レッスン222「神は、私とともにある。私は神の中で活動する」
制限なき存在であるがゆえに、神のスピリットは私たちの心と経験の中を生きて動いています。この神の臨在から私たちは自分の本性を引き出しています。その本性こそ、わたしたちの真の姿です。その本性に意識的に気づくことはあまりないのですが。
スピリット、つまり”聖なる本性”は生まれることも死ぬこともありません。それは肉体的な誕生の前から存在し、肉体の死後も存在します。その本性は、知性的・感情的経験の範囲には押し込めることができません。それはつねに変わらぬ愛の存在であって、自分自身を十字架につけたり、他人を攻撃したりするのをやめさえすれば、そこへ戻ることができるのです。

イエス・キリスト(ポール・フェリーニ著「無条件の愛 キリスト意識を鏡として」より)
For in him we live and move and have our being.
我らは、神の中に生き、動き、自らの本質を持つ。

Acts 17:28
新約聖書・使徒言行録第17章28節

レッスン222です。
レッスンに入る前に、特別解説1「赦しとは何か」をまずご覧ください。

私たちが無意識に信奉している二元論
今日のレッスンでは、私たちは神の中で生き、活動しているのであって、少しも神から離れてなどいないということがテーマとなります。
私たちは、これとは反対のことが真実だと考えています。
つまり、二元論です。
神のいる光の陣営と神に対立する闇の陣営があると。
神があるなら悪魔があり、光があるなら闇がある、生命があるなら死がある、精神があるなら物質がある、有があるなら、それと対立する「無」があるはずだと。
「無」が「有」るという言葉遊びの次元の矛盾も陰影と色彩で高精度に演出すれば現実にしか見えなくなる
「無」が「有」るという時点で矛盾であることが見落とされて目こぼしされます。
概念として「無」を観念できることがこの錯覚を可能にします。
実在しない状態に名前を付けて空想して姿かたちを付与しさえすれば、デスクトップ上にアプリのアイコンやファイルの入ったフォルダのアイコンという有を象徴するアイコンを置けるのと同じように、クリックしても何の反応もしない無に形を与えただけのアイコンを置くことが可能なように、概念として思考の対象として操作可能になります。
そうなると、観念として想像さえできれば、実在しない実在の不在でしかないはずの「無」も実在に対等なリアリティを持つことができるように思えてきます。
私たちの「私はいる」という自己意識は本当に私たちが「有」ることの証拠になるのか?
私たちも、自分は「有」ると信じています。
私たちは、自分がこの世界を知覚しているし、何より、自分が自分として思考しているのだから、少なくとも、思考の出発点として、自分が実在することだけは間違いない基盤として捉えることができると信じます。
けれど、私たちの思考という現象が起こっているのは確かだとしても、その思考が「これこそ自分だ」と思っている主体が本当に思考している主体である自分である保証はどこにもありません。
私たちは別々の人間であるはずなのに、誰もが、小説や映画の物語世界を体験してその物語の主人公である「私」に自己同一化してアイデンティティーを抱くことができ、本当の自分ではないはずのその登場人物になりきることができます。
主人公は、自分が自分の頭で、自分の心で考えて思いを抱いていると信じていますが、実はそうではありません。
それどころか、思う思わないという次元以前に、そもそも、主人公は物語世界の中にしか存在しない架空のキャラクターでしかなく、ごっこ遊びで幼児が使う人形と同じように、読み手に本物として動かしてもらわなければ1mmも動くことができない独自に思考する力を持たない木偶人形なのです。
私たちは、自分が確固として実在し、自分で思考し、神とは無関係に独自の思考をすることができていると信じてはいます。
けれど、個としての私たちは、物語の主人公に劣らず、実在しない架空の存在だというのが本当のところです。
それくらい、アイデンティティーの感覚は当てにならないものであるにもかかわらず、誰もがここだけは揺るがない自分の軸だと素朴に信じてしまうので、分離幻想はきわめて強固な基盤を持っているといえます。
無いものが有るようになることだけは決してありえない
だいぶ、脱線しましたが、概念として無を想定できることが、本来何の力も持つはずがない「無」に対して、幻想として「有」を侵食する力が付与されるということになります。
概念操作を捨ておくことにして考えるなら、無い状態を空想することはできるけれど、どんなに空想をたくましくしても無いものが有るようにはなりようがありません。
神の中で生き、神の中で活動することしかできない
したがって、有である神の拡張しかありようがありません。
だから、たとえ神の意志以外の意志があると想像することはでき、現に私たちが、神から分離した人間世界があり、神と違う思考をすることが自分には本当にできていると思い込んでいるとしても、こんな妄想が無を有に変える力を持つことなどありえないので、依然として、神の意志しかないことに変わりはないことになります。
つまり、私たちはつねに神とともにあり、神の中で生き、神の中で活動することしかできないということです。
1.は私たちの内面での語りなので、いわゆる「である調」の常体、2.は神への祈りなので「ですます調」の敬体に文調を変えています。

Lesson 222
God is with me. I live and move in Him.
神は、私とともにある。私は神の中で活動する。
1. God is with me.
神は、私とともにある。
He is my Source of life, the life within, the air I breathe, the food by which I am sustained, the water which renews and cleanses me.
神は、私の生命の大いなる源であり、内なる生命、私の吸う空気、私を養う食物、私を再生し浄化してくれる水だ。
He is my home, wherein I live and move; the Spirit which directs my actions, offers me Its Thoughts, and guarantees my safety from all pain.
神は私の家であり、その中で私は生きて動いている。神は、私の行動を導き、私にその大いなる思いを差し延べて、あらゆる苦痛から私の安全を保障してくれる大いなる霊だ。
He covers me with kindness and with care, and holds in love the Son He shines upon, who also shines on Him.
神は、優しさと愛情で私を包み込んでくれる。そして、神は、自らが照らす子を愛の中に抱き、子もまた神を照らす。
How still is he who knows the truth of what He speaks today!
今日、神が語ることが真実であると知る者は、なんと静かになることであろう。
2. Father, we have no words except Your Name upon our lips and in our minds, as we come quietly into Your Presence now, and ask to rest with You in peace a while.
父よ、私たちは、あなたの名前以外のいかなる言葉も口にせず、私たちの心に抱きません。私たちは、今、静かにあなたの臨在の中へと入ってゆきますので、しばらくの間、平安のうちにあなたとともに安らがせてください。

それでは、ブリトニーさんのレッスンです。

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