レッスン184「神の名こそ、私が承継したものだ」


名づけとは創造的な行為によって誰かや何かと関係を作り、それを通して初めて、その何かに現実性を与えるということです。その際、名前自体は重要ではありません。名前を持たないものは私たちの意識の中に存在しません。名がないことの苦痛は、幼ごころの君が患う死の病いです。

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Michael Ende
ミヒャエル・エンデ

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それぞれ名づけられたものは、それがあたかもそれだけで存在するかのように、名がない全体から切り離される。それは、いわば"必要な罪業"だが、しかし、そうしなければ、人は世界と向かい合えない。つまり、意識ある存在になれない。自分と区別できないものは名づけられないのだ。

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Michael Ende
ミヒャエル・エンデ




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レッスン184です。

「神の名こそ、私が承継したものだ」が今日のテーマです。





名前の持つ力

名づけというのは面白いものです。

陰陽師


小説「陰陽師」(夢枕獏作)に、名前はこの世で一番短い呪(しゅ)だという安倍晴明の言葉が出てきます。

呪とはものを縛ることを言い、目に見えないものでも、名づけることで縛り、活用することができるようになります。


概念化=conception=世界の中での受胎

"conception"には受精、受胎という意味があり、無数の変異という父と適正な選択による適応という母が出会うことで概念という子が生命を与えられることになります。

ただ「ある」だけの自然な多様な状態の一部分を選別して切り取って、それに名前をつけることによって、それの存在を認識でき、その概念は、あたかも独自の存在であるかのように命を持ち始めます。

雨の多い風土の日本では、雨を表す言葉が400以上あると言われます。

砂漠地帯の国の言葉では大雑把にまとめて幾つかの言葉があるだけでしょう。

名づけられることによって、それまで存在に気づかなかった微妙な相違を認識し識別できるようになります。

私たち自身、名前を持ちます。

私たちが自分だと思っている存在も、名前によって特定の人間として識別されて存在するように、自分からも他者からも思われているということです。


名付けによる分離の学習

1.「By this you designate its special attributes, and set it off from other things by emphasizing space surrounding it.
 名前をつけて識別することによって、あなたはその対象に特別な属性を割り当て、その対象を空間が取り囲んでいることを強調して、その対象をほかの物事から区別します。

 This space you lay between all things to which you give a different name; all happenings in terms of place and time; all bodies which are greeted by a name.
 あなたは、すべての物事にそれぞれ異なった名前を与えて、場所と時間の観点で生じるあらゆる出来事や、名前によって接触し合うすべての身体たちの間に、この空間を配置します。」


時間と空間が他者との隔たりというひとつの幻想が別の形で現れたものだということはT26-8 救いはもう、済んでいるで語られているので、参考にしてください。


分離を学ぶ私たちへの神からの答え

私たちは、世界のあらゆる物事、現象に名前をつけて識別して利用できるようになることこそ学習の意味であり、それが学習の唯一の本質的目標であり、そうすることによって意味のある概念を共有してコミュニケーションをとることができるのだと信じています。

そうして、私たちは世界というものは無数に分裂した物事の集合体であると理解して、名前を覚えることに邁進します。

そうなると、当然、無数に分裂した対象を学習する自分もまたそれらの対象とは切り離された分離した一つの物体でしかないということを当然のこととして理解して学ぶことになります。

このような分離を学ぶ者たちに神が与えてくれた答え、それが神の名です。

神の名は、すべてがひとつであることを思い出させ、本来ひとつであるものの一部分を切り取って名づけることで、分離が真実であるかのように見せて私たちを盲目にしていた錯覚を一掃します。



レッスン29「神は、私の見るあらゆるものの中にいる」
も参考になると思います。



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Lesson 184

The Name of God is my inheritance.
神の名こそ、私が承継したものだ。



1. You live by symbols.
 あなたは象徴によって生きています。

 You have made up names for everything you see.
 あなたは、自分の見るあらゆるもののために名前を作り出してきました。

 Each one becomes a separate entity, identified by its own name.
 それ自身の名前を持つことによって識別されて、一つひとつが分離した存在となります。

 By this you carve it out of unity.
 名前をつけて識別することによって、あなたはひとつに統合されているものから、名づけたものを切り分けます。

 By this you designate its special attributes, and set it off from other things by emphasizing space surrounding it.
 名前をつけて識別することによって、あなたはその対象に特別な属性を割り当て、その対象が空間に取り囲まれていることを強調することによって、その対象をほかの物事から区別します。

 This space you lay between all things to which you give a different name; all happenings in terms of place and time; all bodies which are greeted by a name.
 あなたは、すべての物事の間にこの空間を置いて、それぞれ異なった名前を与えます。すべての物事の間というのは、場所と時間の観点で生じるあらゆる出来事や、名前によって接触し合うすべての身体たちの間のことです。



2. This space you see as setting off all things from one another is the means by which the world's perception is achieved.
 すべての物事を別のものから切り離すものとあなたがみなしているこの空間という手段によって、この世界を知覚できるようになります。

 You see something where nothing is, and see as well nothing where there is unity; a space between all things, between all things and you.
 あなたは何もない虚無の場所に何かを見て、同じように、一体性のあるところに無を見て、すべての物事の間やすべての物事とあなたの間に空間を見ています。

 Thus do you think that you have given life in separation.
 こうして、あなたは自分が分離に生命を与えたと思いこんでいます。

 By this split you think you are established as a unity which functions with an independent will.
 この分割によって、あなたは、自分が一個の独立した意志を持って機能する統一性を持った存在として確立されたのだと思いこんでいます。



3. What are these names by which the world becomes a series of discrete events, of things ununified, of bodies kept apart and holding bits of mind as separate awarenesses?
 この世界を個々に独立した出来事と統一性のない物事、分離した意識としての心の断片を宿す隔絶した身体たちの寄せ集めにしてしまう、これらの名前とはいったい何なのでしょうか。

 You gave these names to them, establishing perception as you wished to have perception be.
 あなたはこれらの名前をそのような物事に与えて、自分が知覚したいと願うとおりに知覚を設定しました。

 The nameless things were given names, and thus reality was given them as well.
 名もなきものに名前が与えられ、名づけられることで、それらのものに現実味が与えられました。

 For what is named is given meaning and will then be seen as meaningful; a cause of true effect, with consequence inherent in itself.
 というのも、名づけられたものは意味を持ち、したがって、それ自体に固有の結果をもたらす、真の結果を生む原因である有意義なものとみなされるからです。



4. This is the way reality is made by partial vision, purposefully set against the given truth.
 これが、所与の真理に対して意図的に偏った視点を対立させることによってリアリティーが付与される仕組みです。

 Its enemy is wholeness.
 この偏った見方にとっての敵は、全体性です。

 It conceives of little things and looks upon them.
 この偏見は取るに足らないものを思いつき、取るに足らないものを目にします。

 And a lack of space, a sense of unity or vision that sees differently, become the threats which it must overcome, conflict with and deny.
 そして、隙間がない状態や統一の感覚、偏見とは違った見方をするヴィジョンは、偏見にとっては脅威となるので、争って否認して打ち負かすべきものとなります。



5. Yet does this other vision still remain a natural direction for the mind to channel its perception.
 しかし、このもうひとつのヴィジョンこそがなおも、心にとって、その知覚を伝達する自然な方向であり続けます。

 It is hard to teach the mind a thousand alien names, and thousands more.
 心にたくさんの相容れない名前を教え、さらに何千もの名前を教えこもうとするのは過酷なことです。

 Yet you believe this is what learning means; its one essential goal by which communication is achieved, and concepts can be meaningfully shared.
 それでも、あなたは、これこそ学習の意味であり、学習が持つ唯一の本質的な目標であり、それによってコミュニケーションが達成され、概念が有意義に共有されうるのだと信じています。



6. This is the sum of the inheritance the world bestows.
 無数の名前を覚えこむことこそが、この世界が授ける遺産の総計です。

 And everyone who learns to think that it is so accepts the signs and symbols that assert the world is real.
 そして、学習によってこれがその通りだと思いこんでいる者たちはみな、この世界は本物だと断定する印や象徴を受け入れます。

 It is for this they stand.
 それらの印や象徴の役目は、この世界が現実だと信じさせることだからです。

 They leave no doubt that what is named is there.
 印や象徴は、名づけられたものが存在することに疑問の余地を与えません。

 It can be seen, as is anticipated.
 名前をつけられたものは、期待どおりに見えるようになります。

 What denies that it is true is but illusion, for it is the ultimate reality.
 名づけられたものこそが究極的な現実となるので、名づけられたものの真実性を否認するものは幻想にすぎないことになります。

 To question it is madness; to accept its presence is the proof of sanity.
 名づけられたものの現実味を疑うことは狂気であり、その存在を受け入れることこそが正気の証しとなります。



7. Such is the teaching of the world.
 この世界が教えこんでいるのは、こんなことなのです。

 It is a phase of learning everyone who comes must go through.
 世界によるこの教育は、この世界にやってくる者みんなが必ず履修することになる学習課程です。

 But the sooner he perceives on what it rests, how questionable are its premises, how doubtful its results, the sooner does he question its effects.
 しかし、この世界の教育が何に依拠しているのか、その前提がいかに疑わしいものなのか、その結果がどんなに怪しげなものか早く気づけば、それだけ早くその教育の結果に疑問を抱くことになります。

 Learning that stops with what the world would teach stops short of meaning.
 この世界の教えこもうとするところで学びが止まるなら、学習は意味にまで到達せずに止まってしまいます。

 In its proper place, it serves but as a starting point from which another kind of learning can begin, a new perception can be gained, and all the arbitrary names the world bestows can be withdrawn as they are raised to doubt.
 この世界の教育も、適切に位置づけるなら、別の種類の学びを始め、新しい知覚を獲得し、この世界が割り当てたでたらめな名前のすべてに疑問を呈して撤回できるようになるための出発点として役立てることができます。



8. Think not you made the world.
 自分が世界を作り出したなどと考えてはなりません。

 Illusions, yes!
 さまざまな幻想をあなたが作り出したのは事実です。

 But what is true in earth and Heaven is beyond your naming.
 しかし、あなたがそれをどう名づけようが、天と地において真実であるものは変わらないままです。

 When you call upon a brother, it is to his body that you make appeal.
 あなたがある兄弟に呼びかけるとき、あなたは彼の身体に訴えかけています。

 His true Identity is hidden from you by what you believe he really is.
 あなたが彼の本質が身体だと信じていることによって、あなたには兄弟が本当は何者なのかわからなくなってしまいます。

 His body makes response to what you call him, for his mind consents to take the name you give him as his own.
 あなたが彼と呼ぶものに対して彼の身体が反応します。というのも、彼の心はあなたが彼のものとして彼に与える名前を受け入れることに同意するからです。

 And thus his unity is twice denied, for you perceive him separate from you, and he accepts this separate name as his.
 こうして、彼とあなたがひとつに結ばれていることが二重に否認されます。というのも、あなたはその兄弟のことを自分から分離したものと知覚し、そして、彼もこの分離した名前を自分のものとして受け入れるからです。



9. It would indeed be strange if you were asked to go beyond all symbols of the world, forgetting them forever; yet were asked to take a teaching function.
 もしあなたがこの世界のあらゆる象徴を超えて進み、それらの象徴を永遠に忘れてしまうことを求められながら、それでいて、なお教える役目を引き受けるように求められるとしら、それは実に奇妙なことになります。

 You have need to use the symbols of the world a while.
 あなたはしばらくの間は、この世界の象徴を用いなければなりません。

 But be you not deceived by them as well.
 しかし、象徴を用いはしても、象徴に欺かれてはなりません。

 They do not stand for anything at all, and in your practicing it is this thought that will release you from them.
 象徴は、何事もまったく表してなどいないからです。そして、このことをあなたが実習することで、この考えがあなたを象徴から解放してくれるでしょう。

 They become but means by which you can communicate in ways the world can understand, but which you recognize is not the unity where true communication can be found.
 象徴は、あなたがこの世界にも理解できる方法でコミュニケーションを図るための手段にはなります。しかし、象徴という手段によってあなたが認識するのは、真のコミュニケーションを見出すことのできる一なる状態とは異なります。



10. Thus what you need are intervals each day in which the learning of the world becomes a transitory phase; a prison house from which you go into the sunlight and forget the darkness.
 したがって、あなたに必要なのは、毎日、この世界という舞台に幕を下ろす幕間(まくあい)を持つことです。そうすれば、この世界での学習は束の間の拘束を受けるだけの時間となり、幕間には、牢獄から日の当たる場所に出て闇のことを忘れられるようになります。

 Here you understand the Word, the Name which God has given you; the one Identity which all things share; the one acknowledgment of what is true.
 この休止時間において、あなたは大いなる言葉、神があなたに授けてくれた大いなる名前、万物が分かち合うひとつの真のアイデンティティー、真実であるもののひとつの承認を理解します。

 And then step back to darkness, not because you think it real, but only to proclaim its unreality in terms which still have meaning in the world that darkness rules.
 それから、あなたは闇の中へと戻りますが、それはあなたが闇を現実だと思っているからではなく、ただ、闇が支配する世界の中でも依然として意味を持つ言葉で闇が実在しないと宣言するためでしかありません。



11. Use all the little names and symbols which delineate the world of darkness.
 いくらでも闇の世界を描写する取るに足らない名前や象徴を使ってかまいません。

 Yet accept them not as your reality.
 ただし、それらを自分にとっての現実として受け入れてはなりません。

 The Holy Spirit uses all of them, but He does not forget creation has one Name, one meaning, and a single Source which unifies all things within Itself.
 聖霊がそれらの名前や象徴のすべてを用いてくれます。しかし、創造物がひとつの大いなる名前とひとつの意味しか持たず、万物を自らの内に統合する単一の大いなる源しか持たないということを聖霊が忘れることはありません。
 
 Use all the names the world bestows on them but for convenience, yet do not forget they share the Name of God along with you.
 ただ便宜上のものとして、この世界があらゆるものに割り当てたすべての名前を使ってかまいません。ただし、あらゆるものがあなたとともに、神の名を分かち合っていることを忘れないでください。



12. God has no name.
 神はいかなる名も持ちません。

 And yet His Name becomes the final lesson that all things are one, and at this lesson does all learning end.
 それでも、神の名は、すべてのものがひとつであると学ぶ最終レッスンとなり、そして、このことを学ぶことで、すべての学びが終わります。

 All names are unified; all space is filled with truth's reflection.
 すべての名前が統合されると、すべての空間は真理の反映で満たされます。

 Every gap is closed, and separation healed.
 あらゆる隙間が閉じられ、分離は癒されます。

 The Name of God is the inheritance He gave to those who chose the teaching of the world to take the place of Heaven.
 天国に取って代わらせるためにこの世界の教育を選択した者たちに神が与えてくれた遺産こそ、神の名です。

 In our practicing, our purpose is to let our minds accept what God has given as the answer to the pitiful inheritance you made as fitting tribute to the Son He loves.
 私たちの実習の目的は、あなたたちの心が、神の愛し子にふさわしい貢物であるかのようにあなたが作り出したお粗末な遺産に対する答えとして、神が与えてくれたものを私たちの心に受け入れさせることです。



13. No one can fail who seeks the meaning of the Name of God.
 神の名の意味を探し求める者は、誰も失敗することはありえません。

 Experience must come to supplement the Word.
 大いなる言葉を補い裏づけるような体験が必ず訪れるからです。

 But first you must accept the Name for all reality, and realize the many names you gave its aspects have distorted what you see, but have not interfered with truth at all.
 しかし、まずあなたは、すべての現実にとっての大いなる名前を受け入れなければなりません。そして、現実のさまざまな側面にあなたが割り当てた数多くの名前があなたに見えるものを捻じ曲げてきたけれど、真理を妨げることはまったくなかったことに気づかなければなりません。

 One Name we bring into our practicing.
 実習では、私たちは、ひとつの名前だけを用います。

 One Name we use to unify our sight.
 私たちはひとつの名前だけを用いるのは、自分たちの視覚を統一するためです。



14. And though we use a different name for each awareness of an aspect of God's Son, we understand that they have but one Name, which He has given them.
 そして、私たちは、神の子の側面として認識されるものの一つひとつに違った名前を用いますが、私たちは、それらはひとつの名前しか持たないことを理解します。それは神がそれらに与えた名前です。

 It is this Name we use in practicing.
 この大いなる名前こそ、私たちが実習で用いるものです。

 And through Its use, all foolish separations disappear which kept us blind.
 この名前を用いることを通して、私たちを盲目に保ってきたすべての馬鹿げた分離の数々は消え去ります。

 And we are given strength to see beyond them.
 そして、私たちには分離を超えて見る力が授けられます。

 Now our sight is blessed with blessings we can give as we receive.
 いまや、私たちの視覚は、私たちが受け取ると同時に与えることのできる恵みによって祝福されます。



15. Father, our Name is Yours.
 父よ、私たちの名はあなたの大いなる名です。

 In It we are united with all living things, and You Who are their one Creator.
 あなたの大いなる名において、私たちは、生きとし生けるものと、そして、それらの唯一の創造主であるあなたとひとつに結ばれています。

 What we made and call by many different names is but a shadow we have tried to cast across Your Own reality.
 私たちの作った数多くの異なった名前で呼ばれるものたちは、単に私たちがあなた自身の真の姿を翳らそうとして投じた影でしかありません。

 And we are glad and thankful we were wrong.
 そして、私たちは、自分たちが間違っていたことを喜び、感謝します。

 All our mistakes we give to You, that we may be absolved from all effects our errors seemed to have.
 私たちが、自分たちの誤りが引き起こしたように見えるすべての結果から解放されるように、私たちのすべての間違いをあなたに捧げます。

 And we accept the truth You give, in place of every one of them.
 そして、私たちは、自分の間違いのすべてに代えて、あなたの授けてくれる真理を受け入れます。

 Your Name is our salvation and escape from what we made.
 あなたの大いなる名こそ、私たちの救済であり、私たちの作り出したものからの解放です。

 Your Name unites us in the oneness which is our inheritance and peace.
 あなたの大いなる名が、私たちの受け継ぐ遺産であり平安である一なるものの中へと、私たちを結びつけるのです。

 Amen.
 アーメン。


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それでは、ブリトニーさんのレッスンです。






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