レッスン167「生命はひとつであり、そのひとつの生命を私は神と分かち合っている」


The knower and the known are one.
知るものと知られるものはひとつである。

Simple people imagine that they should see God as if he stood there and they here.
普通の人々は、まるで神がそこにいて彼らはここにいるかのように神と出会うものと想像する。

This is not so.
それは違う。

God and I, we are one in knowledge.
神と私、私たちは知ることによってひとつになるのだ。



Meister Eckhart
マイスター・エックハルト

神のエクハ




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レッスン167です。

「生命はひとつであり、そのひとつの生命を私は神と分かち合っている」が今日のテーマです。




想念はその源を離れない

奇跡のコースでは、想念はその源を離れないという観念が強調されます。

創造は、創造主が自らと同質な属性を拡張することなので、大いなる心には、自らの思いと異質な思いを抱くことはできません。

したがって、神の現実においては、対立は存在することができません。

現実を拡張する創造力を誤って用いた誤創造である投影によって生み出される幻想世界では、対立が存在するように見えはしますが、二極分化した対極は、一方のみが実在し他方はその不在に名前を付けただけの影だというのが本当のところだということです。

ゆえに、生命は生命を生むことしかできず、この世界では死が存在するように見えても、それは生命の不在を概念化して名前をつけただけだし、世界という幻想を見ている時点で、心が眠り込んで夢の世界の主人公である身体の目を通して幻の世界を見ているということになります。


「実在」と「存在」

したがって、夢の世界の中で、登場人物に起こる生命の対極とされる死という現象は幻想世界に「存在」しても、夢の外の現実に「実在」するものではないということになります。


8. 「The thought of death is not the opposite to thoughts of life.
 死という想念は、生命という想念の対極ではありません。」

「7. The opposite of life can only be another form of life.
 生命の対極は、単に生命の別の形でしかありえません。

 As such, it can be reconciled with what created it, because it is not opposite in truth.
 そうだとすれば、生命の対極もそれを創造したものと和解できるはずです。なぜなら、それは真の意味での対極ではないからです。」

「9. What seems to be the opposite of life is merely sleeping.
 生命の対極であるように見えているものは、単に眠っている状態でしかありません。」



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Lesson 167

There is one life, and that I share with God.
生命はひとつであり、そのひとつの生命を私は神と分かち合っている。



1. There are not different kinds of life, for life is like the truth.
 さまざまな種類の生命があるわけではありません。というのも、生命は真理と同じものだからです。

 It does not have degrees.
 生命に序列や程度はありません。

 It is the one condition in which all that God created share.
 生命とは、神が創造したものすべてが分かち合う一なる状態です。

 Like all His Thoughts, it has no opposite.
 神の大いなる思いのすべてと同じように、生命は対極を持ちません。

 There is no death because what God created shares His life.
 神が創造したものは神の生命を分かち合っているので、死は存在しないからです。

 There is no death because an opposite to God does not exist.
 神と相容れない対極は存在しないので、死は存在しないのです。

 There is no death because the Father and the Son are One.
 父と子はひとつなので、死は存在しないのです。



2. In this world, there appears to be a state that is life's opposite.
 この世界では、生命の反対の状態が本当にあるように見えています。

 You call it death.
 あなたたちは、その状態を死と呼びます。

 Yet we have learned that the idea of death takes many forms.
 しかし、私たちはすでに、死という想念が多様な形をとることを学んできました。

 It is the one idea which underlies all feelings that are not supremely happy.
 死は、至福ではないあらゆる感情の根底に潜むひとつの想念です。

 It is the alarm to which you give response of any kind that is not perfect joy.
 死は、あなたが完璧な喜び以外のあらゆる種類の反応を示す不安です。

 All sorrow, loss, anxiety and suffering and pain, even a little sigh of weariness, a slight discomfort or the merest frown, acknowledge death.
 すべての悲しみや喪失、心配、そして、苦悩と苦痛はもちろんのこと、疲れてふと漏らす小さなため息やかすかな不快感、ほんのわずかに眉をひそめることすら、死を承認することなのです。

 And thus deny you live.
 こうして、あなたは自分が生きていることを否認するのです。



3. You think that death is of the body.
 あなたは、死は身体に関するものだと思っています。

 Yet it is but an idea, irrelevant to what is seen as physical.
 しかし、死はただの想念でしかなく、肉体的な死とみなされているものとは無関係です。

 A thought is in the mind.
 思考は、心の中にあります。

 It can be then applied as mind directs it.
 そうだとすれば、心の命じる通りに思考を用いることができるはずです。

 But its origin is where it must be changed, if change occurs.
 ただし、変化が起こるためには、思考の源である心において思考が変化する必要があります。

 Ideas leave not their source.
 想念は、その源から離れないからです。

 The emphasis this course has placed on that idea is due to its centrality in our attempts to change your mind about yourself.
 想念はその源を離れないというこの観念をこのコースが強調するのは、私たちが、自分自身についてのあなたの心を変える試みをする際に、この考えが重要な役割を果たすからです。

 It is the reason you can heal.
 想念はその源を離れないという考えが、あなたが癒すことができる理由です。

 It is the cause of healing.
 想念はその源を離れないという観念が、癒しの原因です。

 It is why you cannot die.
 想念はその源を離れないという観念が、あなたが死ぬことがありえない理由です。

 Its truth established you as one with God.
 想念はその源を離れないという観念が真理であることが、あなたを神とひとつのものとして確立したのです。



4. Death is the thought that you are separate from your Creator.
 死は、あなたの大いなる創造主からあなたが分離しているという想念です。

 It is the belief conditions change, emotions alternate because of causes you cannot control, you did not make, and you can never change.
 死は、あなたのコントロールが及ばず、あなたが作ってもおらず、そして、あなたには絶対に変えることのできない原因によって、状況が変化して感情が揺れ動くという信念です。

 It is the fixed belief ideas can leave their source, and take on qualities the source does not contain, becoming different from their own origin, apart from it in kind as well as distance, time and form.
 死は、想念はその源を離れることができ、そして、その源が持っていないような特質を持つようになり、距離や時間や形において、それ自体の起源とは異なる別の種類のものになることができると信じる固定観念です。



5. Death cannot come from life.
 生命から死が生まれることはできません。

 Ideas remain united to their source.
 想念は、その源と結びついたままだからです。

 They can extend all that their source contains.
 想念は、その源が含むあらゆるものを拡張させることができます。

 In that, they can go far beyond themselves.
 拡張することで、想念はそれ自体をはるかに超えて進むことができます。

 But they can not give birth to what was never given them.
 しかし、想念には、自らが授かってていないものを生み出すことはできません。

 As they are made, so will their making be.
 その想念が作り出すものは、その想念が作り出された通りのものになります。

 As they were born, so will they then give birth.
 自分が生み出されたように、想念は生み出すようになるからです。

 And where they come from, there will they return.
 そして、想念が生まれた場所へと、想念は帰ってゆくことになります。



6. The mind can think it sleeps, but that is all.
 心は、自分が眠っていると思うことはできます。しかし、できるのはそれだけです。

 It cannot change what is its waking state.
 心には、自分が目覚めている状態そのものを変えることはできません。

 It cannot make a body, nor abide within a body.
 心は、身体を作ることも、身体の中に宿ることもできません。

 What is alien to the mind does not exist, because it has no source.
 心と相容れないものはいかなる源も持たないので、心と相容れないものは存在しないからです。

 For mind creates all things that are, and cannot give them attributes it lacks, nor change its own eternal, mindful state.
 心は存在するすべてのものを創造するのであり、それらに心が持っていない属性を与えたり、心自体の永遠性や心の充実した状態を変えることもできません。

 It cannot make the physical.
 心には物質的なものを作り出すことはできません。

 What seems to die is but the sign of mind asleep.
 死ぬように見えているものは、ただ心が眠りこんでいる印でしかありません。



7. The opposite of life can only be another form of life.
 生命の対極は、単に生命の別の形でしかありえません。

 As such, it can be reconciled with what created it, because it is not opposite in truth.
 そうだとすれば、生命の対極もそれを創造したものと和解できるはずです。なぜなら、それは真の意味での対極ではないからです。

 Its form may change; it may appear to be what it is not.
 その生命の対極のとる形は変わるかもしれないし、それは本来の姿とは違うものに見えるかもしれません。

 Yet mind is mind, awake or sleeping.
 しかし、目覚めていようが眠っていようが、心は心です。

 It is not its opposite in anything created, nor in what it seems to make when it believes it sleeps.
 心は、創造された何ものとも対立することはありません。また、心は、心が自分は眠っていると信じているときに、心が作り出しているように思えるものとも対立することはありません。



8. God creates only mind awake.
 神は、ただ目覚めた心だけを創造します。

 He does not sleep, and His creations cannot share what He gives not, nor make conditions which He does not share with them.
 神が眠ることはないので、神の創造物は、神が与えていないものを分かち合うことも、神が創造物と分かち合っていない状況を作り出すこともできません。

 The thought of death is not the opposite to thoughts of life.
 死という想念は、生命という想念の対極ではありません。

 Forever unopposed by opposites of any kind, the Thoughts of God remain forever changeless, with the power to extend forever changelessly, but yet within themselves, for they are everywhere.
 永遠にいかなる種類の対極によっても反対されることがないので、神の大いなる思いは永遠に不変であり続け、永遠に変わらないまま拡張し続ける力を備えています。しかし、神の大いなる思いはあらゆる場所に遍在するので、神の大いなる思いの拡張はそれ自体の内において起こります。



9. What seems to be the opposite of life is merely sleeping.
 生命の対極であるように見えているものは、単に眠っている状態でしかありません。

 When the mind elects to be what it is not, and to assume an alien power which it does not have, a foreign state it cannot enter, or a false condition not within its Source, it merely seems to go to sleep a while.
 心が心ではないものになる選択をして、心が持ち合わせていない異質な力を持ったり、心があることのできない異質な境地にあったり、心の大いなる源の中にはない偽りの状況に置かれたりすることが当たり前だと思い込んでいるとき、その心は単にしばらくの間眠りに落ちたように見えているだけです。

 It dreams of time; an interval in which what seems to happen never has occurred, the changes wrought are substance-less, and all events are nowhere.
 その心は、時間という夢を見ています。その時間という間隔の中では、一度も起こったことのないことが起こったり、見せかけだけの実体のない変化がもたらされたり、どこにも存在しない出来事が起こったりしているように見えます。

 When the mind awakes, it but continues as it always was.
 心が目覚めたとき、心はそれがつねにそうであった通りに存続するだけです。



10. Let us today be children of the truth, and not deny our holy heritage.
 今日は、私たちは真理の子供たちとして、自分たちが受け継いだ神聖な財産を拒ばまないようにしましょう。

 Our life is not as we imagine it.
 私たちの生命は、私たちが生命だと思っているようなものではありません。

 Who changes life because he shuts his eyes, or makes himself what he is not because he sleeps, and sees in dreams an opposite to what he is?
 いったい誰が、自分の目を閉じたからといって、生命を変えることができるでしょうか。いったい誰が、眠りこんで、夢の中で自分が本当の自分とはかけ離れた姿になっているのを見たからといって、自分自身を本来の自分とは違うものに変えることができるでしょうか。

 We will not ask for death in any form today.
 私たちは、今日、いかなる形の死も求めはしません。

 Nor will we let imagined opposites to life abide even an instant where the Thought of life eternal has been set by God Himself.
 そして、私たちは、神自身によって生命の大いなる思いの永遠のありかとして定められた場所に、たとえ一瞬でも、生命の対極だと想像したものが留まるのを許さないようにします。



11. His holy home we strive to keep today as He established it, and wills it be forever and forever.
 今日、私たちは、神の聖なる家を、神が築き、永遠にそのままであり続けるよう意図している通りに保つように努めます。

 He is Lord of what we think today.
 神こそが、今日、私たちの思考を導く大いなる主です。

 And in His Thoughts, which have no opposite, we understand there is one life, and that we share with Him, with all creation, with their thoughts as well, whom He created in a unity of life that cannot separate in death and leave the Source of life from where it came.
 そして、対極を持たない神の大いなる思いの中で、私たちは、存在するのはひとつの生命だけであり、私たちはひとつの生命を神と、すべての創造物たちと、それだけでなく、全創造物が抱く思考たちとも分かち合っていることを理解します。そうすれば、神はすべての創造物を生命の統合の中に創造したのであり、このひとつに結ばれた生命が死によって分離することはありえないし、何ものも自らを生み出した生命の大いなる源を離れることはできないとわかるようになります。



12. We share one life because we have one Source, a Source from which perfection comes to us, remaining always in the holy minds which He created perfect.
 私たちは、ひとつの生命を分かち合っています。なぜなら、私たちは、そこから自らに完璧さがもたらされるただひとつの大いなる源を持っており、そして、その源の完璧さはつねに、神が完璧なものとして創造した神聖な心たちの中に留まり続けるからです。

 As we were, so are we now and will forever be.
 私たちがこれまでそうあったように、私たちは、今もこれからも永遠にそのままであり続けます。

 A sleeping mind must waken, as it sees its own perfection mirroring the Lord of life so perfectly it fades into what is reflected there.
 眠っている心は必ず目を覚まします。というのも、眠っている心は、自らの完璧さが生命の偉大なる主を真に完璧に反映しているのを理解するので、そこに反映されているものの中へと溶けこむからです。

 And now it is no more a mere reflection.
 そうすればもう、それはもはや単なる反映ではなくなります。

 It becomes the thing reflected, and the light which makes reflection possible.
 それは、反映されていたものそれ自体、つまり、反映を可能にする光となります。

 No vision now is needed.
 もう、いかなるヴィジョンも必要ありません。

 For the wakened mind is one that knows its Source, its Self, its Holiness.
 というのも、目覚めた心は、その大いなる源である自らの真の自己と自らの神聖さを知る一なる心だからです。


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それでは、ブリトニーさんのレッスンです。







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Akiko
2015/11/19 (Thu) 00:02

夢をもつこと

今日はレッスン167をやりました。
まだテキストも読んでいる途中なのですが、毎回葛藤することがあります。
私的な希望、夢を抱くことに躊躇してしまうようになってしまいました。
以前はエイブラハムやバシャールを読みあさっていましたのでワクワクすることに意識を向けて、ポジティブに過ごすような日々を送っておりましたが、ACIMを読むようになってこの幻想の世界から目覚めることを目指すとなると夢を持つのは違うのかな、と思うようになりました。

幻想の世界に執着していることになるだろうし、神が創造したままの私ではいれなくなるだろうし、自分には何かを創造できるんだという間違った信念によって夢を持つのかなって。もともと存在しないこの世界に現実味を持っているが故の葛藤だとは思うのですが・・・。どうなんでしょう・・・。

  • To 松山 健 Matsuyama Kenさん
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 ken
2015/11/22 (Sun) 11:05

Re: 夢をもつこと

Akikoさま

コメントありがとうございました。お返事が遅くなって申し訳ありません。

> 今日はレッスン167をやりました。
> まだテキストも読んでいる途中なのですが、毎回葛藤することがあります。
> 私的な希望、夢を抱くことに躊躇してしまうようになってしまいました。
> 以前はエイブラハムやバシャールを読みあさっていましたのでワクワクすることに意識を向けて、ポジティブに過ごすような日々を送っておりましたが、ACIMを読むようになってこの幻想の世界から目覚めることを目指すとなると夢を持つのは違うのかな、と思うようになりました。
>
> 幻想の世界に執着していることになるだろうし、神が創造したままの私ではいれなくなるだろうし、自分には何かを創造できるんだという間違った信念によって夢を持つのかなって。もともと存在しないこの世界に現実味を持っているが故の葛藤だとは思うのですが・・・。どうなんでしょう・・・。

私的な希望や夢を抱いてワクワクすることは、存在しないはずのこの世界に現実味を抱くことになってしまってよくないのではないかとのことです。

たしかに、ディスニーランドのようなテーマパークで様々なアトラクションにはまっている状態から現実に戻るには、「つぎはあのアトラクションをやりたい」とテーマパーク内での娯楽を追い求めることはベクトルとして逆ではあるでしょう。

この世界という楽しく「見える」遊園地の吸引力があまりに強いので、私たちは狂ったようにアトラクションを何度も楽しみたがる子供のようにのめり込みます。

でも、まだまだ遊び足りないという気持ちのまま外に出ても、執着を残したままになるので、簡単に舞い戻ってきてしまうはずです。

永遠においてはこの幻想の世界は既に終わっているといいます。
時間は幻想なのですから、もっと気楽に捉えてはどうでしょうか。

私的な希望、夢を抱き、実現することこそ、この幻想世界の醍醐味なのですから、とことん個人としての夢や希望を抱いてワクワクしながら生きればいいのではないでしょうか。

イェシュアが、けしからん!なんて言うと思いますか?


なにより、ワクワクする気持ちは、大事な指標だと思います。

奇跡のコースは、愛の発露の障害を除去することを目指すもので、その意味でマインドとハートでいえば、ハートを重視すると思います。
もっとも、コースは、知的な側面からアプローチするので、どうしても、学習者は頭でっかちになりがちです。

ワクワクはハートで感じるものです。
知的理解に基づくある時点におけるコースの解釈に縛られて、ワクワクを押し殺してでも世界の幻想性を追求しようという姿勢はどうみても、Happy Learner http://thereisnospoon.jp/?mode=m&no=287ではありませんよね。


奇跡のコースは、この世界を幻想と看破してそこから脱出することを説くので、どうしても、学習者は厭世的な気分になってしまいがちです。

それに、ワクワクすることに意識を向けてポジティブに過ごそうとすると、自分がエゴとしての欲求を追求するように思えて、罪悪感を覚えてしまうかもしれません。

たしかに、エイブラハムやバシャールといった高次元存在が勧めるワクワクは、必ずしもコースの言う聖霊を選ぶことに限らず、個としての魂が喜ぶような個性の発揮も含むものだとは思いますが、小さな自己としての個性の発揮を全てエゴに従うことと見なして否定する必要は全くないと思います(この世界での配役について
http://thereisnospoon.jp/?mode=m&no=22)。

ワクワクがエゴからくるものか聖霊からくるものかわからない、エゴに従ってしまったらたいへんだと恐怖を感じるかもしれませんが、
レッスン133
http://thereisnospoon.jp/blog-entry-307.html?sp
の基準に従って、間違えたら選び直していけばいいだけです。

エゴは戦って討ち滅ぼすべき強敵ではありません。

生気に漲る若者が変な宗教にかぶれていろんな欲望を抑圧しても、上手く行きっこないし、仮に上手に抑圧できたとしてもそれは、二重人格的に解離することに成功したとしか評価できません。

まだこんな自己欺瞞に比べれば、欲望を追求して好き放題やり切って人生を謳歌した結果、憑き物が落ちたように「もう要らない」「人生は夢のようなもんだ」という境地に到った人のほうが本当に「落ちている」はずです。

エゴに駆り立てられて幻想世界にどっぷり浸かり切るような体験をすることは人生の目標とするのは考え物ですが、人生の修行の一過程としては、省かずに履修したほうがいいものなのかもしれません。


他方で、奇跡のコースに吸引される人の中には、この世界に馴染めずに、現実逃避的にコースのいう幻想世界という発想に逃げ場所を見出す人も相当多いと思います。


今生の自分に配られたカードや配牌では、到底いい役で上がることは難しいといって投げ出して、早々にゲームを降りたいと思ってはいるけれど、届かないブドウが酸っぱいと言うキツネと同じで、叶うものならこの世界を謳歌したいという欲求が蓋をされた心の底でくすぶっているのです。

この場合も、一見、醒めた目線で世界を眺めているようには見えますが、思い通りにいかない世を拗ねて世界を嫌う方向で世界に強く執着しているということになります。

世界の快楽に溺れるのであれ、厭世的になるのであれ、ニュートラルに捉えていない限りは、実のところは、この世界に囚われているという点では同じだと思います。

私的な成功や幸せや夢を実現することにワクワクするようじゃ世界に執着していることになっちゃうとか、逆に、私の感じている通りにこの世界は幻でしかないんだから世間的に成功することや夢を追い求めるなんて馬鹿らしくてやってられないという意識は、かえってともに実在しない世界と子としての自分との束縛を強固にするだけだと思います。


精神世界的な方面に関心が向く個別の自己も最初の出発点は、エゴとしての自己承認欲求である場合が多いはずですが、人が自分の人生の夢として心の奥底から湧いてくる真の欲求は、きっと自分のエゴの表面的な欲望ではなくて大いなる自己への回帰を求める魂の叫びの発露であるはずです。

夢(個別の魂としてのカルマの精算的なものも全体としての大いなる自己の癒しにつながるでしょうから、必ずしも人助けにつながるものとは限らないと思います。)が本物なら、夢をワクワクしながら追い求める過程では、それまで敵にしか思えなかった誰かが愛おしく思える愛に満ちた存在へと変容したり、当たり前のことに思っていたことが色んな人の助けによって自分に差し延べられていることに気づいて感謝の気持ちが湧いて来たりと、人生が奇跡で溢れ返っている様を目の当たりにする幸せな夢に変わると思います。

世界の終わりは、世界が消滅することではなくて、真の世界が姿を現して、世界が天国へと変容することだといいます(http://thereisnospoon.jp/blog-entry-32.html 「この世界の終わりとは、世界が破壊されることではありません。そうではなくて、世界が天国へと変容することです。」(テキスト 第十一章 八 問題と答えhttp://thereisnospoon.jp/blog-entry-197.html)。

奇跡のコースは、結果である世界に働きかけることはせず、原因である心に取り組むコースではありますが、だからといって、世界は幻想だ、存在しないのだから世界に関心を抱いちゃだめだと自分の心の中に引きこもればいいというものではないと思います。

存在しない幻想世界から目覚める道具として、当の世界自体を自分の心を映し出す鏡として用いることができるのに、世界を幻想として見ないようにシャットアウトしようとするのはもったいないです。

ぜひ自分の心の奥底から湧き出してくるワクワクを無視したり押し殺したりしないで、希望をもって夢を抱いていただければと思います。

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Akiko
2015/11/27 (Fri) 23:05

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kenさま、お忙しい中ご丁寧なお返事、アドバイスありがとうございました。ずっと気になっていた事だったので、kenさまから頂いたお返事を読み涙がでてしまいました。kenさまから新しい気づきを得れたことに心から感謝しております。ありがとうございます。

kenさまがおっしゃる通り、この世界が幻想なのだからと物事に無関心になりそうな時もあったので、そのことに触れてくださったことにも感謝しております。いまだに外側の出来事に心痛めることがありますが、ハッとkenさんがおっしゃったようにこの世界を自分の心を映し出す鏡として活用する、これを思い出す、気づくだけでもコースに出会えてよかったと思っています。

コースを学ぶ上でkenさまのこのHPに大変助けられています。わたしたちにご提示くださり本当にありがとうございます。

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