特別な関係と神聖な関係

2013年06月13日
奇跡のコース 1

The openness of our hearts and minds can be measured by how wide we draw the circle of what we call family.
私たちの感情と思考がどれだけ開放されているかは、私たちが自分の家族のように思う輪をどれほど広く思い描くかで測ることができます。



Mother Teresa
マザー・テレサ



Kinoさんからの質問

Kinoさん、毎度ご質問どうもありがとうございます。
「ふたつの絵」について、とても重要な点に関わるよい質問をいただくことができました。

「本稿は示唆に富んでいるものの、核を捉えることが出来ませんでした。
①私にも(多分誰にも)、特別な関係の交友は存在し、それは
自分の持ち合わせない特性を備えている方、補え合えそうな特性の方、
憎悪的行動を表現する方などが結びつきの代表格だと存じますが、
本稿では彼らとの関係は『立派な額縁』で惑わされている否認すべき対象と
おっしゃっているようにも見えます。

②特別な関係において、コースが導く学びの最終目標はどのようなものでしょうか?
自他分離の幻想につき、お互いの存在が共に自らの一部と認め合い
与えあう関係を築くことか、特別な関係そのものを手放す方向なのか。

③また、気付きの浅い今の私のような人間が、今後特別な関係と交わるにつき
心掛けるべき点をご指南頂けましたら幸いです。 」というご質問です。




コースの特別な関係に関するスタンス

まず、②から考えて見ましょう。


奇跡のコースは、ひとり山奥に引き篭もって、瞑想、座禅をして悟りを開くようなスタイルはいつか効果を生じることがあるかもしれないが、時間がかかるし、退屈だからと採用しません。

むしろ、世俗の中で他者と関係を持つ中での気づきを重視するスタイルをとります。

したがって、当然、だれかとの関わり、関係を持つということを重視します。
また、聖霊の手にかかれば、エゴが利用していた道具でもすべて、見事に贖罪のための教材に転換されてしまいます。

ですから、エゴに従って関わりを持って始まった特別な関係であっても、否認すべきなのは、エゴの防衛策としての「特別な」関係であって、「関係」自体を断つべきということではありません。

「罪を憎んで人を憎まず」的な発想です。


エゴに捧げれば悪さするだけの特別な関係も聖霊に捧げるなら浄化して神聖化してくれる

罪悪感を生み出す母体として利用しようと目論んでエゴが作った特別な関係ですが、聖霊は、特別な関係を浄化して、愛を学ぶ教材として活用します。

聖霊は、特別な関係を浄化して、破綻させないようにしてくれます。

聖霊が浄化してくれなければ、特別な関係は早晩、破綻してしまいます。

交際当初は有頂天になり、しばらくしたら憎しみ合うばかりになっては別れ、別の相手を探し、また同じことを繰り返すような恋愛関係が分かりやすい例ですが、相手の必要性を自分だけが満たすことができる特別性についての自惚れの助長、自分に欠けているものを相手が満たしてくれるという幻想への幻滅、自らの非を相手に投影しての罪悪感の応酬等の一連の流れによって、エゴが十分にその関係性から吸い取ることができるだけのエネルギーを吸い取ったら、放っておいても、エゴは新たな特別な関係を欲しがりはじめ、飽きてしまった特別な関係をポイ捨てすることによって関係は破綻します。

エゴの信奉する欠乏の原理そのままに、特別な関係も有限で利用できる効用は徐々に逓減していくことになります。

知り合ったころはあれほど光り輝いて見えた相手も、交際を深めるに従って、その魅力はどんどん色褪せて嫌なところばかりが目につくようになって、そのうちいがみ合うだけになりますが、会社の同僚や結婚相手のように簡単に縁を切れない相手の場合は、こんな愛憎を繰り返す期間すら過ぎ去ると、顔にできたシミやイボのように、仕方なく付き合っていかなければならないと折り合うしかない空気のような関係になってしまい、愛情面はもちろん、憎しみによる罪悪感のやり取りによっても、エネルギーのやり取りの振幅は小さなものになってしまいます。

特別な関係と化学電池

結婚相手を例に取るなら、永遠の愛を誓ったはずの相手が殺したいほどの憎しみの対象になったり、消えてもらった方がありがたい空気のような存在に成り下がってしまうというのは虚ろな物悲しさすら漂います。

これはどうしてなのでしょう? 人間である限り、避けられない運命なのでしょうか? 相手をとっかえひっかえしていく以外に望ましい関係を持って、それを生かすということはできないのでしょうか。


この点に関して、特別な関係は、化学電池に喩えることができます。

電流を通す希硫酸のような電解液に亜鉛板と銅板のような2種類の金属を入れ、ふたつの金属を中にモーターや電球を介した導線でつなぐと、マイナス極となる亜鉛板は解けてゆき、プラス極となる銅板からは水素が発生し、電流が生じ、モーターが回り、電球が光ります。

化学反応としては、水素よりイオン化傾向の大きい亜鉛が、亜鉛イオンとなって溶解して水溶液の中に溶け出し、残された電子は亜鉛板に帯電しマイナス極となります。

マイナス極に溜まった電子は、導線を通って、プラス極である銅板へと流れ込むことになります。

この際に、電解液の硫酸によって電離した水素イオンと塩化物イオンのうち、正の電荷を帯びた水素イオンが、電子と結合して水素が発生します。

このようにして電子が消費されると、また亜鉛板の方から電子が移動してきます。
こうして、電子の流れとは反対に電流が流れて電気エネルギーが生まれることになります。

化学電池の原理は以上のようなものですが、化学エネルギーを電気エネルギーに変換する放電のみが可能な一次電池(マンガン乾電池等)と、放電時と逆方向に電流を流すことで、電気エネルギーを化学エネルギーに変換し蓄積(充電)することができる二次電池(鉛蓄電池(車のバッテリー)、ニッケル水素電池、ニッカド、リチウム・イオン等々)があります。

電池を放電していくとマイナス極の金属が溶けていくので、次第に電極の金属が無くなり、全部溶けてしまうと反応できなくなってしまいます。

一次電池では、こうなると電池交換するしかありませんが、二次電池では、充電することによって元の状態に戻すことができます。元に戻すためには、反対に電流を逆流させます。そうすると、プラス極で金属が溶けてイオンとなり、マイナス極でイオンが金属となります。

もっとも、プラス極は溶けにくい金属、マイナス極は溶けやすい金属ですので、溶けにくいプラス極の金属を溶かして、溶けやすいマイナス極の金属を元に戻すという、自然には起こらない反応を起こすことが必要になり、エネルギーを要しますが、こうすることで充電して、再び電池として機能するということになります。

さて、特別な関係においては、関係の当事者である二人は、この化学電池での亜鉛板と銅板のような働きをする触媒となります。

ある局面では、一方がマイナス極として働き、別の局面では、それが入れ替わります。

このようにして、充電と放電を繰り返しますが、二次電池と同じで、使い方や関係性によって、長いか短いかの違いはあるにせよ、いつか寿命が来ます。

特別な関係に寿命が来て、充電も放電もできなくなると、関係を構成していた触媒の二人は離れ、同じように、プラス極とマイナス極となることのできる相手を探して特別な関係に入っていくのです。


この放電と充電を繰り返す電池は、冒頭に述べた特別な関係の陽極と陰極の行ったり来たりと、それが徐々にフェードアウトしてゆく様ととてもよく似ていると感じられないでしょうか。



ワニ

神聖な関係

これに対して、聖霊は、特別な関係を「神聖な関係」に変換してくれます。

聖霊は、ひとりの神の子が無数に分裂して、各自がばらばらだと思い込んでいるだけなので、みんな幻であり、各自が独特の必要性や欠落感を抱いているのも幻想であり、誰ひとり、特別ではないということがわかっています。

上に述べたように、特別な関係が電池に喩えられるなら、誰も特別でなく平等であるなら、プラス極にもマイナス極にもなることができないので、本当は、誰も電池の触媒になることなんて不可能だということになります。

聖霊が特別な関係を変容してくれる「神聖な関係」とは、「聖霊電力」による安定した電力供給(無限かつ永遠の供給)がすでに個別の心にはなされていて、わざわざ自分たちをすり減らせて電池に頼る必要なんて無いということに気付く機会を与えてくれる関係です。

無限の電力供給があるとしても、ひとりだけでこの供給を受けられる状態になるのは困難です。

「神が知っているのは、神とのコミュニケーションの経路が神に向けて開かれていないせいで、自らの喜びを分け与えることができず、自分の子供たちが完全なる喜びに満たされていることを知ることができないでいるということです。」(テキスト 第六章 五 聖霊のレッスン)

永遠を垣間見るこの神聖な瞬間を経験することは、私たちひとりだけではできません。
関係を持つ相手が自分自身であることを知り神聖な瞬間を経験するためには神聖な関係が必要です。


「神聖な瞬間とは、あなたが完璧なコミュニケーションを受け取ると同時に与える時間だということです。しかしながら、このことは、神聖な瞬間は、あなたの心が受け取ることと与えることの両方に対して開かれる時間であるということを意味します。神聖な瞬間は、全ての心はコミュニケーションをしていると認識するということです。したがって、神聖な瞬間は、何一つ変えようとはせずに、ただあらゆるものを受け入れるのです。」(テキスト 第十五章 四 神聖な瞬間の実践 6.)


神聖な瞬間

聖霊が特別な関係を神聖な関係に変換するのは、「神聖な瞬間」という道具によってです。

私たち特別な関係の当事者の一人が、罪悪感や恐怖や嫉妬といった脅威を感じた瞬間、それを聖霊に差し出し、この瞬間を神聖な瞬間に取り換えてもらうことによって、特別な関係は神聖な関係へと変容します。

そうすれば、その関係の中で、相手は、それまで見せていた、その相手がいなくなったら人生真っ暗というほどの愛着(プラス極としての姿)や地の果てまでも追い詰めて苦しめてやりたいという憎しみ(マイナス極としての姿)は消え去り、相手は、他者がみんな自分自身であることをもっともよく表す鏡となります。

そして、自分だけの中をひたすら探しても、電池の代わりになる「聖霊電力」からの供給のコンセントはなかなか見つかりませんが、神聖な関係における相手という鏡の中にいる聖霊が「聖霊電力」からの無限供給を届けてくれる経路となってくれます。

そして、神聖な関係の中で、私たちには、打ち砕かれてバラバラになった神の子の全ての断片に、癒しと結び付きによる安らぎを差し延べる役目を果たすようにと、そのチャンスを差し延べられることになります。


豪勢な額縁による幻惑

では、質問①「私にも(多分誰にも)、特別な関係の交友は存在し、それは 自分の持ち合わせない特性を備えている方、補え合えそうな特性の方、 憎悪的行動を表現する方などが結びつきの代表格だと存じますが、 本稿では彼らとの関係は『立派な額縁』で惑わされている否認すべき対象とおっしゃっているようにも見えます 」です。

上の検討ですでに答えが出ていると思いますが、自分が持ち合わせていない特性を補い合えそうな誰かで埋め合わせるための関係ということ自体が、エゴの欠乏の原理を表現するもので、これこそが「立派な額縁」による惑わしとして否認すべき特別な関係です。

その意味がその関係そのものを解消すべきということではないことは上に述べたとおりです。


特別な関係に臨む際の留意点

さて、最後の③今後特別な関係に関わるに際して留意すべき点は?という質問については、特別な関係を絶とうとするのではなく、むしろ積極的に関わりを持ってよいと捉えられると思います。

上記のように特別な関係が神聖な関係に転化し幸せな夢に至るのですから、むしろ特別な関係を忌避するのではなく、積極的に関わってゆくべきというべきでしょう。

その関係をエゴに支配させることが問題なだけだからです。

一人で沈思黙考している際には、聖なる書物に触れ、自分が神聖な存在になったように感じていても、誰かと関わって日常に引き戻されたとたん、それまで引っ込んでいたエゴが顔を出して出しゃばってくるのがわかるはずです。

そして、それは、甘えのある親や兄弟や配偶者や子供といった家族や恋人や親友といった本当に親密な関係のほうが、自分を着飾って取り繕う必要がないだけに、エゴが出しゃばりやすいです。

ここにこそ、特別な関係を聖霊が活用できるチャンスがあります。

前に述べたように汝自身を知れ、奇跡のコースのカリキュラムの目標は、「汝自身を知れ」というものであり、それは、エゴに従う場合の小さな自己と聖霊に従う場合の大いなる自己をそれぞれ知るということでした。

そして、どうやって自分自身を知るかといえば、誰かとの出会いを神聖な出会いとして、その関係性の中での相手のリアクションによって、自分がエゴに従っているのか、聖霊に従っているのか鏡として知覚することによってということでした。

エゴが弱まっていない段階では、恋愛関係のような特別な関係こそ自分のエゴを映し出す見事な鏡の役目を果たしてくれます。
この場面では、自分がプラス極としてマイナス極の相手をすり減らしている、別の場面では、自分がマイナスとなっているとかいうことを体験して、小さな自己を知る機会として活用できます。

もっとも、せっかくの鏡も、物わかりのいい、人格者の仮面を被って、素を出さない「いいひと仮面」が顔に張りついてしまっていては、役目を十分には発揮できません。

ですから、素のままの自分をさらけ出して、相手が返してくれる反応を糧にエゴに従っている自分に気づいては、聖霊を選択し直すということを繰り返す機会として活かすことで、小さな自己を知ることが大切なように思います。






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It’s not how much we give, but how much love we put into giving. – Mother Teresa

 松山 健 Matsuyama Ken
この記事を書いた人:  松山 健 Matsuyama Ken

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Kino  

ken様有難うございます。
電池の喩えを加筆して頂き理解が深まりました。
マトリックスの項でのPCの喩えもそうでしたが、
観念的事象を的確に表す比喩的事象の存在と
その引用力に関心が増すばかりです。
電池の仕組みや、ワニの歯垢をついばむ鳥の写真も、
学生の頃の記憶を楽しませて頂きました。
身近な関係から少しずつ試してみようと思います。
いつもアドバイス有難うございます!

2013年06月13日 (木) 16:19
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