていなかった者たちです。

 I assure you that I will witness for anyone who lets me, and to whatever extent he permits it.
 私は、誰であれ私に証言させてくれるなら、その人のために、その人が認めてくれるかぎり、力を尽くして証言することをあなたに請け合います。

 Your witnessing demonstrates your belief, and thus strengthens it.
 あなたは証言することで自らの信念を実証することになり、そうすることで、その信念を強めます。

 Those who witness for me are expressing, through their miracles, that they have abandoned the belief in deprivation in favor of the abundance they have learned belongs to them.
 私のために証言する者たちは、自らの奇跡を通して、豊かさが自分に属していると学んだので、豊かさのほうを選んで欠乏の信念を捨て去ったことを実証しているのです。


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