レッスン222「神は、私とともにある。私は神の中で活動する」
制限なき存在であるがゆえに、神のスピリットは私たちの心と経験の中を生きて動いています。この神の臨在から私たちは自分の本性を引き出しています。その本性こそ、わたしたちの真の姿です。その本性に意識的に気づくことはあまりないのですが。
スピリット、つまり”聖なる本性”は生まれることも死ぬこともありません。それは肉体的な誕生の前から存在し、肉体の死後も存在します。その本性は、知性的・感情的経験の範囲には押し込めることができません。それはつねに変わらぬ愛の存在であって、自分自身を十字架につけたり、他人を攻撃したりするのをやめさえすれば、そこへ戻ることができるのです。

イエス・キリスト(ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」より)
For in him we live and move and have our being.
我らは、神の中に生き、動き、自らの本質を持つ。

Acts 17:28
新約聖書・使徒言行録第17章28節
24 あなた方の誰からも神は離れていない。すべての人が、神の中で生きて活動し、存在しているからである。あなた方の賢者の誰かが言ったように『すべての人は神の血縁者である』。そう、わたしを見たとき、あなた方は父を見たのである。
25 しっかりと理解すれば、このような言葉は神秘的ではなくなる。理解されたとき、神秘は消えてしまう。
26 神のものでないものは、質料の一粒子でさえもあり得ない。宇宙全体のすべての粒子が、神のものでなければならないのである。なぜなら、神お一人がご自身を表現されているからである。それ故、わたしと父は一体であり、我々に分離はない。
27 従って、神の家族である人が、人の技術と知識によって神に似せて造形した、金や銀、石の像を礼拝する義務はないのである。だが、死者が復活したと聞いたとき、人々はあざ笑った。
28 全知全能であり、神の偏在である偉大な真理が完全であることを理解しなさい。それが、生きているものすべての中で生きておられる神であり、神お一人が生きておられるということを知りなさい。神はそのすべてを創造し、偏在しておられるため、その創造物から離れて生きられることはないのである。
29 もし、神の創造物が、何らかの形で神から切り離されていたとすれば、神の本質は無限ではなくなり、神ご自身が完全ではなくなってしまう。すべての被造物が、愛の基本法則によって創造されており、あらゆる活動を調和させ、神の聖なる本質を顕現させるのである。人がこの真理を意識するようになったとき、その完璧な神性の反映を、自分自身の中に創造し、地上に天国をもたらすだろう。
30 彼らは、死者が復活したと聞いたためにあざ笑ったのである。だが、生きている宇宙の中で、どうして死んだものがあるだろうか。永遠に生きる神の中で、どうして死んだものがあるだろうか。確かに、至る所で変化が起きていることは認めるが、変化によって死んだものは何もない。すべての粒子が、ある形から別の形へと変化する生きた粒子である。知恵のない者は死とみるが、悟った者にとっては命の活動である。知恵のない者は、ある状態から別の状態への、移り変わりの法則を理解していないために、心の中に自ら死と名付けた幻想を創りあげてしまう。
31 宇宙全体の中で、一粒の粒子も死んでいるものはなく、すべての粒子が生きており、神の中に存在している。すべての粒子は、変化の過程においても、命の生きた表現である。そのすべての下にある基本法則が、愛の中心の泉から、その最小の被造物にまで流れている愛の力なのである。

イエス・キリスト(ムルド・マクドナルド・ベイン著「心身の神癒: 主は、再び語られる ― イエス・キリストが語る「奇跡の14講話」)

レッスン222です。
レッスンに入る前に、特別解説1「赦しとは何か」をまずご覧ください。

私たちが無意識に信奉している二元論
今日のレッスンでは、私たちは神の中で生き、活動しているのであって、少しも神から離れてなどいないということがテーマとなります。
私たちは、これとは反対のことが真実だと考えています。
つまり、二元論です。
神のいる光の陣営と神に対立する闇の陣営があると。
神があるなら悪魔があり、光があるなら闇がある、生命があるなら死がある、精神があるなら物質がある、有があるなら、それと対立する「無」があるはずだと。
「無」が「有」るという言葉遊びの次元の矛盾も陰影と色彩で高精度に演出すれば現実にしか見えなくなる
「無」が「有」るという時点で矛盾であることが見落とされて目こぼしされます。
概念として「無」を観念できることがこの錯覚を可能にします。
実在しない状態に名前を付けて空想して姿かたちを付与しさえすれば、デスクトップ上にアプリのアイコンやファイルの入ったフォルダのアイコンという有を象徴するアイコンを置けるのと同じように、クリックしても何の反応もしない無に形を与えただけのアイコンを置くことが可能なように、概念として思考の対象として操作可能になります。
そうなると、観念として想像さえできれば、実在しない実在の不在でしかないはずの「無」も実在に対等なリアリティを持つことができるように思えてきます。
私たちの「私はいる」という自己意識は本当に私たちが「有」ることの証拠になるのか?
私たちも、自分は「有」ると信じています。
私たちは、自分がこの世界を知覚しているし、何より、自分が自分として思考しているのだから、少なくとも、思考の出発点として、自分が実在することだけは間違いない基盤として捉えることができると信じます。
けれど、私たちの思考という現象が起こっているのは確かだとしても、その思考が「これこそ自分だ」と思っている主体が本当に思考している主体である自分である保証はどこにもありません。
私たちは別々の人間であるはずなのに、誰もが、小説や映画の物語世界を体験してその物語の主人公である「私」に自己同一化してアイデンティティーを抱くことができ、本当の自分ではないはずのその登場人物になりきることができます。
主人公は、自分が自分の頭で、自分の心で考えて思いを抱いていると信じていますが、実はそうではありません。
それどころか、思う思わないという次元以前に、そもそも、主人公は物語世界の中にしか存在しない架空のキャラクターでしかなく、ごっこ遊びで幼児が使う人形と同じように、読み手に本物として動かしてもらわなければ1mmも動くことができない独自に思考する力を持たない木偶人形なのです。
私たちは、自分が確固として実在し、自分で思考し、神とは無関係に独自の思考をすることができていると信じてはいます。
けれど、個としての私たちは、物語の主人公に劣らず、実在しない架空の存在だというのが本当のところです。
それくらい、アイデンティティーの感覚は当てにならないものであるにもかかわらず、誰もがここだけは揺るがない自分の軸だと素朴に信じてしまうので、分離幻想はきわめて強固な基盤を持っているといえます。
無いものが有るようになることだけは決してありえない
だいぶ、脱線しましたが、概念として無を想定できることが、本来何の力も持つはずがない「無」に対して、幻想として「有」を侵食する力が付与されるということになります。
概念操作を捨ておくことにして考えるなら、無い状態を空想することはできるけれど、どんなに空想をたくましくしても無いものが有るようにはなりようがありません。

神の中で生き、神の中で活動することしかできない
したがって、有である神の拡張しかありようがありません。
だから、たとえ神の意志以外の意志があると想像することはでき、現に私たちが、神から分離した人間世界があり、神と違う思考をすることが自分には本当にできていると思い込んでいるとしても、こんな妄想が無を有に変える力を持つことなどありえないので、依然として、神の意志しかないことに変わりはないことになります。
つまり、私たちはつねに神とともにあり、神の中で生き、神の中で活動することしかできないということです。
1.は私たちの内面での語りなので、いわゆる「である調」の常体、2.は神への祈りなので「ですます調」の敬体に文調を変えています。

Lesson 222
God is with me. I live and move in Him.
神は、私とともにある。私は神の中で活動する。
1. God is with me.
神は、私とともにある。
He is my Source of life, the life within, the air I breathe, the food by which I am sustained, the water which renews and cleanses me.
神は、私の生命の大いなる源であり、内なる生命、私の吸う空気、私を養う食物、私を再生し浄化してくれる水だ。
He is my home, wherein I live and move; the Spirit which directs my actions, offers me Its Thoughts, and guarantees my safety from all pain.
神は私の家であり、その中で私は生きて動いている。神は、私の行動を導き、私にその大いなる思いを差し延べて、あらゆる苦痛から私の安全を保障してくれる大いなる霊だ。
He covers me with kindness and with care, and holds in love the Son He shines upon, who also shines on Him.
神は、優しさと愛情で私を包み込んでくれる。そして、神は、自らが照らす子を愛の中に抱き、子もまた神を照らす。
How still is he who knows the truth of what He speaks today!
今日、神が語ることが真実であると知る者は、なんと静かになることであろう。
2. Father, we have no words except Your Name upon our lips and in our minds, as we come quietly into Your Presence now, and ask to rest with You in peace a while.
父よ、私たちは、あなたの名前以外のいかなる言葉も口にせず、私たちの心に抱きません。私たちは、今、静かにあなたの臨在の中へと入ってゆきますので、しばらくの間、平安のうちにあなたとともに安らがせてください。

それでは、ブリトニーさんのレッスンです。

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