レッスン173「レッスン155と156の復習」

2013年12月03日
レッスン171〜180 0

Be faithful in small things because it is in them that your strength lies.
小さな物事にこそ、心を込めて真摯に取り組んでください。なぜなら、小さなことに心を込めることであなたは力強くなれるからです。



Mother Teresa
マザー・テレサ



  

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レッスン173です。

今日はレッスン155と156の復習です。





今日は、新プラトン主義の開祖プロティノスの「エネアデス」をご紹介します。

プロティノス_1205022935

エネアデス

ウィキ

ウィキペたん

「プロティノスはプラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)より500年以上も後の生まれであり、当時は様々な神秘主義思想が唱えられていた時代である。プロティノスの思想はヌメニオスの剽窃であるという嫌疑をかけられたが、これはプロティノスの弟子アメリオスにより論駁されている。ただしネオプラトニズムの創始者とはいっても、プロティノス自身には独自な説を唱えたという意識はなく、プラトンの正しい解釈と考えていた。
一者[編集]
プロティノスの思想はプラトンのイデア論を受け継ぎながら、その二元論を克服しようとしたものである。プラトンの『パルメニデス』に説かれた「一なるもの」(ト・ヘン to hen)を重視し、語りえないものとして、これを神と同一視した。万物(霊魂、物質)は無限の存在(善のイデア)である「一者」(ト・ヘン)から流出したヌース(理性)の働きによるものである(流出説)。一者は有限の存在である万物とは別の存在で、一者自身は流出によって何ら変化・増減することはない。あたかも太陽自身は変化せず、太陽から出た光が周囲を照らすようなものである。光から遠ざかれば次第に暗くなるように、霊魂・物質にも高い・低いの差がある。
また、人間は「一者」への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。[エネアデスVIの第11節] ただし、エクスタシスに至るのは、ごく稀に、少数の人間ができることである。プロティノス自身は生涯に4度ばかり体験したという。また高弟ポルフュリオスは『プロティノスの一生と彼の著作の順序について』(『プロティノス伝』と称される)の中で、自らは一度体験したと書き残している。
美学[編集]
彼によれば、ある物体は、ある時は美しく、ある時は美しくないのだから、物体であることと美しくあることとは別のことである。このような美の原因としては均斉 symmetria が挙げられることがあるが、しかしこれが美の原理であるならば、美は合成体にのみ存し、単純な美は存在しないが、光線、あるいは単音のように単純で美しい物があり、また「節制は愚行である」という命題と「正義は勝者である」という命題とは均斉はとれていながらこの倫理観は美しくない。したがって均斉は美の原理ではない。美が感知されるのは何か精神を引き付けるものが存するからで、すなわち精神と同質のロゴスが存しなければ物は美しくない。したがって美の根源はロゴスの明るさの中心として光に譬喩される神であり、超越美 to hyperkalon である一者としての神を頂点として、以下、ヌース、諸徳のイデア、諸存在者の形相、質料、という美の序列が成立する。この構想はプラトン的であり、その証明法はプラトンのようにミュトスによらず美的経験の分析による。この考えによれば芸術美を自然美と原理的に区別し得ないが、芸術は自然的事物を摸倣してはならず、自然美を成立させる原理を摸倣しなければならない。すなわち芸術家にとっては精神の直観力によってロゴスとしてのイデアの全体像を把握するのが先決問題である。プロティノスの宗教的美観は「汝自らの魂の内を見よ。自らが美しくなければ、自らの行いを清め、自己のうちに美が見えるまで努力せよ。神すなわち美を見たいと欲するものは自らを神に似た美しいものにしなければならない」という言葉に表されている。」



[序文]


1.私たちは自分が、理解の段階をさらにもう一段、深めるための準備をしていることを認識します。

私たちは、この段階を完全なものにすることで、自分たちがこれまでに増して、より確実に、より真摯に、より深い確信に基盤を置いた誠実さをもって再び進むことができるようにします。

これまでの私たちの歩みは、揺るぎないものではなかったし、疑念を抱くことによって、このコースが定める道を進む私たちの歩みは不安定で緩慢なものになっていました。

しかし、今から、私たちは歩みを速めます。というのは、私たちはより大きな確信、より確固たる目的とより確実な目標に近づいているからです。



2.われらの父よ、私たちの歩みを着実なものにさせてください。

私たちの疑念を静まらせ、私たちの聖なる心をじっと静止させて、そして、私たちに語りかけてください。

私たちからあなたに捧げる言葉はありません。

私たちは、ただあなたの大いなる言葉に耳を澄まして、それを自分のものにしたいと思っています。

父親が幼い子供がまだ知らない道を進むのを導くように、私たちの取り組みを導いてください。

道を知らずとも、自分のために父が道を導いてくれるので安全だと確信したら、子が導きに従うのは間違いありません。



3.だから、私たちは、自らの実践をあなたに差し出します。

そうすれば、もし私たちが躓いても、あなたが私たちを起き上がらせてくれるでしょう。

もし私たちが道を忘れてしまっても、私たちは、あなたが確実に覚えていてくれることを頼りにできます。

私たちがわき道にそれてしまったとしても、あなたは私たちを呼び戻すのを忘れずにいてくれるでしょう。

今こそ、私たちの歩みを速めることにします。そうすれば、私たちは、あなたの下へとより確実により早く辿り着けるでしょう。

だから、これまであなたが私たちに授けてくれた考えを復習しながら、私たちは、自分たちの実践したことを統合するためにあなたが差し延べてくれる大いなる言葉を受け入れます。



4.次の言葉は、私たちが復習するいくつかの考えの前提となるべき考えです。

私たちが復習する考えの一つひとつは、単に、この考えのいくつかの側面を明確化したり、この考えをより意味あるものにしたり、より個人的に真理として受け入れやすくしたり、私たちが分かち合い、今、再び知るための準備をしている神聖な真の自己を描写する助けとなるものでしかありません。


その考えとは、神はただ大いなる愛であるのみだ、したがって、私も愛であるのみだ、というものです。


この真の自己だけが大いなる愛を知っています。

この大いなる自己だけが、その思考において完璧に首尾一貫しており、自らの創造主を知り、自分自身を理解し、自らの知識と大いなる愛の中に完璧にあり、自らの父と自分自身とがひとつに結びついた恒常的な状態から決して変化することがありません。



5.そして、旅路の終着点で私たちと出会うのを待ち受けているのはこの大いなる自己です。

私たちの踏み出す歩みの一歩ずつが、私たちを少しずつこの大いなる自己へと近づけます。

もし私たちが、この大いなる自己を自分たちの目標として心に留め、そして、私たちが実習するにつれて、自分たちが近づいていくのはこの大いなる自己なのだと意識するなら、この復習は計り知れないほど時間を短縮してくれるでしょう。

私たちで、大いなる自己に戻る旅路を終えることが自分には約束されており、そして、このコースが私たちに届けられたのは、光の道を拓き、自分たちが失ってしまったと思っていた永遠なる真の自己にどうやって戻るのかを順を追って私たちに教えるためであること思い出して、私たちの心を塵から生命へと引き上げましょう。



6.私はあなたと一緒に旅しています。

というのも、私はあなたの疑念や恐怖をしばらくの間分かち合うことで、あなたがあらゆる恐怖と疑念が克服される道を見分けることのできる私のところに来られるようにするからです。

私たちは一緒に歩みます。

私は不安や苦痛には何の意味もないと知っていますが、それでも、私は不安や苦痛を理解しなければなりません。

救い主は、自分が教える者たちと一緒に留まり、その者たちの見るものを見なければなりません。しかし、それでいながら、救い主は、かつて自分を導き出してくれ、今度は、自分と一緒にあなたを導き出す道を自らの心の中に保っているのです。

あなたが私と一緒にその道に沿って歩むようになるまでは、神の子は磔にされたままです。



7.私がひとりの兄弟を旅が終わり旅路が忘れられる場所まで安全に導くたびに、私は再びよみがえります。

ひとりの兄弟が悲惨さと苦痛から解放される道があると学ぶたびに、私は新たに再生します。

ひとりの兄弟の心が自分の内なる光のほうを向いて、私を探すたびに、私は生まれ変わります。

私は誰ひとり忘れてはいません。

今こそ、私が旅路の始まった場所へとあなたたちを連れ戻して、私と一緒に新たな選択ができるよう私に手を貸してください。



8.どうしてもあなたに必要なことを理解し、その答えを神から託されて知っている聖霊から私があなたにもたらした考えをもう一度実習することで、私を解放してください。

私たちで一緒に、これらの考えを復習しましょう。

私たちで一緒に、時間と努力を復習に捧げましょう。

そして、私たちで一緒に、それらを私たちの兄弟たちに教えましょう。

神が天国を不完全なままにしておくようなことはありません。

私があなたを待っているように、天国はあなたを待っています。

私の中にあなたという側面がなければ、私は完全にはなりません。

そして、私が完全になったとき、私たちは一緒に私たちの古来のわが家へと赴きます。その家は、時間が始まる前から用意され、ついに時間が終わったときにもそうであるように、一点の穢れもなく安全なまま、時間によって変わらないまま保たれています。



9.それゆえ、あなたから私への贈り物としてこの復習を捧げてください。

というのも、私が必要とするのは、あなたが私の語る言葉を聞いて、それを世界に伝えることだけだからです。

あなたは、私の声となり、私の目となり、私の足となり、私の手となります。あなたを通して、私はこの世界を救うのです。

私がそこからあなたに呼びかけている大いなる自己は、あなたの自己にほかなりません。

その真の自己に向けて私たちは一緒に進みます。

あなたの兄弟の手を取ってください。というのは、これは私たちだけで歩む道ではないからです。

その兄弟の中において、私はあなたとともに歩み、あなたは私とともに歩みます。

私たちの大いなる父は、わが子が自らとひとつになることを意図しています。

そうだとすれば、あなたと一体ではないといえるような、どんな生命があるでしょうか。



10.この復習を、あなたにとっての新しい経験を私たちで分かち合う時となるようにしましょう。しかし、その経験は、時間と同じかそれ以上に古いものです。

あなたの名は神聖です。

あなたの栄光は永遠に穢れなきものです。

そして、あなたの完全性は、神がそう定めたとおり、今、完成されます。

あなたは神の子であり、自分自身を拡張することで神の拡張を完成させる存在です。

私たちが実践するのは、幻想がこの世界をわが物としたように見えたときよりも以前に自分たちが知っていた真理だけです。

そして、私たちは、次のように言うたびに、世界があらゆる幻想から自由であることを世界に思い出させることになります。


神は大いなる愛であるのみだ。だから、私も愛であるのみだ。



11.この言葉とともに、私たちは毎日の復習を始めます。

この言葉とともに、私たちはそれぞれの実習時間を始め、そして終わります。

そして、この考えとともに、私たちは眠りに就き、この同じ言葉を口にしながら再び起きて、次の日を迎えます。

私たちの復習する考えのすべてを、この考えで包みこみ、そして、この考えを自分の心の前に掲げるために復習する考えを用い、その1日を通してこの考えを自分がはっきり覚えておけるように保ってください。

こうして、私たちがこの復習を終えたとき、私たちは、私たちの語るこの言葉が真実であると気づくでしょう。



12.この言葉は役に立つだけなので、実習時間の始まりと終わり以外にも、必要に応じて、心に自らの目的を思い出させるためだけに用いてかまいません。

私たちは、自分たちの用いる手段ではなく、実践から生じる経験を信頼します。

私たちは、その経験を待って、ただ経験することにおいてのみ確信を見出せるのだと認めます。

私たちは、この言葉を用い、そして、何度も何度もその言葉を超えて、その響きをはるかに超えるその意味に達するように努めます。

私たちが、その意味の大いなる源に接近するにつれて、その響きは徐々に小さくなって消え去ります。

ここにおいて、私たちは安息を見出すのです。



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Lesson 173

God is but Love, and therefore so am I.
神はただ愛であるのみだ。だから、私も愛であるのみだ。



1. [155] I will step back and let Him lead the way.
 私は、引き下がり、そして、聖霊に導いてもらうことにする。


 God is but Love, and therefore so am I.
 神はただ愛であるのみだ。だから、私も愛であるのみだ。



2. [156] I walk with God in perfect holiness.
 私は、完璧な神聖さの中で神とともに歩む。


 God is but Love, and therefore so am I.
 神はただ愛であるのみだ。だから、私も愛であるのみだ。


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 松山 健 Matsuyama Ken
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