T6-3 復讐してやりたいけど我慢しなきゃいけない?
2013年11月12日
一瞬だけ幸福になりたいのなら、復讐するがよい。
永遠に幸福になりたいのなら、赦しなさい。

アンリ・ラコルデール
Anger is an acid that can do more harm to the vessel in which it is stored than to anything on which it is poured.
怒りは酸であり、それを注ぐどんな対象よりも、それを溜める器により大きな害をもたらす。

Mark Twain
マーク・トウェイン
もっともよい復讐の方法は、自分まで相手と同じような行為をしないことだ。

マルクス・アウレリウス
敵を愛することを学ぶのは、自分の心の中のすべての暗黒の場所を覗き込む意志があることのあらわれです。あなたの敵はあなたが覗き込む鏡にすぎず、そこに映る怒りの顔は、そのうちあなたに微笑みを返すようになるでしょう。
敵と和解するには、自分の目と同時に、相手の目を通して眺めることを学びなさい。そうすれば、共感を生み出し、争いの向こう側に抜け出ることができます。

イエス・キリスト(ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」139ページ)

今回は、テキストから、第六章の第三節「攻撃の放棄」をご紹介します。
攻撃の放棄
攻撃の放棄というテーマは、具体的な事例として考えると、困難な問題を提起するので、よく話題とされます。
殺人鬼に襲撃された場面やレイプされそうな場面で、反撃の余地が残っているような場合に、極悪な犯人に「さあどうぞ」と身を差し出すべきなのでしょうか?
素朴に考えて、どう考えたっておかしな話です。
自分が迫り来る殺人鬼やレイプ魔に追われて転んだ先にたまたまナイフが落ちていた場面を思い浮かべて見ましょう。
通常の感覚を保っているかぎり、冷静にか度を失ってか程度差はあっても、反撃してしまうでしょう。
極限状態に近いほど、体が勝手に動くと表現すべきほど、自動的に反撃行為が起こってしまうでしょう。
このように無意識的に反撃が起こり、我に帰ってそのことに気づくというような場合に罪悪感を抱くべきでないのはたしかです。
犯罪を黙認せよというの?
では、冷静に行動できるような場合はどうなのでしょうか?

コースは、攻撃が正当化されることはないというんだから、攻撃しちゃいけない!と自分に言い聞かせて、殺されたりレイプされるべきだというのでしょうか?
兵士や警察官のように、国や市民を守るために攻撃をしなければならない職務について考えるとき、攻撃に一切の例外はないという考えは空論でしかないように響きます。
奇跡のコースを学ぶ警察官が、女性がレイプ魔に襲われている場面に遭遇して、奇跡のコースは攻撃には一切の例外はないと言っているからといって、幻想として見過ごすことは「赦し」ていることになるのでしょうか。
おそらくその警官は、(職務上の責任や刑事責任の問題を抜きにしても)自分が被害者を助けもせずに見捨てたことについて、その後、罪悪感に苛まれつづけるでしょう。
コースは内心のことを問題にしているのであって、外部に投影された世界の出来事に働きかけるのではなくて、内側を変えなさいというのだから、殺人鬼もレイプ魔も実在しない幻想だと理解したうえでなら、反撃しても、本当に攻撃したことにはならないはずだと考えて攻撃すればよいのでしょうか。
私たちにできるのは、聖霊を選択して、聖霊に委ね切ることだけでした。
一見、ここで反撃すること=エゴ、反撃しない=聖霊という選択であるようにも思えますが、警官の例で考えてみると、反撃しないことのほうが、わけのわからない宗教にはまって思考停止に陥って兄弟を見捨ててしまうエゴ本位の選択であるようにも思えます。
どちらもモヤモヤが残ります。
コースは攻撃の放棄には一切の例外はないと言う
コースでは、攻撃が正当化されることには一切の例外はなく、余すところなく攻撃を放棄すべきであり、それこそが安全になることなのだと繰り返します。
3.「Safety is the complete relinquishment of attack.
安全であるには、完全に遺漏なく攻撃を放棄することです。
No compromise is possible in this.
この攻撃の放棄に関しては、いかなる妥協もありえません。」
難しい問題にしか見えませんが、エゴが絶対に承服しない結論がどちらなのかだけははっきりしています。
全面的に攻撃を放棄すべきなんてことは、きれいごととしては言えても、現実問題としてそんなことではこの厳しい世界の中で生きてはいけない、攻撃を放棄することが安全になる?そんな馬鹿なことを言っていないで自分に任せなさい、そうすれば、反撃して守ってやるからと。
攻撃が正当化されるという結論を「正当化」することなど容易なことです。
何しろ世界自体が安全のための攻撃という発想をとり、正当防衛という概念を容認しているのですから。
そして、コースの攻撃に一切の例外はないという言葉についても、解釈によって、私たちのエゴが喜んで承服するような例外の正当化はいくらでもできるでしょうし、厳しい現実との折り合いを付けることのできたエゴはこぞって拍手喝采することでしょう。
とはいえ、コースが、ここまで徹底して強調することには意味がないわけがありません。いかなる妥協もありえないというのですから、妥協する必要もなければ、妥協しようとすることは真理に到達するうえで望ましくないということなのでしょう。
妥協する必要がないというのは、簡単に言えば、テレビ画面やスクリーンのうえで、恐怖映画の主人公が殺人鬼に襲われて危機一髪、そして、殺されてジ・エンドという場面でもテレビや客席の私たちが死んだり傷ついたりせずにピンピンしていて完全に安全なのと同じように、この幻想世界で登場人物である私たちに何が起ころうとも、真の自己である大いなる自己が完全無欠のままであるのはもちろん、小さな自己として輪廻している魂もまったく無傷でピンピンしているはずだということです。
もちろん、もしかしたら架空の存在でしかないとしても、この世界の中にいるエゴ・身体と一体化している私たち小さな自己にとっては、大問題の一大事であり、自分の身体という宝物がわけもわからない愚か者に愚弄されて壊されてしまうことなどとうてい許せることではないし、結局やられるにしても一矢報いたいというのが人情というものです。
幻想が実在することがいつの間にか前提になっているといういつもの仕組み
ですが、このエゴ・身体との同一化から真の自己へのアイデンティティーのシフトこそ、奇跡のコースが目指すところです。
そして、このシフトを達成するうえで、攻撃が正当化される例外的な場合があるはずだと妥協してしまうことが妨げになり望ましくないということです。
それは、架空の主人公(エゴ・身体)に一体化して反撃することは、幻想の世界と幻想のキャラクターを本物にして、幻想を存続させる力を与えてしまうからです。
つまり、自己防衛が正当化されると考えるときは、必ず、身体は実在するとの誤った前提に乗っかっているということができます。
「あなたが身体が破壊されることについて怒りを正当化できると信じるならば、そう信じる程度において、あなたは間違った前提を受け入れて、他の者にもその誤りを教えていることになります。」(テキスト第六章、一、4)

あえて極論を言うならば(この幻想世界においてはとの留保つきで)、ラメッシ先生の言うように、「生命の本当の意味は、生命には意味がないことにあります。それは、ただ起こるだけです。」。したがって、人の命は地球よりも重くもなければ、個別の生命にはいくらでも代わりがあるし、価値も意味もないということになります(幻想世界において。永遠の生命の尊さはいうまでもないし、そもそも、傷つきうるものでもありません)。
もちろん、エゴからすれば、ドラスティックで冷厳すぎて、こんな極論は許せないはずです。私たちだって、自分の身に置き換えて考えてみれば、大切な自分自身や家族が、こんな暴論でもってわけのわからない誰かに傷つけられたら黙っていられるはずがありません。
でも、この世界が幻想で、神のひとり子があるだけならば、エゴにとっては絶対に承服しがたいことですが、これが真理なのでしょう。
世界が幻想であることを前提にするなら、放棄すべき攻撃に程度さや例外はない
映画の中の登場人物が死んだり傷ついたりしても、鑑賞している人は無傷のままです。

マリオがクッパにコテンパンにやっつけられて何回壮絶な死に様を見せようが、プレイしている人は無傷のままです。
どんなに壮大な悲喜こもごもの大河小説の登場人物たちの人生も幻でしかありません。
私たちが現実だと思って生きているこの世界のたくさんの人たちの人生も、時代が過ぎて歴史上の過去の出来事になったら、未来の人たちにとっては、小説や映画の中の出来事と同じような位置づけしかされません。
100%自分に非がなく、100%相手が悪いんだから、この身体を守ることだけは特別に正当化できるとの価値判断は、分離した自他の幻想を認め、相手の価値を自分より低いものとして判断することです。
そもそもゲーム自体、ほかのキャラクターを攻撃することによって、ゲームの世界が展開していく仕組みになっています。
攻撃することによって、ゲームの世界に引きこまれて、キャラクターと一体化して、幻想を現実として生きる度合いを深めることになります。
ここで、一生懸命敵をやっつけていたのを中断して、攻撃をしないことにすると、ゲームはどうなるでしょうか。
ゲームの場面次第でしょうが、敵の攻撃によって、殺される、敵の攻撃を免れて制限時間までゲーム世界に滞在するという、どんどんステージを進行してゲーム世界へののめりこみを深めるという本来ゲームの想定していた展開は辿らないことになります。
無防備になる結果として殺された場合、これまで一生懸命戦って、マリオのストックが大量に溜まっているでしょうから、ゲームは終わってはくれず、再度、別の身体を使ってのゲームのやり直しを余儀なくされるだけでしょう。リセットして心機一転なわけですから、プレイヤーは性懲りもなく、ゲームに没頭しつづけることでしょう。
他方、殺されずに済んだ場合、戦いのなくなったゲーム世界は、平穏になって、それまでとは違った視点でゲーム世界を楽しめるでしょう。
でも、そのうち、そこは、天国なんかではなく、むしろ、かつて地獄だった幻想世界の成れの果てなのだと気づくでしょうし、平穏になった今でも、長居しつづけたいような場所でもなくなることでしょう。
「霊的な視力は、正しい防衛の仕方を十分に弁えているので、他のあらゆるものを無視して、誤りを越えて真理を見通します」(テキスト第二章、三、4)
「 あなたは本当の自己防衛ということがまったくわかっていないどころか、最も自分を傷つけかねないようなものこそが、まさしく自分が必要としているものだと決めてしまいがちです。
けれども、あなたが今それに気づいているかどうかは別として、あなたは、危害を加えずにいながらも、防衛に役立つ存在となれるように努力し協力することに同意してくれているのです。この無害性と有用性とは両立できる属性なのです。
あなたが、無害であることと有用であることのいずれにも等しい態度で臨もうとすると、葛藤を生じてしまうはずです。なぜなら、どのような態度もみなエゴに基づくものだからです。」(テキスト第四章、二、5)
ゲーム画面の中のマリオのような主人公がどんなにひどい目に遭わされても、ゲームをしている人はまったく傷つきません。
主人公の身体を守ろうと、我を忘れて、がんばって、ゲームの中の主人公の生命力や経験値や武器や服装等々のパラメーターをどんどん上げて、ゲーム内で主人公が強く立派になっても、そのために、画面の前のゲームをしている人は、飲まず食わずで、学校や仕事をさぼり、衰弱して死にそうになっているというさまは笑うよりも哀れさが漂わないでしょうか。
「7. The body is in need of no defense.
身体には、いかなる防衛も必要ありません。
This cannot be too often emphasized.
身体が防衛を必要としないことは、本当に何度でも強調しておかねばなりません。
It will be strong and healthy if the mind does not abuse it by assigning it to roles it cannot fill, to purposes beyond its scope, and to exalted aims which it cannot accomplish.
もし心が、身体の許容範囲を越えた用途であるとか、身体には成し遂げられないような崇高な目的といった身体には果たすことのできないような役目を身体に割り当てることによって身体を乱用しないなら、身体は強壮で健康であり続けるでしょう。
Such attempts, ridiculous yet deeply cherished, are the sources for the many mad attacks you make upon it.
馬鹿げてはいるものの非常に大切にされているそんな試みこそが、あなたが身体に対して行う数多くの狂気の攻撃の源なのです。
For it seems to fail your hopes, your needs, your values and your dreams.
というのも、身体は、あなたの希望や必要性、あなたの価値観や夢の数々を果たし損ねるように見えるからです。」(レッスン135「もし私が自分自身を防衛しようとするなら、私は攻撃されることになる」)
圧倒的なリアリティを持つこの「現実」世界と作り物と意識できるゲーム世界とでは、リアリティの程度差はあるとしても、もし仕組みが同じならば、この世界でプレイするためのキャラクターでしかない身体と同一化して、身体を守るために力を注ぐことは、ゲームを存続させることにしかならないといえます。
さて、こう考えると、コースは、文字どおりの意味で、レベル1、レベル2といった形而上の問題か、この幻想世界の話かという区別なくして、単に内心で攻撃心を一切抱かないようにというに留まらず、実際の攻撃も一切しないようにと言っていると捉えるのが素直です(もちろん到底実践できないのはたしかですが)。
だって、とてつもなく大切なものとしか思えない自分や仲間の身体ですが、本当は、マリオやクリボーと同じような架空のキャラクターにすぎないとすれば、どうしたって、この結論になってしまいます。
「お前たちは架空のゲームキャラにすぎないんだぞ」と言いながら、どんどん敵キャラをやっつけ続けているようなもので、むしろ悪趣味というか迷いの元でしかないからです。
しかし、真にアイデンティティーの修正に達しない状態で攻撃の放棄を墨守することはかえって迷いの元になる
もっとも、冒頭の例のような場面に直面すれば、依然として幻想世界に身を置き、エゴ・身体と同一化して自他分離を現実として生きている私たちとしては、「現実」問題として、一律に非暴力主義を貫徹をしながら、罪悪感や後悔をしないでいられるとは思えません。
このような問題は個々のエゴに決められるものではありません。
イェシュアならどうする?
エゴとしての自分に決断がつかないというような際には、「イェシュアだったらどうするだろう?」と考えてみることは解決の糸口になります。
イェシュアはこの問題について、身をもって模範を示してくれています。
病を癒し死者をよみがえらせ、水の上を歩き、さまざまな奇跡をなす力を持っていたイェシュアです。
自らに不合理な罪を着せて咎めようとする者たちに対して、反撃することもできたでしょうし、少なくとも、逃げて十字架刑を回避することくらいはいくらでもできたはずです。
それでも、彼は従容として十字架にかかりました。
身をもって真理を示す目的あってのことですが、本当にこの世界の幻想性を見通し、神の子キリストとなっていた彼にとって、身体としての自分は、テレビ画面の中のマリオのようなゲームを展開させるための一キャラクターとして以上の重要性はなかったはずです。
14.「Let this day bring the last chapter closer to the world, that everyone may learn the tale he reads of terrifying destiny, defeat of all his hopes, his pitiful defense against a vengeance he can not escape, is but his own deluded fantasy.
今日は、物語の最終章をこの世界により近づけて、恐ろしい運命やすべての希望が挫かれたり、逃れようのない報復に対する哀れな防衛についての物語を読んでいる者たち全員が、それらの物語が自分自身を惑わす空想でしかなかったのだと学べるようにしましょう。
God's ministers have come to waken him from the dark dreams this story has evoked in his confused, bewildered memory of this distorted tale.
神の使者たちは、この歪んだ物語によって混乱して当惑する記憶の中に引き起こされる暗い夢の数々から、この物語を読む者を目覚めさせるために来ているのです。
God's Son can smile at last, on learning that it is not true.
この物語が真実ではないと学んだとき、神の子はついに笑うことができます。」(レッスン153「防衛しないことで、私は安全になる」 )
では、冒頭の警察官は、職務放棄をすべきなのでしょうか?
イェシュアならどうするでしょうか?
兄弟の気づきの度合いに応じて、お釈迦様のような待機説法的に臨機応変に対応するのではないでしょうか。幻想にどっぷり浸かっている人たちに、この世界は幻想で・・・という話を一からしている場面ではありません。
頭ごなしに非暴力万歳!というスローガンを押しつけたりしないのではないでしょうか。
とうのも、教条主義的に、非暴力を無理強いすることは、かえって個々の心に罪悪感を抱かせる危険が伴うからです。
クリシュナはアルジュナに戦って務めを果たせと命じた

この点について、バガヴァッド・ギーターでは、戦いの場で親族でもある敵将たちへの情から、戦うことへのためらい、ひるみを見せるアルジュナに対して、クリシュナ神は、クシャトリヤとして戦い、相手を殺して戦士としての務めを果たすことは罪ではない、むしろ自らの務めを回避することのほうが迷いであり罪となると語ります。
奇跡のコースがこうしなさいと言っているからそれに盲目的に従うという発想、とくに、確信の持てない自分なりの解釈に従うという観点は、迷いの元でしかないのは確かでしょう。
そんな観点なんかよりも、人を助けたいという気持ちから警官になったはずでしょうから、素直に自分の直感と使命感に従って、襲われている人を助けるために実力行使するほうが、その警官にとって罪悪感は残らないはずだし、被害者は救われるし、犯人にも反省の機会が与えられます。
解釈が必要な時点で、それは価値判断を要するということになります。
つまり、この場面で反撃するのが妥当なのかそうでないのかという裁きを迫られるということです。
ですから、反撃しないことが聖霊を選択することになるわけでも、反撃することがエゴを選択することになるわけでもなく、私たちには価値判断を手放して、聖霊にそれを委ねる選択しかできないということなのではないでしょうか。
もちろん、殺人鬼やレイプ魔も被害者も自分も、究極的には神の子として一体だという基盤は持ちつつ、自分にはどのように対処するのが最善なのかわからないので、聖霊に全託する、聖霊が裁いてくれる結果として起こることについては、潔く受け入れるということです。
ただし、エゴの声に気づいたら、極力それに従わないという姿勢は必要でしょう。
たとえば、その場面において、自分の中で、自分と分離した憎たらしい敵に対する報復感情に駆られてそれを晴らすために攻撃しようとしていると気づくなら、それはエゴの声として退けることができます。
エゴの声を排して聖霊の声を聞くことに誠意を尽くし、その結果として起こることについては、罪悪感を抱かないことしかできないのではないでしょうか。

テキスト第六章
III. The Relinquishment of Attack
三 攻撃の放棄
1. As we have already emphasized, every idea begins in the mind of the thinker.
すでに強調しておいたように、いかなる想念も、思考する者の心の中で始まります。
Therefore, what extends from the mind is still in it, and from what it extends it knows itself.
したがって、心から拡張したものは依然としてその心の中にあるので、その心は、自分が拡張したものによって自分自身を知ることになります。
The word "knows" is correct here, because the Holy Spirit still holds knowledge safe in your mind through His impartial perception.
ここでは「知る」という言葉を用いるのが適切です。なぜなら、聖霊は自らの公平な知覚を通して、今なお、あなたの心の中に知識を安全に保っているからです。
By attacking nothing, He presents no barrier to the communication of God.
何ものをも攻撃することがないので、聖霊は神からのコミュニケーションを一切妨げることはありません。
Therefore, being is never threatened.
したがって、実在するものが脅かされることは決してありません。
Your Godlike mind can never be defiled.
あなたの神に等しい心は、絶対に穢されえないものです。
The ego never was and never will be part of it, but through the ego you can hear and teach and learn what is not true.
エゴは決してあなたの神と同質の心の一部であったことはなかったし、これからも、あなたの神と同じ心の一部になることもありえません。しかし、エゴを介するなら、あなたは真実ではないことを聞いたり教えたり学んだりすることができてしまいます。
You have taught yourself to believe that you are not what you are.
あなたたちは自分自身に、本当の自分ではないものが自分なのだと信じるように教えこんできました。
You cannot teach what you have not learned, and what you teach you strengthen in yourself because you are sharing it.
あなたは自分が学んでいないことを教えることはできません。そして、自分が教えることをあなたたちは共有するので、あなたは自分の教えることを自分自身の中で強めることになります。
Every lesson you teach you are learning.
あなたは自分の教える一つひとつのレッスンを自分で学んでいるのです。
2. That is why you must teach only one lesson.
だからこそ、あなたはただひとつのレッスンだけを教えなければなりません。
If you are to be conflict-free yourself, you must learn only from the Holy Spirit and teach only by Him.
もしあなたが自らを葛藤から解放したいなら、あなたはただ聖霊からのみ学び、そして、聖霊によってのみ教える必要があります。
You are only love, but when you deny this, you make what you are something you must learn to remember.
あなたはただ愛であるのみです。しかし、あなたが自分が純然たる愛にほかならないことを否認するなら、あなたは自分のことを、それを学んで覚えておかなければならないような何ものかに作り変えてしまうことになります。
I said before that the message of the crucifixion was, "Teach only love, for that is what you are. "
以前に私が述べたように、キリストの磔刑が伝えようとしたメッセージは「ただ愛だけを教えなさい。あなたは愛そのものだから」という教えでした。
This is the one lesson that is perfectly unified, because it is the only lesson that is one.
この愛のレッスンこそ、完全に統一されたただひとつのレッスンです。なぜなら、愛のレッスンだけが、ひとつであることを教える唯一のレッスンだからです。
Only by teaching it can you learn it.
ただ愛のレッスンを教えることによってのみ、あなたは愛を学ぶことができます。
"As you teach so will you learn. "
「あなたが教える通りに、あなたは学ぶでしょう。」
If that is true, and it is true indeed, do not forget that what you teach is teaching you.
もしこれが本当なら、もちろん、これはまさにその通り真実なのですが、あなたは自分が教えることを自分自身に教えていることになるのを忘れてはなりません。
And what you project or extend you believe.
だからこそ、あなたは自分が投影したり拡張することを信じるのです。

3. The only safety lies in extending the Holy Spirit, because as you see His gentleness in others your own mind perceives itself as totally harmless.
聖霊を拡張することによってのみ、安全でいることができます。なぜなら、あなたがほかの者たちの中に聖霊の優しさを見るようになると、あなた自身の心は、自分のことを完全に危害を免れた存在として知覚するようになるからです。
Once it can accept this fully, it sees no need to protect itself.
いったん心がこのことを完全に受け入れることができれば、心は自分を守る必要などないと理解するようになります。
The protection of God then dawns upon it, assuring it that it is perfectly safe forever.
そうなると、心には、自分が神に守護されていることがわかりはじめるので、心は永遠に自分が完全に安全であると安心させてもらえます。
The perfectly safe are wholly benign.
絶対的な安全を確保されている者は、まるっきり温和で善良です。
They bless because they know that they are blessed.
自分たちが祝福されているとわかっているので、彼らは祝福します。
Without anxiety the mind is wholly kind, and because it extends beneficence it is beneficent.
何の不安もないので、その心は本当に親切であり、そして、そんな心は慈愛を拡張するので、慈悲心に満ち溢れています。
Safety is the complete relinquishment of attack.
安全であるには、完全に遺漏なく攻撃を放棄することです。
No compromise is possible in this.
この攻撃の放棄に関しては、いかなる妥協もありえません。
Teach attack in any form and you have learned it, and it will hurt you.
どのような形であれ攻撃を教えるなら、あなたは攻撃を学ぶことになり、攻撃はあなたを傷つけてしまうでしょう。
Yet this learning is not immortal, and you can unlearn it by not teaching it.
しかし、このようにして攻撃を学んだことが、永久にあなたの心に居座り続けるわけではありません。あなたは、学んだことを教えないことによって、学んでしまったことを意図的に忘れ去ることができるからです。
4. Since you cannot not teach, your salvation lies in teaching the exact opposite of everything the ego believes.
とはいえ、あなたは教えずにいることはできないのだから、あなたの救いは、エゴが信じるあらゆることの正反対を教えることに見出せます。
This is how you will learn the truth that will set you free, and will keep you free as others learn it of you.
エゴの信念の対極を教えることこそ、あなたが真理を学ぶための方法です。真理はあなたを自由にし、そして、他者が真理をあなたから学ぶことで、あなたを自由なままに保ってくれます。
The only way to have peace is to teach peace.
平安を得る唯一の方法は、平安を教えることです。
By teaching peace you must learn it yourself, because you cannot teach what you still dissociate.
平安を教えることによって、あなたは自分でも平安を学ぶはずです。なぜなら、あなたは自分が手放して縁切りしたままのものについて教えることはできないからです。
Only thus can you win back the knowledge that you threw away.
ただこうして平安を教えることによってのみ、あなたは自分が投げ捨ててしまった知識を取り戻すことができます。
An idea that you share you must have.
ある想念をあなたが分かち合うなら、あなたはその想念を持っているに違いないからです。
It awakens in your mind through the conviction of teaching it.
知識を教えることに確信を持つことを通して、知識があなたの心の中で目を覚まします。
Everything you teach you are learning.
あなたは自分が教えることすべてを学ぶのです。
Teach only love, and learn that love is yours and you are love.
ただ愛だけを教えなさい。そして、愛はあなたのものであり、あなたこそが愛であると学びなさい。


- 関連記事
-
-
T6-5 聖霊のレッスン
-
T6-5C 神と神の王国にのみ注意を向ける
-
T6-5B 平安を得るための方法
-
T6-4 唯一の答え
-
T6-3 復讐してやりたいけど我慢しなきゃいけない?
-
T6-intro,1 キリストの十字架刑の真の意味とは?
-
T6-5A 持っていること=与えること
-
T6-2 エゴの道具としての投影の仕組みとは?
-