T25-5 無罪!
レイプ犯、殺人犯とあなたとの違いは、あなたが思っているほど大きくはありません。私がこれを言うのは、あなたを落ち込ませるためではありません。兄弟に対する責任に目覚めてもらいたいと思って言うのです。
復讐の考えを抱いた自分を赦すことができれば、復讐の行為を行う人を赦すことができないわけがありません。その人はあなたがすでに考えていたことを行為に移したにすぎません。
私は復讐を正当化するつもりはありません。攻撃も正当化しませんし、あなたがたにも正当化してほしくありません。ただ、なぜその兄弟をあなたのハートから追い出してしまうのか、と尋ねたいのです。その人はおそらくあなたよりも愛と赦しに飢えていたのでしょう。それを決して与えまいとするのですか。
その人は人生で深い傷を負っていたのです。父親がいなかったかもしれません。九歳から麻薬中毒だったかもしれません。そして四六時中危険を感じるような組織の中で生きてきたのです。あなたは、罪を犯した男の中にいる、この傷ついた少年に少しも同情を感じませんか。
あなたが彼の立場だったとしたら、もっとましな生き方ができたのでしょうか。正直になってください。友よ。正直になれば、憐れみを覚えるでしょう。その犯罪者にではなくとも、その前身の少年に。

イエス・キリスト(「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」より)

テキストから、無罪の心境という一節をご紹介します。
親の心子知らず
私たちは自分の狭い了見でしか物事が見えないので、神を人格神としてイメージすることしかできません。
だから、世の親には、子どもたちの出来不出来によって子どもを可愛がる度合いに序列を設けたり、子どもからの仕打ちによって子どもを憎んだりする人もいるように、神も、私たちを選り好みしたり、神への叛逆に神罰を下したりするはずだと発想し、仮に我が子への愛があるにしても、条件付きのものでしかないと考えます。
そうして私たちは、神には、自ら創造した子を地獄の苦しみから救い出す力もないと、神を無力だとみなしたり、そもそも神なんていないと信じたりします。
というのも、私たちが現に理不尽で恐怖に満ちた混沌たるこの世界に生きて塗炭の苦しみを味わっているというのに、神はといえば、苦しむ私たちを、その苦しみから解放するために多少なりとも、私たちに手を差し延べているようには思えないからです。

誤用する自由があることは、神が自身を与え切ってくれている証
しかし、私たちの現状、この狂気の沙汰を私たちが味わっているのは、神が無力なせいではなく、神が自由意志と無限の創造力をわが子に与えてくれたからこそ生じたものです。
素朴に考えると、自由と力を与えるにしても、間違った使い方ができないようにして与えるのが愛なんじゃないの?という思いも浮かびはします。
けれど、それは、制限付きの自由と限られた力を与えることでしかなく、神と等しいものとして拡張する創造とはいえません。
愛の神には、そんなことはできなかったのですから、無条件の愛によってわが子に自由と力を完全に与え切った父なる神に対して、子が自分が狂気に陥った責任をなすりつけるのは筋違いです。
それに、神は、狂気の中ですらわが子に随伴して助けとなることのできる聖霊という贈り物を与えて、わが子が自分自身に示す愛の中で、何の妨げもなく神の大いなる意志がなされるようにしてくれました。
神の子は自分を無数の人格に分裂させているので、神の子の自分自身に対する愛は、私たちが自分たち兄弟同士で示す愛となります。
兄弟をどう見るか次第で、彼は天国への道にも地獄への道にもなる
だから、私たちは、エゴに従って兄弟を敵と見るか、聖霊に従って兄弟を自分と見るかによって、兄弟の中に、自分に対する神の意志だと自分が信じて描き出した姿を見ることになります。
私たちが赦すなら、私たちは神の大いなる愛を理解するようになり、攻撃するなら、私たちは神が自分を憎んでいると信じ、天国は地獄に違いないと思いこむでしょう。
私たちは、その人をどう知覚するか次第で、彼が天国への道にもなれば地獄への道にもなると理解して、兄弟をよく見なければなりません。
だれかと出会うたび、そこにイェシュアがいる
私たちが他人だと思っていた兄弟と会うたびに、私たちの目の前にはキリストが立っています。
しかし、身体という額縁に気を取られているかぎり、私たちは、そこにいるキリストに気づかないまま、兄弟の姿や態度に惑わされて、彼を敵にしてしまいます。
エゴが大声で叫ぶノイズが彼を憎々しい敵に思わせていますが、その裏で、その兄弟の内なるキリストは悲しげに愛を求め自分を助けてほしいと訴えて、神のものを神に返すようにと求めています。
つまり、私たちが兄弟の愛と助けを求める哀訴にふさわしく愛と助けを返して、自分たちが本当はひとつの神の子であると気づいて神の下へと帰るようにと兄弟を通して神は呼びかけているのです。

テキスト第二十五章
V. The State of Sinlessness
五 無罪の心境
1. The state of sinlessness is merely this: The whole desire to attack is gone, and so there is no reason to perceive the Son of God as other than he is.
無罪の心境とは、単に次のようなものです。すなわち、攻撃したいという欲求がまるっきり去ってしまい、その結果、神の子をありのままの姿以外のものとして知覚するいかなる理由も存在しなくなった境地です。
The need for guilt is gone because it has no purpose, and is meaningless without the goal of sin.
罪悪感も必要なくなります。なぜなら、罪という目標がなければ、罪悪感には何の目的もなくなり、無意味なものになるからです。
Attack and sin are bound as one illusion, each the cause and aim and justifier of the other.
罪と攻撃はひとつの幻想として結びついており、相互に目的とその原因となって他方を正当化する根拠となります。
Each is meaningless alone, but seems to draw a meaning from the other.
攻撃も罪も、片方だけでは無意味ですが、お互いに相手から意味を引き出すように思えます。
Each depends upon the other for whatever sense it seems to have.
それらがどのような意味を持っているように見えようとも、攻撃と罪は相互依存関係にあります。
And no one could believe in one unless the other were the truth, for each attests the other must be true.
そして、一方が真理でないかぎり、誰も他方を信じることはできません。なぜなら、双方が互いにもう一方は真実に違いないと証明するからです。

2. Attack makes Christ your enemy, and God along with Him.
攻撃はキリストをあなたの敵にすることであり、キリストと一緒に神にも敵対することになります。
Must you not be afraid with "enemies" like these?
これほどの相手を「敵」に回したあなたが恐れを抱いたとしても、それは当然ではないでしょうか。
And must you not be fearful of yourself?
そして、あなたは、自分自身にも恐れを抱くに違いありません。
For you have hurt yourself, and made your Self your "enemy. "
というのも、あなたは自分自身を傷つけ、自らの真の自己を「敵」にしてしまったからです。
And now you must believe you are not you, but something alien to yourself and "something else," a "something" to be feared instead of loved.
そして、いまや、あなたは自分が自分ではなく、自分自身とは異質の何かであると信じざるをえなくなります。そして、その「ほかの何か」とは、愛すべきものではなく恐れるべき「何か」だというのです。
Who would attack whatever he perceives as wholly innocent?
いったい誰が、何であれ全面的に罪がないとわかっている相手を攻撃しようとするでしょうか。
And who, because he wishes to attack, can fail to think he must be guilty to maintain the wish, while wanting innocence?
そして、攻撃したいと願う者は誰であれ、たとえ潔白でありたいと望んでいたとしても、攻撃願望を保ち続けている自分は有罪に違いないと思わずにはいられないはずです。
For who could see the Son of God as innocent and wish him dead?
なぜなら、神の子を罪なき者として見ておきながら、彼の死を願うことのできる者などいないからです。
Christ stands before you, each time you look upon your brother.
あなたが自分の兄弟を見つめるたびに、あなたの前にキリストが立っています。
He has not gone because your eyes are closed.
あなたが目を閉じているからといって、キリストが去ってしまったわけではありません。
But what is there to see by searching for your Savior, seeing Him through sightless eyes?
しかし、自らの大いなる救い主を見えない目を通して見ようとしていたのでは、いくら探してもキリストが見えるはずがありません。
3. It is not Christ you see by looking thus.
あなたが、見えない目を通して見ようとして目にするのはキリストではありません。
It is the "enemy," confused with Christ, you look upon.
あなたが見ているのは、キリストと混同して見分けがつかなくなってしまった「敵」なのです。
And hate because there is no sin in him for you to see.
そして、彼の中に罪を見ようにも、あなたにはどんな罪も見えないので、あなたは憎むようになります。
Nor do you hear his plaintive call, unchanged in content in whatever form the call is made, that you unite with him, and join with him in innocence and peace.
しかも、彼はあなたに自分と心をひとつに結び合わせて、潔白さと平安の中で自分に加わってほしいと、内容そのものは変わらないままさまざまな形で呼びかけているというのに、あなたは彼の悲痛な呼び声に耳を貸そうとはしません。
And yet, beneath the ego's senseless shrieks, such is the call that God has given him, that you might hear in him His Call to you, and answer by returning unto God what is His Own.
それでも、エゴの無意味な金切り声に隠れているものの、これこそが神が彼に託した呼びかけなのです。その呼びかけは、あなたが彼の中に自分を呼ぶ神の大いなる声を聞いて、そして、神自身のものを神に戻すことによって、神の呼びかけに答えてくれるようにと求めているのです。

4. The Son of God asks only this of you; that you return to him what is his due, that you may share in it with him.
神の子は、あなたにただ次のことだけを求めています。それは、神の子が当然受け取るべきものを彼に返して、あなたがそれを神の子と一緒に分かち合うことです。
Alone does neither have it.
あなたと兄弟のどちらも、自分だけではそれを持つことができません。
So must it remain useless to both.
だから、それはどちらにとっても役に立たないままになってしまいます。
Together, it will give to each an equal strength to save the other, and save himself along with him.
あなたと兄弟が一緒なら、それは、両方に相手を救うために同等の力を与えてくれるので、自分自身とともに相手を救うことができます。
Forgiven by you, your savior offers you salvation.
あなたに赦されるなら、あなたの救い主はあなたに救いを差し延べてくれます。
Condemned by you, he offers death to you.
あなたに咎められるなら、彼はあなたに死を差し出すことになります。
In everyone you see but the reflection of what you choose to have him be to you.
神の子の一人ひとりの中に、あなたはただ、自分にとってその人にこうあってほしいと選んだ姿の反映だけを見るのです。
If you decide against his proper function, the only one he has in truth, you are depriving him of all the joy he would have found if he fulfilled the role God gave to him.
もしあなたが、彼にふさわしい役目、つまり真に彼が担う唯一の役割に逆らった判断をするなら、あなたは、神が彼に与えた役割を彼が果たしたときに彼が見出せるはずの喜びのすべてを彼から奪ってしまうことになります。
But think not Heaven is lost to him alone.
ただし、天国を失うのはその人だけだとは思わないことです。
Nor can it be regained unless the way is shown to him through you, that you may find it, walking by his side.
同じように天国を失ったあなたは、自分が天国を見つけられるようにと彼の傍らを歩み、自らを通してその道を彼に示すようになるまでは、天国を取り戻すことはできないのです。
5. It is no sacrifice that he be saved, for by his freedom will you gain your own.
兄弟が救われることで、あなたは何も犠牲にすることにはなりません。なぜなら、彼が自由になることによって、あなたも自由を得ることになるからです。
To let his function be fulfilled is but the means to let yours be.
彼の役目を成就させることは、あなたの役目を成就させる手段にほかなりません。
And so you walk toward Heaven or toward hell, but not alone.
だから、あなたは天国に向かうにしても地獄に向かうにしても、ひとりきりで歩むわけではないのです。
How beautiful his sinlessness will be when you perceive it!
あなたが彼に罪がないと知覚するとき、彼の潔白さはなんと美しい姿を見せることでしょう。
And how great will be your joy, when he is free to offer you the gift of sight God gave to him for you!
そして、彼があなたのためにと神から授かった視界という贈り物を惜しみなくあなたに差し延べてくれたなら、あなたはの喜びはどれほど大きなものになるでしょう。
He has no need but this; that you allow him freedom to complete the task God gave to him.
彼に必要なのは次のことだけです。それは、神が彼に授けた任務を完了できるように、あなたが彼を自由にしてあげることです。
Remembering but this; that what he does you do, along with him.
次のことだけを覚えておいてください。それは、彼が行なうことは、彼とともにあなたがすることだということです。
And as you see him, so do you define the function he will have for you, until you see him differently and let him be what God appointed that he be to you.
そして、あなたが彼をそれまでとは違うように見るようになって、神があなたにとって彼がそうあるよう定めたままの彼でいられるようにするまでは、あなたは自分にとって彼が持つ役目を自分の見たいように定めてしまうでしょう。

6. Against the hatred that the Son of God may cherish toward himself, is God believed to be without the power to save what He created from the pain of hell.
神の子が自分自身に対して抱きかねない憎しみに対抗して、自ら創造したものを地獄の苦しみから救い出す力すら神は持ち合わせていないと信じられてしまっています。
But in the love he shows himself is God made free to let His Will be done.
しかし、わが子が自分自身に示す愛の中で、神は何の妨げもなく神の大いなる意志がなされるようにしました。
In your brother you see the picture of your own belief in what the Will of God must be for you.
あなたは、自分の兄弟の中に、自分に対する神の大いなる意志はこれに違いないと自分が信じて描き出した姿を見るのです。
In your forgiveness will you understand His Love for you; through your attack believe He hates you, thinking Heaven must be hell.
あなたが赦すなら、あなたは神のあなたに対する大いなる愛を理解するようになるでしょう。反対に、あなたが攻撃するなら、あなたは神が自分を憎んでいると信じ、天国は地獄に違いないと思いこんでしまうでしょう。
Look once again upon your brother, not without the understanding that he is the way to Heaven or to hell, as you perceive him.
あなたがその兄弟をどう知覚するか次第で、その兄弟が天国への道にもなれば地獄への道にもなると理解したうえで、もう一度あなたの兄弟をよく見てください。
But forget not this; the role you give to him is given you, and you will walk the way you pointed out to him because it is your judgment on yourself.
ただし、次のことを忘れないでください。あなたが兄弟に与える役割はあなたにも与えられ、あなたは自分が兄弟に指し示す道を歩むことになるでしょう。なぜなら、あなたが兄弟に道を示すことはあなたの自分自身に対する裁きとなるからです。

